From Darwin to Derrida その86

 

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その5


ヘイグによる至近因と究極因の読み解き.いよいよマイア論文にとりかかる.
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エルンスト・マイアと目的論(teleology) その2

 

  • 「生物学における原因と結果」は因果の3つの様相をめぐって構成されている.それは「過去の説明」「将来の予測」そして「目的論(teleology)」だ.
  • マイアはまず機能的生物学(finctional biology)と進化生物学(evolutionary biology)を異なる説明目的と異なる因果概念を持つものとして大きく区別している.彼は機能的生物学者の疑問をhow問題,進化生物学者の疑問をwhy問題とする.機能的生物学者は直接の原因(immediate causes)に関心を持ち,進化生物学者は「歴史を持つ原因」(causes that have a history)に関心を持つ.そして「このようにして,至近因は環境の直接の要因に対する個体や臓器の反応についての原因であり,究極因はすべての種のすべての個体が持つ特定のDNAコードの進化についての原因である」

 
これだけを読むと至近因はメカニズム的な原因と解釈でき,究極因はティンバーゲンのいう系統的原因なのか適応的原因なのかどちらとも解釈できそうに思える.どちらなのかについてヘイグはこう続ける.
 

  • マイアの「究極因」はしばしば適応価や適応の目的と解釈されている.だからここで彼が全く異なることを書いているのを引用するのには意味があるだろう.

私たちが「why」と問うとき,私たちはこの単語の曖昧性を自覚しているべきだ.それは「どのようにしてきたのか?」を指すこともあるし,「何のために?」を指すこともある.進化生物学者が「why」と問うときには,その心に歴史的な「どうやってきたのか?」があることは明白だ.

 

  • ではマイアはどういう意味で「至近因」「究極因」という用語を用いており,どうしてその用語を選んだのだろうか? マイアは何度も「至近因は直接的で究極因は歴史的だ」と書いている.だから究極因は至近因に時間的に先立つものとして用いられている.マイアは明らかに進化的な原因が直接的な原因を含まないとは考えていない.ではなぜたとえばremote causeといわずに「究極因」といったのだろうか.ここに「政治」がある.「至近因」は「remote cause」よりも力強く目立つ単語だ.しかし「究極因」は進化を単なる「至近因」より高く見せるのに使えるのだ.

 
「政治」があるというのには笑った.確かに歴史的な原因を遠因と呼ぶと「遠因を追及する科学」である進化生物学はたいしたことのないものに感じられるかもしれない.そこでインパクトのある「究極」を持ってきたというわけだ.そしてヘイグはさらにマイアは(アリストテレス的な)目的論を何としても排除しようとしたと指摘する.
 

  • マイアの目的論への扱いは彼の意図をよく物語っている.彼は「何のために?」質問の価値をその目的論的含み(teleological overtones)から明確に否定している.この「進化にはゴールや目的がある」という考え方は生気論の特徴であり,マイアがはっきりと否定しているものだ.
  • 目的に導かれた行動は生物学にはよく見られるが,それは進化した遺伝プログラムによるものだ.どのようにこのようなプログラムが表現されるのかは機能生物学の領分になるが,そのプログラムの起源は進化生物学の領分になる.「生物個体の発達や行動には目的がある.しかし自然淘汰には断じてない」.マイアはひそかに目的論的考察という汚名を進化生物学から切り離し,機能生物学に押し付けようとしている.進化は目的に導かれてはいないが,自然淘汰は明らかに目的を持つような生物個体を作り上げることをマイアはよくわかっていた.彼は目的を持つ行動を「目的論的(teleological)」と呼ばず,「teleonomic」と呼び,この単語の意味を「情報コードとしてのプログラムの実行によるシステムに硬直的な」という内容に限定している.

