From Darwin to Derrida その81

 

第8章 自身とは何か その21

 
ヘイグによるアダム・スミスの道徳感情論の読み込み.ヘイグによる本能,理性,文化という3つの道徳の要素の整理が終わった.ここからそうやってできた再帰的に絡み合った混合物としての道徳の性質についての議論になる. 
  

  • 道徳的行動の共通の特徴は,逸脱者への怒りだ.非道徳的に行動したと判断されたものは,他者との相互作用における道徳的な保護の対象外になる.彼は罰されるべきであり,痛みを覚えるべきということだ.人類が他者になしてきた最悪の行為の多くは,被害者の非道徳的な行動によりその行為が道徳的に正当化されると考えた人々によるものだ.
  • 道徳コードは強制的だ.支持者にとってその指令はユニバーサルで絶対的なものであり,すべての人がどんな選好を持っているかにかかわらず従うべきものものになる.今日のアメリカ合衆国における「文化戦争」は,異なる代替的なモラルコード間のコンフリクトがエスカレートしたものだと見ることができる.もしある政策が道徳的だとされたなら,それを押し進めるために大量のエネルギーがつぎ込まれる.もしそれが非道徳的だとされたなら,道徳的な怒りの力がそれをたたきつぶすために動員されるだろう.このような理由から政策論争はしばしば道徳的にフレームされる.そして何が正しいのか,誰が利己的な目的を追求しているのかが議論される.

 
道徳の内容はユニバーサルで絶対的に従うべきものと受け取られ,道徳の強制は怒りによって駆動される.だから異なる道徳コードを持つ集団間の争いは時に収束不可能なものになる.ヘイグは(その典型例だと思われる)宗教戦争にはふれずに,現代アメリカの政策論争の一部に道徳的な色が付いていることにコメントしている.
 

  • 道徳コードは文化進化産物であり,自己保身的な適応として進化した.ある種の「sympathy」の形は禁止される.特に道徳原則と競合するものはそうだ.多くの人々にとってそのような「sympathy」を感じること,さらに感じる可能性を考えること,道徳原則を別の視点から考えること自体が罪になる.これらの禁止事項は「政治的な正しさ」にも「文化的な保守」にもあてはまる.

 
自己保身的な適応として進化した道徳はもともと「sympathy」を用いて形成されたものだが,いったん道徳コードが定まるとそれと相いれないコンテンツへの「sympathy」が禁じられることになる.これはしばしばタブーと呼ばれる.
 

  • もし私が,この対立する道徳的絶対性の争いの休戦に向けて何かを示唆するのだとしたら,まず私たちの党派的「sympathy」禁止について理解してから取り組むということになるだろう.しかし両方共に相手への「sympathy」が利用されて搾取されてしまうことを恐れている.政治家たちは囚人ジレンマ状況に陥っており,そこでは妥協しないことがドミナントな戦略になっているのだ.

 
そしてアメリカの政治的な分極化は道徳にフレームされているために休戦困難になっていることが嘆かれている.仮に(双方が妥協する)休戦の方がより良い政策だと政治家が自覚したとしても,彼等は囚人ジレンマゲーム状況に陥っているのでそこから抜け出せないというのがヘイグの見立てになる.
ヘイグのは本章の最後で責任についても論じている.
 

責任

自分自身の行為を吟味しようとするとき,それに承認あるいは否決の判決を下そうとするとき,明らかに私は自分自身を2人に分割している.吟味者であり裁判官である私は吟味され判決を受ける私とは異なったキャラクターとなっているのだ.

アダム・スミス 「道徳感情論」

 

  • 外部から,そして内部からの多くの声が私にどうすべきを教えてくれる.私は,「これをやれ」「あれをやるな」という熱心な勧告,罰の恐怖と報酬の約束,理性的な議論と恍惚としたヴィジョンに責め立てられる.そして私は,理性,良心,義務,名誉,希望,恐れ,矛盾する感情,矛盾するルール,競合する道徳的伝統に惑わされる.そしておそらく,そこには秘密裏に暗躍する無意識の自分からの無音の声があり,無責任な衝動を生じさせる.さらに私のゲノムの中の異なる遺伝子は内部的道徳コンフリクトの異なるサイドに味方しているかもしれない.
  • しかし一旦決定がなされたなら,自身の中のステークホルダーたちの調停者としての「私」が責任を負うのだ.私の魂に神のご加護がありますように.

