From Darwin to Derrida その3

 
プロローグ.アリストテレスの4原因説を登場させた後,このフレームに沿って本書の内容の概要が説明される.
 

プロローグ 最初に言葉ありき その2

 

  • 本書の主たる課題は物理的世界からいかにして目的と意味が生まれるのか(つまり質料因と作用因からいかにして目的因と形相因が生まれるか)を説明することだ.
  • 生命の歴史において鍵となる進展は,コピーされる確率に直接的間接的に影響を与える物質や書き込みの起源だ.このような遺伝物質はどこからともなく突然現れたわけではなく既にある物質が再配置されたものだ.連続したコピーはアイデアではなく物質的に生じるが,物質的遺伝子の系譜は分子的には入れ替わりながら構造を保持する.何が伝わるのか.それは情報と言っても形態と言ってもいいだろう.
  • すると遺伝物質は形相因と考えることができる.アリストテレスなら「我々がヒトであることの形相因は我々を構成する物質がヒトを作る原因となることである」と言っただろう.ヒトとチンパンジーとナメクジは同じ物質でできているが,異なった形態を持つ.
  • しかしコピーだけでは何も生まれない.ゴミからゴミが出るだけだ.我々はゴミから何か有用なもの(例えば卵とか)が生まれるのを見たいのだ.
  • スピノザは目的因を「目的因教義は自然を逆向きに捉えるものだ.それは効果を原因として捉えるものだ」と批判した.常識としては原因は効果に先立つことはない.しかし目的因は明らかに先立つものをあとに来るもの(つまり目的)で説明しようとするということになる.しかしこの常識は特定イベントの原因についての制限的な特徴を,あるタイプのイベント群について外挿してしまっている.私の好きな例はニワトリと卵の話だ.ある特定のニワトリがある特定の卵の原因か結果かを問うことには全く問題はない.しかしこれを一般的なニワトリと一般的な卵について考えると,それは問題含みになる.

 

  • 目的因は自然淘汰と呼ばれる複製の再帰から生まれる.遺伝子とその効果はニワトリと卵のようなものだ.遺伝子の効果はどの遺伝子がコピーされるかの原因になる.コピーの系譜としての遺伝子は生存と繁殖に常に関わっている.ある遺伝子があることが一貫して生存や繁殖に伴っているなら,その遺伝子の効果が因果的に遺伝子の存続に影響を与えたと推論できる.もしその遺伝子の(現在その遺伝子が栄えていることへの貢献という)過去の効果が,その遺伝子の現在の効果でもあると捉えるなら,その効果はその原因より先立っていることになり,それが遺伝子の存在理由(あるいは目的因)として見做されるだろう.複製効率の差の結果として成功した遺伝子は過去何が有効だったかの情報を蓄積する.この情報はそれを淘汰した環境から来るのだ.
  • このような視点に立てば自然淘汰は効果的なアクションについての帰納的推論になる.遺伝子の効果は世界がどのように働くかについての仮説であり,それは過去の有益な結果との関わりの強さによる信頼度を持つ.
  • しかし世界が不変である保証はない.ヒュームが言うように帰納的推論は「将来が過去に似ている」という前提の上に成り立つに過ぎない.
  • 確かに進化的な意図はまがいものの意図であり,ある種のメタファーで本物ではないという議論は可能だ.ヒトのような生物だけが真の意図を持つ,それはそういう生物だけが将来を予見できるからだ.そこには後ろ向きの因果はないのだ.私たちの意図は結果の予期にある.意図するとき私たちは結果を心に描いている.その考察は過去のものであって計画は失敗するかもしれない.しかしここで自然淘汰の非意図的な成果物は,同様に,その身体や本能的な行動が過去働いたように将来も働くだろうと「予期」しているエージェントだと見ることができる.

 

  • (ヒトを含む)すべての生物体は単に動いている物質に過ぎないという形而上学的な感覚(精密な構造の質料因は作用因の複雑な連鎖により形作られ,それは生命の誕生前からセットされていたという感覚)は残る.しかしこれは世界を理解するための実践的な過程ではなく,信念の表明に過ぎない.(これに対して)形相因や目的因はヒトのツール(発明のための炉とエンジン)であり,それは生命を理解するために実践的であり,かつ有用だ.これらを生物学の説明原理とすることを拒否するのは,胎児を胎盤と一緒にすててしまうようなものだ.私が学部生の頃の「汝,目的論的な言葉を使うべからず」というのは,儀式的清浄性のためのドグマティックなこだわりに過ぎないのだ.

 

  • 自然淘汰の意図性は後ろ向きだ.しかし過去に働いたものが現在観察され,将来を予見するのだ.生命体は世界のリアルタイム解釈者として進化する.世界の中で有効な行動をするために世界の情報を使うのだ.生命体はじっくり考え,決断する.
  • 本書の後半部分では「意味」を「解釈過程のアウトプット」として定義する.しかし今ここでそれを正当化することはできない.それは本書全体を使って正当化されるべきものだ.私は解釈には(初期生命のRNAの単一分子のような)単純なものから,今この文の意味をどうとるかを考えるようなタイプまであることを示していく.私の本書についての望みは意味の解釈の連続体を評価することが,人文科学と自然科学の知的探求をもう一度連帯させることに役立つことだ.

