日本鳥学会2019 公開シンポジウム「ペンギンを通して学ぶ生物の環境適応と生物多様性保全」

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今年の日本鳥学会は東京開催で,最終日(9月16日)にペンギンに関する公開シンポジウムがあると聞いて参加してきた.場所は北千住にある東京芸術センターの21階にある天空劇場.当日は小雨降る天気だったが,見晴らしの良いロビーの奥にあるあるなかなかゴージャスな会場だ.
 
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osj2019.ornithology.jp
 

趣旨説明:生物の環境適応と生物多様性保全 森貴久

最初の2講演が環境に対するペンギンの適応について,あとの2講演が環境が変わったことによりペンギンにどういう影響があるかについてのもので,最後に合わせて保全について考えたいという趣旨説明だった.なぜペンギンかについては,鳥類が冷たい海で飛行を捨てて生活しているので,強い適応への圧力があり,環境変化の影響が予測しやすいということ,そして人気者であり,学ぶのにいいという理由を挙げていた.
 

ペンギンと地球の6600万年史 安藤達郎

地球環境の変化に沿ったペンギンの進化史の講演.時代に沿って4つのテーマから解説された.

<ペンギンの誕生>

  • 最古の化石はニュージーランドから出た6000万年前のワイヌマペンギン.既に飛行能力を失っている.分子的にはオオミズナギドリとの分岐が白亜紀後期とされており,白亜紀後期から6000万年前のどこかでペンギンが誕生したことになる.
  • 適応段階としては(A)空を飛ぶ海鳥(B)潜水して採餌するようになる(C)飛行能力を失うという段階を踏んだと思われる.Cの飛行能力の喪失が真のペンギンの誕生と考えていいだろう.
  • それが生じたと考えられる地球史のイベントとしては白亜紀末の大量絶滅がある.ここで大型の海棲爬虫類が絶滅し,多くの大型のサメも絶滅している.これにより捕食圧,採餌を巡る競争圧力共に減少し,空を飛ぶ必要がなくなり,体重を増加させられるようになったのではないかと考えられる.

<ジャイアントペンギンの時代>

  • ここでペンギンは大型化する.化石が,最大のジャイアントペンギン(パラエエウディプテス・クレコウスキ,体長2メートル,115キロ),最古のジャイアントペンギン(クミマヌ・ビカイエ,体長1.7メートル,100キロ)などいろいろでていて,このジャイアントペンギンの時代はペンギン誕生の直後に始まり4000万年ほど続いたことがわかっている.その当時の地球気候は今より10℃ぐらい温暖だった.
  • ではこのペンギンの最大サイズを2メートルに制限していた要因は何か.競合生物との関係か,生理的な制限か,これは未解決だ.
  • ジャイアントペンギンは大いに栄えて分布域を広げ,多様化した.クチバシは現生ペンギンより細長く,採餌戦略が異なっていたことを示唆している.オキアミではなく魚類などを主に食べていたようだ.インカヤクの化石では羽毛の色がわかり,背中側が灰色,腹側が赤茶だったことがわかっている.また冷水への適応としての翼の対交流熱交換の仕組みもこの頃獲得したようだ.

 
<海洋環境の大変動とジャイアントペンギン時代の終焉>

  • ジャイアントペンギンの時代の温暖な海水温の時代は,漸新世の末期(3400万年前)に大陸移動により南極大陸が孤立し,南極海流が発生したことで海洋循環が大きく変化し,現代型の深層大循環が成立したことにより終わりを迎えた.これはグリーンハウスからアイスハウスへの変化と呼ばれる.
  • ペンギンにとっては深層まで海流が循環し栄養塩が舞い上がるようになって餌が変化したと思われる.ここでジャイアントペンギンは姿を消し,ムカシクジラも絶滅している.
  • この時期ペンギンは多様性を減少させ,ムカシクジラに取って代わったハクジラ類は多様性を大きく上昇させた.これは餌を巡る共同ではクジラ類に劣後したことを示している.

 
<現生ペンギンの出現>

  • 現生ペンギンの最古の化石は900万年前のものだ.化石と組み合わせた遺伝子の分析では分岐は1300万年前頃だと推定されている.
  • 南極半島周辺はペンギンの肥沃な三日月地帯と呼ばれていて,現生ペンギン類の起源地だと思われる.
  • アデリーペンギン属,コウテイペンギン属はそこから南極大陸の周辺域に分布を持ち,イワトビペンギン属とキガシラペンギン属は南極海周辺の小島に,そしてフンボルトペンギン属が南米大陸,アフリカ大陸に分布を移し,さらにそこからコガタペンギン属がオーストラリアへ移ったと思われる.
  • 中新世の中頃に鰭脚類が北半球から南半球に分布を広げてきて,ペンギンと餌と繁殖地を巡る競争関係に入った.ペンギンはより小型の餌に特化し,オキアミを主に食べるようになったと思われる.

 
ジャイアントペンギンがかつて存在していたという話は聞いていたが,こうやって進化史を解説されると大変楽しい.充実した講演だった.
 

水中環境に適応したペンギンの行動・形態的特徴 佐藤克文

 
水中生物のバイオロギングの第一人者佐藤克文による講演.