 
これらの内部的なコンフリクトは進化心理的にいえばモジュール間のコンフリクトということになるだろう.短期的な利益を求めるモジュール,自分がどう評価されるかを感じるモジュールが複数あって複雑に絡み合う.その結果個人の道徳的な行動が決まっていく.うまく世間を渡っていけるか(道を踏み外さずに生きていけるか)はある意味偶然や運の問題になるというわけだ.まさに「私の魂に神のご加護がありますように」ということになる.

From Darwin to Derrida その80

 

第8章 自身とは何か その20

 
ヘイグによるアダム・スミスの道徳感情論の読み込み.ヘイグによる本能,理性,文化という3つの道徳の要素のうち最後の文化的要素が議論される.
 

文化的要素

 

すべての種類の美に関する私たちの感覚は習慣と流行に強く影響されるので,美に関する行動がこれらの原則から完全に逃れられるということは期待できない

アダム・スミス 「道徳感情論」

 

  • 私たちの他者に対する身体的「sympathy」と直接的な観察,彼等の行動のエミュレーションと思考への「sympathy」,説得しようとする試みと考え直し,承認欲求と拒絶への恐怖,友人の話や見知らぬ人や両親や教師やラビやアヤトラや牧師の話を聞くこと,そしてテキストを読み動画を見ること,これらすべては,対人相互作用と文化的プロセスとして,私たちの道徳的本能の粘土をある形に作り上げる.道徳的思考と道徳的実践はモラルジレンマについての膨大な議論に影響を受けている.

 
難解な文章だが,道徳については直接の観察や人の意見を聞くことなどさまざまな情報入力があり,それらのソースが対人相互作用と文化的なプロセスを経て道徳的な本能の現れ方を決め,そして実際の道徳的思考,道徳的実践に大きな影響を与えるということだろう.ヒトは社会的な動物だからこれらは道徳だけでなくさまざまな行動傾向や意思決定についても当てはまるだろう.
ここから特に文化的な側面がピックアップされる.
 

  • 社会的グループの中で代替的な道徳概念の頻度は増えたり減ったりする.それは後戻り,説得,改心,異端への処刑などの結果だ.新しい道徳概念が提案され,古い道徳概念は変化する.これらの道徳概念は一貫したモラルコードに組織化される.これらのコードは何が報われ何が罰されるか,どのようなことが奨励されどのようなことが禁止されるかにかかる心情や「sympathy」が異なっている.

 
実際に道徳好規範は文化によって異なり,さらに時代により変遷する.ヘイグはここで文化差よりも同じ文化内での道徳の変化を特に取り扱っている.
 

  • コードへの追従者,コードの影に生きる者たちは,それに沿って公的セルフを修正することを学ぶ.明示的黙示的ルールへの服従は,罰や拒絶への恐怖に強化され,ほとんどの成功した道徳的伝統の刻印となる.
  • 内部コンフリクトを極小化させ,メンバーにとって良い結果をもたらす道徳コードを持つ社会は,他の社会から模倣されやすいだろう.またある道徳コードの元に強力な軍事力を持ち領土を広げるような社会は,それを恐れる近隣社会にコピーされるような要素をそのコードに持つだろう.

 
そしてそのような変化の一部は周りの(うまくいっている主体が従っている)規範のコピーによるものであり,それは個人間でも社会間でも起こりうるということを説明している.確かに道徳は時代とともに変遷する.ドーキンスはこれを(宗教的な道徳が優れていると考えるべきではないことを説明しようとして)詳しく扱っている.またリドレーやピンカーの議論としてはそのような変化がより好ましい方向(道徳サークルの拡大として)生じていることを扱っているが,ヘイグはそこまでは議論していない.