 

  • 最後に本書の形式についても触れておこう.
  • 本書は自然淘汰産物を鏡に映し出すことを,そしてそれ自体が創造過程を映し出すことを意図している.そしてこの意図は(自然淘汰のそれと同じく)部分的に後ろ向きだ.
  • 自然淘汰は新しい目的のために古い物質を使い回す.その生産物は古いものと新しいもののごちゃ混ぜだが一緒にうまく働かなければならない.結果的にゲノムは寄せ集めになる,そしてこれは本書も同じだ.本書内にはその場限りの大工仕事としての引用とパラフレーズにあふれている.うまくいったものは繰り返し使っている.ダーウィンはこのことを馬車の様々な仕組みが別の目的に転用されていることを例にあげて説明している.そして私はそのダーウィンの説明も使い回している.
  • 本書は最初から最後に向けて順序通りに執筆されたわけではない.だから読者も好きな部分から読んでいい本になっている.本書のある部分では複雑な生化学的詳細を延々と描いているし,そこは飛ばしてもかまわない.しかし内部的なメッセージが繰り返し再解釈されているというメッセージはしっかり理解してほしい.
  • また人文科学と自然科学が意思疎通してほしいという願いから,どちらにも読まれるような文体で表現しようとした.査読者のいないところでのこのような表現方法での自由な執筆活動は解放的であった.

 

  • 遺伝子について突き詰めて考えたことの意図せざる結果が意味についての考察だった.意味は読み手への入力の中にあるのではない.しかし(読み手からの)解釈の出力にあるのだ.読者の解釈が好意的で補完的であればと思う.しかし一旦テキストが書かれたなら解釈は読者の中にあるのだ.本書は「真実」を見つけたと主張する者ではない.しかし考え方の方法を示すものだ.それは世界について,そして単語の解釈について私が有用だと思ったものであり,読者もそう感じてくれることを願っている.

 
自然淘汰の目的論的な解釈がニワトリと卵の問題と似ているという指摘は面白い.なかなかこのあたりは「意味」をめぐって深そうな内容だ.
 
そして人文科学との橋渡しにもなれ,という願いから,人文科学者にとってもなじみある文体が選ばれたとあるが.古典からの引用にあふれて難解で晦渋な表現が随所に見られる.確かにそうなのかもしれないが,なかなか慣れていないものにとってはハードな文体だ.こうなるとドーキンスやピンカーのような明晰な「クラッシックスタイル」がとても恋しい気分になってしまう.
 
関連書籍
 
文体についてはこの本が面白かった.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20141116/1416098514

From Darwin to Derrida その2

 
ヘイグの「ダーウィンからデリダへ」.冒頭にはプロローグが置かれている.
 

プロローグ 最初に言葉ありき その1

 

  • 進化理論は汚れ仕事だ.それはヒトの本性について何か言うべきことを持つ.

 

  • 多くのしっかりした進化理論は数学の衣をまとっている.私はこの数理モデルについては規律のあるメタファーだという風に考えている.
  • 私たちは世界の中の何かをxを使って表す.例えばナメクジをxとし,レタスをyとする.そしてxとyの関係を数学を使って分析するのだ.私たちはナメクジはxのように振る舞い,レタスはyのように振る舞うと想像する.そしてナメクジとレタスの関係を理解するためにモデルの中でのxとyの振る舞いを分析するのだ.誰もモデル自体の挙動については反対しない.しかしモデルにどこまで物事を入れ込んだのか,モデルの挙動をどう解釈するのかについての議論は尽きない.モデルがメタファーであればその解釈は無限にあるからだ.
  • 私はメタファーの使用を批判しているのではない,その逆だ.メタファー(による理解)は本質的だ.私たちはメタファーを通じて世界を理解する.私たちの感覚は仮想現実だ.現象とは物事を理解するためのメタファーなのだ.


なぜいきなりメタファーの話が出るのか,なかなかわかりにくいが,ここからその説明になる.進化理論を説明する際の「これは○○のために自然淘汰を受けて進化した」というような(「目的」があるかのような)言い方の問題ということになる.このような言い方は厳密には不正確だ(そして創造論者につけ込まれやすい)が,自然淘汰の働き方がわかっているものの間では簡潔でわかりやすく便利な言い方だというのが一般的な感覚だが,ヘイグは結構こだわっているようだ.
 

  • 学部生の頃,私は意図を示す慣用句を避けることに疲れ果てた.40年たっても私は意図を示す用語は避けるべきだと信じ切っている匿名の査読者から「非科学的な」用語法を注意される.彼等のモラル的な言葉遣いから,何か重大なことがこの用語法にかかっているのがわかる.講演を行っても適応に関する「ソフト」な用語法を批判される.
  • しかしこのような批判者の言葉もコードやシグナルやメッセージへの言及にあふれている.そのことを指摘すると彼等は自分たちの用語は厳密に物理学的に定義されていて「目的」をほのめかすものではないと言い張り,自分がメタファーを使っていることも否定する.
  • これが単に用語選択だけの問題ならこの本を書くことはなかったろう.そうではないのだ.言語は深い内部的構造の表現だ.検閲を受ける単語は何か大切なことを伝えようとしている.本書は次の4つの理由から単語の意味に特に注目する.
  1. 言語はそれ自体進化しており,遺伝的進化を考察するための有益なアナロジーを提供してくれる.
  2. 意味は解釈過程の結果であり,解釈者により異なる.だからしばしば哲学や生物学の辛辣な論争は事実の問題ではなく単に単語の定義の問題であったりする.
  3. 言語の起源は意味の不安定性が語彙の異常な拡大を起こしたことを示している.
  4. (これが最も重要だが)言語の美しさと多様性はそれ自体驚異である.

