書評 「ワニと龍」

ワニと龍―恐竜になれなかった動物の話 (平凡社新書)

ワニと龍―恐竜になれなかった動物の話 (平凡社新書)

 
本書はワニの専門家青木良輔によるワニに関する一冊.かなり前の本だが,「名著である」という評判を聞いて取り寄せて読んでみたものだ.
 
全5章の構成だが,互いに関連づけはなく,それぞれ独立したエッセイのような形で本になっている.その中では第1章に納められている「龍」とワニについての考察が圧倒的に面白い.
 
第1章は「龍」とは何か.ここではテーマについての著者の考察が,その進展に沿って行きつ戻りつしながら記述されているが,まず以下の点が確認される.

  • 中国の古典「春秋左氏伝」や「史記」読むと「龍を飼っていた」などの記述がある.元々殷や周の時代には「龍」は実在の動物(そして記述からはおそらく大型のワニの一種)を表記する漢字であったと考えられる.しかしその後身の回りから姿を消し,信仰の対象になったようだ.
  • 前漢時代にはワニとして「鼉」と「蛟」の文字が当てられている.中国には小型でおとなしい(そして耐寒能力も持つ)ヨウスコウアリゲーターとして知られるワニが分布するが,これは「鼉」だと考えられる.「蛟」は大型のワニと考えられる.これも前漢時代には生息していたが,その後姿を消したようだ.
  • 「鰐」の字は後漢以降に現れる.漢字の原則から行けばワニを表す字は虫扁になるはずであり,魚扁になっているのには何らかの事情があると考えられる.

 
ここからが著者の推測になる.

  • 中国の古気候を考えると,殷から周の初期,その後の一時期の寒冷化を挟んで春秋戦国時代から秦漢初期にかけては今より3度から5度温暖であり,大型のワニの生息も可能だったと考えられる.
  • この大型のワニが当初「龍」であり周後期の寒冷化時代に一旦中華文明圏から姿を消し,その後信仰の対象となった.前漢時代には再温暖化してこのワニが再び分布するようになったが,もはや「龍」とは考えられず,新しい「蛟」が当てられるようになった.しかしこのワニも前漢中期の寒冷化により再び姿を消したと考えられる.
  • この「龍」「蛟」の大型ワニの候補にとしてはイリエワニが考えられるが,なお気温が足りず無理だと思われる.おそらく(最初に日本で化石が発見された)絶滅種マチカネワニがその正体だろう.(この部分では最近広東で発見され,マレーガビアルであるとされたワニ骨の正体についての詳細な推測が読みどころになっている).
  • 後漢時代に「鰐」の文字が作られたのは,当時の学者が「龍」「蛟」の正体に気づいたが,大型のワニについてすでに皇帝の権威と関連して神格化されているこれらの字を使うのをはばかって魚扁にしたのであろう.

 
このほか本章ではワニの系統分類(アリゲーターとクロコダイルとガビアルの関係),なぜ龍に角があるのかなどの話題も満載で大変楽しい.
 
第2章ではワニの雌雄判別法が解説され,これに絡んで恐竜絶滅(しかしワニが絶滅していないこと)について紫外線減少がビタミンDの生成を阻害したから(そしてワニは夜行性だったり水中に身を沈めていたからそもそも紫外線量に大きく依存していなかった)だという説を大まじめに提示している.
 
第3章はワニの形態を巡る蘊蓄.アリゲーターとクロコダイルでは手の形態が異なり,クロコダイルはより陸生起源であると考えられ*1アリゲーターにはない感熱器官を持つこと,ワニとトカゲの顎部の外部形態の最大の違いは歯が見えるかどうかであり(水生にならないと口唇は退化しない),そこから考えるとティラノサウルスのような肉食恐竜も歯は見えていないはずであること,ワニの二重瞼の意味などが解説されている.これでもかと語る蘊蓄ぶりが楽しい.
 
第4章はワニの食性.貝や甲殻類を食べる場合には丸い歯と高い顎(口角が上がる)が進化するなどの蘊蓄が語られている.また人喰いワニの話も詳しい.
 
最終第5章はそれ以外の雑多なエッセイが集められている.最初は恐竜話.ヴェロキラプトルのリトラクタブルな爪が必殺の武器であるという説は有名だが,著者は硬度の高くないケラチンの爪がそんな必殺の武器になるはずがないと否定する.これにはちょっと考えこまされてしまった.そのほかエジブトのワニ信仰,ワニの保全と皮革業界の関係などが取り上げられている.
 
本書は,読者の理解がどうとかに関係なく,いかにも筋金入りのワニオタクの著者がひたすらワニについて語りたいことを蘊蓄たっぷりに語るというスタンスで記述され,その独特の文体や語り口が不思議な味わいを与えている.そして中身はいろいろ楽しい.ちょっと読みにくいし,内容も玉石混淆気味だが,「龍」についての考察はとても説得的で,評判通りの「名著」と言っていいだろうというのが私の感想だ.

*1:最近これに関する論文を偶然目にしたが,どうもそう簡単ではないようだ.https://www.nature.com/articles/s41598-018-36795-1.なおこの論文ではワニの系統樹は本書で用いられている(アリゲーター(クロコダイル・ガビアル))ではなく((アリゲーター・クロコダイル)ガビアル)になっている.私は詳しくないのでよくわからないが,このあたりもまだ確定していないのだろうか.

Enlightenment Now その43

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

第16章 知識 その3

 
ここまでピンカーは本章で教育と知識水準の向上とその影響を議論してきた.ここでピンカーは一旦人類の幸福の向上についての定量的な議論をまとめている.それは次の2章でやや定性的な議論をするためにここで一旦区切っておきたいからということのようだ.
  

