書評 「進化する形」

進化する形 進化発生学入門 (講談社現代新書)

進化する形 進化発生学入門 (講談社現代新書)

 

本書は進化発生学(エヴォデヴォ)の日本の第一人者である倉谷滋による新書.倉谷は最近「分節幻想」と「新版動物形態進化学」という大著を2冊書いているが*1,本書はこの2冊を執筆しながら,書き切れなかったテーマに絞った一冊ということになるのだろう.そのテーマは「生物の形が変わるとはどういうことか」という進化発生学の最も深い疑問になる.
 
倉谷の解説は冒頭「はじめに」のところから深い.発生学は「卵がいかにして成体になるのか」を扱う学問だが,還元主義的にのみ突き詰めてもシステム全体は見えてこない.パターン把握を行う構造主義の視点も重要になる.進化学以前の観念形態学においては構造主義的に「基本形」を追い求めたが,進化という足場を持たないまま動物形態のパターンをいたずらに抽象化し続け,ついに科学になり損ねた.分子遺伝学は還元主義に傾き,比較発生学は構造主義を用いたが「反復」にこだわってしまった.本書ではこの「反復」が必要以上に理想化されたモデルであったことを示し,それをいかに越えていくかを扱うことになる.そしてそれを越えるには還元主義と構造主義を併用するだけでは足りない.進化と発生の実装には複雑系と同じ問題が隠れているというのだ.
この難解な導入でついて来られない読者をふるい落とし,そして重厚な倉谷節が始まる.
 

第1章 原型論的形態学の限界

 
倉谷はまず様々な形態の動物群があることを示し,しかしそこにはデザインの制約があることを示す.倉谷はこれを「多様性と共通性は表裏一体なのだ」と説明している.そして単純な適応論では体の基本パターンを説明できないと主張する.例えば「我々の体が大まかに左右対称なのは左右対称遺伝子が適応的で集団に固定したからだ」という説明はできないのだ.
ポイントとなるのは発生過程が最後までちゃんと進行するかという問題になる.これによる淘汰は「内部淘汰」と呼ばれる.またマスターコントロール遺伝子,ツールキット遺伝子群のように重要な遺伝子はどのように現れたのかという問題もある.ここには「発生プログラム自体も進化する」という視点が欠かせない.そしてこの視点を持ち,動物の体の多様化について進化的な分岐の際に体を作るメカニズムがどのように変化したのか,その発生の方法とゲノムを調べる分野が進化発生学(エヴォデヴォ)になる.(ここで脊椎動物の胞胚→原腸胚→神経胚→咽頭胚と進む例が示されている)原型論や構造主義では構造そのものの成立や起源を問うことができなかった.進化的多様性の中に保守性があり,胚発生に種を越えたパターンがあるなら,そこには何らかの安定化過程により拘束された状態があるかもしれないと考察すべきなのだ.
 
ここから倉谷はこれまでの歴史を振り返りながら原型論の限界を示していく.キュビエに始まる比較解剖学者は(1)どの動物もある種の「型」にはまっておりそこから逸脱しない(2)動物の体の部品は常に特定の「型」に属している,ということに気づいた.前者はボディプランと呼ばれ,観念的形態学の「原型」と深く関わっている.後者は「相同性」に関わっている.
 
倉谷はまず「原型」を取り上げる.ダーウィン以前の形態学者は,原型からどのように変形するのかという視点で動物の体を考察した.ダーウィン以降,原型はイデアとしての地位を失ったが,進化的多様性の中にある拘束された変化パターンとして理解されるようになった.ハクスレーはある動物グループのすべての派生的な特徴を徹底的に排除したらどのようなパターンが残るかを考えた.それは共通祖先の特徴を表すことになるだろう.原型はそういう進化的意味合いを(不完全に)背負うことになった.つまり「原型」には「原初の姿」と「安定化の果てに成立した共通性」という2つの側面を持つことになる.(ここからはこの2つの側面とゲーテ,オーウェン,ジョフロアたちの原型の考え方が解説されている)
 

第2章 形態学的相同性

 
第2章は「相同」を扱う.倉谷はいきなり「相同」「相似」は文脈に依存した概念だと始める.
現代の生物学では相同は進化の結果として表れる.ではそれは単に系統内の共有派生形質なのか.倉谷はそれほど単純ではないといい,鱗翅目昆虫の幼虫腹部の疣脚の例をあげる.これはその他節足動物の歩脚と相同なのか.鱗翅目を含めた完全変態昆虫の共通祖先はかつて腹部の付属肢をすべて失ったことがあるので,これは共有派生形質とは言えない,しかし発生的には相同的な分子機構によって形成される.進化形態的には相同でなくとも遺伝子レベルの発生プログラムとしては相同なのだ.これは「深層の相同性」と呼ばれる.
 
ここで倉谷はダーウィン以前に提唱された「相同」概念自体に立ち戻る.ジョフロアは「異なった動物における互いに同等の器官は体の中で同等の位置を占めて互いに同等な隣の器官と結合している」ことに注目した.これは「形態学的相同性」と呼ばれる.オーウェンはこれをより突き詰めて相同概念を提唱した.これは構造主義的に器官のネットワークを見ているのであり,原型という構造はある特定のパターンで配置された形態的相同性の集合ということになる.このようなとらえ方では,原型とされるボディプランがネットワークを保ったまま変形して多様性が生まれることになる.だから異なるボディプランの説明はできない.
そして進化概念が認められて,相同性は「共通祖先から受け継いだ何らかの同一性」あるいは「半ば拘束された状態」だと考えられるようになった.この「拘束」は進化的な変化の方向にかかるバイアスということになる.そして拘束への考察は,考察者を発生プロセスに注目させるようになる.
 

第3章 分類体系をなぞる胚

 
第3章は発生過程を扱う.倉谷は発生過程の性質について「メリハリの利いた段階的構造を備えた因果連鎖」であり,それは時にどちらを採ってもよい代替経路を持つと説明している.発生プロセスは連続した均一のものではないし,単純な連鎖でもない.胚自体もモジュールと呼ばれる他の部分から独立に変化できる原基のセットを形成する.倉谷は,発生機構の構造はモジュールから成り,このモジュールが進化的淘汰の標的になり,進化の様式やパターンを決めていくのだろうと指摘する.
 
ここでまた話はダーウィン以前に戻る.後成説を唱えたヴォルフと動物の相容れない4つの「型」を提唱したキュビエに影響を受けたベーアは,発生過程を観察して,その途中に「原型」が一時的に胚の形として表出すると考えた(ベーアはこれを「主型」と呼んでいる).ベーアは,脊椎動物の胚が「主型」を見せるのは器官形成期である「咽頭胚」の時期であり,発生初期と発生後期では動物胚の形は分類群ごとに異なるというのちに「砂時計モデル」と呼ばれる考え方を提唱した.これは10年後のオーウェンの「原動物」概念にも影響を与えた.
実際に器官形成期には多くの動物で共通した形態形成遺伝子群が発現し,極性や位置価を与える.極性や位置価は空間上の位置関係を示し,発生学的機構が発動するための要となる.これは進化的淘汰を通じて守られるべき重要な表現型になる.(ここでそれをよく示すホックス遺伝子群の解説が置かれている)1994年にドゥブールはホックス遺伝子群の発現が最も明瞭になるのは咽頭胚期でありベーアのいう「主型」の成立段階に一致することを指摘し,「主型」を「ファイロタイプ」,その発生段階を「ファイロティピック段階」と呼んだ.これが進化発生学の幕開けとなる.発生学的機構論が進化的解釈のための整合的な論理を初めて与えたからだ.
ホックス遺伝子群はよく調べられ,動物群によって様々なルール,つまり発生拘束がかかっていること,しかし脊椎動物全体に共通する拘束も存在することがわかってきた.形態学的相同性が遺伝子の相同性とリンクしている実例も示された.
 
では何故,このファイロティピック段階という保守的な発生段階が存在するのだろうか.1つの仮説はそれは強い内部淘汰のためだというものだ.発生初期ではまだ胚がモジュール化しておらず,働いている作用も大局的で,ネットワークとして単純なので変形はある程度可能だ.後期には胚の各部が高度にモジュール化されているので多数のネットワークが独立して機能しており,一部の変更方にあまり影響を与えない.しかしファイロティピック段階では大局的なネットワークが複数あって相互に関連しているので,発生プログラムのわずかな変更が胚の死につながりやすいと考えるのだ.
この仮説を調べるためにファイロティピック段階に機能する遺伝子レパートリーの保守性を調べる研究が行われている.一部肯定的な結果も報告されているが,確実なところはまだわかっていないということらしい.
 

第4章 進化をくりかえす胚

第4章では第3章で示した発生過程の背後のロジックが考察される.ここまでの説明で胚のファイロティピック段階においてホックス遺伝子群が最も明瞭に発現し,胚形態はボディプランを構成する基本形態パターンが目に見えるようになっていることがわかった.観念形態学の基本理念と分子遺伝学的発生機構がつながっているように見える.では何故そうなっているのだろうか.
ベーアの指摘は「基本形ができた上で,その上に個別的・独自的な特徴が加わる」というものだ.しかし(例えばヘビの脚のように)いずれなくなる特徴でも一度発現させるのはなぜなのか.これは「発生拘束」と捉えるべきで,この中身を知ることが進化の方向性の理解につながると考えられる.「分節繰返し性」「(繰り返し要素のそれぞれが独自に変化する)変形」のような古典的形態学の基本概念は内部淘汰がもたらしたと考えることになる.「原型」も原初のパターンではなく二次的に成立し固まったシステムということになる.こう考えると発生の時間と進化の時間も同じではなくなる(反復説の基本的な誤りはここにある).
 
ここで倉谷はホックスコードと形態学の概念構築の関係の深さを具体例をもって解説する.「同型」「同名」「同称」などの「形態的同一性の概念群」(相同性の様々なタイプ)は「発生プログラムの使い回し」がヒトの形態パターン認知に形式化されたもので,背景にはある種の分子的な機能モジュールがあるとみることができる.「不完全相同性」はモジュール自体もまた随時細分化・複雑化する現実を示すものだ.
 
ここから倉谷はベーアの法則とヘッケルの反復説に入り込む.ベーアの法則は「発生において形態的特徴の出現する序列は分類体系の階層的系列をなぞる」というもので分類学的な入れ子関係が発生過程において出現する順序とパラレルであると主張する.これはヘッケルの反復説と同じようにも見えるが,ベーア自体は進化(そして当時の自然の階梯的な一直線に進む進化観に基づく反復説的考え)を否定しており,多様性の階層的分布パターンを捉え,キュビエ的ボディプランの重要性を指摘していたつもりだった.そしてヘッケルはダーウィン以降に系統進化と比較発生学と統合し,入れ子式の分類体系を系統進化過程に読み替え,19世紀の新しい反復説を提唱したという経緯になる.系統進化を認めるかどうかだけでなく,原型の重要性についての認識がこの両者では異なっている(ヘッケルにとってはファイロティピック段階は動物門の成立時期の相当する一里塚という相対的な重要性しかなかった).
 
この相対的重要性の話を置いてから,倉谷はファイロティピック段階以降の発生過程の保守性に話を進める.ファイロティピック段階の保守性については先ほどの説明があるが,その後についてはなかなかうまく説明できていない.これを説明する試みが「発生負荷」の概念になる.例えばなぜ脊索は脊椎動物の発生においていつまでも残っているのだろうか.それは「脊索が発生を進めるための重要な機能を持つから」と考えられる.脊索はのちの発生過程に「責任を負っている」と考える.この責任を「発生負荷」と呼ぶ(これは発生拘束の要因の1つとなる).発生負荷があると結果的に反復パターンが現れることも説明できる.
 
ここで倉谷は発生過程が目的論的になりやすいことにも言及している.小さなステップを踏み台にして複雑な発生プログラムが組み上げられているとヒトはそこに目的を見てしまう.また一旦成立した発生プロセスは常に保存を強いられるのかということも問題になる.しかし無尾ホヤでは生涯にわたって脊索の出番がない.これは後期形態形成上の脊索の役割が小さい(発生負荷が小さい)と取り外しが可能であることの例になる.すべての発生原基や発生パターンが保存されなければならないわけでもないのだ.つまり発生過程も進化し,その進化は階層的で,明瞭に変更しやすい部分(発生負荷が大きい部分)としにくい部分(発生負荷が小さい部分)があることになる.そして原型や相同性の認識の源泉はこの発生拘束にあるのだろう.すると原型は類縁性の近い動物の比較を行う際にたまたま便利であるに過ぎなく,現象の正しい理解の方便でさえもないことになる.それは構造主義と同じ限界を持つことになる.
 

第5章 反復を越えて

 
では正しい進化的な発生の理解を行うにはどうすればいいのか.倉谷は反復説の例外現象である「ヘテロクロニー」(系統進化と発生過程の順序が食い違うこと)を取り上げる.ヘテロクロニーには部分ヘテロクロニーと全体ヘテロクロニーがあり,前者には有袋類で前脚の形成が前にシフトするような現象,後者にはいわゆるネオテニーがある.これについてゼヴェルツォッフ*2は1930年代に「アルシャラクシス理論」を提唱した.これは以下のような理論になる.