書評 「アント・ワールド」

 
本書は1929年生まれで(原書出版時の2020年時点で)90歳を越えるE. O. ウィルソンにより書かれたアリの本だ.
ウィルソンは進化生物学の世界ではもはや生きる伝説とも呼ぶべき巨人だ.もともとはハーバードのアリ専門の学者だが,若き日にロバート・マッカーサーと仕事をしたことをきっかけに,数理生物学や生態学などのさまざまな生物学分野の統合の仕事を精力的に行い,1975年に「Sociobiology(邦題:社会生物学)」を刊行.そこで最終章にヒトの章をおいたことから(ハーバードの同僚であった)ルウォンティンやグールドたちから(今でいう)ポリコレ的な批判を徹底的に浴び,いわゆる社会生物学論争に巻き込まれる.いろいろ辛酸もなめたが,そこから,ある意味「社会生物学」最終章に関する自分自身の仕事と位置づけられる(今でいう人間行動生態学の走りのような試みの)「On Human Nature(邦題:人間の本性について)」と(専門のアリについての分厚い専門書である)「The Ant(未邦訳)」という2冊のピューリッツァー賞受賞の本を出し, 1990年代には「The Diversity of Life(邦題:生命の多様性)」を書いて生物多様性についての啓蒙の先頭に立った.また1998年には「Consilience(邦題:知の統合)」を刊行し,自然科学と社会科学や人文科学の統合を提唱した.この頃のウィルソンはまさに輝く知の巨人であり,私のインテレクチュアルヒーローの一人だった.
しかしその後ウィルソンは(社会生物学を書いたときにはその理論を大いに称賛していたにもかかわらず)ハミルトンの包括適応度理論を否定するようになり,ノヴァクの筋悪な包括適応度理論否定論文の共著者として名を連ね,それにそってナイーブグループ淘汰的な記述が各所に現れる「The Social Conquest of Earth(邦題:人類はどこから来て,どこへ行くのか)」を2012年に書くに至った.これはまことに悲しい本であり,私はお別れの書評(https://shorebird.hatenablog.com/entry/20130823/1377258574)を書いてウィルソンと決別することにし,(それまでは出された本は必ず読んできたが)その後の本を特に追うことをしなくなった.(とりわけ「The Meaning of Human Existence(邦題:ヒトはどこまで進化するのか)」とか「Genesis: The Deep Origin of Societies(邦題:ヒトの社会の起源は動物たちが知っている)」あたりの書物は怪しい雰囲気満載で遠ざけていた)
そんな中で出版されたのが本書である.アリの本ならまた読んでもいいかなと思って手に取ったということになる.原題は「Tales from the Ant World」
 
冒頭の「はじめに」でウィルソンはこの本はアリ学の驚きに満ちた冒険物語として書いたと説明している.そしてこれまでアリについての質問で最も多かったのが「キッチンに来るアリはどうしたらいいですか?」だったが,それには「なぜ昆虫がキッチンを訪れてはいけないのか」と問い返したいと不満を表明し,餌を与えて観察しようと提案している.まさに人生をアリに捧げた学者の心意気というものだろう.
 
第1章は「アリの生活にはヒトのモラル向上のために真似できることは何一つない」と断言することから始めている.単純な自然主義的誤謬の話ではなく,アリの社会は1億5千万年かけてジェンダーリベラリズムが暴走している(働くアリや戦うアリはすべてメス)とか,ハンディキャップを持つアリはコロニーを出て行く(ほぼ必然的に死ぬ)ようにプログラムされているとか,他コロニーに対してきわめて好戦的だということが説明されている.このあたりは「Consilience」に書かれている「シロアリのモラル」の話が思い出されてちょっと楽しいところだ.
 
第2章と第3章において自伝的な内容が綴られている.ウィルソンは「Naturalist(邦題:ナチュラリスト)」という自伝を書いているが,そこに書き漏れたエピソードも加えてフロリダやワシントンDCやアラバマで過ごした少年時代の思い出(最初の昆虫愛の対象はチョウだったそうだ),戦後の特別法によりアラバマ大学に入れることになり,学者への道が開けたことなどが振り返られている.

そして第4章から第26章までがさまざまなアリの話が語られる本書の中心部分になる.面白いと感じたところをいくつか紹介しておこう.