  • 人類にとって良いことが社会科学にとっても好都合だとは限らない.様々な好事象が同じ方向を向いているときに因果を解きほぐすのは簡単ではない.ここではあえてそれを解きほぐそうとはせずに,その共通の方向(あるいは統計学者が言う「一般因子」「主成分」)を考えてみよう.我々は既にそれに名前を付けている.それは「進歩」だ.
  • 国連の開発プログラムで,アマルティア・センたちは平均寿命,一人あたりGDP,教育水準の指標を組み合わせて「人間開発指数(Human Development Index, HDI)」を開発し,提唱した.また過去にさかのぼれる指標として,経済学者のプラドス=デラエスコスラ(Leandro Prados de la Escosura)は人類解放歴史指標(Historical Index of Human Development),同じく経済学者のリプマ(Auke Rijpma)は厚生複合指標(Well-Being Composite)を提唱している.これらは平均寿命,一人あたりGDP,教育水準に加えて,身長(健康の大体指標),民主制.殺人率,所得格差,生命の多様性などを組み入れている.

(世界全体についてのHistorical Index of Human DevelopmentとWell-Being Compositeの1820年から2015年までの推移グラフが掲載されている.いずれも着実に右肩上がりに上昇している.ソースはプラドス=デラエスコスラ2015,リプマ2014)

  • このグラフを見ると人類の進歩が一目でわかる.そしてなお世界には地域格差があるが,すべての地域で向上に向かっていること,最悪の地域ですら,今日の水準は最高地域のそれほど遠くない過去と同じ水準であることがわかる.(西洋以外の地域の2007年の水準は西洋の1950年と同水準になる)
  • もう1つ,すべての人の幸福の指標は富と相関するが,このグラフのラインは単に富を反映しているわけではないこともわかる.寿命,健康,知識は富が伸びていない地域でも伸びているのだ.すべての人類の繁栄の側面が長期間にわたって伸び続け,それが必ずしも完全にシンクロしていないことは,「進歩」というものの存在を根拠づけていると言えるだろう.

このHuman Development IndexとHistorical Index of Human DevelopmentはOur World in Dataサイトに掲載されている.ここでは国別のグラフを取ってみた.
Human Development Indexは過去さかのぼる系列データがないので,1980年からのグラフになる.この25年ほどの間でもそれぞれの国で上昇していることがわかる.
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Historical Index of Human Developmentは1870年までさかのぼったデータになる,このグラフの中では韓国が第二次世界大戦後中進国の水準から世界最高水準に急上昇している.
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Enlightenment Now その42

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

第16章 知識 その2

ピンカーは教育が啓蒙運動以降普及してきたことを取り上げた.ではそれは効果があったのかが次に問われる.まず取り上げられるテーマは結構議論の多い「フリン効果」を巡るものになる.
 

  • 教育を受けて人々は利口になったのだろうか.驚くべきことに答えはyesなのだ.IQスコアは時代と共に上昇している.上昇効果は10年あたり3ポイントもある.これはフリン効果と呼ばれるものだ.
  • フリンが1984年に最初にこれを報告したとき,多くの人は間違いかトリックだと考えた.1つにはIQには高い遺伝性があることが知られているなかで,大規模な優生学的な操作はなされていないし,外婚傾向の顕著な上昇などの遺伝学的効果が生じる事象は何もないからだ.そしてもう1つにはそれが本当なら,1910年頃の平均的な人がタイムマシンで現代に来たなら「愚鈍」と判定され,現代の普通の人が1910年にタイムトラベルすれば人口の98%より賢いことになるからだ.
  • しかしフリン効果は数々のリサーチにより確認されており,さらに31カ国271のリサーチのメタアナリシスによっても確かめられている.その存在はもはや疑い得ないものになっているのだ.

(ここで地域別のフリン効果を示す1909年から2013年のグラフが掲載されている.すべての地域で右肩上がりで上昇している.上昇度合いは100年で30ポイント程度になっている.ソースはPietschnig, Voracek 2015(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/25987509))
 

  • フリン効果は当然ながらステインの法則(つまり「永遠に続かないものはどこかで終わる」)に従う.その効果が現れだしてからの歴史の長い国ではフリン効果は頭打ちになりつつあるようだ.
  • 原因をピンポイントで示すことは難しいが,遺伝性の性質が環境の変化によってブーストされることは不思議でも何でもない.それは身長のことを考えてみればよくわかる.身長の遺伝率は高いが,栄養と健康状態により高くなる.脳はタンパク質と脂肪により作られ,高いカロリー消費を要求する器官だ.だから良い栄養状態や清浄な環境は脳の発達に有利に働くだろう.だから一人あたりのGDPの増加率とフリン効果が相関するのは不思議ではない.
  • しかし栄養と健康はフリン効果の一部を説明するに過ぎないだろう.なぜならそれだけだとIQ分布の下半分に効果が高くなるのでカーブの広さつまり分散が小さくなるはずだが,そうなっていないからだ.そしてフリン効果は大人の方が高くでる.これは大人になる過程での経験(つまり教育)が効いていることを示唆している.
  • さらに,フリン効果は脳の全体的なパワー増強ではなく特定のエリアで強く出ている.その特定サブテスト領域とは(驚くべきことに)学校で教わるような一般的知識,算数能力,語彙の広さではない.より抽象的な流動的知性のエリア(類似性,アナロジー,3次元物体のマッチングなど)で強く出るのだ.そして最も強い効果が出るのが「分析的思考」(特定の概念を抽象的なカテゴリーに当てはめる課題,対象を心的に分解して分析する課題,現実と異なるルールが支配する仮定の世界において考える課題など)になる.この分析的思考こそ(単純な記憶ではなく理解を求めるカリキュラムとテストを通じて)学校で繰り返し植え付けられるものだ.
  • フリン効果は現実において意味を持つのだろうか.当然持つだろう.高いIQはメンサに入れたり,自慢できたりするだけのものではない.それは人生においての追い風になる.より良い職が得られ,昇進しやすく,健康や長寿も得やすい.法的なトラブルに巻き込まれにくく,意図した結果を得やすい. 
  • フリンは抽象的思考は道徳的センスも磨くのではないかと推測している.私も同意見だ.「運が悪ければ自分もそうなったかもしれない」「もしみながこれを行えばどうなるか」と考えるのは同情と倫理への窓口になるだろう.