 

  • マイアは1969年のPhilosophy of Science誌に載せた「Footnotes on the philosophy of biology」においてこのテーマに戻っている.彼はこう宣言している.「生気論は死んだ.少なくとも生物学者にとっては.・・・生物学的システムの途方もない複雑性,生物個体の歴史的性質,それが持つ進化した遺伝的プログラムが,生物を非生物と全く異なるものにしている.・・・遺伝的プログラムの持つ適応的な性質からもたらさせる目的を持つかのようなプロセスと行動は「teleonomic」と呼ぶべきものだろう.宇宙全体が調和的なコスモスというゴールに向かって進化するようにプログラムされているというアリストテレス的な目的論(teleology)は受け入れられない.この狭義の「目的論」はどのような科学分野においても証拠がないのだ」
  • マイアのこの問題についての理解はさらに進化した.1974年の「Teleological and teleonomicという論文では目的論(teleology)とteleonomyの関係を議論している.「teleonomicなプロセスあるいは行動とは,そのゴールに導かれる性質をプログラムの実行として持つことだ」.ここでマイアはteleonomicの定義から「システム」を除いている.システムは動的ではなく静的だと感じたのだ.彼は今や「眼」や爆発する前の「魚雷」をteleonomicと考えることをやめている.「ゴールに導かれる」と「目的を持つ」というのは異なる.teleonomyと適応は異なるのだ.

 
異なる用語を用いて誤解を避けようとしたマイアの努力は涙ぐましい.残念ながらそれほどのこだわりがなかった生物学者にはこのマイアの執念は伝わらず,このteleonomyという用語が主流の生物学者が皆採用するという状況にはなっていないようだ.
なお気になってちょっと調べてみた.英語版wikipediaによるとこのteleonomyという用語を最初に用いたのは英国の生物学者であるコリン・ピッテンドリで1958年のことだそうだ.そしてマイアはピッテンドリの用語の(アリストテレスの目的論と明確に区別していないという)曖昧性を批判して独自の定義と用法を主張したと解説されている.
  

  • そして彼は進化的なwhyについての扱いも変えた.whatとhowに答えることは物理的な科学にとって適切で十分だが,生物学的な説明においてはwhyに対する答えが必要だと考えるようになったのだ.「ある生物学的な特徴の因果的な分析を完成させるには『なぜそれが存在するのか』つまりその生物個体にとってその特徴の機能と役割は何かを問うことは不可欠だ」「whyを問うためには,その表現型のすべての様相の淘汰的重要性を問うことが必要だ」 これはもはや「どのようにしてきたのか?」ではなく「何のために?」になっている.

 
進化生物学が分子生物学に圧倒されて消え去ったりせずにきちんとその基盤を固めたあとは政治的なかたくなさは必要なくなったということだろうか.きちんと適応的な疑問を追求することを真正面から認めるようになったということだろう.とは言え目的論と間違われることの懸念は最後まで持っていたようだ.
 

  • マイアは1992年の論文「The idea of teleology」において「適応性は事前の目的志向性ではなく事後の結果だ.この意味において適応的特徴に目的的(teleological)を使うのは間違っている」と書いている.また1993年の「Proximate and ultimate causations」においては究極因と自然目的論の歴史的関連を理解し,「究極(ultimate)という単語にまつわる歴史的な難点を避けるために,私は最近の論文では,「究極因」を使わずに「進化的」という言葉を選ぶようになった」と書いている.

 
ヘイグは最後にマイアのこの政治的な動機と難しい性格を合わせ持った人格についての思い出話を書いている.なかなか厄介な側面を持つ人物だったようだ.
 