  • 進化の過程で祖先の発生タイムテーブルが変化し,それによって新しい形態を持つ子孫ができる方法には3つある
  • アナボリー:祖先の発生過程の終末に新しい形質が付加されるもの(ヘッケル的反復と同じ)
  • アビーレン:発生過程の中期に変更が生じ,全く異なった発生経路が成立し反復効果がキャンセルされるもの
  • アルシャラクシス:発生の初期から変化が生じ抜本的な形態進化が生じるもの

これによるとボディプラン進化にはアルシャラクシスつまり発生のタイムテーブル全体の大規模な書き換えが必要ということになる*3.そして発生の経路が変わる際の発生段階により,異なったタイプの拘束の変化が生じると考える.倉谷はこの「系統分岐する発生拘束」という考え方がボディプランの系統進化を解き明かす鍵だと指摘する.こう考えるとオーウェンのように「すべての動物の器官に相同性が確認できるはずだ」として複雑怪奇な原動物を想定する必要もなくなり,相同性は1つの保守性でしかないことが説明できるのだ.そしてボディプランの進化機構を複雑な発生ネットワークの組換えや,それを可能にするゲノム変化として理解しようと進む事になる.(倉谷はここで「原型」の問題点を脊椎動物の顎の例を引いて詳細に論じている.)

第6章 進化するボディプラン:アロモルフォーゼ

 
倉谷はボディプラン進化(ドイツ発生学的にはアロモルフォーゼと呼ぶ)がどういう過程であったのかという現代進化発生学の大きな課題に進む.ボディプランの進化については,原型と反復では対応できない.祖先型に同等の構造のない(相同性の喪失を伴う)進化的新奇形質の獲得,従来の発生拘束のキャンセルと新しいパターンの創成という不連続イベントが必要になる.
そしてゼヴェルツォッフは(現生動物A,Bにおいて)発生過程をA→Bではなく,(共通祖先をDとし)そこにアルシャラクシスをおき,D→A,D→Bとして,考察しようとした.
また遺伝子発現レベルの分析によりファイロティピック段階はいくつかの脊椎動物種において遺伝子発現レベルで実在することが確かめられつつある(入江直樹による一連の研究が紹介されている).しかしより広い脊椎動物全般ではまだ吟味がなく,脊索動物まで広げると共有されていないようだ.これはあるグループにのみ特異的な共通パターンが存在することを示しており,ゼヴェルツォッフ的な進化的考察と整合的になる.
ここで倉谷はその典型的な反ヘッケル的な現象の例として脊椎動物における椎式の進化を細かく論じている.これによりわかるのはホックスコードの成立過程が進化を反復しておらず,アルシャラクシス的にのみ解釈可能になるということだ.
片方でアルシャラクシス的過程とヘッケル反復的な過程が外側からは区別しにくい場合もある.倉谷はトコロフォア幼生から様々な環形動物や軟体動物が発生していく過程がどちらの見方からも解釈できる例をあげて説明している.しかしこの場合も全く異なるボディプランの中に形態的相同性を遺伝子発現プログラムとして保持されているなら(そしてそれはいま次々と発見されている),それはボディプラン進化がアルシャラクシスを経ていることを示唆していると考えることができる.
 
本章ではボディプラン進化はヘッケル反復的と解釈するよりアルシャラクシス的と解釈する方が観察と整合的であることが論じられた.そして最終章でそれが本当に可能なのかが扱われる.
 

終章 試論と展望

 
倉谷はここでもう一度古典的な「反復」と「原型」の理論の限界を整理する.この枠組みではすべての発生現象を説明できないし,相同性と原型はトートロジカルにならざるを得ず,異なるボディプランを持つ動物間の比較が不可能になる.形態パターンと分類学にのみ凝り固まった考えでは進化において本当に保存されているものを見逃してしまい,相同性の概念をよりダイナミックに拡張するべきであることに気づけないのだ.
 
倉谷はまず「相同性」から考察する.異なるボディプランを持つ動物に共通した細胞型のレパートリーや(ホックス遺伝子群を含む)発生制御のツールキット遺伝子群が見つかっている.これは相同性の概念を揺るがすものだ.古典的にはある器官や構造の相同性を認めるには(原型を含む)それより上位のレベルの相同性に依存しなければならないと考えてきた.
しかし実際の動物ではボディプランのレベルと細胞型のレベルで保守性が乖離している.全体の設計と部品の作成では異なるレベル・ロジックで保守性が現れる.つまりボディプランと部品の相同性は異なるレベルの現象だと考えるべきことになる.これは進化では使い回せるのは使い回すからだろう.そうであれば様々な左右相称動物群が皆トコロフォア幼生のような単純な形態から進化する必要はない.そして実際に左右相称動物の共通祖先はある程度大きな解剖学的複雑性を持った動物であったのではないかというシナリオ(アルシャラクシスをおこして,ボディプランを大きく変えながら,個々の部品の遺伝子発現については使い回した)をサポートするデータが集まりつつある.
次に倉谷は細胞型の保守性がどのように維持されるかを考察する.様々な動物の細胞型の遺伝子を分析すれば,細胞型の系統樹を書くことができるだろう.これは動物種の系統樹より遙かに複雑なものになるだろう.これは細胞系譜の系統樹と一致するだろうか.大まかには胚葉説が示すように一致する.しかしこれは必然,そして形態的相同性の根拠となるものではなく,むしろ遺伝子発現を安定化させるための発生拘束により結果的にそうなっていると考えるべきだ.実際に胚葉成立後も細胞型決定過程では発生経路の組換えや遺伝子制御ネットワークのリワイヤリングが生じる.
 
ここで倉谷はボディプランの相同性がないが下部構造の中に相同性が見いだせるような別の例を考察する.これにあたると思われる現象にはコ・オプションと発生システム浮動(相同な形質の下部構造が進化的に変化するもの)がある.
コ・オプションとは発生プログラムが新しい場所に移植されそれまでに存在しなかったパターンをいきなり獲得するという現象を指す.これは進化においては頻繁に生じており,昆虫の角や脊椎動物の手足も最初はそうやって獲得されたと考えられている.昆虫の角の発現は歩脚の遺伝子発現の使い回しによる.コ・オプションは発生モジュールの上位の位置するマスター・コントロール遺伝子の異所的発現がキーになっていると予想される.角と歩脚は通常の意味で相同ではないが,深層的には相同なのだ.そして(個々の遺伝子にも遺伝子モジュールにも染色体にも相同がありうるのだから)そもそもこの深層の相同性こそが相同性本来のあり方であり,その後マスター・コントロール遺伝子群がボディプラン進化の過程においてツールキット化され,観念形態学的秩序構造の認識に結びついたのだ.そしてボディプランの保守性を考えるためには発生拘束の考察が重要だということになる.
そして倉谷は異なるボディプランを持つ動物間で共通の遺伝子発現プロファイルで定義される細胞型が得られることはアルシャラクシスで生じたのか(真の相同性),コ・オプションで生じたのか(深層の相同性)を区別できるかと問いかける.倉谷はアルシャラクシスであるためには祖先動物の比較的初期の発生過程で同じ遺伝子群が別のいかなる場面においても用いられていないことが確かめられなければならないと主張し,脊椎動物と節足動物の背腹反転と分節の起源の問題を取り上げる.現在では左右相称動物は元々節足動物が他の背腹パターンを持っており,それが後口動物の祖先に引き継がれたが,脊索動物の分岐に伴って背腹反転したと考えられるようになって来ているが,初期の議論ではこれはコ・オプションであるという異論もあった.しかし背腹軸決定以前にこの遺伝子モジュールが必要になるような大局的な発生現象が見つからず,この異論は勢いを失った.またこの議論は前口動物の分節構造と脊椎動物の分節が相同かどうかという論争とも関連する.これはまだ決着がついていないそうだ.このあたりの解説は深く,わかりにくい*4
 
ここまでの議論を経て倉谷はようやくボディプランの多様化がアルシャラクシスで説明できるのかという問題に取りかかる.そしてまず結論として,観察事実は,一旦できあがった複雑な体制の動物がアルシャラクシスを経て別の動物群を創り出したというシナリオを支持しているとする.そしてそのシナリオを具体的に解説している.ここは読みどころの1つとなる.

  • カンブリア紀より前には現在では幼生とされるような単純な生物がそのまま性成熟して生活環を回していただろう.
  • その一部はヘッケル的過形成を模索するうちに大型化して新しいボディプランが獲得されていっただろう.カイメン,板形動物,有櫛動物*5はそのようにばらばらに成立した動物系統かもしれない.
  • しかし刺胞動物の祖先の出現により状況は一挙に変わった.刺胞動物とすべての左右相称動物の中では,異なった動物門の間に相同な細胞型からなる同一のパターンを持つ器官系が頻繁に現れるようになった.おそらくすべての左右相称動物は刺胞動物の内群ということになるのだろう.
  • さらに左右相称動物では三胚葉が確立し,細胞型の相同性が堅固になり,遺伝子制御ネットワークと細胞型の保守性が確立された*6
  • つまり細胞型,諸器官,諸構造の形態学的相同性を保持したままボディプランだけが進化している.これは初期発生過程が変更された結果新しいボディプランが生じたとするアルシャラクシスを支持するものだ.(ここではさらに対立する考え方を丁寧に批判している)

 
ではどのようにボディプラン進化は可能になったのか.ここからは倉谷の「試論」になる.

  • ダーウィン,ライエル的な「微小な変化の積み重ね」ではなく,「ラディカルなモジュールの繋ぎ替えによって進行した」と考える.ボディプランの変更が「微小な変化の積み重ね」で生じるとするのは飛び越えるべき適応地形の谷を無視しており,控えめに言っても説明不足だ.
  • ボディプランが保存されていれば進化は比較的速やかだが,ボディプランが大きく変更する進化は一般的には難しい.しかし過去においては現実に可能だった.*7
  • 新しいボディプランの進化とは,基本的体制の軸や極性を再定義し,器官の配置を再統合することを意味する.これらは初期発生プロセスであらかた決定されてしまう,だからアルシャラクシスのみがボディプラン進化を説明できることになる.
  • このような変化にあたって,器官・構造の相同物が祖先と比べて形態学的にシフトした位置に現れる場合がある.そのような場合は深層的相同物として理解できるような様々なタイプの類似性同一性を見ることになる.また異なったボディプランに進化的に保存された細胞型が現れる場合も同じシナリオで理解できる.これらの深層的相同物が機能的意義を偶発的に得たときにその新しいボディプランが淘汰圧をくぐり抜ける見通しが得られることになる.
  • 新しい位置関係やシフトしたタイミングは新しいパターンを生む.それが滞りなく生じるために,発生過程のあちこちに拘束が生じる必要があり,安定化淘汰によりもたらされる.それは発生経過のエピジェネティック地形のキャナライズとして理解できる.これはボディプランが離散的であることを説明する.
  • 胚発生は典型的な複雑系であり,還元主義的なアプローチを拒んでいる.それはほんのわずかな違いで大きな違いを生むことや,遺伝子の相同性と形態要素の相同性が時折乖離することを説明する.
  • キャナリゼーションは1種のキャパシタを作り上げ,頑健な発生経路をもたらすが,複雑系であるために潜在的な進化の爆弾をいくつも抱え込むことにもつながる.相同的形質が保存される一方で下部構造は変化しうる(経路が網目構造をしているなら,同じパターンに行き着く代替経路が存在する).形態学的相同性に新しい遺伝子モジュールが結合する一方,古いモジュールが乖離する(発生システム浮動).
  • 片方で器官形成の発生ネットワークのモジュール性とその堅牢性は動物門の創出を加速させる効果を持った.抜本的なトポロジーの変更においても局所的な整合性がある程度保たれるからだ.
  • 詰まるところボディプラン進化の本質は,安定化淘汰,アルシャラクシス,そしてコ・オプションなのだ.

 
倉谷は最後に「結語」を置き,ここまでに解説したシナリオを統合的に説明したのち,課題としてゲノムの内容とボディプランの関係の解明をあげ,本書を終えている.
 

本書は新書という外観に反して大変濃密な書物であり,進化発生学の深いところを解説してくれている.発生の本質はデザインと製作という工学的な問題であるために,その進化は単純な適応度極大化だけでは語り尽くせない.それは進化産物で複雑系であり,さらに発生経路自体が淘汰圧を受ける.そのためにボディプランの変更は非常に難しくなるが,初期段階で生じるアルシャラクシスによる大きなトポロジー的変更,下部構造のモジュール性とその使い回し,安定化淘汰によるキャナリゼーションにより可能になるのだ.そして観察事実との整合性,動物門の起源シナリオの提示などが次々となされている.エヴォデヴォに興味にある人にとっては必読の副読本ということになるだろう.
 