ステインの法則を持ち出しているのは,先進国ではフリン効果が近年あまり顕著に観測できなくなっていることが背景にあるのだろう.最近ノルウェイのリサーチで1970年代以降平均IQが低下しているのではないかということが報告されて話題になったのも記憶に新しい.
 

  • このフリン効果は果実をもたらしただろうか.
  • 懐疑主義者は,20世紀にヒュームやゲーテやダーウィンに指摘する知的貢献があったかどうかについて疑っているようだ.確かに今日1人で全体を体系づけられるような未開の学問領域はあまり残っていないので,知の巨人は出にくいのかもしれない.しかしそれでも人々が本当に利口になっていることを示すいくつかの事実がある.まずチェスやブリッジのトッププレーヤーは若くなっている.科学やテクノロジーの進歩のスピードも上がっている.そして最も劇的なのは,デジタルテクノロジーによるサイバースペースの出現だ,これは究極の抽象的領域であり,若い人はこれを使いこなしている.(ピンカーは少し前の世代はヴィデオテープレコーダーの操作に難儀していたことを引き合いに出している)
  • フリン効果は人類の幸福の上昇に貢献しているだろうか.経済学者ハフェルは貢献しているといっている.彼は教育やGDPなどの交絡要因を調整したうえで,平均IQの上昇がその後の一人あたりGDPの上昇,寿命の上昇,レジャー時間の増加を予測できると結論づけている.

 
フリン効果はいろいろ議論のあるテーマだ.日本では最近どうなっているのだろうか.IQテスト自体にまだいろいろなポリコレ含みの議論があるのでこれに関する情報はなかなか得にくいようだ(少し調べてみたがよくわからなかった)
なおピンカーは前著「The Better Angels of Our Nature」の第9章でもフリン効果を扱っていて,特にフリン効果が道徳の向上の背景にあるのではないかということを詳しく論じている.

Enlightenment Now その41

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

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第16章 知識 その1

 
次にピンカーが取り上げるテーマは教育だ.知識の向上は啓蒙運動がまさに目指しているところの1つになる.
 

  • ヒトであることの意味と人類の知識ベースの爆発的な増加は切り離せない.知識は積み重ねることができ,より深まっていく,脳の大きな生物にとって長い歴史は福音になるのだ.
  • 知識の伝承が「語り伝え」を超えたのは古い.最古の正式な学校は1000年以上前にさかのぼれる.様々な実務や宗教の学校が存在した.しかし啓蒙運動はそれを一気に深いものにし,今日の「義務教育」と人権の1つとして「教育を受ける権利」の概念が形成された.
  • 教育による知識は健康と長寿を可能にし,識字能力と計算能力は現代の富の創造(経済成長)の基礎になっている.そして教育の普及が国富の爆発的な増加に先立っていることはこの間に因果関係があることを示唆している*1
  • さらに教育はその国をより民主的で平和的にするようだ.これは経済と共にすべて相関するので因果の方向性を見極めるのは難しい.
  • しかしいくつかの因果パスが啓蒙運動の価値を示している.教育を受けたことによる不可逆の変化はたくさんある.一旦迷信から解放されれば後戻りすることはまず無い.文化や価値観の多様性を知り,暴力によらずに紛争を解決できることを知ると態度は変わってくるのだ.
  • 教育の与える効果を調べたリサーチは,教育を受けると人は本当に啓発されることを示している.教育を受けた人はより人種・性・同性愛差別的ではなくなり,より排他主義的でも権威主義的でもなくなる.想像力,自律,言論の自由に価値をおくようになる.より投票し,ボランティアに参加し,政治的な見解を述べるようになる.そして自分たちと同じ市民を信頼するようになる.これは社会資本と呼ばれるものの基礎だ.
  • つまり,教育こそ人類の進歩の旗艦なのだ.啓蒙運動のあといくつかの国が先導して道を進み始める.そして残りの国々もそれについて行くのだ.グラフを見ると17世紀以前には識字能力はエリートの特権だったことがわかる.しかし今では世界人口の83%が読み書きできるようになっている.識字率の低い国(貧困,戦争地域と重なっている)も若い世代では識字率が高く,世界の識字率はさらに向上すると見込める.

 
(ここで1475年から2010年までの国別(英国,ドイツ,イタリア,オランダ,米国,チリ,メキシコ)の識字率の推移のグラフがある.ソースはOur World in Data)
Our World in Dataサイトでデータを取ってみた.いくつか国を入れ替えて日本も加えてみたが,残念ながら元データがないらしく日本の推移は表示されない.寺子屋の数から推計した数字だと江戸時代後期のの男性の識字率が40%程度,女性で15%程度ではなかったかという推計値があるようだ.また明治初期には政府による自署率の調査があり,(例外的な件を除くと)大体男性で50%~60%,女性で30%程度ということらしい.ここから教育の普及により1925年頃には男性の識字率ほぼ100%,1935年頃に女性の識字率ほぼ100%を達成できたようだ.このグラフから行くとイタリアと似た形になると思われる.

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  • 初等教育の普及にもおなじみのグラフの形が現れる.1820年では世界の初等教育普及率は20%を下回っていた.現在ではほぼ80%に上昇している.

(ここで1820年から2010までの初等教育の普及率の地域別の推移グラフが掲載されている.ソースはOur World in Data)
地域別ではなく国別に取るとこういうグラフになる.今度は日本のデータもきちんと入っている.初等教育の普及についてはアメリカが世界をリードしていて,次に英国とフランスが続く.日本はほぼ英国と同じ形になっていて(ドイツやイタリアより早くほぼ100%の水準に達している),明治維新の直後に政府がここに力を入れたことがわかる.

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  • 知識獲得には天井はない.人類の知識は無限に拡大するだけではなく,(テクノロジーの推進によって)経済に与える知識のプレミアムも上昇し続けている.
  • 初等教育の普及が100%の天井で頭打ちになった後も教育年数は伸び続ける.1920年にアメリカで高校に進学するのは28%だった.2011年には70%が大学まで進む.国別で見ても教育年数はそれぞれ延びている.今世紀末には世界人口の90%が中等教育以上を受けるようになるだろうと予測されている.そして教育を受けた人は子どもの数を抑制することが知られており,これが今世紀後半に世界人口がピークを打って減少し始めるという予測の基礎になっている.

