書評 「生命の<系統樹>はからみあう」

 
本書は「ドードーの歌」で有名なサイエンスライター,デイヴィッド・クォメンによる分子系統,3ドメイン(アーキアの発見),遺伝子水平伝播をテーマにした科学史と科学者列伝を扱うノンフィクションになる.様々な関係者へのインタビューを元にした組み立てが巧くはまり,魅力的な物語に仕上がっている.原題は「The Tangled Tree: A Radical New History of Life」
 
冒頭はダーウィンがBノートに走り書きした系統樹から始まる.そこからアリストテレスまでさかのぼる生命の階梯図,オージエの「植物の樹」,リンネの分類体系,ラマルク,ヒッチコックの「系統樹」,ダーウィンの「種の起源」の唯一のイラストと順番に解説しながら進化系統樹をまず提示する.
ここから物語は分子系統学の曙に移り変わる.分子情報を用いて系統樹を書くというアイデアを最初に提示したのはフランシス・クリックになる.このアイデアはポーリングとズッカーカンドルに影響を与え,彼等はこの考えを進め,分子系統学を形作った.そこに登場するのが本書の主人公カール・ウーズになる.ウーズは1964年に生物物理学のバックグラウンドを持つテニュア所得済みの36歳の研究者としてイリノイ大学にやってきた.ウーズは遺伝暗号の謎に興味を持ち,それを追究するうちにその進化系統に興味を持つようになる.そしてリボソームの16SrRNA分子に標的を定める.ここからは初期のシークエンシングの苦労話になる.分子を単離し,半減期14日の放射性リンでマーキングし,酵素で切り刻み,電気泳動を2次元にかけ,そのパターンである黒いしみを見て配列を読解する.そういう苦労の後,ウーズはメタン生成菌のRNA配列がその他の細菌と大きく異なることに気づく.
クォメンはここで細菌の分類学が泥沼のカオスにはまり込んでおり,1962年には世界屈指の微生物学者の降伏宣言も出されていることを解説する.ウーズはメタン生成菌,好熱菌がこの異なるパターンを共通して持っていることを確認した.ついに細菌の世界の大きな系統を見つけたのだ.彼はそれを生物の基本的な分類単位であると考え.界の上のドメインという単位を設け,真核生物,細菌,アーキア*1の3ドメイン説を1977年に提唱した.
しかしこの大発見はすぐには世界に,特にアメリカの学界には認められなかった.クォメンはそれはウーズが論文発表と同時にプレスリリースを出し,各メディアがセンセーショナルに取り上げたことへの反発だったと描いている.しかし独自に同じ結論にたどりついたドイツでこの3ドメイン説は好意を持って受け止められ,また好塩菌などのアーケアの仲間も見つかり,10年ぐらいかけて徐々に浸透していくことになる.

次の登場人物はリン・マーギュリスだ.彼女は「真核生物の細胞は太古の共生の結果である」という考えを強烈に打ち出した.クォメンによると葉緑体がシアノバクテリア起源であるという考えを最初に提示したのはコンスタンティン・メレシコフスキーというロシアの学者で1905年のことになる.またミトコンドリアについてはイヴァン・ワーリンが最初にアイデアを提示しており,これは1920年代になる.これらの説はあまり真剣に扱われていなかったが,1967年にマーギュリスが鞭毛,繊毛,中心小体も共生の結果だと独自アイデアを加えて「真核細胞共生起源説」として提唱したということになる.ここではマーギュリスとメレシコフスキーの型破りで破天荒な人生模様がサイドストーリーとして語られていて,なかなか読み応えがある.
真核細胞の共生起源のアイデアには検証が必要だった.検証はウーズとも親しい間柄であったフォード・ドゥーリトルがリボソームRNAを用いて行い,紅藻の葉緑体のリボソームRNAと細胞質のリボソームRNAの配列が全く異なること,そしてそれがシアノバクテリア由来であることをクリアーに示した.またマイケル・グレイはミトコンドリアも細菌由来であることを示した.そしてウーズはミトコンドリアの起源は1種のプロテオバクテリアであったことを示した.マーギュリスにとって残念ながら彼女のオリジナルアイデアにからむ鞭毛,繊毛,中心小体には遺伝子がなく,これが細菌由来であることは検証できなかった.今日ではこれは疑わしいとされている.マーギュリスはこのあとガイア仮説に入れ込み,生物の大区分として5界説(モネラ,原生生物,植物,菌類,動物)をとりあげる著書を出す.そしてこれは3ドメイン(真核生物,細菌,アーキア)が基本だとするウーズを激怒させることになった.