関連書籍
 
倉谷の本

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私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20170312/1489283687

*1:さらに「ゴジラ幻論」という楽しい一冊も書いている

*2:ゼヴェルツォッフはロシアの学者でドイツで学びドイツ語で論文を書いたために現在ほとんど知られていない.倉谷はこの経緯について結構細かく書き込んでいる

*3:ここで倉谷は「『生物には高等下等の序列がない』というためには.単に『それは生物学的厳密でない』と終わらせるべきではない.ヘッケルの『より発生後期に生ずる変化の方がより高等』という議論を打破する必要があり,このアルシャラクシスを認めて発生力の差が無いことまで考察すべきだ」と力を込めて主張していて,なかなか面白い

*4:そもそもある現象がアルシャラクシスなのか,コ・オプションなのかは1か0かで区別できるものなのだろうか,厳密に区別する意味は何かなど気になるところがあまり解説されていない.詳細は「分節幻想」を読んで欲しいということのようだ.

*5:最近の研究によると有櫛動物はかつて考えられていたような刺胞動物の近縁グループではなく,かなり古く分岐した系統であり,独自の細胞型を多く含んでいるそうだ

*6:細胞型の相同性の興味深い例として体性部分と臓性部分の区別が解説されている

*7:アルシャラクシスにより新しいボディプランを得る困難さに関する議論があり,個人的には麻雀で役満を連続10回上がるという事象が感覚的に近いと感じられるという言い方をしていて,いろいろ面白い

Enlightenment Now その70

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

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第22章 科学 その5

 
ではこの科学軽視の動きに対してどうすればいいのか.ピンカーは人文学は科学との融合を進めていくべきだと主張する.
 

  • 現代科学が与えられる最大の貢献候補は人文学との深い統合だ.
  • 現在人文学は問題を抱えている.大学のプログラムは縮小され続け,次世代の研究者は職不足でモラルは下がり,学生は逃げ出しつつある.考察力のある人にとって,我々の社会が人文学に投資を控えているのは憂慮すべき状況だ.歴史学のない社会はいわば記憶のない人間のようなものだ.哲学は明晰さと論理が容易に手に入るわけではないことを教えてくれる.芸術は人生を生きる価値のあるものにしてくれる.これらの学問による知識は簡単に入手できるものではなく,常に投資し続けるべきものだ.
  • 人文学の問題は,まず我々の文化にある反インテリトレンドと大学の商業化にある.しかしいくつかのダメージは人文学自身によるものだと認めるべきだ.人文学はまだポストモダニズムの厄災(けんか腰の目くらまし主義,自己否定的相対主義,極端なポリコレなど)から抜け出せていないのだ.ニーチェやハイデガーやラカンやデリダたちポストモダニストは,現代について,嫌悪すべき対象であり,すべてのステートメントが矛盾し,抑圧の道具であり,リベラル民主主義とファシズムは同じであり,西洋文明は没落しつつあると宣言しているのだ.こんな態度では人文学が自らの進歩を企てるのに問題をかかえるのは当たり前だろう.

 
冒頭の部分は文科省の方々にも是非受け止めて欲しいところだし,人文学自身がポストモダニズムを総括すべきというのもその通りに思える.
 

  • 科学との統合は人文学に新たな洞察の可能性をもたらすだろう.芸術,文化.社会はヒトの脳の産物だ.それは我々の感覚,思考,感情から生まれ,対人間の相互作用により疫学的な動態をもって広がっていく.これらの関係を知りたくないか?科学も人文学も勝者になれる.
  • いくつかの分野ではこの統合は進み始めている.考古学は芸術史とハイテク科学により豊かになっている.心の哲学は数学論理,コンピュータサイエンス,認知科学,神経科学と結びつきつつある.言語学も系統学,実験科学,数理モデル,ビッグデータ統計解析を取り込みつつある.
  • 政治学は本来ヒトの心の科学と親和性があるものだ.社会学,政治学,認知科学者は政治とヒトの本性の関係を探り始めている.ヒトはモラルを持つアクターであり,権威,部族,純粋についての直感に導かれ,自分のアイデンティティにかかる神聖な信念にコミットし,復讐と仲直りという相反する傾向に動機づけられる.我々は何故このような性向が進化したのか,どのように脳に実装されているのか,どのようにスイッチがオンオフされるのか,個人差や文化差がどこから来るのかを理解し始めている.
  • ほかにも素晴らしい可能性が広がっている.視覚芸術と視覚科学,音楽と言語科学や聴覚科学,そして文学と認知心理学,行動遺伝学,進化心理学の組合せには大きなメリットがあるだろう.
  • まだ多くの人が人文学の評価は伝統的なナラティブ批判によるべきだと考えているとはいえ,一部にはそれを数量化できないかという考える学者も現れている.データサイエンスを本,刊行物,書簡,楽譜に利用したデジタル人文学が始まりつつある.
  • 知の統合によるメリットは情報が双方向に流れるときに実現されるだろう.大学は両方の分野に精通した学者を養成すべきだ.

 
これはEOウィルソンの「Consilience: The Unity of Knowledge」(邦題「知の挑戦」)の提言をより深く,より具体的に提示しているということだろう.ウィルソンの提言より20年経過して,少しずつそのような取り組みは実際に増えているように感じるところだ.

Consilience: The Unity of Knowledge (English Edition)

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知の挑戦―科学的知性と文化的知性の統合

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  • 作者: エドワード・オズボーンウィルソン,Edward O. Wilson,山下篤子
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  • そのような統合の試みが進みつつあるなか,多くの第2文化の警官たちは自分たちはそんなものには興味がないと宣言している.
  • アダム・ゴプニックは,ジョナサン・ゴットシャルの物語りの本能の進化についての本について「物語についての興味深い問題は,その好みのユニバーサル性にはない.良い物語と悪い物語の違いがどこにあるのかにあるのだ.それは女性のファッションと同じで,ほんの些細な表面的な違いがすべての帰結をもたらすのだ」と批評した.しかし文学を本当に評価するのに,そのような鑑定眼だけが問題なのだろうか.探求好きの心は「なぜ異なる文化で,同じ人間の実在の謎が繰り返し時を越えて取り上げられるのか」に興味を引かれるかもしれないではないか

The Storytelling Animal: How Stories Make Us Human (English Edition)

The Storytelling Animal: How Stories Make Us Human (English Edition)

 

  • 文学批評家のレオン・ウィーゼルタイアーは人文学者は進歩しようなどとすべきではないと主張する.「哲学の毒は引退しない.誤りは修正も破棄もされるべきではない」と.しかしほとんどの道徳哲学者は,奴隷制を擁護した古い議論が捨てさられたことを喜んで認めるだろう.そして認識論哲学者はデカルトの誤りをやはり喜んで認めるだろう.ウィーゼルタイアーはさらに「自然世界の研究と人間世界の研究には巨大な違いがあり,これをまたごうとするどんな試みも人文学者を科学者のメイドにしてしまう」という.何らるパラノイアだろうか.ウィーゼルタイアーはダーウィン以前,そしてコペルニクス以前の世界観を切望しているのだ.
  • 芸術家や学者がウィーゼルタイアーの主張を無視することを祈ろう.ヒトの苦境を解決しようとする試みが20世紀や19世紀に凍結されるべき理由などどこにもない.政治,文化.道徳についての理論は,世界とヒトについての最高の理解から学んで作られるべきものだ.
  • 1778年トーマス・ペインは科学のコスモポリタン的長所を賞賛した.その成果は誰にとっても開かれているのだ.そしてそのような科学の精神は啓蒙運動の精神でもあるのだ.

 
ここはピンカーの人文学に対するリスペクトを込めた「喝!」ということだろう.ポストモダニズムの影響から早く離脱し,ナラティブに固執せずに広い視野で学問を深めてほしい,そして科学をリスペクトして欲しい(それは人類の幸福につながるのだから)という思いがよく現れていると思う.

Enlightenment Now その69

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

 

第22章 科学 その4

 
極端な科学叩きを概観したあと,ピンカーはより重要な問題に移る.
 

  • 科学の本質についての批判は,1980年代のサイエンスウォーズの遺物などではなく,大学における科学の役割をいまでも規定し続けている.(ピンカーの所属するハーバードが2006年に教育基準を改定したときのやり方が批判されている.科学の功績とその害悪(とされるもの)を,その重大性を無視して並べて記述するスタンスは確かにひどいといわざるを得ないだろう)
  • 人文科学教育で科学が悪魔化されるのは問題なのか.もちろん大問題だ.まず入学時に多くの学生は進路を決めていない.彼等に「科学は,宗教や神話と同じナラティブであり,人種差別や性差別を理屈づける」と教示することはどんな結果を生むだろうか.私は「それが科学なら金儲けの方がはるかにましだ」と叫ぶ学生を実際に見たことがある.
  • また科学への非難は科学そのものの進歩を遅らせる.今日ヒトについて調査するには面倒な倫理委員会をパスしなければならない.もちろんリサーチにより被害や害悪が生じるのは避けねばならない.しかしこの官僚組織は本来の役割をはるかに越えて妨害的だ.(ひどい干渉の事例がいくつか紹介されている)
  • この妨害主義は「生命倫理学」と呼ばれる分野で正当化されている.この分野の理論家たちは,いかにも曖昧な「威厳」「神聖」「社会正義」などの概念を用いて,なぜ同意している理性と常識を持つ大人たちが自分たちにとって有益なリサーチに誰も他人を傷つけることなく参加することを禁止されなければならないかの「理由」を作り出している.彼等は核兵器やナチスや世紀末SFを引き合いに出して生物医学の進歩を止めようとしているのだ.道徳哲学者のジュリアン・サビュレスキュは「生命倫理学」の妨害主義の反倫理性について「毎年10万人が死んでいる病気の治療法を1年遅らせるのには10万人の命の責任を伴うのだ」と説明している.

 
このあたりもピンカーの怒りが吹き出ている感じがある.確かに「生命倫理学」が当然視する「威厳」「神聖」「社会正義」には首をかしげざるを得ないようなものが含まれている.日本では大学の1,2年次一般教養の科学概説などの講座で「科学は,宗教や神話と同じナラティブであり,人種差別や性差別を理屈づける」などという教示が行われているのだろうか.現在の状況はよく知らないが,そこまでではないのではないかという気もするところだ.
 
ここからピンカーの科学擁護が始まることになる.
 

  • 科学を正しく評価することの最大のメリットは皆が物事を科学的に考えられるようになることだ.科学は認知バイアスや政治的部族主義自体を治療するわけではないが,皆が科学的に考えればより良い状態になるはずだ.科学的洗練を広げようとすること(例えばデータに基づくジャーナリズム,ベイジアン予測,エビデンスベースの医療など)は人類の幸福を増やす可能性を秘めている.
  • しかしその広がりは遅い.医者は治療法が有効かと尋ねられると「私の患者の一部はそう認めている」と答える.ビジネス界は,相関と因果を区別せずに物事は逸話で証明可能だと信じる賢い人であふれている.私の同僚は国連のことを法律家と人文学を修めた人々による「エビデンスフリーゾーン」だと描写する.
  • 科学への抵抗主義者は,物事には定量化できないものもあると主張し科学的思考に反対する.彼等はすべてを0か1かで判断し,数字を使わずにmore, less, better, worseのみを用い,数量化を要求されると「私の直感を信じて欲しい」という.
  • しかし認知科学で最もはっきりわかっていることの1つは「専門家も含む人々は自分の直感に対して傲岸不遜に自信過剰だ」ということだ.(リサーチが解説されている)
  • 良い物事の常として,データは万能薬ではない.予算制約の中でどのようなデータを集めてどう分析するかを考えなくてはならない.だから問題を数量化しようとしても,最初はおおざっぱなものにならざるをえない.それでも数量化すればそれを評価して改善していけるのだ.
  • 政治とジャーナリズムの文化はほとんど科学的な思考法に無知だ.そして多くの人の生死を分ける重大な問題に,逸話,ヘッドライン,レトリック,高給取りの意見という誤謬に導きやすいことがわかっている手法を用いる.

 
ここでピンカーはデータを見ないことによって世間に広まっている誤解の例をいくつかあげている.

  • データ恐怖症は重大な悲劇に直結する.
  • 国連の平和維持活動は有効か?:多くのジャーナリズムはボスニアの失敗の一例でそれが否定されたと思っているが,データを見るとその有効性ははっきりしている.(ヴァージニア・フォルトナの著者が引かれている)

Does Peacekeeping Work?: Shaping Belligerents' Choices After Civil War

Does Peacekeeping Work?: Shaping Belligerents' Choices After Civil War

 

  • 多民族地域には「古代からの憎悪」が巣くっているのか?:95%の隣り合う民族は暴力なしで共存している.アフリカではそれは99%だ.
  • 非暴力的反対キャンペーンは有効か?:多くの人はガンジーとキング牧師は単に幸運だっただけだと思っている.しかし定量的なリサーチによると1900年から2006年までのこのようなキャンペーンの3/4が成功している.

 

  • これらのことはデータなしに知ることはできない.多くの暴力的政治組織やテロリストは暴力なしに世界は変えられないのだと信じているのだろう.しかし皆がデータに基づいてそうでないことを知ればどうだろうか.大学の人文カリキュラムでもっと多くの時間を定量分析に費やせば世界は変わっていくかもしれない.