(ここで1870年から2010までの国別の教育年数の推移グラフが示されている)
ここでも元サイトでいくつか国を入れ替えてグラフを取ってみた.アメリカが突出して長く,日本と西欧はほぼ同じ程度であることがわかる.最近では韓国の伸びが印象的だ.
 

  • ここまで学校教育を見てきたが,現在教育のオンライン化が進んでいるのでさらに国別・国内での人種やエスニシティ別の格差要因は縮小するだろう.
  • そのような格差の究極とも言える女性差別(女児を学校に行かせない)も減少している.

 
(ここで1750年から2004年の女性の識字率の対男性比率のグラフが載せられている.ただしデータは限られていて,1750年から1900年までの英国(1900年直前に100%に達している),1975年以降の世界,パキスタン,アフガニスタンのグラフだけになっている.この3つは急速に上昇している.ソースはClark 2007,Human Progress(https://www.humanprogress.org))
 

  • 女性が教育を受けると彼女たちはより健康になり,健康な子どもを少なく産み,より生産的になる.そして彼女たちの国もそうなるのだ.世界全体で1975年には男子の2/3の女子しか教育を受けられなかったが,今日これはほぼ100%になっている.
  • パキスタンとアフガニスタンには背景事情がある(パキスタンでは50%から80%,アフガニスタンでも25%から50%に上昇している.).アフガニスタンのこの数字は世界最低だ.これは1996年から2001年までタリバンが国を統治していたことによる.(タリバンのむごい所業がいくつか説明されている)しかしこのような地域にも進歩は見えている.グローバルな潮流はこの地域にも及んでいるのだ.

*1:スペインの例外についてはその教育が宗教的道徳的だったことが問題だったのではないかとしている

書評 「The Consuming Instinct」

The Consuming Instinct: What Juicy Burgers, Ferraris, Pornography, and Gift Giving Reveal About Human Nature

The Consuming Instinct: What Juicy Burgers, Ferraris, Pornography, and Gift Giving Reveal About Human Nature


本書は進化心理学者ガッド・サードによる進化心理学から得られる知見をマーケティングに応用した場合にどのようなことが洞察されるかについての本だ.サードはまず専門書として「The Evolutionary Bases of Consumption」を出してから本書を一般向けに書き下ろしている.出版は2011年でちょっと古い.マーケティングについて進化心理学者の書いた本としてはジェフリー・ミラーによる「Spent」(2009)(邦題「消費資本主義!」)があるが,別の視点から書かれた本も読んでみたいと思っていたところ,「進化心理学を学びたいあなたへ」でこの本の存在を知り手に取った一冊ということになる.

序文はデイヴィッド・バスが寄せている.かねてよりビジネスやマーケティングには進化心理学の応用が可能だと思っていたこと,進化心理学的な視点をとり性淘汰を考慮することで,男性化粧品ブランドやハイヒールのデザインについてより本質的に理解できるだろうと語られている.

第1章 消費者

 
現代人は日々何百もの消費的な決断を下していることをまず指摘し,様々な決断を例示している.そしてその中には毎日の生存にかかるもの(脂肪の多い燻製肉への好み)繁殖にかかるもの(求愛儀式の中のプレゼント)などがあることを示し,「消費にかかることがらは進化の光を当てなければ意味がない*1」という本書のテーマを提示する.そこから進化心理学の概説とよくある誤解を扱っている.ポイントとしてあげられているのは以下の通りになる.

  • 進化心理学はヒトの行動を進化的に理解しようとする試みだ.それは自然淘汰と性淘汰によりヒトの領域特殊的な心が形成されたと考える.また至近因と究極因の区別は重要だ.
  • 進化心理学は「ヒトの心は空白の石版だ」とする社会構築主義者からは誤解に満ちた批判を受けてきた.「ダーウィニズムは優生学につながる」「進化心理学は遺伝的決定主義だ」などというのが代表的だ.(8種類の批判とそれに対する反論が詳しく解説されている*2

 
さらにここでは消費的決断を行う消費者,マーケター,政策決定者それぞれにとってどのような進化心理学の知見の重要性があるかが簡単に触れられ,次章以降への予告になっている.
 

第2章 私は生存する

第2章は生存にかかる自然淘汰による適応がテーマになる.倹約遺伝子の話をちょっと振ってから*3,ヒトの生活における食事の重要性が語られる.(食事をテーマにした文化,映画,イディオムがこれでもかと紹介されている)
ここで,食事文化に関する進化的な考察がダーウィニアン・ガストロノミーとして紹介されている.スパイスの使用と食品の腐敗リスク,宗教的タブーの解釈,塩分への反応,乳糖耐性など,環境への適応,遺伝子と文化の共進化事例が解説されている.
またユニバーサルにみられる適応としては多様性効果(いろいろなものが食べられるとより食べてしまう)について説明がある.これは多様な栄養素を摂取し,致死量の毒物をとるのを避けることから理解できる*4
次は食事の状況が与える効果について.ムードは,食欲や好む食品のタイプに複雑な影響を与える.たとえば幸せだとより健康的な食品を好む傾向がある.アベイラビリティは食事の量に影響する.アメリカの食事のポーションの大きさはよく話題になるが,ここ数十年間でのポーションの増大は多くの文化でみられるそうだ.空腹の際にはより脂肪の多い食品を好む*5.女性は生理的に黄体期によりハイカロリーの食事を好む.特定の食品への嫌悪感は毒物や感染への防御適応として理解できる.
 
食事以外については住居や風景についての適応仮説をここで紹介している.このあたりはマーケティング関連というよりも様々なヒトに見られる適応の紹介という記述になっている.
 