 
この言語についてのコメントは40年にわたる「目的」についての考察の言語に関する部分の抜き書きのような趣だが,奥が深くて味がある.そして本書全体が意味と目的にかかるものであることがほのめかされている.
 

  • 長い期間を経て私は次のように考えるようになった.農業や医療に役立ちそうな多くの生物学のアプローチがしばしば追求されていないのは,哲学的な論理的推定に反しているという理由なのだが,当の生物学者自身はその論理的推定に気づいていない.良いアイデアが悪い理由によって棄却されているのだ.そしてその自己欺瞞的な理由の1つが自然主義的目的論だ.それは生物がしばしば目的を持って行動しているという明白な事実から目をそむけるものだ.
  • 「科学に目的論が入り込む余地はない」という訓戒の歴史は17世紀にさかのぼり,そして科学的説明としての目的因(final cause)の拒否は科学革命に始まる.
  • 目的因はアリストテレスの4原因の1つだ.(乱暴に言うと質料因はものが何からできているか.形相因はそれはどのようなものか,作用因はそのものに動きを与えるのは何か,そして目的因はそれが存在する目的は何かということになる)
  • 新しい物質主義哲学は,質料因と作用因は受け入れたが目的因の受け入れを拒否し,形相因には曖昧な態度をとった.その背後にあるのは事実と価値の分離だ.重要な科学的な価値は「事実は価値より重要だ」というものだ(もちろんこれには皮肉が含まれている).しかし私たちが真の科学者であるなら,価値や目的の起源を理解したいと思うはずだ.

 
ここでアリストテレスが登場する.いかにもハーバードのインテリ的な引用と哲学的な考察でなかなかついていくのがハードだ.アリストテレスの4原因のところがこれでいいのかどうか私に判断する能力はないが,目的について無視するのではなくアリストテレスのひそみに倣ってよく考えるのが真の科学者の態度であるべきだという主張になる.この難解なプロローグはここから本書の内容の説明に入っていく.


自然学 (新版 アリストテレス全集 第4巻)

自然学 (新版 アリストテレス全集 第4巻)

  • 発売日: 2017/11/23
  • メディア: 単行本

From Darwin to Derrida その1

 
デイヴィッド・ヘイグは,ゲノム内コンフリクトに関する独創的なアイデアをいくつも提出した進化生物学者で,私の中ではハミルトン,トリヴァースに並ぶ evolutionary thinker だ.彼はあまり本を書いておらず,これまではエッセイ付き自撰論文集「Genomic Imprinting and Kinship」のみだった(この論文集は出版直後に入手して読んだが,大変面白く刺激的だった).
そこに今回この「ダーウィンからデリダへ」という新刊が出た.デリダというのが気になるが,まあヘイグを信用して読んでみることにした.序言はデネットが書いている.
 
 

序言 ダニエル・デネット

冒頭はこう始まっている.

  • この楽しい本は,どのようにして意味が存在するようになるのか,そしてどのようにして私たちがに自分たちの世界を意味づけるのかについて語ってくれる.そして本書は,哲学.詩,生化学,シャノンの情報理論,古き良き文学の間にある敵対的な境界を無視し,それらをつなげようとする. 

 
ここから,遺伝子制御ダイナミクスとアリストテレスやベーコンの議論の関連,胎盤制御遺伝子制御書き換えにおけるレトロウイルスの役割と文学解釈の関連などが本書の中で議論されることが予告されている.そして科学者にとっての歴史の意味,人文学者や社会科学者にとっての分子生物学の詳細の意味を知るためには本書のローラーコースターのようなアイデア展開が役に立つだろうとのコメントがある.そこからこう続く.
 

  • 哲学者は(よく流布されている偏見によると)「生命の意味は何か」という古くからある問題に関心を持つ.そしてハードサイエンティストは(やはりよく流布されている偏見によると)その問題の解決を無限に延期して,物理的メカニズム的な「どのように」問題(物質とは何か,時間とは何か,分子はどのように動くのか,生物はどのように生まれてどのように生存し続けるのか)だけを取り上げ「なぜか」問題を問わない.
  • このような偏見は自然科学を人文科学から遠ざけ,「自然の法則」と「法則なしのナラティブ」の分断を生みだす.
  • この境界線はこれまでも教えられてきたが,いまこそより教えられるべきだ.それは私たちがより良く物事を知るようになったからだ.私たちは今や生物の臓器の精密さの理由を知っているし,芸術や文学で扱う「意味」がリアルな現象であることも知っている.今や物質と意味,メカニズムと目的,因果と情報を統一的な視点から見ることができるはずなのだ.
  • そして私たちはその統一の鍵がダーウィンの危険なアイデア,つまり「自然淘汰による進化」にあることを150年前から(おぼろげであるにせよ)理解している.そしてこれはより多くの分野で認められつつある.
  • しかしではどのように統一すればいいのか.そこにはまだ解決されていない緊張がある.かつてマルクスは「種の起源」について「これは自然科学の『目的論』への致命的一撃であるだけでなく,その合理的目的を実証的に説明した」とコメントした.
  • ダーウィンは目的論を説明したのか,それともそれを駆逐したのか.その答えは「両方とも行っている」というものになる.それは目的も機能もない現象から目的や機能が現れることを説明したのだ.
  • しかしこのことは多くの人から疑問を持たれてきた.そこには希望的観測あるいは自己欺瞞があるのではないか.自然科学から目的を追放すべきか,あるいはダーウィンは目的論を手なずけたのか.