  • 日本の水中生物のバイオロギングの歴史は内藤によるキタゾウアザラシの潜水記録に始まる.アザラシの潜水時間は平均20分,最長62分,最新1250メートルなどがわかった.
  • 私はそれに続き,アオウミガメ,マンボウ,イタチザメ,ペンギンなどを調べてきた.
  • 最初に気づいたのは彼等の遊泳は必ずしも採餌行動と一致していないということだった.
  • これに関連して,いつも泳ぐのより,最初は重力で沈降し,浮かび上がるときにだけ遊泳した方がエネルギー節約的だという説があり,鳥の間欠羽ばたき飛行との収斂だというリサーチも出て,支持者が多かった.
  • しかしそれは納得できない.水平に移動するよりわざわざ坂道を下ってから,登る方がエネルギー節約的なはずがないではないか.
  • ということで調べてみた.アザラシに浮きや重りを付けて遊泳させてロギングする.わかったことは彼等は浮力があるとき,重りがあるとき,中性浮力の時に泳ぎ方を変えるということだ.そして中性浮力が最もエネルギー節約的であることもわかった.実際にアザラシは潜る直前に息を吐き出して中性浮力にする.
  • するとここでパズルが生じる.ペンギンの泳ぎを解析すると餌取りに潜ったあと最後は羽ばたかずに浮力を用いて上昇している.そして実はペンギンは潜る直前に息は吸い込んでいるようなのだ.なぜペンギンはエネルギーロスになるようなことをするのだろうか.
  • どのように身体に酸素を貯めているかを調べると,哺乳類は血液や筋肉にため込み肺には貯めないのに対して,ペンギンはかなりの部分を肺に貯めている.
  • これを説明するために,遊泳のエネルギーコストに,生理的な代謝コストを合わせて考察してみた.すると遊泳コストは確かに息を吸い込んだ方が上がるが,息を吸わずに潜ると一定以上の潜水を行うには不足することがわかった.この代謝エネルギー不足は身体の大きさに大きく依存する.ペンギンは海棲哺乳類に比べて小さいので,深く潜るためにはエネルギー的ロスを負っても息を吸う必要があるということだ.これは貧乏人は何かするには利息を払っても借金せざるを得ないことに似ている.

 
ストーリーが明確で楽しい講演だった.
 
佐藤によるバイオロギング本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20071117/1195289971https://shorebird.hatenablog.com/entry/20110326/1301100541

ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ―ハイテク海洋動物学への招待 (光文社新書)

ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ―ハイテク海洋動物学への招待 (光文社新書)

巨大翼竜は飛べたのか?スケールと行動の動物学 (平凡社新書)

巨大翼竜は飛べたのか?スケールと行動の動物学 (平凡社新書)

 
ここで一旦休憩.当日資料としてこのペンギン特集が掲載された「遺伝」が配られた.なかなか素晴らしい.

 

気候変動がペンギンに与える影響 高橋晃周


気候変動がペンギンに与える影響を,ペンギン類全体についてとアデリーペンギンについて解説する講演.

  • 現在までペンギン18種のうち13種で気候変動の影響が観測されている.(残りも深くリサーチされていないだけで影響はあると思われる)
  • 直接的には気温変化によるストレス,雨風による衰弱,海氷減少による営巣地の減少などがある.間接的には餌不足がある.直接的影響はそれぞれ3種,3種,2種で生じていることが報告され,間接的影響は13種の報告がある.(それぞれ個別の例が解説される)

 

  • アデリーペンギンは南極大陸周縁部に生息し,379万つがいが生息していると推定されている.そして世界各国の南極基地がこれを観測している.
  • 南極半島周辺では50年間に気温が2.7度上昇しており(地球平均の倍),パーマー基地ではアデリーペンギンが80%減少したことが観測されている.これは海氷の張り出しが減少し,氷の裏につくアイスアルジーが減少してオキアミの生産量が下がったことに由来すると考えられる.
  • しかし南極の東海岸では逆に個体数が増加し,南極半島の減少を補っている.ここでは50年間で気温があまり変化していない.海氷の張り出しは減少しているが,個体数との相関は半島とは逆で,むしろ海氷が少ない方が,潜れる場所が増えるということがあるからだと思われる.
  • 影響には未解決の問題が多い.

 
アデリーペンギンの個別の話はなかなか面白かった.いろいろ一筋縄ではいかないようだ.
 

人為活動がペンギンに与える影響 山本誉士

 

  • 現在ペンギン18種のうち11種が絶滅危惧種,2種が準絶滅危惧種になっている.これには人為的な影響が大きい.
  • 繁殖地での人為的攪乱:人がそばにいると心拍数が上がる.家畜の持ち込みにより草がなくなり営巣地として不適になったり,イヌやネコによる捕食の問題が生じる
  • 漁業活動による影響:漁網漁具による損傷,乱獲による餌減少がある.
  • 性比の歪みによる影響:ケープペンギンはオスとメスで餌場が異なり,片方に負荷がかかるとモノガミー種なので,全体数の減少以上の影響が出る.
  • 不適応行動の誘発:進化適応した環境が変化することにより適応行動が不適応になる.ケープペンギンは西側の採餌場所の餌条件が悪くなり成鳥は東側に移動しているが,若鳥は遺伝プログラムにしたがって西側に行ってしまうという報告がある.
  • ペンギンが絶滅したら何が起こるのだろう.それはあとのパネルディスカッションで議論して欲しい.

 
いろいろなことが悪影響を与えていることがわかる.ケープペンギンの話はいろいろ面白かった.
 

総合討論

 
まずフロアから質問に答える.さすがに鳥学会の公開シンポジウムだけあって深い質問が多かった

Q:ジャイアントペンギンが多様化したということだったが,現生ペンギンと比べてどうなのか

A:全部が化石になるわけではないので正確には比べようがない.分布の大きさ,最大サイズなどから今より多様性が高かったと思われる.
 
Q:グリーンハウス時期になぜペンギンは北半球に広がれなかったのか

A:分布域はその海域の生産性により決まる.グリーンハウス時期には今より低緯度でペンギンが生息できたが,それでもどこかに低生産性のバリアがあったのだろうと思われる.
 