第3章 性淘汰

 
第3章は性淘汰がテーマになる.冒頭で多くの消費が配偶マーケットにおける自分の質のディスプレイに関するもので,それは性淘汰と密接に関連することが指摘され,動物における例がいくつか紹介されている.その後でこれに関連する消費について述べられているが,個別トピックを次々に取り上げる形で議論されている.基本的にはミラーの「Spent」と重なるところだが,ミラーほど先鋭的に突き詰めて論じてはなく,一般的な知見の紹介という側面が強いものになっている.

  • 男性と女性は異なるディスプレイ戦略を採る.モントリオールの中心街でデート相手を捜しているときに,女性は扇情的な服装で歩くのに対し男性は高級車で同じところを流すのだ.
  • 男性の顕示的ディスプレイはテストステロンレベルと関連する.人通りの多い通りで高級車のハンドルを握ると男性のテストステロンレベルは上昇する.
  • ヒトの求愛に絡むプレゼントにはしばしば花が使われる.これはほぼユニバーサルで,花のギフトは世界中で巨大な市場になっている(なぜユニバーサルに花が好まれるかという興味深いところについての解説はない).花屋ではロマンティックな音楽がかかっている方が売上が伸びる.
  • 香水は特異的なMHC構成による免疫上のメリットのディスプレイかもしれない*6.男性向け香水ブランドの宣伝にはしばしば香水をつけた男性に群がる魅力的な女性たちが登場する.
  • ハイヒールは女性の姿勢をより若く見えるように補正する効果があると考えられる.*7
  • 男性の服装は地位のディスプレイとして,女性の服装は若さのディスプレイとして機能する.
  • スカートの長さと景気についての議論は複雑だ.当初景気のよいときにスカートが短くなると主張された(ヘムラインインデックス).しかし口紅の色は景気が悪いときに鮮やかになるという主張(リップスティックインデックス)が現れ,論争となった.進化心理学者はこれは女性のライバルとの競争心理の基づいているはずだと考えた.その後のリサーチによると女性の性的競争心理は景気後退期により強くなるようで,リップスティックインデックスの方がより実態に沿っているようだ.
  • 化粧や髪の毛の手入れはより女性が行うディスプレイになる.これは若さや健康のディスプレイとなっているからだと考えられる.
  • これらのディスプレイは進化環境においてはフェイクが難しいものだったが,現代消費市場ではフェイク商品(プッシュアップブラ,美容整形,偽ブランド商品など)が入手可能になっており,大きな市場を形成している.

 

第4章 家族

 
第4章は血縁淘汰がテーマになる.広告宣伝ではしばしば家族的なイメージが強調されることを説明してから,血縁淘汰の簡単な解説がある.社会経済的に血縁淘汰の影響が大きく現れるのは,教育(子育て投資),遺産相続,家族企業,臓器移植などになる.ここも様々な知見の紹介風の記述で,個別テーマごとに解説されている.

  • 結婚式に呼ぶ人数はダンバー数程度であることが多い.呼ぶ親戚の数は母系の方がやや多い.これは父性の不確実性の現れと解釈できる.
  • おもちゃには子育て投資以外にもリサーチテーマがたくさんある.性差,遊びの適応的意義,人形やキャラクターのネオテニー的傾向など.
  • 父性の不確実性はいろいろな事象に大きな影を与えている.祖父母の投資への影響,母型の親戚は子供が父親似であると強調しがちであることなどだ.
  • 家族の一員として扱われるイヌやネコなどのペット市場は大きい.これは一種の共生系と考えられる.どこまで寄生的かについては議論がある.

(このほか本章では生まれ順効果,嬰児虐待のシンデレラ効果,トリヴァース=ウィラード効果,親子間コンフリクトなどについても扱われている)
 

第5章 友人と敵

 
第5章は互恵関係がテーマ.まずトリヴァースの直接互恵理論が簡単に解説され,ヒトにおいてはしばしば親しい友人が家族にもまして重要であることが指摘される.
 
ここでサードはこれまでの,得られた知見を客観的にまとめるという著述スタイルを大きく変えてパーソナルヒストリーを語り始める.
サード家はもともとレバノンのユダヤ人で,1970年代の内戦によりユダヤ人は迫害の対象になり命の危険にさらされるようになった.(当時のレバノンのIDは宗教別で,そこではユダヤ人ではなくイスラエル人と表記されたために中東戦争を背景としてより迫害をあおったようだ)一家は1975年になんとかレバノンを脱出するが,両親は1980年に一時帰国した際にファタハに誘拐される.その際にレバノンでの地位や社会的評判が地に落ちる危険も省みずに解放に手を貸してくれたのは両親のイスラムの友人たちだった.これはサードにとって衝撃的な記憶であり,友情は人生において大きな要素であることを強調したかったのだろう.ここから中東の香りを漂わせつつ解説が始まる.

  • 客を歓待することは多くの文化でみられる.(ユダヤのホスピタリティとアラブのホスピタリティ*8について詳しく語られている)
  • 友情は多くの映画やテレビドラマのテーマになっている.企業のマーケティングにも友情を打ち出すものが多い.価格政策にも用いられることがある.
  • 友情のあり方は社会の流動性の影響を受ける.アメリカの友情は中東のそれに比べて誰にでもオープンで,でも友情自体は表面的で浅くすぐに疎遠になる.これは契約のあり方にも影響を与えている.アメリカでは詳細を事前に契約しておくことが普通だが,中東ではそのような態度は相手の信用を疑っていると受け取られる.社会の流動性がダンバー数を越えるような相互作用を生むかどうかが分かれ目になるのではないか.
  • 中東では「敵か味方か」というマインドセットが顕著だ.これは最後通牒ゲームや独裁者ゲームで調べることができる.アシュケージ系ユダヤ人とセファルディ系ユダヤ人で調べたところ,後者の方がより党派的であるという結果になった*9
  • ファッションビジネスにおいては党派性の影響は重要だ.世界はファッショナブルな人々とそれ以外に大きく二分されている.そしてファッションは自分がどの部族に属しているかのディスプレイでもあるのだ.
  • スポーツ観戦もこの党派性と大きく関連する.スポーツ商品の売上はそのチームや選手の勝敗に大きく左右される.SNSにおける様々な現象もこの視点から考察できる(様々な例が取り上げられている).