  • ウィルソンは13歳の時にアラバマ州モービルでヒアリのコロニーを発見したが,これは北半球での最初の目撃記録になった.アラバマ大学に入ってすぐの19歳の時にはヒアリの専門家として有名になっていて州当局から個体群の分布と被害の調査依頼を受け,女王アリが8キロもの距離を飛ぶこと,2年以内に新しい世代の女王アリを生み出すことなどを調べ上げた.1958年からのアメリカ南部での殺虫剤の大量散布によるヒアリ駆除計画はこのような生態を無視していたものであり,失敗に終わった.
  • 同じくアラバマ大学に入ってすぐの時期にヒメグンタイアリのビバークを発見し,すくい上げて大学に持ち帰った.そこで好蟻性の甲虫を発見した(当時としての大発見であったような書き振りになっている).彼等はパラリムロデス属の甲虫でアリの体表面の油性の液体を栄養源としていた.後世の研究者たちは南アメリカで数百種にわたるグンタイアリに寄生する好蟻性の寄食者集団を見いだしており,その中にはアリの大顎の内側の曲面に乗って生活するダニ,触角の基部に死ぬまでくっついているダニ,後肢の先端に付着して血を吸い,アリの後肢の一部としても機能するハエダニなどが含まれる.
  • 1518年から19年にかけて当時のスペイン領イスパニョーラ島で人を刺すアリが異常発生し,一時は植民地放棄の瀬戸際まで追い込まれたがその後沈静化した.このアリが何だったのかは長い間謎とされていたが,2004年にウィルソンはフィールド調査の大量のデータを使ってそのアリがアカカミアリであることを突き止めた.彼等は幅広い食性を持ち,浜辺で繁殖可能で,当時のガレオン船のバラストとして使われた土や岩に潜んで侵入したようだ.
  • ウィルソンによる好戦的なアリセレクション:特定の種の低木と共生関係にあり,それを守ろうとして攻撃するキバハリアリ(Myrmecia属94種),クシフタフシアリの一種(Pseudomyrmex triplar),ナガフシアリ(Tetraponera属),着生植物に寄生してそれを守るオオアリの一種(Camponotus femoratus).いずれも防衛が可能で資源的に価値のある巣を守るアリになる.
  • アリには外洋を超える能力がほとんど無いようだ.ハワイには現在21属36種のアリがいるがすべてヒトが持ち込んだものだ.ガラパゴス諸島はたった1種だけ在来のアリ(オオアリ属の一種)がいるが,複数種に適応放散はしていない.(なお別のところでキバハリアリの一種がオーストラリアからニューカレドニアに到達している話が出てくる)
  • キッカイアリ(Thaumatomyrmex属)の熊手状の大顎がどのような獲物のための適応なのかは長らく謎だったが,ウィルソンがアリ学者たちに呼びかけた記事により,獲物がフサヤスデであることが判明した.
  • 最も速く歩くアリはアゴヒゲアリ,最も遅いのは不潔なことで知られるカクレウロコアリだ.カクレウロコアリはカモフラージュにたけ,獲物を待ち伏せ捕食する.(アゴヒゲアリのスピードの適応的な理由については触れられてなく,採取の苦労話が語られている)
  • アフリカのマタベレアリはシロアリ捕食に特化しており,大きく,重厚なキチン質のよろいを持ち,集団で高速移動する.また腹部の針による攻撃はアリ界で最悪のもののの一つだ(ライバルはサシハリアリ).彼等は隊列を組んでシロアリのコロニーを襲い,獰猛なシロアリの兵隊集団との集団戦を制して,殺したシロアリの死体を集めて巣に持ち帰る.これは(ウィルソンの評価では)熱帯生物学の中で最も驚くべき現象の一つであり,アフリカに行ったら宿泊施設を抜け出してでも観察する価値がある.
  • ウロコアリは大顎をきわめて速い速度で閉じ合わせる.この獲物が何であるかはウィルソンが飼育実験で発見したもので,彼等は素早く飛び跳ねるアヤトビムシ類と軍拡競争していた.このウロコアリとアギトアリの大顎を閉じるスピードは動物界最速のものとされてきたが,マダガスカルのヘラアゴハリアリは大顎の先端を強く押し合わせてからスライドさせる仕組み(指パッチンと同じ原理)でさらに速い時速320キロを達成していることが見つかった.
  • 中生代のアリの琥珀封入化石が最初に見つかったのは1966年で,これはウィルソン自身が調べてアケボノアリとして記載した.その後類似の琥珀化石が数多く見つかり,アリの進化軌跡がわかってきた.彼等は直線的に進化したわけではなく,何度も適応放散を繰り返していた.現代のアリは中生代後期に適応放散した1種かごく少数種から進化したものだ.中生代の化石からは大顎を上下に開閉するアリ(ハイドミルメクス属)が見つかっている.