Q:羽毛の中にも空気がため込めると思われるがどうか

A:羽毛の空気も調べた.潜水開始後大体3分で泡が出なくなるので,ほとんどなくなると思われる.若干残っていたとしても基本的な結論は動かない.
 
Q:ペンギンは空気が血液に溶け込む潜水病の問題をどう解決しているのか

A:実はアザラシが空気を吐いてから潜水するのは血液に窒素が溶け込む潜水病にならないための適応的行動だと実に美しく説明されていた.しかしペンギンが息を吸い込むことがわかって,これは再考を迫られている.実際にペンギンがどうやって潜水病の問題を生理的に解決しているかについてはわかっていない.
 
Q:気嚢の存在は議論に影響しないのか

A:ペンギンにも気嚢はある.気嚢の中の酸素を調べたこともある.潜水中にどんどん下がっていってエネルギー生産に使われていることがわかった.(肺と気嚢をセットで考えると)あまり議論には影響しないと思う.とはいえよく考察してみたい.
 
Q:ケープペンギンの幼鳥が西に向かうのは遺伝的行動だということだが,エビデンスはあるのか

A:これは基本的に幼鳥の渡り行動と同じ議論.親と一緒に渡る鳥は学習かもしれない.しかし巣立ち後親と離れて独自に渡るのは遺伝的プログラムと考えられる.新潟のオオミズナギドリは太平洋に出るために親鳥は津軽海峡に回るのに対して,幼鳥は本州の山脈を越えてまっすぐ南に向かう.南に向かう遺伝的プログタムがあると考えられている.ケープペンギンもそういう意味で遺伝的と考えられる.ただし確かめる必要はある.
 
ここでコメンテイターで日本ペンギン会議の上田一生から報告
 

  • 今年2019年に3年ごとに開かれる国際ペンギン会議が開かれた.年々参加者が増えており,400人規模になっている.
  • ケープペンギンとアデリーペンギンで鳥インフル感染死が報告された.
  • 講演にあったようにケープペンギンは営巣地を東に移そうとしているように見える.しかし東側には(西にはいない)ヒヒ,ヒョウ,ハイエナが生息し,この捕食圧がどう影響を与えるかが注目されている.
  • ジェンツーペンギンは水中で鳴き声を出していることがわかった.意味については解析中.

 
総合討議として「ペンギンがいなくなったらどうなるか」がお題として与えられて,各講演者がコメント
 
森:生態系としては誰かが取って代わるだろう.水鳥はそこまで特殊化していないので海棲哺乳類になるのではないか.保全に関していうと,保護区が設定されているが,ペンギンの場合採餌場所は保護区外になる.その場合保護の効果がうまく出ないことがある.
 
安藤:誰が取って代わるかだが,翼は水中遊泳にすぐ用いることができる.鳥も候補に入れていいと思う.保全については,生態系のネットワークから考えるべきだと思っている.
 
高橋:ペンギンは営巣場に糞をすることにより,陸上生態系にも影響を与えている.絶滅するとそこに影響するだろう.保全についていえば,極地域のペンギンは温暖化の影響を受けつつもしぶとく残ると思う.それ以外のペンギンは危ない.人為的影響をできるだけ抑えることが重要だと思う.
 
上田:最後に国際ペンギン会議のロイド・デービスの言葉を紹介したい.それは「ペンギンは地球にとっての探鉱のカナリアだ」というものだ.海洋,地球全体の環境変化を我々に教えてくれる.保全してその動向を見守ることは人類の存続にとっても重要だと思う.

最後に討議についてフロアのコメントを求める

コメント1:ペンギンが絶滅すると,餌としているヒョウアザラシやシャチに影響が出るのではないか
 
コメント2:「日本のライチョウは温暖化の影響により2050年で消滅するだろう」というような予測がペンギンにはあるのか

A:ペンギンはライチョウと違って海を移動できるので,そういう単純な絶滅予測はない.コウテイペンギンについて2100年で4割の繁殖地が失われるだろうという予測はある.
 
コメント3:ペンギンがいなくなると研究者が困る.そして寂しくなる.観光資源として利用されているのでそういう影響もある.特殊な進化適応をしている生物として是非存続して欲しい.

A(兼締めのコメント):19世紀に北半球のペンギンとよばれることもあるオオウミガラスが絶滅した.之が今日の保全活動の始まる1つのきっかけにもなっている.今回のシンポジウムがそういう議論につながることを期待したい.
 
 
以上が公開シンポジウムのあらましだ.2時間半ペンギン漬けになることができ,大変楽しかった.
 
 
これは講演会後北千住で食したチャーシュー丼
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書評 「恐竜の教科書」


本書は2016年に出版された恐竜本「Dinosaurs: How They Lived and Evolved」の邦訳.著者も監訳者のばりばりの恐竜研究者で,「教科書」と名打つのにふさわしい本だ.これまでの恐竜の教科書的な本としては原著2012年邦訳2015年の「恐竜学入門」があったが,本書は2012年以降の研究の進展が反映されていて,より最新の知見*1に触れることができる.また「恐竜学入門」はやや系統樹と分岐学にこだわった内容だったが,本書はよりバランスが取れた総説本といっていいだろう.
 