 

  • 問題解決の鍵は詳細にある.私はそれをこの本を読んで痛感した.私たちは進化理論がわかっていると思い込みがちだ.しかしヘイグは,注意深い適応主義に立ち,現象をリバースエンジニアリングし,すべてのパターンの理由を理解しようとするなら,多くの価値が複雑な細部にあることがわかることを教えてくれる.
  • ヘイグは,戦略遺伝子,裏切り者と詐欺師の競争,チームプレイと歩哨,ロボットにより作られたロボットにより作られたロボットが理由を知ることなくそれらが乗るヴィークルを未来に向けて動かしているという奇妙で魅力的な世界を見せてくれる.これはドーキンスによる利己的な遺伝子の世界をより深くより詳細に探検した世界なのだ.

 
またデネットは本書を読む上で参考になる2つの法則を紹介している.

  • (1)ブライテンベルグの法則:単純なものを組み合わせて作った複雑なものの挙動の予測(下方統合)の方が,観測している複雑なものの挙動をその内部の動きの分析から予測すること(上方分析)より容易である.
  • (2)ワーデンの法則:生じうることはいつか生じる.(デネットによるとこれはマーフィーの法則の改善版で,面白いペシミスティックな表現から脱して物事の真のあり方に近くなっているということになる.これを刑務所の脱獄防止の視点で捉えると,囚人のIQテストを行うより,脱獄可能性の分析の方が有用だということになる)

 
デネットによるとヘイグの分析の多くはブライテンベルグの法則にいう下方統合の手法によっており,小さな部分を分析し,そこから自然淘汰で何が生じるかを考えながら上方に推移していく.そして進化の進み方にはまさにワーデンの法則が当てはまる.ヘイグの議論はボトムアップで,血縁利他的な遺伝タイプトークンが複製功率を追求する.そしてそこにそのトークンが利用できる情報,利用できる機会があるのかが問われる.
そしてデネットのもう1つの問題意識である「意識」について最後にコメントがある.

  • ではどこから真のエージェンシーが現れるのか.分子から心に,利己的遺伝子から実際の(利己的であったり利他的であったりする)ヒトにはどのように到達するのか.
  • ヘイグは「意識的意図は生物に普遍的に現れる志向性の特別なケースである」と語り,どのように特別なのか,どのように現れたのかを説明している.そこではヘイグはどのように遺伝子,文化,理性が相互作用して,賢明さから誠実性が生まれるのかを語る.それは奇跡ではなく一歩一歩複雑性と自由に向かって進んだ過程なのだ.

 
そして最後にこう結んでいる.
 

  • 進化生物学はダーウィン自身に始まる多くの素晴らしい解説者に恵まれている.私の彼等に対する畏敬の念をここで繰り返すことはやめておこう.しかしデイヴィッド・ヘイグはその中でも新奇な洞察に恵まれ,明晰であり,論争の解決者であり,そして慎重でかつ楽しいという点で際立っている.そしてヘイグは存命中の誰よりも私に考えて理解することの喜びを思い出させてくれるのだ.

 
というわけでデネットによるとこれは「利己的遺伝子」の思考をさらに先に延ばした進化思考の本ということになる.読んでいくのが楽しみだ.
 
関連書籍
 
2002年に出されたヘイグによる自撰論文集.基本的なゲノミックインプリンティングのアイデア,それが種子植物の胚乳や哺乳類の胎盤での成長時にどのような営業を与えるか,親子コンフリクト理論との関係,ゲノム内コンフリクトと真社会性との関連,カイガラムシの染色体システム,キノコバエの染色体システム,両親間コンフリクトの一般理論(トリヴァースとの共著),コンフリクト理論とインセスト,両親間コンフリクトとインプリンティングの一般理論,ゲノミックインプリンティングの分散の性パターンなどの論文が並んでいる.

Genomic Imprinting and Kinship (Rutgers Series on Human Evolution)

Genomic Imprinting and Kinship (Rutgers Series on Human Evolution)

  • 作者:Haig, David
  • 発売日: 2002/02/20
  • メディア: ペーパーバック

訳書情報 「さらば、神よ」

 
以前私が書評したリチャード・ドーキンスの「Outgrowing God」が「さらば,神よ」という邦題で邦訳出版された.この「outgrow」というのは「(子どもがおもちゃなどから)卒業する」というほどの意味で,原題は「神様などというお子様向けのものから卒業しよう」みたいなニュアンスがあるようだが,日本語にするのはやや難しい.穏当な邦題というところだろうか.
 
ドーキンスはデネットやハリスと並ぶ新無神論者の代表格の1人であり,2006年の「The God Delusion(邦題:神は妄想である)」において新無神論の主張を徹底的に行っている.また子ども向けには2011年の「Magic of Reality (邦題:ドーキンス博士が教える「世界の秘密」)」を書いて,その中で関連するトピックをやさしく説いている.
 