 

第6章 文化産物

 
サードは「文化産物」は進化心理学者にとっての「化石」のようなものだとコメントしている.それはヒトの心理を示すエビデンスなのだ.そして進化視点で文化を考察する際によく取り上げられるのが「音楽や芸術は何についての適応か」という問題だ.サードは,これについて集団の団結だとか,性淘汰産物だとか,副産物だとかの論争があることを紹介した上で,本書では少し異なるアプローチを行いたいとしている.それは文化産物にはヒトの本性がどのように示されているのだろうかというフレームになる.

  • 歌詞:ポピュラーソングの歌詞の90%は愛やセックスについてのものだ*10.男性シンガーは圧倒的に女性の容姿の美しさについて歌う(彼女の知性やパーソナリティを賛美するものはほとんどない).そして女性シンガーは男性の社会的地位についてより歌っている(いくつか具体的な例が挙げられている).さらに男性シンガーが自分をアピールする際には地位や金が前面に出てくる(ヒップホップの例があげられている*11).
  • テレビドラマのストーリーライン:嫉妬がテーマになっているドラマでは,どのようなことに嫉妬するかについて進化心理学が予想するとおりの性差が観察できる.(いくつか具体的に分析されている)
  • テレビでは有名人のゴシップがよく取り上げられる.これは進化環境で毎週会っている人についてのゴシップへの興味という適応に基づく現代環境でのミスマッチとして理解できる.だからゴシップの内容は交際,結婚,非行,英雄的善行になるのだ.ソープオペラのストーリーラインも同様に理解できる.
  • 映画のテーマも基本的には進化的に重要だったと考えられるものが中心になっている(具体的にいくつか分析されている)
  • 文学:文学評論は歴史的に特定の政治哲学的なイデオロギー(フロイト主義,フェミニズム,ポストモダニズムなど)に基づいてなされるものが主流だった.最近進化心理学を応用して行うものも出現している(ジョセフ・キャロル,ブライアン・ボイド,ジョナサン・ゴットシャルなどがあげられている).たとえばロマンス小説は女性の配偶心理をよく示す窓になっている.

 

第7章 ローカルアドバタイズかグローバルアドバタイズか

 
ここではマーケティングにおける重要なテーマ「広告宣伝」が取り上げられている.

  • 「宣伝広告はローカライズすべきか,グローバルに統一すべきか」という問題については経営学で議論されているが,決着はついていない.実務家はグローバルアドバタイズを望み,マーケティング学者は文化差を分析した上でのローカライズを勧める傾向がある.
  • 進化的に考えると,適応産物としてユニバーサルなヒトの本性に関連するものはグローバルに行い,可塑性のあるもの(環境に対して調整があるもの)についてはローカライズすべきだということになる.
  • 広告効果を考えるには「記憶」についてよく知る必要がある.記憶は生存,配偶シナリオにおける重要事項についてよく働くのだ.そしてそれをスキナー的に商品やブランドと連想させることができる.多くの企業が企業イメージとして動物を使ってるのはそういう意味で理解できる.
  • 広告の反復効果:反復は当初記憶の強化に結びつくが,その効果は逓減し,最後はいやがられることもある.最適な連続提示数は広告の複雑性に依存する.
  • 恐怖メッセージ:恐怖は進化的に重要なので記憶に対してインパクトがあるが,ネガティブな反応も生じさせる(ので,取り扱いには注意が必要).
  • 集団帰属:その企業イメージに属しているように感じさせる広告には効果がある.(ペプシジェネレーションの例が説明されている)これには集団主義と個人主義として知られる文化差がある.これは感染負荷から説明可能だ.
  • 関連して「皆が持っている」というアピールと「あなたただ1人」というアピールの優劣という問題がある.生存が問題となる文脈では前者,配偶が問題となる文脈では後者がより効果的になると考えられる.

このほか好まれる声の特徴,男性に対する性的な女性のイメージ広告の効果,色の効果,(文化差を乗り越える)翻訳の難しさなども扱われている.
 

第8章 嘘

 
第8章は嘘がテーマになっている.

  • 受け入れることが難しいリアリティというものがある.「ヒトは老いて死ぬ」「一夫一妻制の元でも性的に飽きることは生じる」「生まれつきの才能の差というものがある」などだ.
  • そしてそのリアリティを隠すような商品はしばしば大成功する.宗教は魂の不滅を,化粧用品は永遠の若さを売り込む.セルフヘルプ本はどんなことでも可能だと請け合う.要するにヒトは自己欺瞞に陥る能力を持っているのだ.

ここからは個別の商品についての解説ということになる.しかし実際にはこのような嘘を売り込む商品についての糾弾の章になっている.特に冒頭の宗教についてのコメントは熱い.サードはここでは明確に新無神論の立場で議論を行っている.
 
<宗教>

  • 宗教の商品力は端倪すべきものだ.(メル・ギブソンの映画「The Passion of the Christ」の成功の例が引かれている)
  • まず宗教は魂の不滅を売り込む.この訴求力は強力だ.そして宗教は世代を越えたブランドロイヤリティを作り出す.背くものへの罰も用意されている.子供への洗脳についても怠りない.
  • 私は子供への洗脳が虐待だというドーキンスの議論に賛成だ.
  • 宗教はその主張がでたらめだということを示す圧倒的な証拠の存在にも関わらず人々をグリップし続けることができている.どのような議論に対してもトートロジー的な反論が用意されている.
  • そのグリップ力は党派性,パターンシーカーであることなどのヒトの進化的な本性にマッチしていることから生み出されている.また宗教は「信じるものは救われる」という互恵性の理屈も利用している.