ここでヘッケルが登場する.クォメンはヘッケルの人生とダーウィンから得た進化と系統樹の発想を見事な画才で美しいイラストにしていった様子を丁寧に追っている.そしてクォメンはここから系統樹の根元がどうなっているかというところにフォーカスしていく.ウィテカーはマーギュリスと5界説の論文を1978年の1月に書き,ウチワサボテンのような5界説ツリーを描いた.これはウーズがアーキアという第3の王国の主張を行った直後だった.ウーズはジョージ・フォックスと(紆余曲折の末に)3ドメイン説の論文を書き,根元の共通祖先状態から3本の枝がでている「ビッグ・ツリー」」図を提示する.ウーズはさらに1987年に3ドメインの無根の系統樹とその中心である祖先状態をブロゲノートとする論文を発表した.ここまでウーズは3ドメイン間の系統関係については不明としていたが,1990年にはカンドラー,ウィーリスと共著で有根でまず細菌とアーキアが分岐してから,真核生物とアーキアが分岐する系統樹を提示するに至る.

そして本書の最大のテーマ遺伝子の水平伝播の話になる.遺伝子水平伝播の引き起こす現象の最初の発見は1923年のグリフィスによる細菌の「形質転換」だった.肺炎連鎖球菌は良性のR型と悪性のS型があるが,良性R株に悪性S株の死んだ細胞を混ぜておくと悪性S型に変化することがあるのだ.まだ遺伝学は曙の時代で,この現象はしばらく謎のままだった.1934年オズワルド・アベリーはこれが遺伝情報の転移によるのではないかと考えて研究を始める.そして1944年にこの遺伝情報がDNAであることを突きとめて論文を出す.アベリーが調べたのは環境中を漂う裸のDNAがほかの細胞に侵入する現象だった.これ以外の水平伝播メカニズムには接合とウイルス感染があるが,それは1950年代にエスター・レーダーバーグにより発見される.これらの遺伝子の水平伝播は病原性細菌の薬剤耐性を急速に進化させるので重要だ.また細菌間で遺伝子が水平伝播を繰り返すなら,それは進化系統が網状であり,分類群の境界が不鮮明になることを意味する.クォメンはこれらの面でのリサーチや議論の進展について渡邊力の赤痢菌の研究も含めて語ってくれている.
では遺伝子水平伝播は細菌間でのみ生じるのか.そうではない.クォメンはまずヒルガタワムシをとりあげる.ヒルガタワムシは古来より性を持たず単為生殖を行っている例外的な多細胞生物だが,同じく例外的に遺伝子の水平伝播が多い.それは乾燥状態と吸水状態を繰り返すためにDNAが断片化して核から細胞質に漏れ出しやすいことと関連しているようだ.そしてこの水平伝播の多さが無性生殖の長期的な不利益を埋め合わせているのかもしれない.次に取り上げられるのは昆虫だ.昆虫のゲノムにはボルバキアの感染によりその遺伝子が取り込まれていることが多いのだ.

1990年代には全ゲノムシークエンスの時代を迎える.シークエンスが進むほどに細菌やアーキアでは遺伝子の水平伝播がありふれており,系統樹は遺伝子ごとに異なっていることが明らかになってきた.ドゥーリトルは1999年に「系統分類とユニバーサルツリー」という論文を出し,そこに手描きされたもつれ合っている網状の系統樹を掲載した.ウーズは3ドメインに分かれる前のRNAワールドでは遺伝子水平伝播がありふれているが,3ドメインに分かれた以降は例外的だという立場をとった.ウーズはRNAワールドの中で遺伝暗号がどのように形成されたかという生物物理的な問題に関心を移していった.またクォメンはここで2009年に英国のニュー・サイエンティスト誌が水平伝播と網状系統を取り上げて「ダーウィンは間違っていた」という記事を出したことを巡る騒動も描いている.

ではこれらはヒトにとってどういう意味があるのかというのがクォメンの最後のテーマになる.クォメンはヒトの体表面や体内にあるマイクロバイオーム,そしてこの微生物間でも遺伝子水平伝播がみられ,それは細菌間の類縁よりも生態が大きな要因になっている話をまず振ってからヒトゲノムの話に進んでいる.ヒトでも巨大なジャンクDNAが発見され,その多くはトランスポゾンだった.これはレトロウイルス経由の利己的遺伝子でまさに水平伝播でヒトに取り憑いたものだ.そして一部のこのような配列はヒトにとっての適応的な機能も果たしていることがわかってきた.特に胎盤において母親の免疫系が胎盤や胎児を攻撃するのを抑制する機能(ウイルスの配列の持つエンベロープの多様性が機能の鍵になる)を持つ配列は何度も取り込まれ,哺乳類の系統間で入れ替わっていることがわかってきた.そしてレトロウイルス配列のリサーチはCRISPER-Cas9技術の開発に結びつく.クォメンはこのような遺伝子の水平伝播の知見は系統樹の概念,種の概念,そして生物個体の概念を揺さぶるものだと示唆している.
そして最後にカール・ウーズの死を描いている.ウーズは晩年は少し偏屈に(ダーウィンに対してひどく否定的な意見を持つようになったことが描かれている)なったりもしたが,最後まで様々な謎に取り組んでいた.クォメンとしては本書の主人公はウーズであり,その死を持って本書を終わりにしたかったということだろう.
 