第1章 歴史,起源,そして恐竜の世界

 
第1章では恐竜研究の歴史と恐竜の起源が扱われる.ここではまず恐竜とは何かが扱われ,その中で鳥類は恐竜そのものであり,恐竜はなお1万種現存するということが強調されている.(このため本書においては「恐竜」という表記は鳥類を含む意味となり,鳥類ではない恐竜を指す場合には「非鳥類型恐竜」と表記されている)
つづいて学名,系統樹,地質時代,研究手法(ブラケッティング法)を解説するコラムをはさみながら恐竜発見,恐竜研究の歴史が概説されている.オーウェンによる命名,北米恐竜発掘黄金期,恐竜ルネサンスを経て現代の恐竜研究の様相が描かれている.近時発掘と記載数が大きく上昇中であり,軟組織の化石の報告も増えている.
ここから恐竜がいた中生代の環境(大陸移動,気候),恐竜の起源(翼竜との分岐で恐竜側にあり,なお恐竜とは認められないラゲルペトン,マスケラス,シレサウルスなどについて詳しい),中生代初期のワニ系統主竜類との競争(なぜ恐竜が陸上で優勢になったのかはなお明らかではない)などが扱われている.
 

第2章 恐竜の系統樹

 
ここでの最初の問題は鳥盤類,獣脚類,竜脚類の系統関係だ.長らく獣脚類と竜脚類を竜盤類として括る分類(鳥盤類(獣脚類・竜脚類))が主流だったが,2017年に鳥盤類と獣脚類の方が近縁だ((鳥盤類・獣脚類)竜脚類))という新説が提示されて論争になっていることが解説されている.現在では(((鳥盤類・竜脚類)獣脚類))という説も提示されて争われているそうだ.
ここから獣脚類,竜脚類,鳥盤類という伝統的な順序で系統樹を示しながら代表的な恐竜が解説されている.
以降私的に新知見だった記述を紹介する形のレビューとしたい.

  • マニラプトル類の中の1グループであるカンソリオプテリクスは長い前肢の指の間に皮膜を持っていたことがわかった.前肢に羽毛を持つグループに属していながら皮膜を進化させて滑空していたらしい.
  • かつて古竜脚類とまとめられていたグループには竜脚類との近縁性が様々なものが含まれており,単一クレードではないことが明らかになった,現在この名称は使われなくなりつつある.
  • ディプロドクス上科の恐竜としては,ディプロドクス,アパトサウルス,ブロントサウルスが挙げられている.(ブロントサウルスの復活.2015年にアパトサウルス属と別属としてブロントサウルス属を認める論文が出されて,本書ではそれにしたがっているということらしい)
  • 竜脚類は主にジュラ紀の恐竜であり,白亜紀には一部の例外を除いて絶滅していたとされていたが,今日これは誤りで竜脚類は白亜紀を通じて多くの大陸で支配的な存在であったことがわかっている.

 

第3章 恐竜の解剖学

 
第3章では恐竜の身体的特徴が扱われる.全体的骨格,腕,腰と後脚,動きと機能,骨の連結と姿勢.顕微鏡的特徴,体重推定,筋肉,呼吸と気嚢システム,消化器系,外見,羽毛などの解説がなされている.

  • 竜脚類の首がほぼ水平にまっすぐで可動性がなかったという見解は(骨だけを見て)頸椎の関節面でごく小さな動きしかできなかったという考えに基づいている.しかし軟組織(特に軟骨円盤)を考慮した復元を元に考えると幅広い動きが可能だったと考えるべきだ.
  • 骨の切断面の顕微鏡的観察によると,巨大恐竜でも40年~50年を超えて生きることはほとんどなかったようだ.
  • 恐竜の体重推定は軟組織の総量をどう推定するかによって大きく異なってくる.
  • 体骨格の含気性(気嚢システムを推定させる)は翼竜にあり,マラスクスと鳥盤類にはなく,獣脚類にあり,竜脚形類では最初期のものと後期のものにある.また最初期の獣脚類や竜脚形類の気嚢システムは貧弱なものだった.気嚢システムの進化(あるいは消失)過程はまだ解明されていないが複雑だったようだ.
  • 竜脚類は(気嚢システムなどにより)体内に大量の空気を含んでいたことがわかってきた.これにより非常に浮きやすくなっており,水深が深いところでは非常に不安定だったと思われる.
  • 保存状態の良いスキピオニクスの化石の1つでは腸が良好に保存されており,表面の細かいひだや顕微鏡的な特徴もいろいろ観察できる.
  • 恐竜ルネサンス以降,恐竜について軽量で細身の外観の復元が流行になった.筋肉質でスリムな外観はある意味正しいが,たるんだ皮膚や脂肪などの軟組織の可能性を無視しており,「シュリンク包装」復元とも呼ばれる.最近はデジタルモデリングや新しい化石の基づいたよりリアルな復元をめざす動きも出てきている.
  • 恐竜の顔について,頬を覆う筋肉があった可能性は小さいが,顎の縁に肉厚の唇や頬があった可能性は高い.ウィトマーは現生カメ類ワニ類の鼻孔の構造と化石に残る血管のあとに基づいて,恐竜の鼻孔についてこれまでの復元より口に近い部分に鼻孔開口部があったと主張している.
  • 角竜に角質のクチバシがあったことはよく知られているが,角質が顎の後方まで覆っていたかクチバシの後方に頬があったのかは明らかではない.

 

第4章 恐竜の生態と行動

 
第4章は生態と行動.食性と採餌行動,歯の摩耗,獣脚類恐竜の前肢の使い道,消化器系の中身と糞石,歩行と走行,水中移動,生理機能(内温性),繁殖,子育て,性差,成長,群集が扱われている.