  • マイアが老年になってドグマティック(あるいは権威的(ex cathedra)といっていいかもしれない)になったのはよく知られている.ここに私の個人的経験を残しておくのは進化生物学の歴史家には意味があるだろう.1999年に私はマイアのオフィスに呼び出された.「私たちは論文を共著することにする」と彼は宣言した.「私の英国の友人は・・・」彼はここで口ごもった.「ジョン・メイナード=スミスですか?」「そうだ.・・は間違っている.動物はゲームをしない」 これはマイアがメイナード=スミスとジョージ・ウィリアムズとともにクラフォード賞を受賞したと発表された直後だった.そこで私はマイアにメイナード=スミスとの共同受賞をどう思っているのかを聞いた.彼はこう答えた.メイナード=スミスは「受賞に値する」しかしウィリアムズは「そうではない.彼のやった仕事はすべて間違いだ」と.

 
ヘイグはこの背景を描いてくれていない.いったいメイナード=スミスやウィリアムズとの間に何があったのだろう.そしてこの共著論文は日の目を見たのだろうか?(ヘイグのサイトの業績部分を見る限り該当する論文はないようだ)

From Darwin to Derrida その85

 

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その4

 
ヘイグによる至近因と究極因の読み解き.ヘイグはマイア論文の読み解きに入る前にさらにマイア論文の直前の歴史とそれが書かれた背景を掘り下げている.
  

エルンスト・マイアと目的論(teleology) その1

 
冒頭ではエドワード・ポールトンの「進化についてのエッセイ」からの引用がある.

  • 「Why質問」と「How質問」に答えること,つまり「どのような目的で?」と「どのような手段で?」に答えることは不可避的に互いに干渉する.・・・ある単一の自然現象に対してこの2つの質問は同時に問われうるし,その現象を真に理解するにはどちらに対しても答えられるべきだ.

 

  • エルンスト・マイアは1961年,科学的手法と概念についてのヘイデン会議で「生物学における原因と結果」を講演し,それをもとにした論文が同年サイエンス誌に掲載された.この論文は現在学生たちにHow質問(至近因)とWhy質問(究極因)の違いを「whyは適応的目的についての質問だ」として説明するときによく持ち出される.しかしこれはこのマイアのテキストを誤読している.

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ヘイグは,学生が至近因と究極因を教えられる時にはマイア論文がよく持ち出されるとしている.アメリカではそうなのかもしれない.日本ではどうなのだろうか.初心者向けの解説書などではマイア論文ではなくティンバーゲンが持ち出されることの方が多いというのが私の印象だ.ともあれ,ヘイグはHow因とWhy因の区別はマイアが始めたものではないとする.
 

  • マイアはhowを至近因,whyを究極因とした最初の生物学者ではない.(マイア論文の)10年ほど前にジョン・マラヒはこう書いている.
  • 科学者たちは「なぜ宇宙はあるのか」「なぜ宇宙は進化するのか」といった究極因についての質問に答えるのに慣れていない.科学者はプロセスについて質問され,どのように宇宙が進化したのかを語るように要求される.
  • 科学者たちがそのような至近因についての問答をやめて,哲学的風味をけばけばしく付け加えてその職業的地位を(別の職業と)融合させようとするとき,その不毛な努力は私たちによくみかける別の融合的職業を思い起こさせる.

John Mullahy Evolution in the plant kingdom(1951)

 

  • またクロード・ワードローは,(1952年の「Phylogeny and Morphogenesis」において)生物学は「進化の究極因と至近因,生命のメカニズムと形態形成」の理解をすすめることができるが,進化の理由の理解を進めることはできない.それが,進化についてのwhyが生物学以外の分野で教えられるとされている理由だと書いている.

 

  • ここでワードローは究極因をremoteな物理的原因としている.マラヒと同じく(そしてゲーテやキングズレイとも同じく)ワードローはwhy因を科学の外側の問題ととらえている.マラヒとワードローにとってwhy質問は「進化過程そのものが何のためにあるのか」というものであり,進化適応産物が何のためにあるのかを問うものではなかったのだ.