本書はサイエンスライターのクォメンが膨大な取材の上に多くの学者の人生と研究の格闘を描き出しており,上質のノンフィクションとして大変充実している.遺伝子の水平伝播が系統樹やヒトとしてのアイデンティティに再考を迫るものだというのはやや大げさすぎて買えないが(結局少なくとも真核生物以降は系統樹はかなりはっきり描けるし,ヒトに取り込まれたトランスポゾンも胎盤免疫抑制などごく一部の例外を除いては外部から感染した利己的遺伝子配列が残っているに過ぎないだろう),読み物としては大変面白い.真核生物内での大分類の話や,トランスポゾンの利己的遺伝子性とそれを抑制しようとするゲノム間のコンフリクトの話などもあればもっと面白かっただろうとは思うが,それはないものねだりということかもしれない.3ドメインと遺伝子水平伝播については非常に優れた啓蒙書にもなっていると思う.興味のある人には見逃せない本だろう.
 
 
関連書籍

原書

 
このほかのクォメンの本,
 
世界をめぐりながら語る島嶼生物と絶滅をめぐる物語 
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世界の様々な野生生物を扱ったエッセイ集. 
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  • 発売日: 1999/03/01
  • メディア: ペーパーバック
 
エボラを扱った本

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Ebola: The Natural and Human History (English Edition)

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このほかのクォメンの本.訳されてはいないようだ.

Spillover: Animal Infections and the Next Human Pandemic

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  • 作者:Quammen, David
  • 発売日: 2013/09/09
  • メディア: ペーパーバック
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  • 作者:Quammen, David
  • 発売日: 2005/06/02
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The Boilerplate Rhino: Nature in the Eye of the Beholder

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  • 作者:Quammen, David
  • 発売日: 2001/04/17
  • メディア: ペーパーバック
The Flight of the Iguana: A Sidelong View of Science and Nature

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  • 作者:Quammen, David
  • 発売日: 1998/02/01
  • メディア: ペーパーバック

*1:ウーズは当初は古細菌(archaebacteria)と呼称していたが,のちにアーキア(archaea)と改めた

Language, Cognition, and Human Nature その92

第8論文 「なぜ氏か育ちかという問題は消え去ったりしないのか」 その7

 
Why Nature and Nurture Won’t Go Away  Daedalus 133(4): 5-17. (2004)
 
ピンカーによる全体論的相互主義者への批判もいよいよ最後になる.ここでは行動遺伝学が遺伝と環境を区別する努力を続けてきたこと,そして得られた知見を特に強調している.
 

「氏か育ちかに関するフレーミングの問題が,私たちのヒトの発達についての理解と新しい発見を妨げている」
  • これとは反対に,20世紀の心理学の最高に啓発的な発見のいくつかは氏か育ちかを区別しようとする努力がなければなかっただろう.
  • 心理学者は認知能力やパーソナリティの個人差の要因を何十年も探ってきた.伝統的な見方はそれらは両親の子育てとロールモデルに大きく依存するというものだった.しかしこれは相関だけ見て,遺伝的な関連をコントロールしていないという方法論的に問題のあるスタディの結果の上に形作られた信念であることを思い出そう.
  • 行動遺伝学者は双子と養子を用いてこのような方法論的な問題を解決した.そしてほぼすべての行動的特徴は部分的に遺伝性を持つことを発見したのだ.(行動遺伝学の発見の概要が説明されている)これらのスタディは膨大な追試の結果確認されている.もちろん概念コンテンツに依存する部分には遺伝性はない.しかしその基礎にある能力や気質は部分的に遺伝性を持つのだ.
  • この時点でヒトは遺伝と家庭環境(親の育て方やロールモデルなど)によって形作られると結論したくなるだろう.しかし行動遺伝学は共有環境(家庭環境要因)と非共有環境(家庭環境以外の環境要因)の影響を区別する方法を提示している.そして注目すべきことにほとんどのスタディは家庭環境が全く影響を与えないか,ごくわずかの影響しか与えていないことを見いだしているのだ.(詳細が説明されている)

 

  • この発見は伝統的な信念を持つものにはショックだった.それは精神的機能不全や薬物依存をどのように育てられたかという原因に帰そうとする精神療法や,両親の環境のマイクロマネジメントがよい子に育てるための鍵であると主張する育児専門家の信頼性に疑問を抱かせる.この行動遺伝学の知見は,移民の子どもの言語獲得の様相,デイケアか自宅かや片親か両親かという環境が子どもの特徴に影響を与えていないことと整合的だ.また生まれ順や兄弟の有無もほとんど影響を与えていない.そしてさらに発展的なスタディは同じ両親による兄弟姉妹への異なった育て方は,子どもの個性の原因ではなく,子どもの個性に対応した結果であることを示している.

 

  • この知見は単にこれまでの信念の誤りを示しただけではなく,重要な疑問を提示した.遺伝でも家庭環境でもない影響はどこから来るのだろうか.ジュディス・リッチ・ハリスはピアグループの影響を指摘した.ティーンの飲酒や薬物問題はピアグループ内のステイタスシンボルという観点からアプローチした方がいいのかもしれない.学校教育の有効性も学級がどのようなピアグループで形成されるかの影響について調べた方がいいのかもしれない.