しかし「The God Delusion」では(想定論敵に宗教家,哲学者,宗教擁護左派インテリを含めたためもあり)戦闘的なスタイルで神の不存在を議論しており,一部の読者からはかなり反発を買っていた.そういうこともあってこの「Outgrowing God」では,神の存在について何となく疑いを持つがまだ無神論までには踏み出せない程度のごく普通の人々への案内書的な内容になっており*1,宗教の主張の非真実性,宗教なしでも道徳が崩壊しないこと,自然界のデザインや宗教心自体が唯物的に説明できることに論点を絞っている.最後の論点においては進化生物学者のドーキンスも顔を出しており,いろいろ楽しいトピックも盛り込まれている.ドーキンスファンとして素直に邦訳を喜びたい*2

 
私の原書の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2019/10/16/072635

Outgrowing God: A Beginner's Guide (English Edition)

Outgrowing God: A Beginner's Guide (English Edition)

 
関連書籍
 
ドーキンスが新無神論を世に問うた本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20070221/1172066931

The God Delusion: 10th Anniversary Edition (English Edition)

The God Delusion: 10th Anniversary Edition (English Edition)

 
同邦訳.
神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別

 
中学生程度の子ども向けに新無神論の内容も含んで書いた本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20111003/1317640196


同邦訳

*1:そういうわけで原書の副題は「A Beginner's Guide」になっている.日本の想定読者にはあまり一神教信者はいないだろうから邦書の副題にはしにくかったということだろう

*2:紙版と電子書籍が同一日販売なのも嬉しい.是非ほかの出版社も早川書房に続いてほしいものだ.

スティーヴン・ピンカーに対する除名請願運動とその顛末

7月の上旬にアメリカ言語学会(LSA)に対して「ピンカーの言動はLSAの代表にふさわしくなく,LSAの目的からいって受け入れられないものであり,『アカデミックフェロー』や『メディアエキスパート』の地位からの除名を求める」という請願が行われるという騒動が勃発している.
このブログではピンカーの著書や講義について紹介してきており,またこのような「キャンセル・カルチャー」について,アメリカのアカデミアの雰囲気についてのルキアノフとハイトの本やミラーの徳シグナリングの本の書評も載せてきたこともあり,私も無関心ではいられない.簡単に紹介しておこう.
  

請願

docs.google.com

 
7月1日付で600名弱の署名付き公開書簡がLSA宛てに出されている.
 

  • これは言語学者のメンバーによる公開書簡であり,スティーヴン・ピンカーをLSAの『アカデミックフェロー』や『メディアエキスパート』の地位からの除名を求めるものである
  • 我々は,ピンカーの公的なアカデミックとしての行動が我々の職業的組織の代表としてふさわしくなく,LSAの公開している目的(最近公表している人種的な正義についてステートメント)からいっても受け入れられないものであると考える.LSAはこのことを公的に確認し,ピンカーから距離をとるべきだ.
  • 我々はここでピンカーの(ガーディアン誌のいう)「科学的人種差別主義」への接近やデイヴィッド・ブルックスへの支援やジェフリー・エプスタインについての証言を問題にするつもりはない.またピンカーの言語学,認知科学,心理学についての貢献について議論するつもりもない.我々が問題にするのは,ピンカーの最近の言動が,人種差別や性差別に苦しむ人々の声やこのような差別を生みだすシステムについての抗議の声を抑えるような傾向を持っていることだ.以下例を示す.

 
ここから6つの例が示されている.
このうち4つは2014年から2017年にかけてのツイートと著書の中の文言であり,最後の2つはBLM運動が始まった後の今年6月のツイートになっている.
 

請願で指摘されたピンカーのコメントとその背景.

請願者達が指摘するピンカーの言動はどういうものか.請願書とそれを分析したいくつかの記事(ピンカー支援者から最もよく読まれているのはジェリー・コインによるブログ記事のようだ)を参考に簡単にまとめると以下のようになる.
 
whyevolutionistrue.com

 

(1)2015年のツイート

 

  • これはニューヨークタイムズの記事を引用し,「データ:警察は黒人を不釣り合いに多く撃っているわけではない.問題は人種ではなく警察の銃撃なのだ」としたもの.
  • 請願:引用された記事には「データは明白だ.警察の銃撃は人種問題だ,アフリカ系アメリカ人は不釣り合いに多く撃たれている」という文言がある.ピンカー博士は警察の暴力についてのシステマティックな人種差別から目をそらさせようとしている.
  • コインによると,しかしピンカーのコメントはこの記事全体についての適切な要約だということになる.記事の冒頭には確かに請願による引用文があるが,その後「しかしこのデータは偏見を持つ警察官がより多く黒人を撃っていることを証明しているわけではない」と続く.そしてデータを警察官との遭遇機会の多寡でコントロールすると警察官が特に黒人を多く撃っているという結論にはならないというのが記事の概要になる.
  • コインは,請願者こそが不誠実な引用マイニングの罪を負うべきだとコメントしている.

  

(2)2017年のツイート

 

  • これはやはりニューヨークタイムズの記事を引用しており,「警察は黒人も白人も人を殺しすぎている.人種にフォーカスするのは問題解決から逸れてしまうことになる.これは航空機の安全と同じような問題なのだ」という内容になっている.
  • 請願:これは警察による人々の死亡が問題になっていた時期であり,ピンカー博士のツイートはその死亡が不釣り合いなほど黒人に多いことへの関心をそらそうとしているものであり,「すべての人種が問題だ」とか「どちらのサイドも」のような論理を用いることにより人種差別から焦点をそらそうとするものだ.
  • コインによると,確かにBLM運動が吹き荒れる現在の文脈で見るとこのツイートは2017年当時より「悪く」感じられる部分があるそうだ.しかしコインはこの引用元の記事は警察の人種差別の問題を扱ったものではなく,警察の改善一般についての記事だということを指摘する.またピンカーとメールとやりとりして,このツイートについてのピンカーの言い分も紹介している.それによると「このツイートは『すべての人種が問題だ』などのような比喩的スローガンではなく,問題解決のための事実の確認やアイデアの交換という文脈でなされた表現であり,人種差別を過小に扱うことを意図したものではない.警察がアフリカ系アメリカ人を(人口比から見て)不釣り合いに多く殺しているという事実はあるが,遭遇機会の多寡をコントロールしても不釣り合いに多く殺しているという証拠はない.このことは人種問題を過小に見ているのではなく,その効果を指摘するものだ.そしてそれは問題解決のために何が有効かを知るために役立つのだ」ということになる.