 
ピンカーのここでの科学擁護の議論は「データとエビデンス」をより活用するには科学的思考法が有効だというものだ.このデータとエビデンスを軽視して直感だけで物事を決めていく弊害は日本の政治過程でも頻繁に見られるところだ.しかしどうすれば官僚や為政者に科学的思考法を埋め込むことができるのだろうか.ピンカーはそこにも踏み込んでいく.

Enlightenment Now その68

 

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

第22章 科学 その3

 
ピンカーは科学の特別な点を整理した.ではこの科学に対してのインテリの憤慨振りはどこから来るのだろうか.ピンカーはまずグールドの議論を取り上げる.

  • 多くの人は科学は物理的世界において便利なものを与えてくれる点で評価はするが,それと人間として真に重大なこととの間に線を引く.我々は何者か,人生の意味と目的とは何かなどの深い問題だ.かつてはこれは宗教の領域だと考えられてきたし,最も激しい科学批判者も同じように主張する.そして彼等はしばしばグールドが「Rocks of Ages(邦題:神と科学は共存できるか?)」で持ち出した「重ならない領域」議論(科学は事実を宗教は価値を)を引き合いに出す.


Rocks of Ages: Science and Religion in the Fullness of Life (English Edition)

Rocks of Ages: Science and Religion in the Fullness of Life (English Edition)

神と科学は共存できるか?

神と科学は共存できるか?

邦訳についての私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20071129/1196332191
 

  • しかしこの協約が破綻していることは調べればすぐわかる.科学的教養ある人は宗教的ではない意味や価値を求めるからだ.
  • まず,科学は,多くの伝統的宗教と伝統的文化の信念システム(創世記や世界についての説明)が事実として間違っていることを明らかにしてきた.(数多くの例がこれでもかと挙げられている)
  • 今日の知識と教養ある人の道徳と精神的価値を導く世界観は科学に基づくものになっている.事実は価値を導かないが,その可能性の周りを取り巻いているのだ.事実についての教会の権威がはぎ取られれば,その価値についての主張も怪しくなる.例えば,犠牲を要求する神の存在を疑うようになれば,人身御供についての見方は変わる.世界を統べる高位存在の目的がないとわかれば,人類の幸福には自分たちで責任を持たねばならないと覚悟できる.そしていくつかの当然の前提(すべての人は自分の幸福を気にしている,我々は互いを尊重する社会的生物だ)と組み合わせることで,科学的事実は擁護可能なモラルにつながる.これがヒューマニズムであり,現代の民主主義国,国際機関,リベラルな宗教のデファクトなモラルになっているのだ.

 
グールドの議論に対しては,そうはいっても宗教は事実の問題に口出ししているじゃないかというのがよくある反論だが,ピンカーはさらに一歩進めて価値の主張の周りには事実の主張が取り巻いていることがあるのだと指摘している.自然主義的誤謬については「当然の前提」を組み入れることでパスしているということになるのだろう.確かに一旦価値の基礎を持ち込めば,価値の議論を行うことができる.そしてそこから先の価値にかかる議論にとっては事実がどうなっているかは非常に重要になるだろう.なかなか鋭い指摘だ.
 
ここからピンカーはグールドを離れて一般的なインテリによる科学否定論に進む.
 

  • 科学はこのように我々の物質的,モラル的,知的な人生に埋め込まれ続けているのに,多く文化組織は科学への無視を決め込むか,あるいは見下している.ハイクオリティの知的雑誌は自分たちの領域を政治と芸術に限定し,科学からの新しい知見は(温暖化のように)それが政治化しない限り取り上げようとはしない.もっとひどいのは多くの大学の人文科学のカリキュラムだ.そこには科学はほとんどなく,わずかにある科学関連の中身は学生を反科学に誘うようなものだけだ.そこで最もよく取り上げられているのはクーンの「科学革命の構造」の議論だが,それは「科学は真実に収斂することなく,パラダイム間をフリップする」と解釈されて教えられる.この解釈はクーン自身が否定しているが,第2文化の常識になっている.

 

The Structure of Scientific Revolutions: 50th Anniversary Edition (English Edition)

The Structure of Scientific Revolutions: 50th Anniversary Edition (English Edition)

科学革命の構造

科学革命の構造


  

  • 科学史家のデイヴィッド・ウートンは科学史という分野について「スノーの指摘した問題は深くなり続けている.今日の科学史は芸術と科学の架け橋になるどころか,科学者にとって理解不可能な科学観を振り回すものになりはてている」とコメントしている.多くの科学史家にとって,科学を「真実を追究するものだ」と扱うことはあまりにナイーブであるように感じられるからだ.この結果この分野はダンス批評家がバスケのゲームを解説するようなものになっている.(ピンカー自身の体験談もいくつか紹介されている)

 
ここから様々なインテリによる醜悪な科学批判が次々にやり玉に挙げられている.ピンカーの怒りが吹き出ているような部分だ.
 

  • 多くの「サイエンススタディ」の学者は,科学全体が抑圧の道具であることを示す分析に自身のキャリアをかけている.(フェミニスト植民地科学研究とフェミニスト政治生態学を融合することで,より公正で公平な科学と人間と氷の相互作用の解明を目指す「フェミニスト氷河学」のフレームを考察する例が示されている)
  • 特にひどいのは人種差別や奴隷制やジェノサイドなどの文明と同じくらい古い犯罪を(理性やその他の啓蒙運動の価値とともに)科学に負わせようとする悪魔化キャンペーンだ.これはデオドール・アドルノたちの擬マルクス主義のフランクフルト学派や(ホロコーストを啓蒙運動と共に始まった生物学政治の必然だとする)マイケル・フォーコールトたちのポストモダニズム*1の基本理論になる.
  • もちろん科学はひどい政治に悪用されることがある.個々の科学者の役割は検証されなければならないが,人文学者たちが批判したい相手を攻撃する時には,しばしばその資質(文脈,ニュアンス,歴史の深さ)を捨て去ってしまうことも考慮に入れておくべきだ.
  • 「科学的人種差別主義(人種は北欧人を頂点に進化的な知的階層を形成すると考える)」への非難は良い例だ.それは20世紀の初めに頭蓋骨測定やメンタルテストをもとに主張され,20世紀の半ばにはより良い科学とナチズムへの恐怖により否定された.しかしインテリたちは人種差別イデオロギーの責任を科学,特に進化学に負わせようとし続けた.そもそも人種差別的信念は古代ギリシア以降の世界中の歴史にあふれているし,奴隷制はすべての文明で実施されていた.そして19世紀西洋の人種差別思想のルーツは科学ではなく人文学(歴史,文献学,古典学,神話学)にあるのだ.(ナチの「アーリア人の優越」概念がどこから来たのかについての詳細な説明がある.科学,特に進化学はこれに絡んでいない.ヒトラーは自身の人種に関するロマンチック理論と矛盾するダーウィン説を否定していたのだ)
  • 「社会ダーウィニズム」への非難も同じようなものだ.それはしばしば非常に偏った形で科学の責任とされる.それはもともとはハーバート・スペンサーのリバタリアン的な政治アジェンダについてダーウィンの名前が後付けで付与されたものだ.スペンサーのアジェンダは「種の起源」の出版より8年も前に発表されていた.そしてスペンサー自身の考えはラマルク的で,ランダムミューテーションも自然淘汰も信じていなかった.左派の批判者は,さらにスペンサーとは関係のない帝国主義や優生学についてまで「社会ダーウィニズム」のラベルを拡大させ,今日ではそれは「進化的視点による人間理解」のすべての試みにまで拡大されようとしている.だから「社会ダーウィニズム」には(その語源的な問題を除けば)ダーウィンも進化生物学も全く関係なく,さらにいまやほとんど意味のない名称になってしまっている.
  • 「優生学」もイデオロジカルなぐだぐだになりはてている.ゴールトンは優秀な人々が結婚して子をなすことを奨励してヒトの遺伝ストックを改善しようと提案した.それは劣った遺伝要素を排除しようという思想につながり,ナチスドイツだけでなくアメリカをはじめとする多くの国で政策化された.第二次世界大戦後優生学運動はナチとの連想もあって永遠に破棄された.しかしその用語は数々の科学的試み(医療遺伝学,行動遺伝学など)を非難するために拡張され,さらに右派の政治思想と描写されるようになった.しかし実際には(1930年代の)優生学は,(大きな政府を良きものと考える)進歩派,リベラル,社会主義者の主張だったのだ.

 
もちろんピンカーは帝国主義や優生学を擁護しようとしているわけではない.最後にこうコメントしている.
 

  • 私はこれらの運動に科学はあまり関与していないと主張した.それは科学者を免責するためではない.これらの運動については,単なる反科学キャンペーンに使用するのではなく,より文脈を考慮したより深い理解を行うべきだからだ.これらの運動はその時代の宗教,芸術,知識人,政治的信念から,つまりロマン主義,文化的悲観主義,弁証法,神秘的進歩主義,権威主義的モダニズムから出てきているのだ.現在の我々にとってこれらの思想が時代遅れで誤りだと感じられるのは,まさにより良い歴史的理解と科学的な理解があるからなのだ.

日本での状況はどうなのだろうか.私には全体を俯瞰する能力はないが,アメリカほど先鋭化はしていないが,逆にあまり問題意識もなく何となく科学に対する反感が醸成されているという状況なのかもしれない.
 

*1:彼等によるとホロコーストはナチの責任ではなく啓蒙運動の責任だということになるそうだ

書評 「Good Reasons for Bad Feelings」

 


本書はランドルフ・ネシーによる進化精神医学についての一般向け啓蒙書だ.ネシーは進化医学を一般向けに解説した「Why We Get Sick?(邦題:病気はなぜあるのか)」をジョージ・ウィリアムズと共著したことで知られるが,もともとは精神科医で,患者を治療する傍ら精神疾患について研究し,その中で進化的な視点の重要性に気づいたことが進化医学に進むきっかけになったという.その後ネシーは行動生態学や進化心理学を学ぶ中でコミットメントの重要性を深く感じ,「Evolution and the Capacity for Commitment 」というコミットメントについてのアンソロジーの編者にもなっている.この2冊は、それまでにない新しい視点がいかに強力な知的ツールになるのかを示す大変面白い本だった.そして本書は一般向けとしてはネシー初めての単著になる.本職の精神医学にかかる進化医学本ということで私にとってはともあれ必読であり,刊行を待ちかねて読んだ一冊ということになる.
 
序言において本書の中心テーマが示されている.精神疾患について進化的な視点が新しい説明を与えてくれることに気づいたときにすぐこのような本を書きたかったが,まず身体疾患についての本が先だと思って「Why We Get Sick?」をウィリアムズと一緒に書いたこと,それ以来進化医学を実践し,精神を患う患者を治療してきたこと,その中で様々な疑問が浮かび上がったことがまず書かれている.そして本書を流れる中心テーマは「なぜ精神疾患がそもそもあるのか,なぜ心はこんなにも様々な仕方で壊れやすいのか,なぜ進化はその脆弱性をなくす方向に働かなかったのか」であることが提示される.身体の各部分がなぜ壊れやすいのか(進化的にどう説明されるのか)は割と理解が進んできたが,心についてはなお難しい問題が多く残っている.本書はこの問題の第一人者であるネシーが現時点でたどりついた理解を読者に提示するものになる.
 

第1部 なぜ精神疾患はこんなに難解なのか

 

第1章 新しい疑問

 
冒頭はネシーが出合ったある不安症の患者の逸話から始まっている.彼女はこれまで相談した医者や精神分析医にそれぞれ異なった診断を受けたが何ら改善せずに答えを探していた.彼女はそれまでの経緯を説明した後こう言ったのだ「要するにこの分野全体が混乱してるんでしょ,そうよね」.ネシーは当時の混乱をこう表現している.

  • 精神疾患に対して薬,精神療法,行動療法,認知療法,瞑想などの方法が並列していた.それぞれの医者やセラピストは精神疾患の原因に対して異なるアイデアを信じ込んでいた.
  • 診断基準自体が難しい.身体疾患の場合には,何らかの組織的な原因があってそれが痛みや機能不全などの症状に表れることが明確だ.だから組織的な原因を特定することによる診断が可能になる,しかし精神疾患の場合,脳や遺伝子の異常による診断が今のところ不可能で,症状のみで診断することになる.だから立場による意見の相違を収めるうまい方法が原理的にない.

ここからネシーはこの問題を解決する助けになる進化的なフレームワークについて自分がそれを知ることになった経緯とともに書いている.