 
ある特定のアリのグループの話になったり,生態的な特徴の話になったり*1,コミュニケーションの話になったり,アリの専門家として肩の力を抜いて自由に語っている感じが出ていて楽しく読める.自伝的な部分にも味があり,またもう一度「ナチュラリスト」を読みたくなってしまった.私にとってはちょっと疎遠になっていた頑固なおじいちゃんと再会し,その最良の部分とまた出会うことができたような一冊になった.
 

関連書籍
 
ウィルソンのアリの本
 
ピューリッツァー賞を取った超有名なアリ本.ヘルドブラーとの共著

 
一般向けにかかれた同じくヘルドブラーとの共著 
同邦訳.現在では入手困難になっているようだ 
ハキリアリについても同じコンビで一冊書いている.

同邦訳.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20120804/1344075902

 
自伝 
同邦訳

*1:なおウィルソンはアリの真社会性の説明のところで,ヒトについてもふれており「真社会性に近い動物」と表現している.これは「The Social Conquest of Earth」でヒトを真社会性と断言したときより穏当な表現になっておりちょっとほっとさせられた.ヒトは非繁殖カーストを持たないので伝統的な定義から見ると真社会性ではありえない.しかし女性が閉経するということは老齢女性は繁殖をあきらめたワーカー的な個体だと見ることも可能で,そういう意味では真社会性に近いと言えなくもないだろう

From Darwin to Derrida その79

 

第8章 自身とは何か その19

 
ヘイグによるアダム・スミスの道徳感情論の読み込み.ヘイグは道徳を本能と理性と文化による混合物であり,そこに再帰的な相互関係があるものとして捉えている.まず本能的な要素が解説され,続いて理性的要素が扱われる.これは直感的な道徳感情に対して熟考的な道徳判断として議論されることが多いものになる
 

理性的要素

 

理性は疑いなく道徳の一般的規則の,そして我々が道徳実践のために行うすべての道徳判断の源である.しかし最初の善悪の感知が理性から生じうると考えるのは全く馬鹿げた考えだ.そしてそれはその善悪判断が道徳の一般的規則の形成に関わるものであってもだ.・・・
直接感じられないなら,あることの是非は決められない.

アダム・スミス 「道徳感情論」

そのような行為の一般的規則は,それを習慣的に熟考しているなら,ある状況下でどのような振る舞いが適切かの判断において,利己心からの間違いを正してくれるのに大いに役立つ.

アダム・スミス 「道徳感情論」

 

  • スミスは私たちの道徳的直感は感情から来るが,道徳的規則は理性から来ると信じていた.私たちは,胸の中の自分の判断から一般的規則を導くのではない.そのような判断は自分の行いを冷静に公正に見ることはできない.
  • 一般的規則は,他者の行動やそれについての第三者の判断を観察するときに感じる自然な感覚から導かれるのだ.特に私たちは自分たちの行動に対する賞賛を求め,非難を恐れる.私たちは道徳規則を,他者への第三者的観察の経験から導くのであり,自分たちへの第三者的観察から導くのではない.

 
ヘイグによるとスミスは道徳の理性的熟考的な判断についてそれは第三者的な観察から来るものだと議論している.純粋な抽象的な思考から演繹的に規則が生み出されるのではなく,第三者がある行動をどう判断するか,それが称賛されるのか非難されるのかの判断が道徳の理性的部分の基本だとしている.
  

  • 理性は,自分たちの行動や意見を合理的なものとして説明し,自分たちや自分たちの立場を正当化するために使われるのかもしれない.ハイトは道徳判断における理性の最重要な役目は後付けの正当化理由を見つけることだと主張した.この見方によると道徳的推論には,問題をリフレームしたり新しい道徳的直感を引き出したりして他者の行動を変える力はあまりないということになる.

 
すると意識が後付けの理屈をひねり出す報道官だというハイトの考えと近くなる.しかしそれだけではないし,スミスはそこを深く考察していたというのがヘイグの指摘になる.その上でのヘイグのここからの考察はなかなか面白い.
 