 

(3)「The Better Angels of Our Nature(邦題:暴力の人類史)」における用語

 

  • 請願:ピンカー博士は「The Better Angels of Our Nature」において,ニューヨークの地下鉄で1984年に4人の強盗を撃ち殺して当時民衆間で英雄視されたバーナード・ゲッツを「物腰の柔らかなエンジニア」と形容している.撃ち殺されたのは「5ドルくれ」と言ってきた4人の黒人のティーンエイジャーだった.しかしこの「物腰の柔らかなエンジニア」は近所の人によると18ヶ月前に「The only way we’re going to clean up this street is to get rid of the sp*cs and n*****s」といっていたそうだ.彼の用語法はこの(人種差別を背景にした)真の暴力を軽視させようとするものだ.
  • コインはピンカーともやりとりし,この本の問題になった箇所の前後を引用しつつ,この部分は,映画「ジョーカー」*1で表現されたような当時のニューヨークの雰囲気を説明しようとするものであり,ゲッツの暴力を擁護しようとしているものでないことは明らかであるし,そもそもこのゲッツに対する「物腰の柔らかな」という形容は1985年のワシントンポストなどにも見られるものだと指摘している.

 

(4)2014年のツイート

 

  • これは人種差別ではなく性差別関連の糾弾になる.引用記事が消えていてやや背景がわかりにくい.ツイートは「UCSB殺人は女性に対する憎悪のパターンの一部だという主張は統計的に鈍い(statistically obtuse:「統計的なセンスがない主張だ」というほどの意味だろうか)」というものになる.
  • 請願:UCサンタバーバラで女性を6人殺害した学生は犯行直前に女性嫌悪的理由を動画サイトに投稿している.ピンカー博士はこの犯人自身のヘイトスピーチを無視して犯罪が性差別的なパターンであることを統計的に鈍いとしている.これも彼が実際の暴力を軽視する姿勢を示すものだ.
  • コインはまずこのUCSBの殺人は女性6人殺しではなく,男性4人と女性2人であったことを指摘する.ただし犯人が女性に振られたことの復讐だという趣旨をyoutubeに投稿していたのも事実だそうだ.(これだけから見ると,女性嫌悪を示す犯人の投稿があったとしても,男性4人と女性2人を殺したことは女性への復讐の犯罪とするには統計的には無理筋という趣旨にも思えるが)コインは引用元が消えていることも合わせピンカーに趣旨を確認している.ピンカーはこのツイートの背景については思い出せないと断りながら,「当時マスメディアが衝撃的な銃撃事件や自殺テロを大きく扇情的に取り扱うのは,統計的に鈍感で,読者の利用可能性バイアスを考えると政治的にも有害と考えていた.だから,可能性としては元記事は夫や恋人から殺される女性の数が減少しているという内容だったかもしれない」と答えている.*2
  • コインは,(請願者はそもそもstatistically obtuseの意味すらわかっていないのではないかと皮肉ったあと)請願者はピンカーの一般的な問題についてのコメント(ある犯罪が女性嫌悪犯罪かどうかを統計的に考えた場合どうか)を「ピンカーが女性嫌悪主義者だ」と読めると強弁するものだとコメントしている.

 

(5)2020年6月3日(BLM運動が盛んになったあと)のツイート

 

  • ツイートはハーバードの社会科学者ローレンス・ボボのハバードガゼット誌の対談記事を引用して「私はUSの人種差別の減少に関してボボのリサーチを引用した.ここで彼は黒人への警察暴力という文脈の中で人種問題について考察している」というもの
  • 請願:BLM運動が燃えさかっている6月に,ピンカー博士は彼の(人種差別)過小評価アジェンダに進めるため黒人の社会科学者ボボを取り込む(co-opt)ようなツイートを行った.ピンカー博士は,抗議が変化をもたらすと感じているボボの仕事を歪めて伝えたのだ.この翌日にLSAはツイッターで「学会は黒人コミュニティとともに立つ」と明言している.
  • コインはまず単に引用したことを取り込む(co-opt)と表現する請願者にあきれている.そしてこの引用元はアメリカの白人の間の人種差別が減少傾向にあるという内容だ.だからどこにも歪めて伝えているという事実はない.そしてコインはボボのこの対談記事を読めばボボがピンカーと同じように考えていることは明白だと詳しくコメントしている.

 

(6)2020年6月14日の2つのツイート

 

  • 請願:さらに6月14日にピンカー博士はツイートで「urban crime/violence」という言葉を用いて犬笛を吹いた(dogwhistle:わかる人にだけわかるように隠語を使うという意味).著名な言語学者であるヘンダーソンとマククレディによると「urban」には「黒人は下等でしばしば犯罪者だ」という否定的な犬笛的意味がある.
  • コインはこうコメントしている:うーむ.しかしシャーキーもブルンソンも確かにurban crimeの専門家だ.もしそこに犬笛的な意味があるならシャーキーとブルンソンこそ責められるべきことになる.
  • その他のいくつかの記事を読むと,基本的に「urban crime」というのは社会科学,政治学,法学,犯罪学で用いる「都市内の犯罪」を意味するごく普通の用語であり,数多くの書物にもその用例があり,これを犬笛と決めつける理由も根拠もないということのようだ.