 
このマイア直前史においてはwhyとして何かを問うことは科学の外側だという認識だったというのはかなり意外な印象だ.本当に20世紀半ばになっても生物学者は「なぜ」と問うことは科学の外だと思っていたのだろうか.
ヘイグはこのような状況下でマイア論文が書かれた背景には彼の政治的動機が重要だったと指摘する.マイアは集団遺伝学がダーウィンとメンデルを統合したあとに,さらに発生学,形態学,分類(体系)学を含めた(広義の)進化の現代的総合を推進させた立て役者だ.その動きにはきわめて深い政治的動機があったというのは三中の「系統体系学の世界」でも紹介されているが,それが至近因と究極因についての議論にも当てはまるというわけだ.

 

  • マイアの「生物学における原因と結果」の目的を理解するには,彼の「政治的動機」を考慮する必要がある.重要な動機は,快進撃を続ける分子生物学に対抗して系統学と進化生物学のアカデミアにおける地位を守ることにあった.この動機は彼のテキストからも,そして今なお進化生物学が受けている批判からも明らかだ.今でも進化生物学は非科学的な目的論的概念に汚染されており,ハードサイエンスに比べて厳格さも予測可能性もないといわれることがある.
  • そして同時にマイアは,当時流行っていた雑多な生命力的な理論と進化生物学がはっきり切断されることも望んでいた.彼の論文の冒頭はドリーシュ,ベルグソン,ルコント・デュ・ノイの理論を引き合いにしており,最後の部分は「生物学の因果の複雑性は生気論や目的因論(finalism)などの非科学的なイデオロギーを抱きしめることを正当化しない」と締めくくられている.これを読めば,マイアがこの論文を書いた意図は至近因や究極因を論じることではなく,すでに虫の息だった生気論を打ちのめすためだったと思いたくもなる.しかし彼のこの「死んだ馬への鞭打ち」は戦術的なものだった.生気論はデカルトのメカニズム的生命の解釈への不可避の反動だった.マイアは,機能的生物学者の因果の概念は物理科学に由来し,それは生物世界を理解するには貧弱で不適切であり,これに対して進化生物学者はより豊かな視点を持っているのだと議論したかったのだ.しかしそれをするためには,まず自分が生気論を振り回しているわけではないことを明らかにしておく必要があったというわけだ.


 
当時分子生物学は圧倒的に斬新で「生物のすべては分子的なメカニズムで説明できるだろう」という期待と輝きに満ちていた.そしてアカデミアの中での地位や講座数や研究資金の獲得において(やっと苦労の末に現代的統合を果たしたばかりの)進化生物学を守ることがマイアの大きな動機であり,それには進化生物学は広い視野を持ちwhy質問にも答えられるものだと示すことが必要だったということになる.
 
関連書籍

三中による体系学の論争史.私の書評は
https://shorebird.hatenablog.com/entry/20180601/1527842963

訳書情報 「なぜ心はこんなに脆いのか」

 
以前私が書評したランドルフ・ネシーの「Good Reasons for Bad Feelings」が邦訳出版されるようだ.本書は現役の精神科医であり,かつ「Why We Get Sick?(邦題:病気はなぜあるのか)」をかつてジョージ・ウィリアムズと共著したこともある進化的理論に理解のある著者によるさまざまな精神病理の進化的な解説を行う本である.
冒頭第1部で通常の疾病と精神疾患の違いが強調され(通常の疾病は何らかの身体の機能的な問題が病気の本質で,それが症状として目に見える形で現れると考えられるのに対して,精神疾患は脳の器質的異常を感知できないために症状からのみ記述される),なぜ心はこうも脆いのかが説明されるべき進化的な謎であるとする.邦題はこの本書の中心的テーマを提示するものであり適切だ*1
そこからは各論で第2部で感情に絡む障害(さまざまな悪感情,不安,鬱,気分障害),第3部で社会生活から生じる障害(障害の現れ方の個人差,罪悪感と苦悩,抑圧と自己欺瞞),第4部で行動にかかる障害(性行動にかかる障害,摂食障害,薬物中毒,遺伝性の強い統合失調症・自閉症・双極性障害)が取り扱われる.
鬱についてはネシーが長年深く考察してきただけあり,深みのある考察に圧倒されるし,感情の進化的な整理も見事だ.(フロイト的)抑圧と自己欺瞞についてもトリヴァースの他者操作仮説に対するアンビバレントな受け止め方と実は抑圧や自己欺瞞は短期的な衝動を抑える役割もあるのではないかという考察が読みどころになる.また遺伝性の強い統合失調症・自閉症・双極性障害についてはさまざまなトレードオフ仮説を吟味した上で崖のある適応度地形仮説を提示しており,説得的だ.精神疾患の進化的理解に興味のある人には必読文献だと思う.
 