 

  • 個性の発達はいくつものパズルを提示する.それは単に社会化のプロセスとしては理解できない.同じ家庭に育ち,同じピアグループに属する双子の兄弟であっても個性には違いが生じる.おそらく発達過程における全くの偶然の要素が効いているのだろう.母胎内での偶然の環境要素,毒物,病原体,ホルモンへの暴露,脳の発達過程の軸索成長の偶然要素,ランダムなイベントやそれへのランダムな反応などだ.遺伝子と両親と社会だけ見る見方ではこのような予測不能な要因の大きな影響力を見過ごしてしまう
  • もしそうなら,それは発達の興味深い特徴を際立たせる.一卵性双生児の発達過程においては,すべての偶然要素がキャンセルアウトするわけでも偶然要素によりどこまでも異なっていくわけでもない.彼等の違いは心理学テストや日常生活で感じられるが,2人とも(通常)普通の健康なヒトだ.ということは発達過程は,単純な予測可能な青写真のようなものではなく,複雑なフィードバックループの上にあるのに違いない.時に偶然要素により乱されるが,フィードバックは効いているのだ.

 

  • これらの深遠な疑問は「氏か育ちか」という問題意識の上にはない.これは「ある環境か別の環境か」という問題だ.認知能力やパーソナリティの個人差はどの環境要因がどのように引き起こすのだろう.そしてこれを知るには研究者はまず遺伝要因をコントロールしなければならない.そしてそれこそが両親の育て方が子どもにどんな影響を与えるかを真に知るためには必要なのだ.「すべてがすべてに影響する」というような考え方は洗練されていないだけでなくドグマティックだ.「両親」「兄弟」「家庭」から矢印がでているという主張は,疑いなき真実ではなく,検証可能な仮説なのだ.そしてテストは矢印がそこにないことや別のラベルと矢印があることを私たちに気づかせてくれるのだ.

 

  • ヒトの脳は宇宙の中で知りうる限り最も複雑な物体だといわれてきた.遺伝と環境の単純な二分法や行動における脳の介在を無視する考え方は疑いなく誤りだとわかるだろう.しかし複雑性自体は私たちが問題を「それは考えるには複雑すぎる」といったり,なんらかの仮説に過ぎないものをアプリオリに正しいと主張したりすることを正当化しない.インフレやガンや温暖化問題と同じように,私たちは複雑な原因を解きほぐすことに努めるべきなのだ.

 
ここで強調されているような話は基本的にピンカーの本に書かれていることの要約だ.行動遺伝学の知見は遺伝か環境か,環境だとするならそれは具体的に何かについて様々なことを教えてくれる.それは膨大な追試を経た確実な知識であり,我々はそこには真正面から向き合うべきなのだ.
最近のいろいろな状況を見るとアメリカのアカデミアでは左派イデオロギーの部族主義的シグナリングが強力で,この手の話はなおキャリアの地雷原であり続けており,そしてなかなかこのような方向に研究は向きにくいのだろう.残念なことだ.

書評 「ダイナソー・ブルース」

 

恐竜がなぜ絶滅したのかというのは1970年代までは全くの謎とされ,様々な説が提唱されてカオスのようだった.そこに1980年彗星のように現れたのがノーベル物理学賞受賞者のルイス・アルヴァレズと地質学者であるその息子ウォルター・アルヴァレズが提唱した小惑星衝突説だった.メディアが大きく取り上げ,(漸進的進化を否定したい)スティーヴン・ジェイ・グールドが熱狂的に支持したこともあり,衝突説は巷に一気に広がった.私も最初にこの話を「日経サイエンス(当時は「サイエンス」という雑誌名だった)」で知り,直後に出版されたブルーバックス「恐竜はなぜ絶滅したか:進化史のミステリーに挑む」を読んで,この衝撃的な展開に熱中した.しかし古生物学界は一気にこれを受け入れたわけではなく,衝突否定論,漸進的絶滅論,デカントラップ説を始め様々な反対説が唱えられ,時にメディアにも登場した.論争は衝突の決定的証拠であるクレーター発見後もグズグズと長引いた.時が流れて2010年,ペーター・シュルテがサイエンスに長大な総説論文を発表し,中生代末の絶滅は小惑星衝突説で決定的であることをはっきり示した.その議論については後藤和久が「決着!恐竜絶滅論争 」で紹介してくれている.そこでは反対論者は(よくある大きな科学論争に見られるような)ひたすら自説に固執し,若手は誰もついてこずに老骨にむち打って頑張るだけの存在になりはてている様が描き出されていた.
というわけで長きにわたった恐竜絶滅論争も事実上決着だと得心していたところに出版されたのが本書である.本書は地質学者である尾上哲治が,自分が身近で見てきたこの論争を裏話を含めて書いてくれているもので,絶滅論争ファンの私としては見過ごすことができない一冊だ.
 