  • ティラノサウルウス類の歯は獣脚類の中でも格段に大きい.骨を突き破るのに適していたようだ.
  • デイノニクスの有名な鉤爪は長らく獲物の腹をえぐる武器だと考えられてきた.しかし実際にはこの鉤爪で獲物の腹を切り裂くのは難しく,獲物の恐竜にも簡単に切り裂くことが可能な部分はほとんどない.現生の猛禽類やフクロウと同じく,獲物を地面に押さえつけるために使っていた可能性が高い.
  • 建築物や航空機の構造解析に用いられてきた有限要素解析法が恐竜の頭蓋骨の構造解析に応用され,恐竜の採餌行動の理解が進んでいる.例えばバリオニクスの鼻面に沿って応力が伝達される様子はガビアルに似ており,スピノサウルス類が魚食だったという説を支持している.またティラノサウルス類の頭骨は大きな応力に耐えられることを示しており,骨を砕いていたという説を支持している.
  • ミクロラプトル類の復元模型の風洞実験で,滑空は可能だが滑空距離は短いということが示された.彼等は枝から枝へ滑空可能だったが,陸上生活を基本とする捕食獣であったようだ.

 

第5章 鳥類の起源

 
鳥類は恐竜なのだから,当然ながら恐竜の解説本でも主要なテーマとなるにふさわしい.ここではオストラム以降の鳥類=恐竜説の進展,恐竜の1グループとしてみた場合の鳥類の特徴,飛行の起源,いくつかの古代の鳥類の解説が置かれている.

  • アーケオプテリクスなどの初期恐竜は骨化した胸骨を欠いており,強力な羽ばたきはできず,おそらく飛行そのものができなかったと考えられる.また現生鳥類の骨化した胸骨はマニラプトル類の胸骨が起源ではなく,独立に進化したものだと考えられる.アーケオプテリクスはおそらくほとんどの時間を地面で過ごしていたのだろう.
  • 白亜紀のエナンティオニス類の鳥類化石では成長過程の卵細胞に見える組織が保存されているが,身体の片方にしか見られない.これは2本の卵管のうち1本のみを使用するという特徴が鳥類史の初期に進化したことを示唆している.
  • 飛行の起源にはいくつかの説(滑空,地上での高速助走,翼アシスト跳躍など)があるが,結論は出ていない.最近注目を集めているのは翼アシスト傾斜走行(WAIR)説だ.

 

第6章 大量絶滅とその後

 
第6章では大量絶滅説を扱う.著者たちは隕石衝突の単一原因説には与せずに,それ以前から火山活動による気候変動で衰退していたという複合要因シナリオ説に沿って解説を行っている.そして生き残った恐竜たちとして新生代以降の鳥類史と現生鳥類の多様性が解説されている.
 
以上が本書のあらましになる.勘所を押さえた端正な解説書で,わかりやすいイラストも多数掲載されている.何より最新の知見がバランス良く採り上げられており嬉しい.恐竜ファンとしてはとりあえず押さえておきたい一冊だろう.
 
 
関連書籍

原書

Dinosaurs: How they lived and evolved

Dinosaurs: How they lived and evolved


より詳しい教科書.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20150820/1440029130

 
同原書

Dinosaurs: A Concise Natural History

Dinosaurs: A Concise Natural History


シュリンク包装復元図に疑問を呈している古生物アート本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20171121/1511266243

*1:中には2017年のものもある.本書は2016年出版だが2018年のペーパーバック版に際して改訂があったのかもしれない.詳細は不明だ

Enlightenment Wars: Some Reflections on ‘Enlightenment Now,’ One Year Later その8

quillette.com
 
最後に扱われるの「一体ピンカーはこの本を書いて何をしようとしているのか,どのみち(トランプ支持者のような)馬鹿どもには届かないのではないか」という反応だ.ピンカーは本書を誰に向けて書いたのかを説明し,本書が基本的にはポジティブに受け取られていることを強調し,最後に実際に送られてきた一読者からの嬉しい手紙を紹介している.
 

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

 

<批判 その11>
  • 人々は不合理だ.彼等は事実が何かを気にしないし,議論しようともしない.だとするとあなたは「Enlightenment Now」で一体何をしようとしているのか.

 

<応答>
  • トーマス・ペインが書いているように「理性の使用を放棄している人と議論するのは死人に薬を与えるようなもの」だろう.私は「Enlightenment Now」を理性と議論を放棄している人向けに書いたわけではない.私はこれをあなたに向けて書いたのだ.実際に多くの人は事実が何かを気にするし,事実の提示によって(モラル的アイデンティティによって神聖な事柄以外の)意見を変えることがあるのだ.特に事実がグラフによって示されたならばそうだ.(グラフの有効性につてのリサーチが引用されている)

 

  • 「Enlightenment Now」を書いたときの望みが果たされたのかという点に関して言えば,ここで示している批判や私の反論にかかわらず,望みは予想を超えて果たされたと言うべきだ.「Enlightenment Now」に対する反応は私の最大の期待を越えて嬉しいものだった.「Enlightenment Now」は気むずかしい書評家たちからいくつもの激賞を受け,ペーパーバックの “Praise for Enlightenment Now” ページへの材料に事欠かない.1500通を越える手紙の大半はポジティブで建設的なものだった,その中でも特に嬉しかったのは次の3つの反応だ.

 

  • 最初の反応は現国家指導者,指導者・アドバイザー経験者7人との会談への招待だった.彼等は政治的なアドバイスを欲しがっていたわけではない.彼等は現在のリベラル民主統治の望みについて考察する機会を得たかったのだ.単に反ポピュリズムや反社会主義や現状維持主義では十分ではない.効果的な民主政治のリーダーであるためにはその使命の高貴さと価値についての信念が必要なのだ.そして啓蒙運動の理想は良いスターティングポイントになる.「すべての人間は生命,自由,幸福追求についての奪われることのできない権利を持つ.政府は人々によってそれらの権利を守るために統治する権限を与えられて創られる.」
  • 75のグラフが生命,自由,幸福追求についての進歩を示していることは,民主制の実験は,政府が常に改革を重ね問題を新しい知識によって解決する限り,成功しつつあることを示唆しているのだ.