私の原書の書評は
shorebird.hatenablog.com

 
 
関連書籍

原書

 
ネシーがジョージ.ウィリアムズと出会って最初に書いた進化医学の本.未だに入門書としてはベストだと思う. 
同邦訳 
次に編者となってまとめたコミットメントについての本.感情についての説明にもなっている.これも感情のコミットメント機能についての本としてはフランクの「オデッセウスの鎖」と並んで未だにまず読むべき本だと思う.

*1:ただし副題はやや問題含みだ.本書は精神疾患についての進化的な解説書だ.分野として進化医学の本であり,「進化心理学」ではなく原副題にあるように「進化精神医学」と表記すべきであっただろう

From Darwin to Derrida その84

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その3

 
ヘイグによる至近因と究極因の読み解き.マイア論文の前史.スピノザに続いてエラスマス・ダーウィンとハーバート・スペンサーが登場する.

 

19世紀の至近因と究極因

  • ここで19世紀に現れる至近因(proximate cause)の究極因(ultimate cause)の用例をすべて扱うつもりはない.ここでは医学とハーバート・スペンサーに現れる例に絞る.

 

  • 医学において疾病の至近因は,remoteな原因,そして時に究極因と区別された.エラスマス・ダーウィンのズーノミアの第2巻では疾病を至近因に従って分類している.
  • かくして下痢の時に生じるこむら返りは,感覚における連結の力が至近因であり,先立つ腸の活動の増進がremoteな原因であり,腸の筋肉の急速な収縮が至近的な効果となる.しかしこれらの筋肉の痛みは付随症状であり,remoteな効果である.

 

  • ジョン・チャップマンも下痢の原因を議論している.
  • (下痢は)歯の炎症,腐敗した食物,不純な水分摂取,毒性のガスの吸引,腸の潰瘍などから,そしてその他なさまざまな疾病から生じる.そしてそのようにいかにprimaryな原因が多様であっても,至近因は常に同じだ.つまり下痢は脊髄と交感神経の充血から生じるのだ.

 

  • ここでは至近因は最終的なメカニズムをさしている.それはさまざまなprimaryな原因から生じるが,結果として同じ症状を引き起こす.
  • 医学の文脈では究極因は,至近因が生じる前に生じた物理的な原因を意味する.だから19世紀のジャガイモ胴枯れ病の議論においては「この病気の至近因は疑いなくPeronospora菌である.究極因については全く異なる環境のセットを探すべきだろう.・・・病原菌の攻撃は特別な気候かその他の条件により引き起こされるのだろう」という表現になる.同様に1902年のカール・フィルヒョウの墓碑には「彼は9月5日に亡くなった.その死の究極因は1月初めの転落による太ももの骨折であった」と記されている.
  • これに対して,今日の医学における究極の死因(ultimate cause of death)は,一連の因果の最後の原因,つまり死の直前のものとされており,一連の因果の最初のremoteな原因が挙げられることはない.たとえば「敗血症患者の究極の死因は多臓器不全となる.典型的には患者はまずどれか1つの臓器が不全になる.・・・,そこで放置されると他の臓器も次々に不全になる」というように記述される.