  • 自然史博物館で動物学者が議論するのに参加する機会があった.彼等は脳について議論するときにメカニズムだけでなく,自然淘汰がいかに脳を作り上げたのかを議論する.
  • そのグループに加わっていたボビー・ローにジョージ・ウィリアムズの老化の多面的発現説の論文を紹介された.それを読み,統合失調症や鬱や摂食障害も同じように理解できるのではないかと考えるようになった.ジョージに会って老化だけでなく疾病についても同じように理解できるのではないかと問いかけ,それは「Why We Get Sick?」に結びついた.ここで重要なポイントは「疾病自体を適応と考えるべきではない,疾病に対する脆弱性について進化的に考察すべきだ」ということだ.
  • 問うべき質問は「なぜ自然淘汰は我々の身体を疾病に脆弱なままにしたのか?」だ.これは「なぜ人生は苦しみに満ちているのか?」という哲学的な問いに関わりがある.そして人生の苦しみの多くは精神的なものなのだ.

 

第2章 精神疾患は疾病なのか

 
ネシーは第1章で少し触れた精神疾患の診断基準の話に戻る.精神疾患がうまく定義できないのはなぜか,そこに精神疾患の重要な問題が隠れているのだ.

  • 精神疾患の診断システムは絶え間ない論争に晒され続けている.
  • 診断は(脳の器質的異常そのものを感知できないため)症状のクラスター(症候群)により行うほかない(操作的診断基準).これは当初エキスパートの意見により決められていた(DSM-IIまでのシステム)のだが,それは主観的であり,決して合意されない論争の的になり,それによる診断結果は不安定だった.1980年,DSM-IIIにより明確なチェックリストが定められ,各疾患の客観的な定義が得られるようになった.
  • しかしすぐにDSM-IIIにも批判の嵐が巻き起こった.このチェックリストアプローチは症状にすべての情報があるという前提に基づいており,(発症の条件であったかもしれない)環境条件への吟味を甘くする.これに従うと,診療の現場で各患者の抱える問題,原因への考察が甘くなるのだ.また同じ疾患の診断でも個別の患者の症状の内容が異なる問題や,ある症状が複数の疾患の診断に当てはまる問題も生じる.DSMはこれらの議論を受けて1994年にDSM-IV,2013年にDSM-Vにバージョンアップされているが,この問題は基本的には解決されていない.
  • 操作的診断基準から離れて,遺伝子や脳スキャンなどによる診断ができないかということも模索されたが,大きな進展はない.疾患の関連遺伝子探索によりいくつかの候補遺伝子は見つかったが,いずれも効果量は小さく,また脳科学はそのシステムが非常に複雑であることを解明したにとどまった.

 

  • 以上のことは,そもそも精神疾患とは何かを深く考え直す必要性を示すものだ.DSMは精神疾患をうまく記述できる,そしてそれへの不満はまさに丁寧なチェックリストにより精神疾患のぐちゃぐちゃの複雑性が浮かび上がっているからこそ生じるのだ.
  • これを身体的疾患の診断と対比して考えてみよう.まず通常の医学は咳や痛み自体を疾病とは考えない.そして正常の機能に対する障害として疾病を理解しようとする.そしてこれに対して精神医学は単に症状を疾病と考えていることになる.要するに精神医学の問題は正常で有用な機能についての無関心にあるのだ.

 

第3章 なぜ心はこんなにも脆弱なのか

 
では何故自然淘汰で形作られたはずの心はこんなにも脆弱なのか.ネシーはその解説に先立ってハミルトンの遺伝子視点の洞察やグループ淘汰の問題などにふれながら進化理論を簡単に説明している.ネシー自身の理解の歴史を踏まえてなかなかコンパクトにまとまっていて面白い.そして心の脆弱性の進化的な理由についてはこうまとめている.この部分は進化医学の基本であり,納得感のある説明になっている.

  • これには6つ進化的な理由がある.(1)現代環境とのミスマッチ:精製された薬物,大量の食糧の入手可能性は様々な問題を引き起こす.(2)病原体との共進化.(3)自然淘汰の限界:変異の存在の必要性,物理法則,経路依存性など.(4)トレードオフ:身体は様々なトレードオフの上にある.(5)適応度と健康は一致しない.(6)防御反応が症状を引き起こすことがある.
  • これは自然淘汰の限界,進化速度の遅さ,自然淘汰の働き方という3つの要因にまとめることもできるだろう.

そして第2部以降ではこの理解に沿って個別の問題を考察していくことになる.第2部で感情に絡む障害,第3部で社会生活から生じる障害,第4部で行動にかかる障害がとりあげられる.
 

第2部 感情の理由

 

第4章 悪い感情がある理由

 
ネシーはまず感情の存在そのものから議論を始めている.

  • なぜ不快な感情があるのか.この問題に対してはデザインされたシステムの一部だとして考察することが重要だ.
  • 精神医学ではしばしば不快な感情自体が症状だと捉えられる.しかし痛みや咳が問題解決のための有用な反応であるように感情にも機能があることを前提とすべきだ.そしてある反応が正常か異常かは状況に依存するのだ.

 
ここからネシー自身の考察の歴史が書かれている.臨場感があって面白い.

  • 最初に感情の機能を考えるようになると,不安や鬱を抑える薬の処方は正しいのかが疑問になる.私は一から勉強をすることにした.わかったのは1890年のウィリアム・ジェイムズの著作からあまり進歩がないということだった.
  • ダーウィンの「感情」は系統的な議論が主であり,その機能についてはあまり扱っていない.1960年代にはポール・マクリーンが「三位一体脳」仮説を提示し,爬虫類脳,辺縁系,前頭皮質で脳の進化と機能を説明しようとする考察が世間に流布した.しかしやはりその機能についてはあまり考察されていない.
  • 現代的な脳科学は活性の部位やその認知プロセスの速度を調べている.これらは感情の機能についての考察を含むがどのように適応的かは扱っていない.また感情には単一の機能があるという前提に基づくものが大半で,進化プロセスの微妙な問題には注意を払っていないように見える.
  • 進化的に考えると,感情とは「適応度を上げるために生理,認知,主観的経験,表情を統合的に調整する特殊化した状態」だと考えることができる.いわば感情はキーボードにプログラムされた音楽スタイルのようなものなのだ.
  • ではいくつ感情があるのか,研究者の意見は微妙に食い違っている.それぞれの感情にはプロトタイプがあるが,それは広がりを持ち重なっているのだと考えるべきだろう.そして進化的には様々な環境条件に対応するべく分化してきたものだと思われる.

 
ここでネシーは感情の仮説的「系統樹」を提示していて面白い.環境条件の好機と脅威に対応して,まず欲望と恐れが分かれる.前者は希望,喜びに分かれ,さらに喜びは愛や友情やプライドに分化する.後者は不安と悲しみと痛みに別れ,不安は恥,罪,後悔,嫉妬に分化する
 

  • 次の問題は文化的な多様性だ.(ドイツ語の“Sehnsucht”,日本語の“甘え”の例が示されている)確かに表面的には文化的な多様性が観察できるが,そもそもの感情を感じる能力は自然淘汰産物のはずだ.これは「氏か育ちか」論争のテーマの1つになった.リサーチが進むにつれ,感情のコンセプトは文化の影響を受けるが,実際にある条件下でどのような感情を感じるかには強いユニバーサル性があることがわかってきた.

 
ここからが適応的な解説になっていく.

  • なぜ自然淘汰は不快な感情を残したのか.それは祖先環境ではその方が有利だったからだ.例えば脅威に対しては恐れを抱いた方が対応しやすくなる.表にして整理すると以下のようになる.
環境条件 その種類 対応前の感情 うまく対応できたときの感情 失敗したときの感情
機会 物理的 欲望 楽しみ 落胆
機会 社会的 興奮 喜び 落胆
脅威 物理的 恐れ 安堵 痛み
脅威 社会的 不安 安堵 不安

 

  • 脳はいつ感情をオンにするかをどのように知るのか.一部は生得的に,一部は学習により知るようになる.その際にはその人の当面のゴールの認識が重要になる.個人個人はそれぞれ価値観が異なり,さらに同じ目的の追求について戦術も異なるのだ.また感情をオンにする条件の閾値も個人により異なる.
  • これまでの情緒障害のリサーチは主に不安や鬱などのネガティブ感情の過剰を問題にしてきた,しかし適切な感情が機能的に最適だと考えればポジティブな感情の過剰も問題になり得る.またネガティブ感情やポジティブ感情の不足も問題になるはずだ.さらに感情がオンになる速度や長さ,発動条件の誤りなども問題になる.進化的に考えるということはエンジニアの視点を持つということなのだ.

以上がネシーの感情一般についての進化的な解説になる.機能から考えると対応できたときとできなかったときに大きく分かれるという洞察が面白い.系統樹の提示も野心的だ.
 

第5章 不安と火災報知器

 
ここからネシーは個別問題の解説に入っていく,最初は不安症だ.

  • 不安症の患者はほんの些細な危険の徴候に対して過剰に反応し,手汗をかき,緊張し,動悸が速くなり,パニックを起こし,逃げ出す.これがどれほど深刻になり得るかについてはあまり一般には知られていない.
  • 一部の恐怖症に対しては暴露療法が有効だ.クモ恐怖やヘビ恐怖は暴露療法により劇的に改善することがある.療法中不安は徐々にレベルを下げていくこともあるし,ある瞬間に突然消えることもある.

 

  • 不安はなぜあるのか,それは危険を避けるために有用だからだ.これは「戦うか逃げるか」反応と関連する(不安症患者はしばしばすくみ反応を示す).かつて高所恐怖症は高所から落ちたことがあると発生すると考えられていた.調べてみると落下の経験は高所恐怖症の人の方がはるかに少ないことがわかった.要するに恐怖を感じないと行動が無謀になって落下しやすくなるのだ.私は不安過小症を調べてみた.この症状を示すのはほぼ男性のみで,彼等はその勇気をたたえられているが,事故に遭ったり死亡したりしやすく,病院や監獄での頻度が高い.
  • しかし不安症は不安不足より遙かに頻度が高い.なぜか.それは火災報知器理論で説明できる.危険があるのに見過ごすこと(第2種の過誤)は,危険がないのに危険があるとすること(第1種の過誤)より遙かにデメリットが大きい.だから不安は過敏気味である方が適応的なのだ.パニック症候群も同じだ.
  • 不安症は進化的過去にリスクであったものに対しては生得的であったり,非常に素速く学習できるが,そうでないものに対してはあまり生じない傾向がある.
  • 広場恐怖は,しばしばオープンスペースと閉所の両方を怖がる.これは捕食されるリスクへの反応だと考えると理解できる.
  • PTSDも過去のトラウマについての些細な徴候から発症する.またこのリスク要因は社会的サポートの欠如であることが知られている.一般的な適応メカニズムであるとは考えにくいが,危険報知のメカニズムが生命の危機イベントに対して過敏になった結果と解釈できるだろう.
  • すべてのリスクシナリオを過剰に恐れる全般性不安症候群GADと呼ばれる不安症もある.やはり危険報知のメカニズムの過敏と考えることができる.この遺伝要因は鬱の遺伝要因と大きく重なっていることが知られている.
  • 進化的に考えると,不安症,恐怖症,PTSD,GADは基本的に同じ問題(危険報知システムの過敏)だという理解が得られる.抗うつ剤や行動療法は共通して効果がある.そしてこれらの症状はポジティブフィードバックループに入って悪化しやすい.

ここは不安をリスク対処の適応的機能からうまく説明できていて,いろいろと整合的だ.ただなぜ暴露療法が効果があるのか,それがどのような恐怖症にも同じように効くのか,それぞれ進化的にどう考えられるのかについては解説がないのが少し残念だ.
 

第6章 落ち込みとあきらめる技術

 
次は鬱だ.ネシーは冒頭に印象深いケーススタディを置いている.ある患者は学校が嫌いだったがガールフレンドを引き留めるためには学校に通うしかなく,鬱におちいっていた.そして彼は彼女と別れた瞬間に学校から解放され快癒したのだ.

  • アメリカは心臓病による死亡を減らしたが,鬱による自殺を減らせていない.
  • 鬱の診断はそれを単なる気分の落ち込み(Low mood)からどう区別できるのかを巡って大論争になっている.しかしこの論争で忘れられているのは,そもそも通常の気分の落ち込みの機能は何かという視点だ.
  • Low moodは悲観,リスク回避,元気のなさ,社会からの逃避,従属的,低自己評価などを特徴とし,悲しみ,悲嘆,などと重なり合っている.

 

  • ではLow moodの機能は何か?実はこの問題の立て方は間違っている.真に問うべきなのは,「どのような条件においてLow moodは適応的になるか?」なのだ.