本書は冒頭で2012年の国際堆積学会の様子が描かれている.衝突説反対派の(老骨にむち打って自説に固執しているという形容通りの)ゲルタ・ケラーの学会発表時に,それまで一杯だった会場から潮が引くように参加者が退席していくのだ.何故このような状況なのか,著者による自分の体験を踏まえた解説が始まる.
 
著者の物語作りはミステリー仕立てでなかなか凝っている.自分自身も参加した実際のK/Pg境界近くの化石の発掘状況(境界の少し下側に化石の空白地帯があるように見えることが強調されている)も含め,まず実際の状況を整理する.それによるとある動物群は境界で突然消失したように見え,別の動物群は境界に近づくにつれてゆっくり減っていったように見える.また境界とその直上には薄い泥岩層と新生代の石炭層がある.
 
そこから学説史に入る.恐竜絶滅について70年代末に最も勢いがあったのはデューイ・マクリーンによる温暖化説だった.これは現代の温暖化ガスへの警鐘を鳴らすという意味でも注目されていた.1980年,ここにルイスとウォルターのアルヴァレズ父子の衝突説が直撃する.著者はウォルターの境界の粘土層についてのアブダクションの試みという観点からこの仮説の生成過程を説明している.ウォルターは粘土層形成にかかった時間を知りたいと考え,ルイスの物理学者としてのセンスがイリジウム測定に向かわせる.そこで異常な量のイリジウムが発見され,これが小惑星衝突説としてまとまる.(ここで著者はルイスが衝突による生態系への影響についての着想をクラカトア火山の本から得たとしていることに疑問を呈し,その直前に出たナビエの論文にヒントを得た可能性を指摘している.)
 
ほかに40以上もある恐竜絶滅説の中でアルヴァレズ父子の衝突説が特に注目すべきだったのは,イリジウム異常という有無を言わさぬ証拠があり,すぐに世界中のK/Pg境界から同じようなイリジウムの異常堆積が見つかったからだ.(著者はここで,実はイリジウムの異常を最初に見つけたのはガナパシーであったのではないかと指摘している)
ここから大論争が始まる.多くの地質学者,とりわけ古生物学者たちは衝突説をすぐに受け入れようとはしなかった.ルイスはそれをたたきつぶすために大立ち回りを演じる.著者は1981年のK/Pgにかかる国際会議の様子を描いている.ルイスは蒼々たる衝突説賛成者を集めた中に,マクリーンを招待した.そこでは圧倒的に衝突説中心に議論が進むが,マクリーンはいちいち疑問を呈して頑張るという展開になる.ルイスは休憩時間にこれ以上反対するなら学問的に息の根が止まるぞとマクリーンに警告したそうだ.その後ラウプとグールドが衝突説擁護に周り,実際にマクリーンは回復不可能なダメージを受けて学問の世界から消えていくことになる.
 
著者はここから論争の中身を見ていく.最初の問題は絶滅の様相だ.生物によりK/Pg境界で突然絶滅したように見えるもの(円石藻,浮遊性有孔虫),漸進的に絶滅したように見えるもの(恐竜,アンモナイト等),絶滅していないもの(ワニ,カメ,珪藻,放散虫)がある.これ(特に漸進的絶滅したように見える動物群)をどう説明するかという問題だ.次の問題は衝突がどのように絶滅を招いたのかという問題だ.衝突の塵が太陽光をどのぐらい遮ることができるのか(当初の主張より早く落ちてくるのではという議論がなされた)という問題になる.そして同時期のデカントラップが関連するのかという問題がある.著者はこのようないくつかの論点が捻れながら論争が揺れ動く様子を,自分自身の宇宙塵のリサーチも交え臨場感たっぷりに書いてくれている.
 
「漸進か突発か」論争のクライマックスはデカントラップによる温暖化が漸進的絶滅を説明できるというゲルタ・ケラーと衝突説支持者の対決になる.ケラーは浮遊性有孔虫も実は漸進的に絶滅したのだと主張し,1993年その境界付近の化石について有孔虫研究者による公開のブラインドテストが行われた.結果は確かに化石は漸進的に減少しているが,それにシニョール=リップス効果を入れ込むと突然の絶滅を支持するというものだった.そしてアンモナイト*1も恐竜も見かけ上の漸進的絶滅はシニョール=リップス効果で説明できることが認められていく.衝突による太陽光遮断のメカニズムの問題も塵だけではなく火災の煤と硫黄ガスをカウントすることで解決できそうなことがわかってきた.片方で1991年には明白な衝突の証拠であるチチュルブ・クレーターが見つかっていた(この発見の経緯についても詳しく解説されている).
 