 

  • どのようにすればこの強大なネズミ講的詐欺スキームから抜け出せるのだろうか.一つは異星人の視点に立つことだ.
  • 異性人からみると互いに相容れない主張を行う宗教が乱立しているように見える.そして信者になぜ,対立宗派ではなく自分の宗派が正しいと考えるのかを聞いても,「私が信じているから」以上の理由は返ってこない.意見が異なる主張の根拠についても同様だ.
  • 私は以上のような趣旨を雑誌に投稿したことがある.ある信者からのコメントには,「その通りだ」とあったが,それでも彼の信仰に疑問を抱かせることはできなかった.

 

  • ある意味宗教はマーケターの夢だ.宗教はヒトの理性をこれ以上ないぐらい麻痺させることができる.それにより様々な悲惨な状況を作り出す.もちろん宗教には利点もある.しかしヒッチンスがしばしば主張するように,そのようなメリットは無宗教であっても到達可能だ.そして私はあえてさらにこう言おう.「宗教に命じられて善をなすよりも,自らの信念で善をなす方がより敬虔ではないのか」と.
  • 宗教の作り出す悲惨の一つが標準医療の拒否だ.(様々な例が紹介されている)この偽の「代替」治療に人々が引きつけられるのは「生きたい」という進化的な欲望につけ込まれるからなのだ.

 
<美容>

  • 「ダブ」は「リアルビューティ」というキャンペーンで「美は社会的構築物だ」というテーマを利用した.これは消費者の脆弱な自己評価にうまく入り込む.しかしながらユニバーサルな「望ましさの指標は」実在するのだ.(ここではフェミニストの主張を詳しく取り上げて,批判している)

 
<セルフヘルプ>

  • セルフヘルプ本(自己啓発本)は近年もっとも成功した本のジャンルの一つだ.それは進化的に重要な課題(生存,配偶,血縁,互恵)について簡単な解決法があるという「希望」を売り込む.(様々ないい加減な本について徹底的にやりこめる記述が続けられている)

 

第9章 消費者の非合理性

 
ここではいわゆる「非合理的な」消費行動が扱われる.特にその性差と進化的な理由に焦点が当てられており,マーケティング関連の記述というよりは非合理的消費行動の進化心理学的解釈が主体の記述になっている.
サードは,まず様々な非適応的,非合理的な消費行動が観察されることを指摘し,そして多くの政策が,この原因について「社会化」「不十分な情報提供」だという前提の上に立案されているがしかしこの前提は誤りだと主張する.
そして多くの非合理的消費行動には性差が観測されることを説明している.ギャンブル中毒,ポルノ中毒,過剰なリスクテイクは男性によく見られ,摂食障害,買い物中毒,過剰な日焼けサロン通いは女性によく見られる.これはヒトの本性に大きく関連しているという趣旨だ.ここから個別の非合理的消費行動についての解説となる.
 
<買い物中毒>

  • 衝動的に買い物を行い,購入品をため込むという行動はしばしばみられ,強迫性障害の一種だと考えられている.
  • このような強迫性障害は進化的に適応的だった環境情報の収集行動が過剰表出したものだと考えられる.そしてその具体的な症状には大きな性差がある.男性は地位の喪失を気にし,女性は美的魅力を失うことを気にする.
  • 買い物中毒の90%は女性によるもので,その多くはファッション商品や美容商品が対象になっている.配偶関係の不安が関連しているのだろう.

 
<摂食障害>

  • 摂食障害も大半は女性の症状だ(男性が煩う場合には筋肉が絡んでいることが多い).
  • 専門家はしばしばマスメディアがまき散らす極端なモデル体型が問題だと指摘する.一見もっともな議論にも思えるが,しかしこれはあまり正しい説明とはいえない.摂食障害は(マスメディアなどない)古代ギリシアから知られているし,この説明では性差が説明できないからだ.
  • 摂食障害はしばしば無月経を伴う.これは環境条件(配偶者による子育てサポートが期待できない,同性間競争が激しいなど)によって繁殖を避けようとするメカニズムがミスファイアしている可能性を示唆する.リサーチは摂食障害と上記環境条件の相関を報告している.

 
<ギャンブル中毒>

  • ギャンブル中毒は圧倒的に男性に多い.
  • 男性は性淘汰的シグナルとして様々なリスクテイク行動を行う.これが性差の背景にある.実際に金融市場のトレーディングなどの職業には男性が圧倒的に多く就いている.

 
<ポルノ>

  • ポルノはグローバルにみて巨大な産業だ.
  • フェミニストは,ポルノを家父長主義者による女性をおとしめて抑圧するための陰謀であり,性犯罪を誘引するものだと位置づけることが多い.
  • しかしそれは事実ではない.データはよりポルノに寛容な社会ほど女性の抑圧が少ないことを示している.(ここでは社会悪を減少させる手段としてのポルノ禁止論についてかなり激しく反論している)
  • 視覚的な性的刺激に敏感に反応するかどうかについては性差がある.男性はストレートでもゲイでも視覚刺激に反応し,女性はストレートでもレズビアンでもそうではない.(これを含め様々な性的刺激の性差やその理由が詳しく解説されている)

このほかにセックススキャンダルが男性に多いこと,エキストリームスポーツ愛好者も男性が多いことが取り上げられている.
 

第10章 ビジネススクールのダーウィン

 
まず経営学全般にわたる進化的視点の導入の利点が解説されている.進化心理学の適用範囲は当然ビジネスにも広がるはずなのだ.サードは例として,起業やトレーディング活動はそのリスクテイクの側面から男性に好まれること,またファミリービジネスには様々なコンフリクトが存在することをあげている.
 
ここから経営学史,特に生物学的知見の応用史が簡単に解説されている.

  • アメリカにおけるビジネススクールは100年ぐらいの歴史を持つ.19世紀までのビジネスはいかに効率的に生産するかに焦点が当たっており,消費者の好みはあまり考慮されていなかった.
  • しかし20世紀の初め頃から売るためには消費者の望むことを考えなければならないということが浸透し,マーケティングがビジネススクールで教えられるようになった.その後経営のフォーカスは労働者や環境の視点を取り入れるようになった.
  • しかしつい最近まで生物学的な知見は経営学において完全に無視されていた.しかし今日これを取り入れるところがまだ少数ではあるが増えてきている.