 

  • 鬱の適応性についてはいくつか仮説がある.エンゲルはアタッチメントのロスに対してエネルギー節約説をとなえた.ルイスは助けを呼ぶシグナル説を唱えた.一部の進化心理学者は自殺示唆を他人の操作戦略かもしれないと考えた.しかしこれらの仮説にはエビデンスがなく,過去のリサーチの知見とも整合的ではない.
  • ジョン・プライスはニワトリのつつき行動を観察し,負けた弱いオスが不活発になり引きこもる様子を見て,これは譲歩のシグナルでさらなる攻撃を避ける適応ではないかと考えた.この考えは何人もの学者が発展させ,ヒトの鬱について社会的地位を巡る競争状態で勝ち目が薄いときの非自発的譲歩仮説が形成された.私は多くの鬱にはこの仮説が当てはまるのではないかと思っている.
  • しかしこれが鬱の主要な適応的機能だとは思えない.競争以外の状況でも鬱は生じるし,社会的競争の場面に限っても鬱は譲歩シグナル以外の機能(代替手段の探索や新しい同盟の模索など)を持っているように思われる.
  • エミー・ガットは(Low moodによる)撤退と熟考は人生の主要な問題を解決するための大きな変化を成し遂げるのに役に立つが,時に非生産的な鬱に陥ってしまうのではないかと考えた.
  • 提案されている機能はすべて鬱やLow moodに関連するのかもしれない.これ以上理解を進展させるためには,機能だけではなく,どんな状況でその機能が有利になるのかの吟味が必要なのだ.

 

  • High moodとLow moodはそれぞれ有望な状況とあまりうまくない状況への対応のために形成されたのだろう.High moodは好機を役立てるのに有利だ.うまくない状況ではLow moodになって一旦引き下がった方がいいことが多いだろう.これを切り替えられると有利になる.特に普段と異なる状況にうまく対応できれば有利になるだろう.
  • ムードはある状況での問題解決にどのぐらいエネルギーを投入するか,いつあきらめるか,次に何をするかを可変的に決める仕組みなのだろう.これには行動生態学の最適採餌戦略の限界価値理論が関連する(詳しい説明がある)
  • ADHDはこの調節がうまくできずにすぐ次の問題に移ってしまう症状だと考えると理解できる.そしていつ大きな問題をあきらめるべきかの決断に関連するのがLow moodと鬱だ.もはやこれ以上ゴールを追求することがマイナスにしかならないときにはLow moodになるのが適応的なのだ.(溺れているラットがいつもがくのをやめて鼻先だけ出して浮いているようにした方がいいかのリサーチが紹介されている.プロザックを与えるとラットはより長時間もがくようになるが,かえって生存確率は小さくなる)
  • 私は以上の考察を2000年に「Is Depression an Adaptation?」という論文にした.いま考えるとまだ視点が狭すぎた.もはや届かないゴールをあきらめる場合だけでなく,従属的ポジションに閉じ込められたときにも,飢餓や感染などの身体的な悪状況に対してもLow moodは有効だ.

 
ネシーはここから環境状況を可変にしてどのようなムード調整が有利になるかを調べる数理モデル,一部の心理学者はムードと目的の関連に気づいていたこと,ヒトは基本的に自信過剰で鬱に陥ってより現実的になると言われるが,鬱は別のやり方でリアリティを歪めて感じさせることなどを解説する.そして最後にこう結論を置いている.

  • ムードは状況に合わせて調整され,時間,努力,リソース,リスクテイクを再配分し,適応価を最大化させようとする.
  • Low moodの様々な症状が常に同じパッケージで現れるわけではないのは,個別の状況が異なるからだろう.これについてはさらなるリサーチが望まれる.
  • 鬱に適応的な側面があるからといって治療すべきでないということにはならない.それは苦痛をもたらすものであり,(同じく適応である)痛みを取る麻酔が否定されるわけではないのと同じだ.鬱の治療には人生のゴールを書き換えて元になる原因を取り除くのが最も効果がある.しかしそれはしばしば不可能だ.それでも医者は苦痛を減らすために様々な方法を試みるべきだ.火災報知器原理は有効だが,現代環境とはミスマッチに調整されているのだから.

鬱についてネシーは長年考察を積み重ねていて,この章は充実していて迫力がある.
 

第7章 理由のない悪い気分

 
ネシーはここでより広い症状である気分障害(Mood disorders)を取り扱う.

  • 鬱や双極性障害を含む気分障害はムード調整器(サーモスタットになぞらえてムードスタットと呼んでいる)の故障の結果生じる
  • 近年の脳科学リサーチはムード調整メカニズムを明らかにしつつあるが,その故障の原因や治療についてはあまり進展がない.精神科医はどのような資質の人がそうなるかばかり追いかけ,そもそものムードの調整について考えようとしない.精神医学はここでも症状を疾病と考えてしまう誤謬におちいっている.

 

  • 鬱症状は欲望と予想のギャップから現れる.そして各個人の状況は非常に多様だ.しばしば患者は症状の原因として誤ったライフイベントを考えている.時には原因が注意深く隠されていることもある.
  • 調整システムの問題には6つの原因が考えられる.(1)ベースラインが低すぎる(2)ベースラインが高すぎる(3)反応が不足(4)反応が過剰(5)間違ったキューで反応が生じる(6)キューなしで反応が起こる,の6つだ.
  • そしてこれにはいくつかの進化的な理由がありうる.一部のムード調整は我々を苦しめながら繁殖機会を増やす(より良い繁殖相手をどこまでも求めるなど)だろう.また現代環境とのミスマッチ,自然淘汰の制約,トレードオフ,火災警報原理も重要だ.
  • 現代環境とのミスマッチはどの程度影響を与えているのか.狩猟採集民の鬱発生率と都市住民のそれが大きく変わっているという証拠はない.最近の数十年で増えているという証拠もない.国別の発症率の違いが何によるものかはあまり調べられていない.とはいえ,現代のメディアの影響は考慮に値するだろう.進化環境にはなかったような超望ましい配偶相手の姿を容易に見ることができるし,フェイスブックは知り合いがリア充である様子にあふれている.SNSの使用が鬱を増やしているという証拠はないが,過大な目的を追求する人の比率が増えている可能性はある.現代の物理的環境が不眠や肥満や運動不足を増やしている影響もあるかもしれない.
  • 自然淘汰には限界もある.気分障害は,メカニズムを故障させる突然変異の発生と淘汰が釣り合っているために生じるのかもしれない.原因遺伝子の大規模リサーチによると,数多くのごく小さな効果を持つ遺伝子があり,それらは大きな染色体により多く見つかるようだ.
  • 調整メカニズムを考えると,フィードバックシステムが重要であることがわかる.ポジティブループが生じると鬱を悪化させるだろう.それが現代社会でより多いのかが問題になる.

 

  • 双極性障害は鬱とは異なる.これはムード調整システムの基本的な故障,つまりムードスタットの破損から生じる.躁,鬱それぞれでポジティブフィードバックが働いて止まらなくなり,どこかで突然反転して逆になる.
  • コントロールシステムには「双安定」システムと呼ばれるものがある.これを作るにはポジティブフィードバックを入れ込む必要がある.このシステムの挙動は双極性障害に非常によく似ている.
  • 「野心」を持つことの適応価が,鬱や双極性障害への脆弱性を進化的に説明するだろう.野心は単に金の問題ではない.認められたいという欲望も同じく強い.成功は野心をさらに膨らませる.躁状態において本人はこの状態が合理的だと感じている.通常進捗の停滞はムードを低めるが,躁状態ではそうならない.失敗は努力を増やす方向に働く.そしてそれは最終的には大失敗につながり,一気に鬱状態に突入するのだ.
  • 双極性障害の遺伝率は80%と高い.やはり特定の効果の大きな遺伝子は発見されていない.

 

  • Low moodは心理的苦痛であり,鬱は慢性的な心理的苦痛だ.これに対してどう治療すべきだろうか.
  • まず何か特定の問題がこれを引き起こしているかを見定めることだ.多くの場合,原因は「社会的なトラップ(重大な社会的ゴールを得るために多大な犠牲が必要な状況になること)」だ.
  • しばしば示唆される治療法は患者に勇気を出すように励ますことだ.しかしこれは状況,その状況の解釈,脳という因果の鎖の最初の部分しか見ていない.この3つは複雑に絡んでいるので,全体を視野に入れた治療が望ましい.
  • 抗うつ剤はしばしば脳のケミカルバランスの回復のために使われると考えられているが,むしろ脳の反応システムを乱すものだと考えた方がいい.だから数多くの抗うつ剤は異なる影響を与えるのだ.そしておそらく届かないゴールの追求と抗うつ剤が動機に与える影響には関連があるのだろう.
  • また認知療法や行動療法にも進化的な視点は役に立つだろう.状況を別のフレームで再解釈することや人生のゴールやムード調整まで含めたメタ視点での認知を促すことはしばしば有効な介入になるだろう.
  • ここまでは状況を強調してきたが,もちろん個人の資質や幼少期の経験の影響の部分もあるだろう.さらなるリサーチが望まれる.

この章は鬱よりスコープを広げたムード調整障害についての現時点でのネシーの考えということだろう.双安定サイバネシステムが躁鬱症に似ているというのは至近的なメカニズムの部分だが,なかなか示唆に富んでいる
 

第3部 社会生活の喜びと危険

 

第8章 個人をどう理解すべきか

 
ここでネシーは個人差をどう取り扱うべきかを考察する.様々な症状やその原因を統計的に理解しようとすることと個人的なパーソナリティとエピソードの積み重ねの考察には巨大なギャップがあるのだ.

  • 個人の人生のこれまでのストレスを評価しようという試みには1960年代以来の積み重ねがある.しかし難しい問題が残っている.ロングインタビューはコストがかかるし,ストレスとは何かも難しい.ストレスは客観的状況で決まるのではなく,その状況を当該個人がどう解釈するかに大きくかかっているのだ.
  • 個人差は本質的だ.個人個人で他者にどう影響を与えるかの戦略は異なり,成功や失敗にどう対応するかも異なる.一般化は難しく,個別の説明は豊かだが信頼性に欠けるものになる.

 

  • 感情的な症状を理解するためには個人の置かれた環境と,個人の性格や戦略差の両方に目を向ける必要がある.
  • まず当該個人の社会環境を評価するためには,標準的な質問セットを準備することが有用だ.健康,経済状態,仕事,配偶関係,子ども,友人や同僚との関係を尋ねるのだ.それをちょうど新生児の健康状態を測るアプガー指数のような指数にする.(これをReview Of Social Systems :ROSSと呼ぶ.その測定詳細やダイヤグラム表示が説明されている)これを用いると,到達不可能な目標に捕らわれて鬱になっているような場合と,事故や感染症で落ち込んでいる場合を区別でき,それに伴い抗うつ剤の効果もうまく評価できるようになる.
  • では個人差はどう把握するのか.不安症はしばしば直近の環境とはあまり関連していない.それは多くの場合その患者にとって生涯に渡る問題だ.これは潜在的な脆弱性が何らかのストレスで顕在化することによって症状が生じる(ストレス脆弱性モデル)と考えられる.そのような感受性の高い患者は普通の人と異なる感情的反応を見せる.
  • 特定のイベントが特定の症状を引き起こすこと(両親をガンで失った人の不安症,配偶者に浮気された人の不安症など)については進化的な見方が役に立つこともある.
  • しかしこのような分析はまだまだ単純すぎる.ヒトは劇的に異なるパーソナリティを持ち,パーソナリティが環境を選び,相互作用し,しばしば自己実現的(自分の世界観にあった世界を認知し,反応する)になる.そしてヒトは劇的に変化することもできる.良い方向への変化を手伝うことは難しいがやりがいのある仕事だ.

本章では発症の原因については個人差をよく考える必要があるという示唆にとどまっている.リサーチはまだまだこれからと言うことだろう.
 

第9章 罪悪感と苦悩:善と愛の代償

 
多くの精神的な問題は愛や信頼やモラルが絡む.ネシーはここで「そもそも何故ヒトは社会的なのか(あるいは利他的傾向を持つのか)」という問題提起を行い,ナイーブグループ淘汰の誤謬,ジョージ・ウィリアムズの指摘,ドーキンスの利己的な遺伝子の説明に進む.ネシーは最初にドーキンスを読んだときには,自分のモラル的な衝動は実は自分の遺伝子が誰かを操作するようにデザインされているものかと悩んだという.

  • ドーキンスの説明はアカデミックには完璧に正しい.しかし人々が何を信じているかはその人がどう振る舞うかに影響する.自分の行動傾向が(遺伝子にとって)利己的に形成されているという信念は社会にとって腐食的に有害だ.
  • 実際に臨床で経験するのは,その患者がヒトの本性についてどのように思っているかは,彼等の人生に影響を与えることだ.周りのほとんどの人は善であると信じている人の人生は明るい.しかし周りは皆利己的だと思っている人の人生は問題だらけなのだ.そのような世界観は自己実現的でもある.

これによりネシーは利他性やモラルの進化に深い関心を持つ.ネシーは引き続いて,DSウィルソンたちによるマルチレベル淘汰によるグループ淘汰の復活,そのモデルと包括適応度理論の等価性,ハミルトンの包括適応度理論,トリヴァースの直接互恵性の説明とアクセルロッドによる繰り返し囚人ジレンマゲームモデルを解説し,さらに論を進める

  • しかしヒトの向社会性は非常に強く,これらの説明だけで不十分に思える.鍵になる洞察は利他主義者が選択的に利他主義者と相互作用するとメリットが得やすいということだ.スチュアート・ウエストは「利他的遺伝子のノンランダムなアソートメント」と説明する.これに属するアイデアには,地理的な近接性や噂を通じた選択制(間接互恵性),さらにボイドとリチャーソンの提唱する(チーターを罰したり利他行為に報酬を与える)文化的グループ淘汰がある.