ケラーはまだあきらめない.ヤン・スミットが津波堆積物である砂岩層を発見したと報告したことに対してスティネスベックと一緒にそれは30万年かけて堆積した砂岩だと批判した.1994年彼等はテキサスで学会が開かれた機会に対決することになり,メキシコの当該地層に出向き,またも公開の場で堆積学者に判定してもらうことにした.判定はスミットの勝ちだった.しかしケラーはなおも新生代に生き残った浮遊有孔虫の存在,多重天体衝突,デカントラップの強調をもって抵抗を続ける.状況はどんどん苦しくなり,多くの研究者からは相手にされなくなっていった.するとケラー達はメディアを通じて衝突説を執拗に批判し続ける.そしてこの見苦しいメディア戦略を通じて世間に誤解が広がることを懸念したピーター・シュルテと40名の共著者による衝突説が決定的であることについての総説論文が2010年に出版されるに至る.
 
これで長きにわたる論争は大団円という形だが,著者はなおその後の衝突説をめぐる展開を書いてくれている.ここは現在進行中の話としてなかなか興味深い部分になる.
 
2014年に衝突時の硫黄ガスは二酸化硫黄ではなく三酸化硫黄ではないかという論文が出る.三酸化硫黄はすぐに水蒸気と化合して地上に落ちてしまうので,「衝突の冬」の実現が難しく,海洋表層で急激にそして激しく酸化が生じた(海洋超酸化)ことになる.また新しい技術で測定したところK/Pg境界でのシアノバクテリアの生産量低下はそれまで言われていた50〜300万年というスケールではなく100年以下であることが示された.これらは絶滅において光合成停止がそれほど重要ではなかった可能性を提示している.また海洋における生食食物連鎖崩壊(腐食者のみ生き残る)という主張は絶滅率のデータと合わないこともわかってきた.
ここから海洋超酸化で炭酸カルシウムの殻を持つ生物が選択的に絶滅したという説が提唱されている.しかし絶滅率の低い生物群が必ずしも耐酸性が強かったということにはなっていないのでこの説も盤石ではない.
また陸上においてはこれまではデトリタス生物が生き残ったとされていたが,必ずしもそうではないことがわかってきた.現在超濃厚な酸性雨による陸上植物の絶滅,あるいは土壌カルシウム必須生物の絶滅(あるいは恐竜の卵はこれかも)というメカニズムが真剣に検討されている.
そして著者はデカントラップについてももう一度詳細を調べると絶滅となんらかの関連が見つかるかもしれないことを示唆して本書を終えている.

本書は自身地質学者であり,K/Pg境界の化石発掘も手がけたことがある著者による自らの体験も含む恐竜絶滅論争物語であり,迫力があり,さらにストーリーの展開が巧みで楽しく読める.随所に裏話があり,ルイス・アルヴァレズの強烈な仕振りや,ゲルタ・ケラーの見苦しい抵抗振りは特に読みどころだろう.さらに2010年のシュルテの総説論文のあとも,恐竜絶滅をめぐる謎はまだ未解決部分を持ち,さらなるリサーチを待っているという状況も語ってくれていて大変興味深い.恐竜絶滅に興味のある人にはたまらない一冊だと思う.


関連書籍

ピーター・シュルテの論文の直後にその解説も兼ねて出された本.私の書評は
https://shorebird.hatenablog.com/entry/20120210/1328874229

決着! 恐竜絶滅論争 (岩波科学ライブラリー)

決着! 恐竜絶滅論争 (岩波科学ライブラリー)

  • 作者:後藤 和久
  • 発売日: 2011/11/09
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 
衝突説について日本語で詳細が解説された初めての本.隕石が落ちてきてどのような衝突になるのかの物理的な詳細が詳しい. 
これはその後周期的大量絶滅説が出された後,ネメシス説を唱えた本人による本.現在では否定されているが,当時の生々しい状況が紹介されている. 
こちらはチチュルブクレーターが見つかった後の解説書として読んだ一冊. 
そしてこれも外せない.衝突説生みの親による回顧録


 

*1:アンモナイトはK/Pg境界より前に絶滅していたのではないかと考えていたピーター・ウォードも境界ぎりぎりの化石を見つけ,シニョール=リップス効果も認めて転向した話も書かれている

Language, Cognition, and Human Nature その91

第8論文 「なぜ氏か育ちかという問題は消え去ったりしないのか」 その6

 
Why Nature and Nurture Won’t Go Away  Daedalus 133(4): 5-17. (2004)
 
ピンカーによる全体論的相互主義者への批判(承前)
 