こう見ていくとわかるのはこの請願が(人を糾弾するという重大な内容であるにもかかわらず,そして現代の啓蒙主義の擁護者でありリベラルであることが明白な著名な学者をこともあろうに人種差別主義者かつ性差別主義者であると貶めるという衝撃的な内容であるにもかかわらず)極めてスロッピーに作られているということだ.

  • (1)(2)は引用元の記事の要旨をツイートしているに過ぎない.特に(1)については請願者が引用元の記事の修辞的な文言が理解できるほども読み込んでいないことが明らかだ.
  • (3)(6)はピンカーの用語使用の意図を(しっかりとした根拠もなく)勝手に決めつけているだけのように見える.(そして(2)もピンカーがこのツイートを「All Lives Matter」というスローガンとして使ったのだという勝手な決めつけになっている)
  • (4)においては文脈上極めて重要に思える殺人事件の被害者たちの性別を間違えている.あるいは意図的に歪めていると疑われても仕方がない状況だし,少なくともその確認すらしていない*3
  • (5)に至っては単に「ピンカーが人種差別主義者であるのに黒人のリサーチを引用しているのはけしからん」と勝手に思い込んでいるだけにしか思えない.
  • さらに別の複数のネット記事によると当初この請願書への署名者にはピンカーと共著論文を出したこともある著名な言語学者であるレイ・ジャッケンドフも名を連ねていたが,本人は署名しておらず,なんらかの捏造があったらしい(そのような本人が関与していない署名が少なくとももう1名確認されているそうだ)*4

要するにウルトラ左翼から見ると癇に障るツイートがあったので,追放してやろうとして雑に作った請願という感じの代物のように感じられる.
またこの請願の基本的なスタンスは「彼がこのようなことをするのは,こういう意図を持っているからに違いない」という(明確な根拠のない単なる思い込みベースの)決めつけであり,もしこのロジックによる排除が許されるなら,(アカデミアで支配的なウルトラ左翼イデオロギー的スタンスからみて)気に入らない者は誰でも好きに糾弾できることを意味するだろう.特に犬笛論理が許されるならもはやどんなコメントも安全ではない.ジェフリー・ミラーは「Virture Signaling」でアスピー達の苦難を訴えたが,この請願が成立するなら,アスピーでなくともこの思想警察から誰も逃れられなくなるだろう.
 
そして最も戦慄すべきなのは,このような雑な請願にもかかわらず600名近い署名が集まったということだ(一部は捏造だとしても相当数の署名があったこと自体は間違いないのだろう).ある意味雑な請願でも十分に署名が集まるだろうという請願者の目論見が正しかったということになる.
 
これはおそらく署名を求められたアカデミアの人間にとってはこのような誰かを人種差別主義者だと糾弾する内容に署名するのは「自分が主流のイデオロギー部族の一員である」ことを示すあまりコストのかからない格好の「Virture Signaling」であり,極めてスロッピーに署名してしまうからなのだろう.
 
本件については日本語の情報もいろいろ出ているようだ.詳しいものにはDavitRiceさんのブログ記事,optical_frogさんのブログ記事(この記事は特に(4)のフェミニズム関連の部分を取り扱っている)がある.
 
davitrice.hatenadiary.jp
flipoutcircuits.blogspot.com

 
 
 

その後の顛末

 

LSAの対応

 
LSAは請願を受領後,数日かけて検討した結果これを却下した.(以下はLSAからピンカーに宛てた公開書簡)
 
mailchi.mp
 
(7/15追記)
複数の方々からLSAはまだ請願を却下していないのではないかとご指摘いただいた.確かにこの公開書簡では正式に請願を却下するとは言っていない.ただ書簡を読むと,学会の知的自由へのコミットメントを確認し,メンバーの意見表明をコントロールすることは学会の役割ではないと明言している.これは請願を取り上げて除名するようなことは考えていませんよという風に読むのが普通だと思う.もっとも表現としては「事実上取り上げないことにした」ぐらいにしておいた方が良かったかもしれない.
なお書簡の後半でタスクフォースを立ち上げることが書かれている.フェローなどの選出に関する公正で透明な指名・選出方法,およびSNS等による意見表明に関する公正で透明なポリシーを検討し,その結果を次の大会(例年1月)で報告するという内容だ.これも,今後のこのような請願に備えた対応をするという意味で,ピンカーの査問委員会を開いて半年もかけて請願を受理すべきか検討する趣旨ではないというのが私の解釈になる.
 
なおピンカー自身もLSAからの書簡を事実上の却下の表明と受け取ってこうツイートしている.

(追記は以上) 

 

ハーパーズの公開書簡

 
またこれと前後して7月7日にはハーパーズのオンラインマガジンに「A Letter on Justice and Open Debate:正義とオープンディベートについての書簡」が公開されている.これにはノーム・チョムスキー,ニコラス・クリスタキス,ジョナサン・ハイトを含む多くの学者,著名人が署名している(ピンカーも署名に名を連ねている).特にピンカーへの請願について触れているわけではないが,文脈から見て基本的にこの請願への対処が視野にあるものだと思われる.
 
harpers.org

 
書簡の内容は以下のようなものだ.