この要約はやや問題含みだ.ウエストが指摘しているノンランダムアソートメントこそ包括適応度理論のキモになるからだ.ともあれここでネシーが指摘したいのは,包括適応度理論と直接間接の互恵性だけではなお説明が不十分に感じるということだ.
 

  • さらに2つの方法がある.
  • 1つはコミットメントだ.コアのアイデアは「他者に,自分の将来の行動の(それが自分に不利になっても行うという)コミットメントを信じさせることができれば,あなたは他者の行動に影響を与えること(自分に利他的行動をしてもらうこと)ができる」というものだ.コミットメントに基づく関係は互恵性に基づく関係よりも価値がある.これはトゥービイとコスミデスが「銀行家のパラドクス」として説明しているものだ.難しいのは他者に信じさせる部分だが,1つのやり方はその利他的な行為を常に実践することだ.互いにコミットし合う小さなグループは非常に強い利他的な行動を可能にする.これは宗教的なグループでしばしば見られる.

ネシーはコミットメントを包括適応度や互恵性とは別の次元の解決策だと示唆している.コミットメントはある意味ゲームのルールやペイオフ行列を変更する方策であり,そう評価することもできるだろう.
 

  • もう1つは社会淘汰だ.利他的な行動にはコストがかかる.コストは自分の質を表すシグナルになる.だから道徳的な行動は配偶相手の選択や同盟や取引相手の選択のシグナルになり得るのだ.そして当初のコストはより良い配偶相手や同盟相手を得られることによって回収可能になる.我々はより信頼でき,優しい人々をパートナーや友人として選ぼうとするし,それは相互に利益をもたらす.そしてウエストが指摘するノンランダムな利他的傾向のアソートメントを生みだすのだ.

社会淘汰の最初のアイデアはジェフリー・ミラーによるモラルの性淘汰説に始まると思われるが,ネシーは同盟(友人)関係の選択にも広げて社会淘汰と括っている.精神医学的にはこれは重要になる.
 

  • 社会淘汰は精神疾患の理解に大きなインプリケーションをもたらす.ヒトは自分が(他者から選んでもらうために)他者からどう見られているかを非常に気にするように強い淘汰を受けているはずだからだ.これが自己評価の本質であり.社会的不安の根源だ.そして他者によく思われようとすることは様々な自己利益とのコンフリクトを生む.
  • (社会淘汰が効いているにもかかわらず)実際に一部の人はサイコパスであり,自己利益を優先し他人を操作しようとする.この傾向には強い遺伝性があり,一部の論者はこれを負の頻度依存淘汰で説明しようとする.私はこれには賛成できない,強いサイコパスは小さなグループでは著しく不利だと思うからだ.むしろ大規模社会という新奇環境で生じている現象のように思う.

 
ネシーはここで苦悩(grief)の問題にもコメントしている.なぜここで触れるのか,griefとsadnessの定義は何かなどよくわからず,少しわかりにくい.苦悩は愛の代償という説を否定し,悲しみの1種だと解説されている.
 

  • 苦悩(grief)は社会的不安とは異なる.私は苦悩を経験しないと主張する人達のデータを分析したことがある.それまでの理論(すぐに苦悩を感じない人もあとから感じる,リカバリーには苦悩が必要,苦悩はアンビバレントな関係から生まれる(フロイト説))などはすべて否定された.苦悩を感じない人に問題が生じるようには見えなかった.苦悩を感じるかどうかは極めて主観的だった.
  • では苦悩は何のためにあるのか.愛の代償という名の副産物だという主張もあるが,ありそうにない.それが副産物でないとするなら,悲しみ(sadness)の特殊なものだと考えられる.悲しみは喪失状況への対処のためにあるのだろう.それは喪失に関連のあるキューに敏感になり,再発を減少させるだろう.

 

第10章 汝自身を知れ,いや知るな!

 
本章は動物行動学会の逸話から始まる.そこで行動生態学者から,アレキサンダーやトリヴァースの「無意識による抑圧あるいは自己欺瞞は他者を操作しやすくなるために進化したのかもしれない」という仮説や動物の信号システムにありふれる操作の議論を聞き,ヒトについて調べるのは精神科医たる自分の仕事だと思い至ったそうだ.
 

  • しかしアレキサンダーもトリヴァースも精神分析については知らなかった.精神分析ではヒトの行動は無意識のアイデアや感情や動機に影響され,自己防衛からそれらを意識から遮断(抑圧)しているとみなしている.精神分析はこれらの防衛を突破する戦略なのだ.
  • 抑圧の証拠は歴然としているが(ネシー自身の体験が書かれている),現在精神分析は嘲りの対象になることが多く,全否定されがちだ.しかしそれは風呂の湯を赤ちゃんと一緒に捨てるようなものだ.抑圧は重要だ.
  • 抑圧は進化的には謎だ.なぜ自分自身を知ることが害になり得るのだろうか.私は動物行動学会から帰ってこの謎を解くことに取り組み始めた.
  • バクテリアや昆虫のことを考えれば意識外の脳活動が行動をガイドすることには何の不思議もない.
  • では意識はそもそも何のためにあるのだろうか.これは長く議論されている問題だが,意識による外界のシミュレーションが有用だろうということについてはかなり意見が一致している.ここからある種のイベントが閉め出されるのはなぜかが問題になる,
  • 無意識の認知はありふれている.心理学のリサーチは否定や投影などの心理的な防衛が実際にあって強力であることを見いだしている.ではそれらにどのような淘汰的メリットがあるのだろうか.
  • アレキサンダーやトリヴァースのアイデアは,それは他人を騙して操作するのに有利だというものだ.これは一部の人に熱狂的に受け入れられ,一部の人からはモラル的コミットメントを掘り崩すものだと拒否された.私は後者に属していた.
  • しかし精神分析や利他性の進化の理論を学び,私の態度は変わった.アレキサンダーやトリヴァースの議論は少なくとも部分的には(特にセックスが絡むときや,マイナーな裏切りが問題になるときに)正しいと思うようになった.
  • もう1つの可能性は,心をかき乱されるような考えを意識の外に追い出すことによって認知的な混乱を最小化させるというものだ.現実はしばしば思い通りにはならない.欲望や動機をすべて意識すれば,ねたみ,怒り,不満に心を乱されることは避けられない.それらを無意識に追いやることにより,より実現可能なプロジェクトに向かうことが可能になり.自分がいい人であることをアピールしやすくなる.

 

  • 強迫性障害はこの抑圧の不足によるものだと理解できる.
  • この症状はある意味でパラノイアの真逆になる.パラノイアの患者は誰かが自分を害することを恐れている.強迫性障害の患者はしばしば自分が誰かを害してしまうことを恐れるのだ.
  • 強迫性パーソナリティ障害は単純な強迫性障害とは異なる.このパーソナリティ障害は,過剰な客観性と誠実性の危険をよく示している.彼等は徹底的にルールを遵守し義務を履行し,他人にもそうするように強い,問題を引き起こす.マイナーなルール違反や間違いに気づかないことは人生を容易にするのだ.
  • 一部の患者は決断ができない.片方で決断がころころ変わる人も問題を抱える.私たちはこのような流動性から「認知的不協和」という仕組みによって保護されているのだ.

 

  • 人々は利己的な動機を抑圧している.これはフロイトのオリジナルモデルのアイデアであり,社会生活における中核的なトレードオフ(短期的楽しみと長期的な社会的なコストのコンフリクト)にかかるものだと進化的には解釈可能だ.抑圧があれば短期的衝動を抑えることが容易になる.これはある意味アレキサンダーやトリヴァースの示唆の真逆になる.(騙しによる操作という)反社会的な行動を可能にするのではなく,それを抑えてより良い社会的行動を行うために抑圧があるという考えだからだ.

トリヴァースの自己欺瞞の議論を精神科医としてのネシーが吟味している本章のこの部分の記述は興味深い.確かにトリヴァースの議論は一面の真理を突いているが,抑圧はもっと広い(そしてフロイトのアイデアの一部は進化的に解釈可能だ)というのがネシーの考えのようだ.
 

  • 抑圧や自己に関する知識を欠落させることが有利になるという考えは不穏に感じられる.啓蒙運動は進歩への希望を理性に求めた.我々が真実を否定して現実を歪曲するように進化しているというのは啓蒙運動に対する脅威のようにも感じられる.
  • しかしながら,私は「抑圧の重要な役割は高いレベルの協力推進と地球にとっての善だ」と主張することが可能だと思う.片方で無意識による歪曲は部族主義を育てて不幸を招き寄せることがあるのも事実だ.
  • 基本的に客観性は適応度を上げるが,ヒトの社会生活はイングループへの忠誠を求め,客観的な個人は不利になる.それは神経科学や精神分析や進化精神医学などの学問分野にとっても同じで,コアのスキーマへの忠誠を示さないメンバーは排除されがちだ.この傾向の根源は深く,おそらく遺伝子にとって有利だったのだろう,しかしそれは真実を求めることや学問の統合への障害にもなるのだ.

 

第4部 コントロールできない行動と悲惨な障害

 

第11章 悪いセックスも遺伝子にとっては善になり得る

ネシーは冒頭でセックスに絡む様々な人生の問題を取り上げる.なぜ性的な人生の問題がこうもありふれているのか.それは自然淘汰がヒトの幸福ではなく繁殖成功に向かってかかるからなのだ.

  • ヒトの配偶相手への好みは進化的に容易に説明できる.選り好み傾向は遺伝子には有利だが,我々を幸福にするとは限らない.さらに現代環境は超好ましい配偶相手モデルのイメージにあふれているので問題は悪化している.
  • しかし自然淘汰はこの問題がコントロール不能になるのを防ぐ心理的メカニズムも創り出している.1つは抑圧で,もう1つは「恋に落ちる」ことによる絆の形成だ.部分的一時的な解決ではあるが,これは主観性の価値と言ってもいい.

 

  • パートナー間でセックスの回数ややり方についての意見が一致しないことはしばしばある.男性が必ず多くのセックスを望むわけでもない.なぜ男性にフェティッシュ願望傾向があるのかは興味深い.おそらく何らかの副産物なのだろう.
  • 性欲欠如は薬物や神経ダメージなどの様々な原因で生じる.心理的に興味深いのは不安によるものだ.おそらく命の危険があるときにはセックスを抑制した方が有利だったからだろう.
  • 性的障害で最も訴えが多いのは男性の早漏だ.男性の方がより早くクライマックスを迎えがちなのはその方が遺伝子に有利だったからだろう.(射精後のインターコースが精子を外に出してしまうこと,オーガズム後に女性がセックスをやめがちであることなどが議論されている)

 

  • 現代環境で生じる問題には,避妊による性的態度の変化,初潮の早期化,ポルノや性的玩具の影響などがあるだろう.

ネシーはこの章で,同性愛,女性のオーガズムがそもそもなぜあるのか,排卵隠蔽の謎,嫉妬の性差なども簡単に解説している.やや散漫な印象だ.
 

第12章 根源的な好み

 
ネシーは本章で摂食障害を取り上げる.

  • 身体の多くの調整はネガティブフィードバックシステムだ.ポジティブフィードバックは理論的に興味深いが,不安やムード調整のシステムに生じると深刻な問題を引き起こす.摂食障害はその1つだ.
  • アメリカでは成人の2/3は肥満で,多くの人はダイエットに励むが,90%以上は結局もとの体重に戻る.この失敗はフラストレーション,モラルの低下,低い自己評価,疾病や死の恐怖の正当化を引き起こす.
  • 対処は自明であるように思える.「より努力せよ」専門家はしばしばそういう.しかしそれは(いろいろな助けを借りても)やはりうまくいかない.
  • これまでにわかっているのは,肥満は遺伝と社会的要因の両方の影響を受けるということだけだ.
  • 進化的には,肥満体質はしばしば飢餓状況になるような環境で有利であったが,現代環境にはフィットしていないと説明される.

 

  • 一部の人は摂食することに問題を抱える.代表的なのは拒食症と過食症だ.過食症は自己コントロールを欠いた拒食症として理解できる.頑張って食事を制限するが,時にコントロール不能になって過食してしまう.
  • なぜ我々の食欲コントロールシステムはこのように脆弱なのだろうか.
  • 考察の始点は飢餓への対処だ.淘汰は飢餓に備えて余剰カロリーを摂取しようとする傾向を有利にしたはずだ.これはラットにも見られる.実際に拒食症入院患者はしばしば病院の売店でキャンディを万引きしベッドに隠し持つ. 
  • 拒食症患者が拒食症に陥るきっかけは様々だが,肥満への恐怖が先立っているのは共通している.また拒食症への脆弱性には遺伝性があり,現代環境とのミスマッチも要因になっている.
  • 一部の進化心理学者は,肥満への恐怖は,男性から好まれるための女性間の競争と関係しており,拒食症はそれが過剰になったものだと主張している.女性間の地位を巡る競争を主張する進化心理学者もいるが,拒食症が若い女性に多いことから見ても配偶選択競争と考える方が説得力があるだろう.
  • 摂食障害は1960年代以降顕著に増えている.なぜかは謎だ.1つにはメディアで痩せている魅力的な女性の露出が増えたということがあるだろう.人口甘味料の出現も要因になっている可能性がある(リサーチの結果は分かれている).
  • 未熟児として生まれると,のちに肥満になりやすいことがわかっている.これは適応的な反応(条件付き戦略)である可能性がある.親の世代が飢餓になるとこの世代で肥満になりやすいというリサーチ結果もある.これをゲノミックインプリンティングで説明しようとする議論もある.