「遺伝子の効果は環境に決定的に依存している.だから遺伝は行動に全く拘束を与えない」
  • この立場を説明するために2つの例がよく取り上げられる.同条件で育てると高さが異なるトウモロコシ2系統があるとして,高い系統に水を与えなければ(水を与えた低い系統より)低くなるというもの,そして遺伝性のフェニルケトン尿症の子どもにフェニルアラニンを抑えた食事をとらせると発病を抑えられるというものだ.この例には強調すべきポイントが含まれている.遺伝子は行動をぎちぎちに決定するわけではない.教育のような環境的な干渉はヒトに大きな影響を与えうる.また遺伝子と環境は統計的な意味で相互作用する(つまり常に相加的ではなく,相乗的であったり逆に効いたりということがある)ということも強調されるべきだ.
  • しかし同時に環境の依存性を強調して遺伝の重要性を否定するのは誤解の元だ.まず環境さえうまくデザインすればどのような結果も得られるわけではない.確かにある種の遺伝子の効果は環境によって消去できるが,すべての遺伝子の効果がそういうわけではない.行動遺伝学は広い環境分散の元でもパーソナリティや知能や行動傾向に遺伝性があることを示している.フェニルケトン尿症のケースについてもフェニルアラニンを含まない食事を与えてもある程度の知能の減退効果が残ることがわかっている.
  • また遺伝子の効果を逆転させる環境があるということ自体にはあまり意味はない.極端な環境で遺伝子の発現が乱されるといっても通常環境では遺伝子は想定される方向に発現する.
  • 要するに環境により遺伝発現が影響を受けるからといって遺伝の影響が非本質的になるわけではないのだ.それどころか,遺伝子はどのような環境操作がどのようなコストの元でどのような効果を持つかを決める.これは遺伝子の個別発現から社会のような大きな現象まですべてのレベルで真実だ.20世紀の社会主義諸国は社会全体の行動を変容させることに成功したが,それには大規模な強制というコストを伴った.それは社会主義のイデオロギーが「ヒトの動機は環境操作により簡単に変えられる」という間違った仮定の上にあったからだ.
  • 逆に多くの社会的な進歩はヒトの本性の特定の側面に結びつくことによって成し遂げられた.すべてのヒトには同情心がある.残念なことに同情が育まれるモラルサークルはフリーパラメータであり,デフォルトでは家族やクランや村の範囲でしか同情は生まれない.しかし特定環境ではこのサークルは広がることができる.道徳の進歩を理解する重要な方法はこの広がりがどう生まれるかを知ることだ.有力な考えは互恵的な取引関係にあるものはサークルに含まれやすいというものだ.ヒトの本性の自明でない様相を理解することがヒトの社会を変化させる鍵になるのだ.

 
これはまさに無理筋のこじつけあるいはイデオロギーで目が曇ったときにありがちな強引な議論ということだろう.ヒトのパーソナリティや知能への遺伝子の影響を完全に打ち消せるあるいは逆転させられる環境要因が常にあるはずがない.ピンカーの最後のコメントは味がある. 
  

「遺伝子は環境に影響を受け,学習には遺伝子の発現が必要だ.だから氏か育ちかの区別は意味がない」
  • 遺伝子が常にスイッチオンになってなく,様々なシグナルで発現が制御されているのは当然だ.これらのシグナルは温度やホルモンや分子的環境などのインプットによって引き起こされる.環境に敏感な遺伝子発現の代表は学習能力そのものだろう.スキルや記憶はシナプスの物理的変化として蓄えられ,神経活動のパターンの変化がこれらの変化を引き起こすには遺伝子発現を必要とする.
  • しかしこれらの因果の連鎖が氏か育ちかの区別を無意味にするわけではない.これが意味するのは,私たちは「氏=遺伝子,育ち=それ以外すべて」という等式を考え直す必要があるということだ.生物学者は「遺伝子」にいくつかの意味が重なることを20世紀を通じて示してきた.それには遺伝の単位,特定部分の詳細,病気の原因,タンパク合成のテンプレート,発達のトリガー,自然淘汰のターゲットなどがある.
  • だから前科学的なヒトの本性の「氏」概念を遺伝子と同じと見做し,遺伝子の発現が環境依存だからといってヒトの本性は環境で無限に変えられると結論づけるのはミスリーディングなのだ.ヒトの本性は遺伝子を関連しているが,それは遺伝や発達や進化の単位として,特に脳の回路や化学反応へのシステマティックな影響として関連しているのだ.これは分子遺伝学の「遺伝子」という用語の使い方(タンパク質をコードするDNAの並び)とは異なる.ヒトの本性のいくつかの側面はタンパク質コード領域以外(細胞質発現をオンとロールする非コード領域,インプリント状態など)の情報や,自然淘汰がかかって作り上げられた母胎の環境などからもたらされる.また逆に多くのタンパク質コード領域はヒトの本性とあまり関わりのない部分(外傷の治癒,消化など)で働いている.
  • 多様な「環境」概念ももっと洗練させられるべきだ.ほとんどの氏か育ちか論争においては「環境」はあるヒトへの別のヒトからの(操作可能な)インプットのことを指している.これは両親の褒め方や罰し方,ロールモデル,教育,法律,ピアグループの影響,文化,社会的態度などを想定している.このような対人関係の「環境」と分子化学的な「環境」(特に細胞内での他の遺伝子の影響を受けた化学的状態などの伝統的には遺伝と考えられるようなもの)を混同するのミスリードに結びつく.さらに栄養状態や毒物などの別の「環境」もある.ポイントは一つの意味を優先させるのではなく,様々な環境の意味を区別して,その効果を見ることが重要だということだ.
  • 遺伝子の環境依存性がヒトの本性を否定するわけではないことについてのもう1つの理由は,ある1つの環境が生物個体に非常に様々な方法で影響を与えうるということだ.いくつかの概念的環境は「インストラクティブ」だ.(言語獲得初期の)幼児の語彙は話しかけられた単語に依存する.大人がどこに車を止めるかは「駐車禁止」の標識がどこにあるかに依存する.しかし(遺伝子に直接働きかけるような)環境の別の側面は,それ自体に概念内容の無い(条件依存的な遺伝子発現の)トリガーとして作用する.このような作用は生物の発達段階で圧倒的に多い.良い例はPax6遺伝子だ(遺伝子の発現コントロールネットワークが解説されている)