 

  • 最初の波は脳科学の取り入れだった.経営学に脳の活性化画像解析が(消費者の選好を分析するために)取り入れられ,ニューロエコノミクスと呼ばれるようになった.かけ声は勇ましかったが,実際の成果はあまりなかった.ほとんどのリサーチは後付けの説明の域を越えられなかったからだ.
  • 次に行動経済学が現れた.トヴェルスキーたちはヒトの認知の非合理性を様々な形でプレゼンした.しかし彼らは進化的な視点を持たず,なぜそうなのかについては興味を持たなかった.

 

  • 進化的な視点を持つとなぜ消費者が一見非合理的な好みを持つのかを統一的に説明可能だし,どのような条件でどのような選好が生じるかを予測することもできる.(ゲームにおける選択,フレーミング効果,意思決定の非合理性にかかる議論*12の解説がある)
  • 金融市場の振る舞い(リーマンショックが念頭にある)の説明には市場参加者についての生物学的な理解が欠かせないだろう.トレーダーの成功にはデジットレシオが相関しているという報告がある.これは至近的にテストステロンが重要な役割を演じていることを示唆している.
  • 時間割引の双曲性の問題は単純ではなく,起動しているモジュールによって複雑であるだろう.男性については配偶刺激をプライミングするとより将来価値を大きく割り引くことが観察されている.
  • 採用面接にも生物学的な影響はあるだろう.男性採用者は女性採用者に比べて魅力的な女性をより採用する傾向がある.採用者は最初の30秒の印象で採否をおおむね決めて後はその証拠探しをしているようだ.
  • 「美の効果」はさらに広い.ハンサムなMBA卒業生はより高額のサラリーを得る傾向がある.NFLのQBの報酬を分析した結果,顔の対称性1標準偏差について年収が8%違うという報告がある.(さらにそのほかの例がいくつかあげられている)要するに進化的に重要な要因が,突然ビジネスにおいて重要性を失うと言うことはあり得ないのだ.
  • 商品開発においても生物学的な要因は重要であるだろう.(車のフェイスの与える印象,好まれるおもちゃなどの例が解説され,さらにバイオミミクリーについても取り上げてられている)

 

第11章 結論

 
結論の章において,サードは,経営学においてはなお生物学への敵意は大きいが,いずれこれは受容されると考えていると述べている.そして生物学と社会科学はEOウィルソンがいうようなコンリシエンス(知の統合)を達成すべきだと主張し,その展望を語って本書を終えている.
 

 
本書は基本的に進化心理学視点のマーケティングについての本だが,途中でいきなりパーソナルヒストリーが熱く語られたり,宗教的洗脳の糾弾が始まったりしており,統一感のない不思議な本になっている.マーケティングについては淡々と知見が述べられている部分が多く,ミラー本のような衝撃はないが,落ち着いた総括的な書物だと評価できるだろう.マーケティングが消費者に商品を売り込むためにある以上,当然消費者の選好の本質的な理解は(ビジネスとしては商品開発の方向性や売れ行き予測に絡んで,そして政策立案においても)重要になるだろう.
しかし本書において読んでいて特に魅力的なのは,サードのバックグラウンドと関連する中東文化についての部分と,熱意あふれる「嘘を売り込む商品」糾弾の部分だろう.学説史の部分も率直で面白い.私的には楽しめた一冊だった.
 

関連書籍

サードによる本書に先立つ専門書.2007年の出版で下のミラーの本より2年早い.

The Evolutionary Bases of Consumption (Marketing and Consumer Psychology Series) (English Edition)

The Evolutionary Bases of Consumption (Marketing and Consumer Psychology Series) (English Edition)


 
ジェフリー・ミラーによる消費の性淘汰にかかるハンディキャップシグナルとしての性質を徹底的に論じた本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20101009/1286588967

Spent: Sex, Evolution, and Consumer Behavior (English Edition)

Spent: Sex, Evolution, and Consumer Behavior (English Edition)

 
同本訳書.私の訳書情報はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20171226/1514240384

消費資本主義!: 見せびらかしの進化心理学

消費資本主義!: 見せびらかしの進化心理学



サードが一章を寄稿している進化心理学のガイド書.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2018/11/30/081619

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ

進化心理学を学びたいあなたへ: パイオニアからのメッセージ




 

*1:これはもちろんドブジャンスキーの有名なフレーズが念頭にある

*2:進化心理学への批判については「進化心理学を学びたいあなたへ」でも繰り返し取り上げられていたところだ.なお反論としては少し前に紹介したスチュワート=ウィリアムズの本の付録にあるものの方が断然面白い

*3:アトキンス式ダイエットがあれぼど受けたのは,脂肪をほしがるヒトの心理的傾向に逆らわない方式だったからだろうとコメントされている

*4:アメリカにおけるアイスクリームの種類が余りに多いことについてのコメントは面白い

*5:なお空腹の際には男性はより太った女性を魅力的に感じるという報告があるそうだ

*6:有名なTシャツ実験が引かれているが,売られている香水との関連に関する根拠は特に挙げられていない.ちょっと苦しい説明のように感じる

*7:この議論を行うと必ずフェミニストから「これは男性が女性をコントロールするための陰謀だ」という反論があるそうだ.サードはそうではなく男性も女性もよりよい配偶相手を得るためには犠牲もいとわないというだけだとコメントしている.

*8:基本的には砂漠地帯における飢饉に対しての保険として理解できる

*9:サード自身セファルディ系ユダヤ人の1人として大変がっかりしたそうだ.

*10:もしマズローが正しいなら歌詞はもっと自己実現についてのものになっているはずだとコメントされている.

*11:これはヒップホップ以外のジャンルではどうなのだろうか.日本の歌ではあまりこのようなものは思いつかないが,調べると結構あったりするのだろうか

*12:(時間や認知資源の制約を前提とした)生態的合理性の議論や(適応価を前提にした)深い合理性の議論が説明されている.