 

  • 次の勇気づけられる反応は,自分たちの職業文化に破壊的な否定性が埋め込まれていることに気づき始めたジャーナリストたちからのものだった.
  • その否定性は読者を遠ざける:最近の国際的なリサーチでは1/3の回答者がニュースを見ないようにしていると答えている.そしてその態度は世界情勢についての誤解を生みだす.多くの人は世界の貧困や健康や暴力についての3択質問に対してチンパンジー以下の正答率しか示せない.
  • またその否定性は世界は改善できるという信念を腐食する:人類の進歩を信じない人ほど世界の将来に対してシニカルになる.そしてそのシニカルな態度はテロリストや乱射事件犯やツイートする政治家やその他の激情の暴発者たちのインセンティブを作り出しているのだ.
  • 世界の危険や不正義を報道すること(それはジャーナリストとして当然の行いだ)と,「良いニュースは大衆への迎合か企業PRか政府のプロバガンダに違いない」という奇妙な信念の元に進歩を覆い隠すことは違うのだ.
  • 私はジャーナリズムをより建設的でデータを基礎にしたものにするためのいくつかのプロジェクトに参加している.そのようなプロジェクトには以下に挙げるようなものがある.

www.solutionsjournalism.org

constructiveinstitute.org

futurecrun.ch

www.jodiejackson.com

thecorrespondent.com

www.blog.google

www.wbur.org

 

  • 3番目の心温まる反応は,多くの読者が「Enlightenment Now」を読んだことで人生が変わったと報告してくれたことだ.「心理学者」と呼ばれるようになってから,私はいつも「心理学者は人々のメンタルヘルスを改善してくれるはずだ」と考える人々の期待を裏切ってきた,そして人生で初めてその期待に添うことができたようなのだ.多くの心温まる手紙の中でこれが一番嬉しいものだ.それは「進歩を学ぶことの究極の効果は,単なる満足ではなく(進歩への)結びつきにある」という私の信念を裏付けてくれるものだからだ.

毎週私は自分のクラスに最近の出来事を教えています.そして教えることの効果は私にも跳ね返ってきます.多くの若い人は情報源をソーシャルメディアとニュースヘッドラインに頼っているので,私は一日中コンスタントにウルトラネガティブで恐ろしいニュースに襲撃され続けることになります.このプロセスは私を疲弊させるもので,私は時に鬱状態に陥っていました.
しかしあなたの本は私の人生を変えました.今では私は生徒たちに対峙し,生徒たちが議論したがっている恐ろしいヘッドラインを巡るコンテキストを提供できるようになりました.そして私は世界がより良い方向に向かっていることを知り,夜ぐっすり眠れるようになったのです.
現在の社会問題について黙示録的に採り上げず「問題は解決できる」と教えることが重要だと言うことについて,若い人々と接触しながら働いているものの一人としてあなたに全面的に賛成です.若い人に問題は解決できるのだと理解させることは特に重要です.なぜなら彼等は信じられないぐらいエネルギーにあふれているからです(私は毎日それを目のあたりにしています).私たちは,彼等を脅すのではなく(それはほとんどすべての研究でうまくいかないことがわかっています),彼等のエネルギーをうまく導くようにしなければなりません.
恐怖をあおり立てる文化の中で真に必要なコンテキストを提供してくれたことに深く感謝します.それにより私はより幸福な人間に,そしてより幸福な教師になることができました.

 
以上が「Enlightenment Now」を出して1年経った際のピンカーの批判に対する反論だ.基本的には浅い批判が多く,本書内で説明されていることで十分反論できるものばかりだ.ピンカーは本書の趣旨に整合的な多くの解説や記事を引用して自分の議論を補強している.向こうで出版されてからの議論の状況もよくわかるものになっていると思う.

<完>

Enlightenment Wars: Some Reflections on ‘Enlightenment Now,’ One Year Later その7

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次に扱われるのは批判というより,本書がなぜ多くの批判を受けることになったのかについてのピンカーのコメントになる,

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

 

<批判 その10>
  • なぜ「Enlightenment Now」はあんなに人々を怒らせるのか

 

<応答>
  • もしかしたら,それは私が啓蒙運動を理解していないから,本当は啓蒙運動の敵だから,啓蒙運動の罪を拭い去ったから,データをチェリーピックしたから,苦しんでいる個人に冷たいから,啓蒙運動が今にも消えそうなことに気づいていないから,ニーチェを十分に精読できていないから,なのかもしれない.いや,私としては決してそうは思わないが,自分で判断するのはベストとは言えないだろう.というわけでなぜ現代のインテリが本書にこうも激怒しているのかについて憶測を巡らすのにおつきあい願いたい.
  • 【プルーストを読ませよう】
  • 多くの文芸批評は,偉大さについてニーチェ的ロマンティズムに従って芸術や歴史的な成果を念頭におき,子どもの死亡率,栄養状態,識字率などの散文的な指標に無関心だ.50年以上前にC. P. スノーが科学で貧困国の人々の苦しみを減らせると主張したときに,文芸批評家のF. R. リーヴィスに「偉大な文学は人生の糧となる」という理由で攻撃された.
  • 私も「人類の最良の日は未来にあるのか」というテーマで議論したときにアラン・ド・ボトンから同じ理屈で反撃された.ボトンは彼の住むスイスについて,スイスは健康,幸福感,平和,教育,繁栄において素晴らしいところだが,それらは市民がプルーストを評価する保証にならず,他国民からの賞賛に値しないというのだ.(それを決めるのは他国民にまかせてはどうかというのが私の感想だ)
  • この文学至上主義は人類の状況を改善させようとするエンジニアやビジネスピープルや官僚の緻密な努力をあざけることにつながる.これらのハードワーカーたちは組織の中で黙々と成功を積み重ねている.これに対して多くのインテリたちは「クリティカルセオリー」とか「ラディカルな敵対性」とか「懐疑の解釈学」とかのスタンスに立って現代西洋は基礎から崩壊しつつあってラディカルな社会変革が避けられないと考えているのだ.