 
19世紀の医学の世界では因果の連鎖がA→B→C→Xであったとき,Xの至近因はCであり,remote因はAだということになる.これに対して現代医学の世界ではXの究極因がCだということになる.
 

  • ハーバート・スペンサーは,「個体と繁殖の間の必須の対立」は「(人種の)保全の最高の形態の達成」を保証するものであり,それは「オリジナルな繁殖力の過剰を究極的に消滅させること」につながると「動物の繁殖力の一般法則からの演繹される人口理論」という論文で書いている.スペンサーはさらに「そもそもの始めから,人口圧力は進歩の至近因だった.・・・それは人類に略奪的な慣習を捨てさせた.・・・それは人類に社会をもたらした.・・・そしてそのような究極的な因果ののち.人類は地球に広がり,すべての居住可能な地域を文化の高みに引き上げた.・・・そしてその後,人類は人口圧力が減少していくことを経験する」と記述している.
  • ここで「至近因」とは運命づけられた高等な結果をもたらすものを指している.また「蒸気エンジンは鉄道システムの至近因であり,国の運命や交易経路や人々の慣習を変えた」とその著書「進歩」において書いている.

 
スペンサーの引用があるが,非常に難解な英文になっている*1.この引用には究極因という用語はないので,至近因と究極因が対になって用いられているのかどうかはよくわからない.ともあれ「運命づけられた高等な結果をもたらすもの」という「至近因」の用法は現在の用法と相当異なっているということだろう.
 

  • ジョージ・ストークスにとって「物理学の最高の目的は,可能な限り,現象を至近因で説明すること」だった.しかしながら,(探索を続けると)どこかの時点で科学がそれ以上説明できない空白に至る.スペンサーはこの空白に早くから気づいていた.「第一原則」において彼は(大文字の)「究極因」を「それを経由してすべての事物が存在しているがそれを知りえないもの」としている.しかしながら,彼が「知りうるもの」である「均質な身体の不安定性」を議論するときには,ユニット間の小さな違いは疑いなく異種性の至近因であるとしつつ,(小文字の)究極因は偶然の力に各部分が不均一に暴露されたことだとしている.

  • まとめると,至近因は物理的な原因であり,究極因は至近因が生じる前の物理的な原因,あるいは目的因だということになる.

 
この至近因と究極因の用法は現在のに近い部分もあるが,やはりいろいろ異なっているということになるだろう.
 

  • 最後に(マイアの至近因と究極因の区別の議論の準備として)作用因(efficient cause)はしばしば「どのようにして」質問と,目的因(final cause)はしばしば「なぜ」質問と結びつけられているということを指摘しておこう.これに関する19世紀の用例を2つ示しておこう.
  • 1つ目の例はエッカーマンの引用によるゲーテの “Die Frage nach dem Zweck, die Frage Warum? ist durchaus nicht wissenschaftlich. Etwas weiter aber kommt man mit der Frage Wie?” という文章だ.私のつたない訳だとそれは「目的についての問い,つまりwhy質問は全く科学的ではない.しかしhow質問を問うならば,より先にすすめるだろう」となる.
  • 2つ目の例はチャールズ・キングズレーの「しかし,あなたに1つ警告しておかなければならない.それはあなたはマダムHowとレイディWhyを混同してはならないということだ.」だ.彼はマダムHowを自然とそれが示す事実に見立てているが,レイディWhyについてはその正体を明かさず「しかし彼女には仕えるマスターがいる.その主人の名前についてはあなたの想像におまかせしよう」と書いているのだ.

 
19世紀英国ではhow質問は至近因ではなく作用因と関連付けられ,why質問は究極因ではなく目的因と関連付けられていたということになる.そこからなぜ現在のような用法に変わっていったか,そこにマイア論文がどうかかわるかが本章の本論になる.
 