  • しかし理性は自分自身の理由を熟考するために使うこともできる.そして自分自身を他者と調和させるように変えることもできる.スミスは自己内省的な規則は束縛のない道徳的直感へのチェックとして働くと考えていた.道徳規則に従うように行動するというコミットメントは自己欺瞞を防ぎ,将来的に後悔するような行動への衝動に対抗することができる.
  • 理性は論理的に一貫した公平な行動をとるように指示することもできる.「sympathy」は他者をより理解するように進化し,理性は選択肢のコストとベネフィットをうまく計算できるように進化した.あなたのコストにおいて私が利益を得られるような状況下で,私は自分がとれる選択肢のそれぞれの期待効用を計算し,あなたのとれる選択肢のそれぞれのあなたの期待効用を計算してあなたがとりそうな選択肢を予測し反応するために「sympathy」を使う.予測の正確性はあなたの選択のシミュレーションの質と私の論理の質に依存する.さらに予測において3人称視点をとるなら,自分とあなたの区別を無視できる.だとしたら,感情を交えない純粋に合理的な疑問として,何故私は自分の効用をあなたの効用より高く評価すべきなのだろうか.
  • ここで感情が計算に入ってくる.そして感情は自分の効用があなたの効用より優先すると強く訴える.しかし理性は問題を両サイドから見て,私の効用とあなたの効用の評価の違いは,状況を非対称にするための全くの恣意的な基準に基づいているに過ぎないことを理解できる.実際に人々がどれほどこのような抽象的な思考で行動を選んでいるのかはよくわかっていない.しかしこのような合理的な議論は他者にある行動をすべきだと説得するときにはよく見られるものだ.
  • スミスは,目的因の視点から見て,この自分の効用へ与える特別な卓越は「恣意的」ではないと考えていた:「すべての人間は自分を第1に気にかける.そしてすべての人間は他者よりも自分の面倒を見るのにたけている(道徳感情論)」 ヒトは自分の面倒を見る,それはもしそうでなければ「彼は自分や社会の効用を下げるような状況を避けるための動機を持たなくなってしまう.そしてそれらを慈しむ自然は,彼はそのような事態を避けようとすべきだとするだろう(道徳感情論)」

 
この部分は難解だ.ヒトは自分の効用だけでなく他者の効用をも気にかけることがある.それは(評判などを通じて)社会的に排斥されないためにというメカニズムが感情を通じてビルトインされているためでもあるが,理性を通じて自分を優先する態度が全くの恣意的な基準に過ぎないということが理解できるという部分もある.そしてそういう理解は他人を(利他的に振る舞うように)説得する際にはしばしば使われる.だが,(スミスのように目的因から考えると)最終的にはヒトは(評判を通じた利他的な行動をとることを含めて)自分の効用を優先するはずだということになる.
(正しく理解できているかやや心もとないが)要するに理性的には「自他を区別しない全面的絶対的利他的な行動原則が正しい」と導けても,進化適応的に考えるとそのような態度が定着することは難しいということを解説しているのだろう.

From Darwin to Derrida その78

 

第8章 自身とは何か その18

 
ヘイグによるアダム・スミスの道徳感情論の読み込み.

さまざまな「sympathy」の整理を終えていよいよ道徳に入る.ヘイグは道徳を本能と理性と文化による混合物であり,そこに再帰的な相互関係があるものとして捉えている.ここからそれぞれの要素を見ていく.
最初は本能的要素.これは道徳をめぐる議論では直感的な道徳としてとらえられるものだ.
  

本能的要素

 

  • 道徳の多くの様相は本能的だ.そして個人的経験や理性や文化からの修正を受ける.
  • 私たちの基層的な感情反応のレパートリーは本能的だ.これには他者の利己性についての怒りや憤慨,他者の寛容に対する感謝,自分の間違った行為についての罪や恥の意識が含まれる.しかしこのレパートリーには,自分にないものを持つ他者へのねたみやそねみや憎しみ,自分たちの目的を阻害した他者への復讐心や報復心も含まれる.
  • 私たちの「sympathy」能力,他者の視点から世界を見る能力は道徳の本質的な基層だが,「sympathy」は「Schadenfreude」つまり(特に自分を悪く扱う)他者の痛みについて感じる喜びと共存する.

 
まずは道徳に関連するさまざまな感情を整理している.ねたみそねみだけでなく「Schadenfreude」まで挙げているのがちょっと面白い.
 

  • 私たちの道徳本能は,それが祖先たちの生存繁殖をそれを持たない他者と比べて有利にしたからこそ進化した.私たちの祖先の大半にとっては社会的グループに受け入れられることがその遺伝子の繁栄にとって非常に重要だったのだろう.受け入れられないと判断される行動をとる個人は避けられ,公共財の利用から排除され,部族から追放され,場合によっては殺されただろう.これにより受け入れられたいという欲望と拒絶への恐怖が最も強いヒトの動機となったのだろう.