 

  • 【2つの文化】
  • リーヴィスはスノーの「啓蒙運動のコンシリエンスの理想に沿って科学と人文学は第3の文化に統合される」という示唆に激怒した.科学と人文学に橋を架けようとする試みに対して人文学者が見せる激情は現代のインテレクチュアルライフの中で長年にわたってみられる特徴だ.
  • 科学者の方はこれに気づかず,「なぜ我々は一緒に上手くできないのか」カンファレンスに招待されて,例えば「視覚認知科学が芸術に新たな光を当てる」あるいは「音楽ユニバーサルの解明における定量的調査の有用性」などについて話をし,自分たちが不作法な還元主義ナチスだと扱われているのを発見する.
  • 他の私の著書と同じく「Enlightenment Now」もこの科学と人文学の「境界」を侵し,定量的リサーチ,認知科学.進化心理学を用いて歴史,政治,哲学の解釈を豊かにしようとするものだ.

 

  • 【コンフクト対ミステイク】
  • スコット・アレキサンダーは最近のエッセイで2つのマインドセットの違いに光を当てた
    • ミステイク理論は政治を科学やエンジニアリングや医学と同じに扱う:国家は問題を抱えている.我々はみな医者であり,ベストな診断と治療を巡って議論する.一部の者はいいアイデアを持っているが,一部の者は役に立たなかったり多すぎる副作用を与えたりする悪いアイデアを持っている.
    • コンフリクト理論は政治を戦争として扱う:異なる関心を持つ異なるブロックは永遠に戦う.国家とはエリートをより裕福にするためのものか大衆を救うためのものかを決めるために永遠に戦うのだ.

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  • 彼はいかに多くの調整不可能な違いがこの裂け目にあるのかを示した.それらの中には,議論と言論の自由の価値,人種差別の性質,民主制の利点と欠点,官僚制のメリットと革命的解決の有用性,知的な分析とモラル的な情熱の相対的有用性の問題が含まれている.(ミステイク理論家にとっては情熱は不適切で怪しいものだということになる.間違った者は正しい者と同じぐらい,あるいはそれを越えて大声を出すことがあるからだ.難しい患者の診断と治療を巡って医者が議論しているところに,頭のおかしい叔母が雇った男が割り込んで「それは狼瘡だ!」と大声で叫び続けても問題の解決には役立たないだろう)

 

  • 「Enlightenment Now」は単にミステイク理論に沿っているだけではなく,それこそ啓蒙運動の本質だとみている:「進歩は知識の応用にかかっている」のだ.コンフリクト理論家は啓蒙運動は単に特権の維持のための口実だと見る:彼等は「進歩は権力を巡る戦いにかかっている.」と考えるのだ.
  • アレキサンダーはなぜ共通の認識を得るのがこうも難しいのかを説明している.
    • コンフリクト理論家は,単に何が間違いかについて別のアイデアを持っているミステイク理論家というわけではないのだ.彼等はあなたの批判に対して,なぜあなたは間違っているのかを指摘したりはしない.
    • 「異なる立場を理解して,それを自分たちの言葉で説明できるようになったりしてはいけない」という立場を理解しようとするのにはメタレベルの問題がある.もし理解と説明に成功すれば,あなたは失敗するし,それに失敗すれば成功するのだ.


アラン・ド・ボトンのピンぼけぶりは動画でも見たが,いかにも見苦しかった.(この対談本についての私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20161113/1478991673,同訳書情報はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20161113/1478991674) 芸術の高尚性を強調して現代文明をもたらす科学とその豊穣さを否定するというスタンスはいかにも似非インテリたちにとって居心地がいいのだろう.そしてもう1つの問題は問題解決ではなく相手を叩くことを優先するメンタリティだ.これらを打破していくためにも「今こそ啓蒙運動」というのがピンカーの趣旨ということになる.

Enlightenment Wars: Some Reflections on ‘Enlightenment Now,’ One Year Later その6

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次の批判は本書の最終部分でのニーチェの扱いについてのものになる.ピンカーはこれが多大な反発を受けるとは予想していなかったと書いている.

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

Enlightenment Now: The Case for Reason, Science, Humanism, and Progress (English Edition)

 

<批判 その9>
  • なぜニーチェをそんなに悪く言うのか

 

<応答>
  • 私は自分の本のどこが読者に注目されるかについていつも驚くことになる.「Enlightenment Now」では,それは私のニーチェの扱いについてだった.ニーチェは哲学者であり,その著書の中身は「ヒューマニズムの真逆は何か?」という質問への解答だ.