*1:上記私の意訳はおそらくいろいろ間違っているだろう

From Darwin to Derrida その83

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その2

 
ヘイグによる至近因と究極因の読み解き.最初に至近因(proximate cause)と究極因(ultimate cause)を区別したとされるマイアの論文に入ることになるが,その前にかなり詳しい前史を置いている.
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究極因についての遙かに古い起源

 

  • マイアの1961年の論文は生物学における「歴史的説明」を強く擁護している.そこでは「究極因は「歴史を持つ原因」だ」とされている.彼は生物学的な過程を理解するにはその進化的な歴史の理解が欠かせないと信じていた.

 
冒頭からこれはかなり驚く.歴史を持つ原因ということであればティンバーゲン的には機能的(適応的)理由より系統的理由の意味に近くなるだろう.そしてヘイグは究極因の意味はその言葉の使用者により異なり変化していったのだとほのめかす.
 

  • 似たような議論は単語の意味について行うことができる.意味は突然変異,意味論的浮動,代替的意味の競合の結果により進化する.ある一時点において異なる個人は,あるいは同じ個人でも異なる文脈では,同じ単語について異なる変異した定義を持ち,それらの変異の頻度は移り変わる.どちらの意味が広がるのかが科学的哲学的な議論の方向や結果を決めるだろう.(ある変異についての)支持者は世界が自分たちに従うことを望むだろう.このように問題を捉えることの利点は,単語の「真の」「正確な」「正しい」意味をめぐる議論から一歩下がることができることだ.

 

  • 進化生物学における「至近因と究極因の区別」は,現在の原因と進化的過去の原因の区別,あるいはメカニズムの説明と適応的機能の説明の区別などと様々に解釈されてきた.
  • 皆「至近因とは何か」について合意しているようだ.これらはアリストテレス的な作用因になる.意見の相違は究極因の理解のところに生じる.この究極因の意味の曖昧さは何世紀も前に存在する.「究極因」は作用因の一連のシリーズの最初のものとも,イベントの一連のシリーズの最後に現れると考えられる最終因(a final cause すなわち目的因)とも捉えられていた.現在見られる究極因の曖昧さ(歴史的説明か機能的説明か)はこの古い曖昧さの子孫と見ることもできる.最近の論争はこれらの究極因についての異なる意味を区別することによって明確にすることができる.

 
そしてこの究極因(ultimate cause)の意味の多元性は何世紀もさかのぼると畳みかけ,ここから語源のラテン語にまでさかのぼる思い切りディレッタントな解説となる.
 

  • オックスフォード辞典は始めるのにいいポイントだ.形容詞「proximate」と「ultimate」はそれぞれラテン語動詞の「近くに引き寄せる」「最後に存在する」から派生した語だ.「proximate」についての最初の項目は「因果の連鎖の前あるいは後に最初に現れる・・・しばしばproximate cause(至近因)という形で使われる.反対語はremote, ultimate」になる.「ultimate」についての最初の項目は「最後の,その他のすべてを越えてある,最終的な目的を形成する」になる.両方とも最初の用法は17世紀の半ばにさかのぼる.ここで重要なことは,「ultimate cause」は長い間「final aims」と共起され,「proximate cause」は「remote cause」「ultimate cause」と対比されてきたということだ.

  • 「proxima causa」と「ultima causa」は共に英語で「proximate cause」や「ultimate cause」が使われるようになるより何世紀も前に学問的ラテン語として使われてきた.トマス・アキナスは(アリストテレスの註解の1つである)「自然学註解」においてアリストテレスにおける「prior cause」と「posterior cause」の区別を説明している.
  • 私たちは「proximate cause」が「posterior cause」と同じ意味で,「remote cause」が「prior cause」と同じ意味であることを理解しなければならない.これらの2つの原因の違い(つまりpriorとposteriorの違い,あるいはremoteとproximateの違い)は同じものだ.さらに私たちはよりユニバーサルな原因はいつもremoteと呼ばれてきたことを,より特殊な原因はproximateと呼ばれてきたことを知るべきだ.たとえばヒトのproximate形態はその定義つまり「合理的な死すべき動物」だが,動物のそれはよりremoteであり特殊なものがそぎ落とされる.それは特に優秀なものは,劣ったものの形態を持っているからだ.同様に銅像のproximateな材質はブロンズだが,remoteな材質は金属であり,さらにremoteな材質は物質になる.