 

  • 進化的に考えると摂食障害を直す簡単な方法はありそうにない.しかしいくつかのヒントはある.まずきついダイエットをやったりやめたりするのは,不安定な食糧事情と感じられ,より肥満しやすくなり,摂食障害も生じやすくなるだろう.少量の食事を規則正しく取る方がより良い方法になる.人工甘味料などのかつてなかった刺激は食欲コントロールシステムにとって良くないだろう.これは社会関係におけるSNSについても言えることだ.

 

第13章 悪い理由にとっての良い感情

 
次にネシーが取り上げるのは薬物中毒だ.

  • なぜ我々は薬物中毒に脆弱なのか.
  • 根本原因は学習能力にある.脳へのドーパミン供給が上昇するとその直前の行動を繰り返したくなる.食事やセックスなど正常な報酬の追求はオートマチックにコントロールされていて,満足したあとに要求が下がる.しかし薬物中毒の場合にはそうならずに欲望と薬物摂取が増大し続ける.祖先環境にはこのようなサイクルを生みだすような純度の高い薬物はなかった,だからこれも典型的な現代環境とのミスマッチの問題になる.

 

  • 薬物の多くは植物が創り出す向神経性の薬物であり,植食性の昆虫に対する化学的防御だと考えられる.それは直接哺乳類に対してデザインされていないが,しばしば我々の動機システムを乗っ取る.
  • アルコールに対する好みについてはいくつかの仮説がある.よりセックスに結びついたという説は疑わしい.バクテリア感染リスクを下げたという説もあるが証拠はない.熟れた果実のシグナルという説はありそうだ.
  • アルコール醸造は容易で狩猟採集民もアルコールをたしなむ.しかし蒸留は困難で蒸留酒は現代環境のミスマッチの問題になる.紙巻きタバコ,その他の精製された薬物,アンフェタミンのような新しい薬物も同じだ.

 

  • かつて薬物に関しては禁断症状が問題とされていた.患者は禁断症状を恐れて薬物をやめないと考えられたからだ.しかし(学習された報酬刺激があれば)禁断症状なしでも中毒は生じる.
  • 行動調節システムは(報酬システムのような)ポジティフィードバックがかかるある行動から別の行動へのシフトを注意深く管理する.直近の行動への報酬を下げ,別の行動への報酬を上げるのだ.現代環境にある超刺激はこのシステムを乗っ取る.だから新聞を読むのをやめるよりポテトチップスをやめるのは難しく,薬物をやめるのはさらに難しくなる.
  • なぜ行動調節システムはこのように(ポジティブフィードバックを含むように)なっているのだろうか.進化的な説明は,行動にはスタートアップコストがかかるからということになる.

 

  • 中毒へのなりやすさ(報酬への強い感受性)には遺伝的な個人差がある.私はそれは採集戦略の違いに関連するのではないかと思っている.また文化的な影響もあるようだ.

 

  • 進化的に考察しても中毒への簡単な対処法が得られるわけではない.しかしそれは間違ったアイデアを排除し,対処法への示唆を与えることができる.
  • 公共政策に与える示唆は暗いものになる.犯罪化,厳罰化はうまくいかない.刑務所はあふれ,(原産地や中継地の)政府は次々に腐敗する.そして合成技術の進展は摘発を困難にする.合法化はいいアイデアのようだが,中毒患者自体は増加してしまう.教育こそが希望だが,脅してもうまくいかない.薬物がどのように脳を乗っ取るかをすべての子どもが理解すべきなのだ.
  • 薬物中毒は現代環境によって問題になった.社会環境を変えるのは難しく,ヒトの本性を変えるのは不可能だ.解決策は脳を変える方法(つまり教育方法)を見つけることだ.

 

第14章 適応度の崖でバランスを崩している心

 
ネシーが最後に取り上げるのは統合失調症,自閉症,双極性障害だ.

  • 統合失調症はすべてのイベントが過剰な個人的な意味を持つように感じ,個人の内心と外的環境を区別することができなくなる認知障害だ.自閉症は社会的つながりを欠き,反復行動と孤独な没頭で記述される.双極性障害はモードスタットの故障により躁と鬱が繰り返す.これらはみな悲惨な疾病だ.
  • これらの症状には共通点がある.世界中で,これらの症状はおおむね人口の1%程度に見られる.人口の2~5%は中間的な症状を持つ.脆弱性には大きな遺伝性があるが,統合失調症と自閉症患者の子どもの数は平均して少ない.なぜ自然淘汰はこのような遺伝要因を淘汰しなかったのだろうか.
  • 遺伝性は行動遺伝学的な調査により明らかだ.しかしかつてこれらの症状を持つ子の親は育て方が悪かったのだと(何の根拠もなく)非難されてきた.ありがたいことに我々はこれらの症状についてより知るようになり,この理不尽な非難をしなくても良くなった.

 

  • 遺伝性があることがわかり,原因遺伝子の探索が徹底的になされた.わかったのは,特定の大きな効果を持つ遺伝子はなく,多くの小さな効果を持つ遺伝子が複雑な相互作用をしているらしいことだ.また多くの統合失調症関連遺伝子は双極性障害にも関連していることもわかってきた.また最新のリサーチでは,統合失調症リスクは(母ではなく)父の最初の子を持った時の年齢と相関するという報告がある(これが何を意味するのかはわかっていない).
  • これは生物体の複雑を理解し,メカニズムだけではなくトレードオフに注目すべきことを示唆している.これらの症状はヒトの心の情報処理デザインのトレードオフから来る脆弱性を持っているのだろう.

 

  • なぜ統合失調症や自閉症への脆弱性の遺伝的要素が淘汰されてしまわないのか.1つの仮説は,ヒトの脳の情報処理能力は多くの遺伝子が絡んでいるために突然変異により壊れやすく,淘汰と新奇突然変異が釣り合っているというものだ.しかしこれはありそうにない.
  • 別の仮説は突然変異が淘汰されても脆弱性が残ることを仮定する.その1つはこれが利己的遺伝要素により引き起こされているというものだ.バーナード・クレプシは,ゲノミックインプリンティングにより,父親由来のアレル発現比率が増加すると自閉症リスクが上がり,母親由来のアレル発現比率が増加すると統合失調症リスクが上がると主張した.これはより(ゲノミックインプリンティングにより父親からのアレル発現が多い)栄養状態の良い新生児は自閉症リスクが高く,栄養状態の悪い新生児は統合失調症リスクが高いことを予想する.そして5百万人のデンマーク人データを用いたリサーチはそれを裏付けているのだ.これが正しいかどうかはまだわからないが,巧妙な仮説ではある.
  • もう1つの種類の仮説は何らかの遺伝子的なメリットと釣り合っているはずだというものだ.1つの仮説は統合失調症が創造性や知性と関連すると考える.私はこれには懐疑的だ.また,双極性障害は社会性や言語能力を上げる,自閉症は認知能力を上げる,統合失調症は言語学習能力を上げるという考えもある.しかしこれらを支持する証拠はまだ提示されていない.
  • いつ頃統合失調症関連遺伝子が現れたかというリサーチによると,多くの関連遺伝子は(チンパンジーとの分岐以降の)5百万年前以降に現れたという結果がでている.これは脳の発達を促す遺伝子の多面的発現を示唆するものかもしれない.
  • 双極性障害への脆弱性が(躁状態でより配偶パートナーを得られるなど)適応度的メリットを持っているというなら,それは広がってユニバーサルになっているはずだ.そして実際にそうなっているのかもしれない.
  • 別の種類の仮説には感染がある.妊娠時のトキソプラズマ感染やインフルエンザ感染は子どもの統合失調症リスクを増やすことが知られている.但しそのような感染頻度は限られており,これが主因ということはありそうにない.

 

  • ここまでの議論はこの症状を引き起こす遺伝子の存在を説明しようとしている.しかし私はなお納得できなかった.1%という数字が大きすぎるように感じるのだ.また数多くの小さな効果を持つ遺伝子が相互作用をしていることも謎に思えた.
  • そしてデイヴィッド・ラックの最適一腹卵数の議論を読んでいるときに啓示を得た.彼は一腹卵数には最適値があって多すぎても最終的な子孫の数が減るのだと議論していた.
  • 最適値がある連続的な性質には安定化淘汰がかかる.その結果の分布は通常の場合,分散の小さな正規分布のような形になり,最適値から大きく外れた個体はごく少なくなる.しかし(例えばより長い脚が速く走るのに有利でも長すぎると折れてしまうなど)適応度地形が非対称で片方が崖のように落ちていれば,そちら側に大きく適応度が下がった個体がある程度の頻度を持って分布することになるだろう.
  • 私はこれを数理モデル化した.このような性質は遺伝性が高く,非適応個体の頻度が高くなる.このモデルは多くの疾病に当てはまる.ホストとパラサイトによる競争はこのような状況を作りやすい.実際に自己免疫疾患はこのモデルによく当てはまる.そして多くの統合失調性関連遺伝子は免疫にも関連しているようだ.これはアルツハイマー関連遺伝子にも当てはまる.
  • また脳はほかの臓器と異なり,一般的な情報処理デヴァイスだ.だから壊れ方も独特になるだろう.コンピュータソフトウェアの失敗がいいアナロジーを提供する.ソフトウェアが無限ループに入ると問題を引き起こす.パラノイアや強迫性障害はこれに似ているところがある.またフィードバックシステムの故障は双極性障害の良いアナロジーになるだろう.

統合失調症,自閉症,双極性障害はいずれも強い遺伝性があり,なぜ淘汰されてしまわないのかが重大な謎になる.これに真正面から答えようとする本章は充実していて(特にクレプシのゲノミックインプリンティングによる仮説はトリッキーだが面白い),鬱の解説と並んで,読みどころだろう.
 

エピローグ

 
最後にエピローグが置かれている.進化は生物個体の幸福に向かって進むわけではないこと,症状自体に機能があるわけではないことが特に強調されている.

  • 私は本書で進化生物学と精神医学を結ぶ最初のロープをかけようとした.進化的視点は精神医学に決定的な解答を与えるわけではないが,多くの示唆を与えるだろう.様々な進化的な仮説は検証が必要だ.
  • 進化的視点に立つときに重要なのは,症状自体に必ずしも機能はないということだ.摂食障害やADHD自体が淘汰産物ではない,それらへの脆弱性が問題なのだ.
  • 患者は今すぐの助けを必要としている.そこで進化的視点に立つ意味は2つある.まず第1に,それは長期的には我々の精神障害に関する理解を向上させ,より良い治療につながる可能性がある.そして第2に,進化的視点は今すぐの助けになることもある.これらの恩恵を受けるには,精神医学の専門家やリサーチャーは進化生物学の基礎を学ぶ必要があるだろう.また進化的視点に立つ精神医学は「進化精神医学」という孤立した個別の島にならずに,現在ある様々な分野の架け橋となり統合されなければならない.
  • 私は実際に患者と接していて,進化を学ぶにつれて治療方針が変わっていくのを体験した.パニック障害は,患者がこれを火災報知器のファルスアラームだと理解することにより改善される.これは摂食障害や薬物中毒でも同じだ.社会淘汰を理解するとコミットされた関係や罪悪感や社会的不安がより理解できるようになる.
  • なぜ我々の人生は苦悩に満ちているのか,一般的解答は「進化は我々の幸福ではなく,遺伝子の頻度増加に向かって進むからだ」ということになる.しかしシニシズムや決定論に捕らわれる必要はない.我々は善の要素を持つし,欲望をコントロールする能力も持っているのだ.それらは完璧ではないが,多くの場合うまくやれる.多くの人々が精神的に健康であることに驚く必要はないのだ.

 
 

以上が本書のあらましになる.テーマによってはなお問題提起にとどまっているものがあるが,それも現時点での到達点ということだろう.鬱やムード障害,そして統合失調症などの強い遺伝性のある障害についての記述は長年の間深く考えられたことが積み重なっており,重厚で迫力がある.現役の精神科医であり,進化理論に造詣の深いネシーによる本書は進化精神医学に興味のある人にとってはまさにまず読むべき本となるだろう.
 
 
関連書籍
 
ネシーがジョージ.ウィリアムズと出会って最初に書いた進化医学の本.未だに入門書としてはベストだと思う.


同邦訳

 
次に編者となってまとめたコミットメントについての本.これもコミットメントについての本としては未だにまず読むべき本だと思う.