  • 我々の文化的組織は試練の時を迎えている.
  • 現在,人種的および社会的正義についての力強い抗議運動が,警察改革,さらにより大きな平等とインクルージョンを要求している.しかしこの動きは同時に新しいモラル的態度と政治的コミットメントのセットを強化しており,これはイデオロギーの統一と引き替えに,我々のオープンディベートと意見の相違についての寛容さの規律を弱めている.
  • 我々は前者の動きを歓迎する一方,後者の動きについては反対の声を上げる.
  • 反リベラルの力は世界中で強まり,民主主義への真の脅威であるドナルド・トランプと強固な同盟を築きつつある.しかしこれに対して(右翼のデマゴーグ達が行っているように)自分たちのドグマのブランドを強固にすることや強制によって対抗すべきではない.我々が望む民主主義インクルージョンは広がりつつある不寛容な雰囲気に対して声を上げることにより得られるのだ

 

  • 情報やアイデアの自由な交換はリベラルな社会の血液ともいうべきものだが,日々制限されるようになっている.検閲が(これはこれまで極右のすることだと思われてきたが)我々の文化に広がっているのだ.反対する見解への不寛容,公開の辱めや追放の流行,そして複雑な政策問題を目くらましのモラルで一刀両断しようとする傾向が強まっている.
  • 我々はすべての問題についてロバストで手厳しい反対論とのディベートの価値を支持する.しかし現在主流から外れたと感じられる言論や思想に対しての素速く厳しい報復行動があまりにも増えている.さらに問題なのはダメージコントロールにパニクった組織リーダーが熟慮の上の改革ではなく,拙速に不適切な罰を与えてしまうことだ.論争を巻き起こした編集者は解雇され,書物は非正統的と批判されて排斥される.ジャーナリスト達は特定項目について書くことを禁止され,教授達は授業での文学作品の引用について審問を受ける.リサーチャーは査読済み論文を流布したとして解雇され,組織トップは単なるつまらないミスで追放される.それぞれの議論がどうであれ,結果としては報復の脅威なしに行えることの範囲は狭まっている.
  • 我々は,異論を持つことや賛意が十分でないと判断されることの報復に怯えるライター,芸術家,ジャーナリスト達のリスク回避行動により既に大きな代償を支払っている.

 

  • このようなとげとげしい雰囲気は最終的には我々の時代の最も重要な目的をも害するだろう.政府の抑圧によるものであろうが,不寛容な社会によるものであろうが,ディベートの制限は権力を持たないものにとって最も不利に働き,すべての人にとって民主政治に参加することをより難しくする.
  • 悪いアイデアを駆逐する方法は,公開し議論し説得することによるべきであり,黙らせたり追放することによるべきでない.我々は,正義か自由かという間違った二者択一を拒否する.正義も自由も両方なければどちらも成立しない.
  • 書き手として,我々には実験,リスクテイキング,そして誤りの余地を残す文化が必要だ.我々は,重大な職業的リスクなしに誠実な非合意が生じる可能性を許容すべきだ.もし我々が自分たちの仕事がよってたっているそのような寛容を自ら擁護できないなら.大衆や政府がそれを擁護してくれるはずがないのだ.

 

ということで,ひとまずピンカーへの除名請願は却下されてこの騒動は一段落した.しかしこの影響はさらに残るかもしれない.確かにピンカーは守られた.それはピンカーがあまりにも著名なリベラリストで,人種問題をおろそかに考えていないことは明らかで,チョムスキーやハイトがすぐに擁護に立ち上がったからだ(そしてこの請願があまりにも雑だったからということもあるだろう).この騒動(特にこんな雑な請願に多数の署名が集まったこと)を見た普通のアカデミアの人間にはやはり萎縮効果が強まることが懸念される.
 
そうした文脈ではこのハーパーズ書簡は非常に重要だと思われる.問題を解決することにより良い社会を構築することをめざすのであれば,右であれ左であれ,偏狭なイデオロギー的正義シグナリングよりもまずは言論の自由を擁護すべきだろう.これがアメリカのアカデミアに吹き荒れる「キャンセル・カルチャー」についての転換点になるのかどうかが注目される.
 
なおこの公開書簡についてはoptical_frogさんのブログ記事に(私のより正確な)訳文が掲載されている.
flipoutcircuits.blogspot.com



関連書籍
 
ルキアノフとハイトによる最近のアメリカのアカデミーの風潮に関する本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2019/04/04/172150

 
ミラーによる徳シグナリング本.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2020/04/29/093951

*1:「ジョーカー」では後にジョーカーになるアーサー・フレックがやはりゴッサムシティの地下鉄で3人の悪漢に絡まれて,その結果彼等を撃ち殺して一部から英雄視される状況が描かれているが,ここで撃ち殺される悪漢はウォールストリートで働く傲慢な白人になっている

*2:なおoptical_frogさんの解説記事を読むと,この消えている引用元はどうやら保守系雑誌に掲載された被害者の性別を無視して女性嫌悪犯罪と騒ぎ立てるフェミニストを批判する記事だったようだ.この記事を引用することでピンカーが一部のフェミニスト達に敵視されたということなのだろう

*3:これに関しては請願者側は後に訂正の注釈を付けている

*4:なお最新版の請願からはジャッケンドフの名は消えている