 
全体主義的相互主義者の論争からの逃げ方としてはまだ穏当な形になるだろう.ピンカーは深いところまでコメントし,遺伝と環境の影響については確かに絡み合っているが,それを解きほどいていくことは可能だし,それによってさらに物事の理解が深まることを指摘している.

Language, Cognition, and Human Nature その90

第8論文 「なぜ氏か育ちかという問題は消え去ったりしないのか」 その5

 
Why Nature and Nurture Won’t Go Away  Daedalus 133(4): 5-17. (2004)
 
ピンカーによる全体論的相互主義者への批判が続く.
  

「だから『氏か育ちか』問題の解答は『それぞれ部分的に』だ」
  • これも正しくない.なぜ英国に住む人々は英語をしゃべり,日本に住む人々は日本語をしゃべるのか.「それぞれ」が関与しているなら,英国の人々は英語を学びやすくする遺伝子も持っていることになる.これは間違いだ.どのような祖先を持っていようが,ヒトは(幼児期に)ある言語に晒されればそれを素速く獲得することができる.ヒトは言語を獲得する能力を遺伝的に持っているが,特定言語を獲得する傾向を遺伝として持つわけではないのだ.だからこの問題への解答は100%環境だというもののはずだ.
  • 時に全く逆が正解になる.精神科医はかつて精神障害を母親のせいだとしていた.自閉症は冷蔵庫ママのせいで,統合失調はダブルバインド*1に追い込む母親のせいだというわけだ.しかし今日我々は両方とも非常に遺伝性が高いことを知っている.100%遺伝というわけではないが,ありそうな環境要因も毒性物質,病原体,発達の際の偶然などで,母親の態度とは関係がない.「それぞれ部分的に」説だと母親の子育ても部分的に非難されるべきことになる.しかしそれは非難されるべきものではないのだ.

 
確かにヒトのパーソナリティなどの個人差のある特徴の多くは遺伝と環境双方が相互作用しながら働いているが,もちろんほぼ遺伝だけ,ほぼ環境だけで決まることも多いわけだ.全体論的相互主義者は通常双方が働いていそうな特徴について「それぞれ部分的」論を持ち出すだろうから,このような批判には戸惑うかもしれないが,一般論として持ち出すのは確かに問題ということだろう.
 

「人々が行動のすべての側面に遺伝と環境の組み合わせが含まれていることを理解すれば,政治的な論争は消えてなくなるだろう.」
  • 確かに多くの心理学者はこの当たり障りのない中間地帯に逃げ込もうとしている.
  • しかし,これから挙げる引用をよく吟味して欲しい.「読者が遺伝的あるいは環境的な説明のどちらかが排他的に勝ち残るだろうと考えているとするなら,私たちは上手に説明できていないということだろう.この問題について遺伝子と環境が共に働いているというのはとてもありそうなことだ」これは全体論的相互主義者による合理的な妥協であり,論争を引き起こしそうには見えないだろう.しかし実際にはこの文章は1990年のハーンスタインとマレーによる「ベル・カーブ」からの引用だ.彼等はアメリカの黒人と白人のIQ差について遺伝的要因と環境的要因の両方が働いていると論じている.「どちらも部分的に」という立場は彼等を「ナチのような人種差別主義者」という糾弾から逃れさせはしなかった.そして彼等のこの立場は正しくない.このIQの人種差が100%環境要因であることは十分あり得ることだ.ポイントは,多くの心理学のドメインで遺伝的要因が少しでも働いているという主張は今でも激しい論争を引き起こすということだ.

 
ここは全体論的相互主義者の戦術の稚拙さという部分になる.イデオロギー的なブランクスレート論者から見れば「遺伝も」というだけでたたきつぶすべき差別主義的発言ということになるはずだ.実際に政治的に問題になるのは「遺伝だけ」で頑張った場合ではなく(政治的にセンシティブな問題にそういうがんばり方はまず誰もしないだろう),「遺伝も」という状況で生じることがほとんどだろう.つまり全体論的相互主義は政治的保身の動機から(真実から離れ,リサーチプログラムをあきらめる形で)唱えられているが,そのコストに見合う政治的保身の役にすら立たないような立場だということになる.
 

*1:2つの選択肢のどちらを選んでも悪い結果になるが,どちらかを選ぶことを強要すること