 

  • ニーチェは「多くの人の苦痛を減らして,幸福度を上げる」という理想はユダヤ-キリスト教的「奴隷のモラル」の感傷的な残存物であり,究極のゴールに至る唯一の道は英雄と天才が偉大な功績を挙げて人類種を持ち上げることだと論じた.私はそれに関するニーチェの言葉を多数引用し(具体例:「高貴な男性による大衆への宣戦布告」「劣った人種の殲滅」・・・),そしてそれ以外の関連する言葉(具体例:「しくじった何百万人を絶滅させる」・・・)をリスト化した.そしてニーチェがファシストやナチスやボルシェビキに崇拝されていたこと,現在もオルトライトや白人至上主義者や自分がイケてると勘違いしている芸術家やインテリを鼓舞し続けていることは偶然ではないかもしれないとほのめかした.
  • 私のニーチェ主義への否定は余談などではない.これまで多くの著者たちが「ニーチェ思想は啓蒙主義が神を否定したことの不可避の帰結であり,もしあなたが啓蒙運動的ヒューマニストならあなたは同時にニーチェ主義者に違いない」と論じてきた.この「ニーチェは無神論者であり『神は死んだ』と宣言した.多くのヒューマニストも無神論者であり『神は最初からいない』と信じている.だからヒューマニストとニーチェは同じだ」という議論は論理的誤謬だ.
  • このように考える人の一部は単に無知からそうなっている.彼等はあまりにも有神論的モラルにとらわれていて,神以外から倫理を導く方法について見当もつかないのだ.(啓蒙運動思想家はどのようにそれが可能かについてプラトンを引用して示している) その他の人はもう少し物事がわかっているが,しかし現代(modernity)の理想,例えば科学,進歩,リベラル民主主義を受け入れられず,それを連想によって覆そうとするのだ,(そのもっとも良い例はジョン・グレイだろう.彼への批判についてはアンソニー・グライリングとジェリー・コインのエッセイを参照のこと)

www.newstatesman.com

https://newhumanist.org.uk/articles/1423/through-the-looking-glassnewhumanist.org.uk

Philosopher John Gray denigrates reason and promotes religion on the BBCwhyevolutionistrue.wordpress.com

 

  • いずれにしても「啓蒙運動=ニーチェ主義」という等式の誤りを示すのは容易だ.ニーチェのその文才のすべてを使って「ほとんどの人の人生は無価値だ」と論じており,それはヒューマニズムの考えの真逆だ.ヒューマニズムはニーチェではなく啓蒙運動によって鼓舞されており,ニーチェは啓蒙運動を蔑んでいた.そしてヒューマニズムUKの最高責任者でインターナショナルヒューマニストと倫理ユニオンの会長であるアンドリュー・コップソンはこう言っている.「ヒューマニズムとは有神論とニーチェをともに否定するものだ」

 

  • 何人かの批評家は私のニーチェの扱いについて憤慨して「ピンカーはジョークを解しないのだ」と攻撃してきた.(彼等によると)ニーチェはジェノサイドや女性蔑視的な言葉をそのままの意味で使っているわけではなく,皮肉,フィクション,あるいは時代も場所も違う人々の精神を再構築する試みと解すべきなのであり,ニーチェの文章は警句,パーソナルなもの,非倫理的なもの,矛盾とパズルに満ちた非論理的なものであり,誰も真に理解できないもので,私にはそれを批判する権利はないのだそうだ.

 

  • いやはや,あるいはそうなのかもしれない.しかし,「ニーチェはナチスやオルトライトに誤解されたのだ」と主張するニーチェの擁護のなかにも,彼がファシストに利用されたことの責任の一部はニーチェにもあると認めているものがいる.
  • いかにも.もしあなたのヒーローが「堕落する人種の殲滅と優秀な単一人類の興隆」を次々と流麗な文章で喧伝したのなら,洗練された解釈能力を持たない一部の読者が「堕落する人種の殲滅と優秀な単一人類の興隆」を信じ込んでも驚くべきはないのだ.

 

  • ニーチェが当時のユダヤ排斥主義者やドイツナショナリストに対して敵対していた(それも「Enlightenment Now」には書いておいたが)としても,それは効果的な擁護にはならない.哲学者のケリー・ロスは「ニーチェの人種差別主義は明白だ」と書いている.ロスは私のニーチェの扱いはむしろやさしい方だとも書いてくれている.

www.friesian.com

 

  • 私はニーチェについての専門家だと主張するつもりはない.私の「ニーチェは反啓蒙運動,反ニューマニズムだ」という主張は何人かの哲学者や歴史家(バートランド・ラッセル,リチャード・ウォリン,アーサー・ハーマン,ジェイムズ・フリン,R. ラニエル・アンダーソン,ジョナサン・グローバーたち)の仕事によっている.「Enlightenment Now」出版後,私の考えは法哲学者でニーチェ学の学者であるブライアン・レイターの「フリードリヒ・ニーチェ:真実は醜悪だ」というエッセイによって裏付けられた.そこにはこう書かれている.
  • ニーチェは反リベラルと共に実存する「実存主義者」だ.彼は有神論の崩壊を目撃し,ポストキリスト教現代のモラル世界観が基本的に耐えがたいものであるという考えに結びつけた.
  • もし,不滅の魂を持つそれぞれの人間を同じ価値あるものとして扱う神がいないのであれば,なぜ我々はみな同じモラル的考慮に値するものだと考えられるのだろうか? そしてもし,ニーチェが議論したように,平等のモラル,利他主義,苦しむものへの憐れみが人類の栄光への障害物であるなら? もしモラルを持つ人間がベートーベンになれないのだとしたら?
  • ニーチェの結論は明確だった:もし平等のモラルが人類の栄光への障害物であるなら,平等のモラルは悪しきものである,これはあまり知られていないが,ニーチェのショッキングな反平等主義なのだ.

www.the-tls.co.uk


私はニーチェについては著書を読んだこともないし,真剣にその思想を理解しようとしたこともないが,まあそういうことなのかなあという感想だ.現代の日本では,そして哲学業界ではニーチェの扱い,あるいは人気というのはどうなっているのだろうか.