 
なかなか深い,近接と遠隔(究極)がもともとは事後と事前だったというのはなかなか驚かされる.そしてユニバーサルであるものは事前であり遠隔だということになる.さらに近接と遠隔(究極)に特殊と一般という意味が加わる.そこからより高いレベルの目的が遠隔(究極)ということになる.
 

  • remoteな原因はproximateな原因を説明するが,逆は説明できない.アキナスはproximateな原因とremoteな原因の区別を,一般性が上位階層に来る形相因と質料因の階層を使って,一般的な原因はremoteで特殊な原因はproximateだとして説明しようとしている.しかしながら階層が時間的に決まる場合にもこの区別は適用可能だ.先立つ出来事は後に来る出来事の原因となる.そして同じくこの区別はproximateな目的がより高い目的の手段であるような目的因にも適用可能だ.
  • どのような因果連鎖や因果階層においても,最もremoteな原因つまり先立つ(prior)原因を持たない原因は,ultimate causeになる.アキナスは「対異教徒大全」において,ultimate causeの必要性を示すためにアリストテレスの無限の因果連鎖を否定する議論を使っている.アキナスは作用因の連鎖においては不動の動者が必ず存在し,目的因の連鎖においてはそれ自体が目的であるfirst causeが必ず存在するのだと主張している.アキナスにとって不動の動者と究極の目的は1つにして全なるものなのだ.始まりにおいて目的があるのだ(In the beginning is the end. ).
  • スピノザも同じようにproximateな原因とremoteな原因を区別している.彼は「短論文」においてこう主張している.
  • 神は,神が創造したと私たちが考える無限で不変の物事のproximateな原因だ.しかしある意味において神はすべての個物のremoteな原因だ.
  • またスピノザは「エチカ」において,個物の世界における作用因の無限の連鎖を議論している.その部分の注釈において彼はこう書いている.
  • すなわち,まず神は直接創造したものについてのproximateな原因だ.・・・そして次に神は個物のremoteな原因であるということはできない.・・・ここで「remoteな原因」というのはその効果と連結しない原因のことだ.しかしすべての物事は神の中にあり,神なしに存在しえないという意味で神に依存している.
  • 神が個物のremoteな原因になれるかどうかについてスピノザは意見を変えたらしい.「エチカ」においては神は永遠に存在し,proximateであり,remoteではない.スピノザは目的因については強硬に否定し,「すべての目的因は人間の創造の断片に過ぎない」と書いている.スピノザの目的因の否定は神にも適用される.なぜならすべては神の中にあり,そしてもし神が目的を持つとするなら,そこには欠けているものがあることになるからだ.

 

  • proximateな原因は法律,特に不法行為法において昔から議論されている.フランシス・ベイコンの最初の法格言は「In jure non remota causa sed proxima spectatur. :法においてはproximaな原因のみが考慮され,remotaな原因は考慮されない」だ.すべての原因にそれに先立つ原因があるとしても,法は(延々とremoteな原因を探索したりせずに)実践的に直接的な原因のみを考慮する.
  • 結局のところ,原因は(比喩的なものを含めて)時系列的(prior, posterior)あるいは距離的(proximate, remote)に順序づけられる.これらの軸は作用因,質料因,形相因,目的因という区別の軸とは直交している.究極因(ultimate cause)はこのアリストテレスの4つの原因のすべてにおいて現れうるのだ.

 
スピノザの神学的議論やラテン語法格言まで登場する.ヘイグの博覧強記ぶりにはただ畏敬の念を覚えるのみだ.