 
そしてこれらの感情についての進化的な理由を,遺伝子中心主義的(表面的には個体淘汰的)に社会的グループに受け入れられることとしている.ボームやランガムの議論ともからむところになる.
 

  • 3人称「sympathy」はこの集団内協力のメリットと排除されることの高いコストから進化したのだろう.もし集団への受け入れが生存繁殖と相関し,集団への受け入れ基準が道徳的な行動の表出と非道徳的な行動の抑制にあったなら,ヒトは反社会的な行動をとらせる遺伝子を持つ個体を排除することにより自分自身を社会化しただろう.
  • 他者の利益を含めた選好に沿って行動することが(集団に受け入れられるための)分別あるやり方だとしたら,一番いいやり方は本当にそういう選好を持つことだ.最初は慈悲心をディスプレイすることがうまいやり方だったかもしれないが,自然淘汰はそれを実際の動機とするような遺伝的な変化を引き起こしただろう.慈悲心の理由は有用性から適応度に変わっていき,それは利己心に汚されない純粋な心理的な動機になる.そして私たちは他者に正面から向き合った上で「私たちはあなたたちの幸福を自分自身のそれと同じように評価しています」と心から誓えるようになる.実際には利己心は強力な心理的動機として残っており,自愛と慈悲心は私たちの心理にうまく溶け合わないまま共存している.

 
そして社会的グループから排除されないためには,どのような行動が受け入れられ,どのような行動が受け入れられないのかを知る必要がある.それには3人称「sympathy」が道具として有用だった.そして他者から真に評価されるためには単にディスプレイするだけでなくそれを真に望む方が有効になる.これが慈悲心だというのがヘイグの議論だ.これはトリヴァースの自己欺瞞の議論に似ていて面白い.
 

  • 協力の進化はしばしばグループ内淘汰とグループ間淘汰の緊張関係の結果だと説明される.この見方から見るとグループ間競争はグループ内協力を進め,グループ内ではただ乗りの利益が協力を蝕んでいることになる.そしてここでグループが非協力的メンバーを排除できるなら協力が進化することになる.するともし協力的なグループが(時に暴力的な方法で近隣グループを打ち負かして)よりテリトリーを防衛,拡張できるとするなら,グループ間競争はグループ内のポリシングを強めて団結を増進する強力な力になったのかもしれない.

 
ここもちょっと面白い.ヘイグは基本的に遺伝子中心主義者だが,ここでは敢えてソーバーとDSウィルソンのマルチレベル淘汰のフレームを用いグループ内のポリシングの存在を説明している.原理主義的な遺伝子中心主義ではなく,説明が容易なら敢えてほかのフレームも用いるというヘイグの柔軟なスタンスが表れているということだろう.またこの部分は一見ボウルズとギンタスの戦争仮説の議論に乗っているようではあるが,実はここで引用されているのはランガムの「善と悪のパラドックス」であり,ボウルズとギンタスには納得できないというヘイグの思いが感じられる.
 

  • 自然淘汰は同時に相互破壊を防ぐために停戦の交渉を行う心理的な能力を進化させたかもしれない.ただしそれは,武器を捨てることができないことがグループ内かグループ間の競争において不利になる場合に限られる.本能的平和主義者は地球を受け継ぐかもしれない.しかしそれには恨みを忘れない者たちより多く子孫を残せるならという条件があるのだ.停戦すれば双方に利益がある.しかしどちらの側も戦力の不均衡が相手の攻撃を誘引しないかどうかを警戒しなければならない.そしてそれは(しばしば見過ごされているが)リスクの小さな攻撃機会を見逃してはならないということも意味するのだ.

 
この最後のリマークは深い.結局単純な進化的理由から生じる本能的な感情だけでは(部族間闘争に際して先制攻撃が有効であるならそれを抑制する仕組みは進化しないので)世界平和は実現するとは限らないということだ.これはマルチレベル淘汰フレームで説明されているが,遺伝子中心主義的にも説明可能だろう.
 

関連書籍
 
ランガムによるヒトの攻撃性と寛容性についての本.ヒトは狩猟採集グループににおいて暴君への対処として処刑による排除を行うようになり,その処刑への対処として自己家畜化により攻撃性の低下が生じたという主張がなされている.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2021/04/25/112359