From Darwin to Derrida その89

 

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その8

 
マイアが究極因について曖昧な言い回しを用いたために哲学者と生物学者の論争がこんがらがった経緯を見てきた.ここからはヘイグによる読み解きになる.

  • 論争は2つの要因によりねじれたものになった.1つは進化的変化に作用因が重要かという問題だ.発達メカニズムは何らかの役割を持つか,生命体の進化は環境とそれに続く進化に影響を与えるか? どちらもnoとは言いがたい.問題は論者によりこれらを至近因としたり,究極因としたりすることだ.
  • もう1つは目的論的推論と進化生物学の用語法の問題だ.この観点からみると,howとwhyはメカニズムの問いと機能の問いとして区別される.これは古代の作用因と目的因(そして目的因を厳密なダーウィン的意味として解釈した場合)の区別の子孫というべきものだ.一部の論者はダーウィン的目的因を歓迎するが,一部の論者は科学に目的因は不要だと考える.(フランシス,ゲレロ-ボサーニャ,ワットの文章が引用されている)

 
ヘイグの解説によると発生についての込み入った論争は,どちらのサイドも発生を司る発達メカニズムの重要性を理解しているが,それが究極因なの仮想でないのかについてすれ違いがあったということになる.そして進化生物学の目的論的用語についての見解の相違から来ているということになる.
 
フランシスの引用は「Causes, proximate and ultimate」という論文からだ.因果的説明と機能的な説明は語彙が異なるだけではなく全く異なる説明であり,至近因と究極因に共通通貨はなく,そもそも究極因なるものは存在しないと主張されている.
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ゲレロ-ボサーニャの引用は「Finalism in Darwinian and Lamarckian Evolution」という論文から.新奇性へつながる進化的過程の背後にあるメカニズムは究極因抜きで説明できるが,至近因抜きでは説明できないと主張されている.
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最後のワットの引用は「Causal mechanisms of evolution and the capacity for niche construction」という論文から.「なぜ」という問いには二つの意味があるとされている.意思を持つエージェントには彼の意図を問うことができるが,エージェントなしでは「なぜ」質問は「どのようにして」質問に溶けていく.だから進化的な「なぜ」質問は実際には「どのようにして」質問なのだと主張している.
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フランシスとワットの論文はBiology & Phillosophy誌に掲載のばりばりの哲学論文のようだ.ゲレロ-ボサーニャのものはEvolutionary Biology誌に掲載されたものだ.進化生物学的な議論になれている(そして哲学的議論にはなれていない)私の目から見ると明らかにフランシスとワットの主張は筋悪に見える.

書評 「人間の本質にせまる科学」

 
本書は若手研究者たちにより執筆された自然人類学の総説・入門書になる.内容的には東京大学の駒場の1,2年生向けのオムニバス講義がもとになっているようだ.自然人類学は「人間とは何か」という問いを自然科学的に探究する営みであり,時系列的にはチンパンジーとの分岐から未来まで,対象のスケールとしてはゲノムレベルから地球生態系までを視野に入れた広大な学問領域になる.本書ではそれぞれの専門家から人類進化の軌跡,ゲノム科学,ヒトの生物としての特徴,文化とのかかわりが解説されている.
 

第1部 人類進化の歩み

 
第1部は,霊長類の行動と社会,チンパンジーとの分岐から猿人*1まで,ホモ属,ネアンデルタールという4章構成になっていて,人類進化の最新の知見が要領良くまとめられている.各部において内容的に興味深かったところを紹介しておこう.

  • 霊長類の祖先は樹上の昆虫食者として進化したと考えられている(現在でも夜行性の曲鼻類の多くはこのような食性を持つ).これに対して真猿類はほとんどが昼行性の果実を主体とする雑食性となっている.
  • 霊長類社会は多様だ.夜行性曲鼻類には単独性が多く,昼行性のキツネザル類は母系の複雄複雌群をつくる.広鼻類(新世界ザル)の中でクモザル類は父系の複雄複雌群を,マーモセット類の多くは繁殖ペアと子供たちで集団を作る.狭鼻類のなかでは,マカク属は母系の複雄複雌群をつくり,ヒヒ類のなかには一頭のオスと複数のメスからなるユニットが多数集まる重層社会を作るものがある.類人猿は(種数はそれほど多くない割に)さまざまに多様な社会を持つ.
  • 頑丈型の猿人(エチオピクス,ロブストス,ボイセイ)をアウストラロピテクス属に含めるか,パラントロプス属とするかについては意見が一致していない.3種の系統関係については,3種がエチオピクスを祖先種とする単系統群と考えるのが自然だが,ロブストスをアフリカヌスから派生した独自系統とする見方も有力だ.頑丈型という名前から想像されるのとは違って身体の大きさ自体は華奢型の猿人と同じ程度だった.
  • ホモ属の祖先猿人ははっきりとはわかっていない.最近ホモ属とのつながりが深いと主張された猿人にはガルヒ,セディバがある.
  • 直立二足歩行の進化要因については,かつてはサバンナ仮説(特にイーストサイドストーリー)が有力だったが,初期の猿人(特にラミダス)の古環境が必ずしも乾燥した草原ではなかったことが明らかになってこれらの仮説の論拠は弱まった.現在ラブジョイの食料運搬仮説が有力になっているが,批判も多くなお論争が続いている.
  • かつてホモ属の最初の出アフリカはエレクトスの時代で100万年前ごろとされていたが,ドマニシの178万年前の化石や中国陕西省藍田の210万年前のオルドヴァイ型石器が出土し,その年代は大きくさかのぼった.
  • 2019年にフィリピンのルソン島で6万年前ごろとされる(フローレス原人に続いて)矮小化した原人化石が発見され,ホモ・ルゾネンシス(ルソン原人)と名付けられた.台湾の西側の海底からは45~19万年前の原人のものと見られる頑丈な下顎骨が引き上げられており,また(旧人である)デニソワ人の発見もあり.アジアでの人類進化の様相はかなり複雑であることがわかってきた.

 
第4章はネアンデルタールだけに絞って,解剖学的に(特に脳の形態から)わかることも含めて交替劇についての仮説や議論の状況をまとめている.個人的には謎めいている中国の旧人とデニソワ人との関連なども解説して欲しかったところだ.
 

第2部 ヒトのゲノム科学

 
第2部では最近進展著しいゲノム情報を利用した人類学が取り扱われている.ゲノム,シークエンス技術,集団遺伝学,古代ゲノムについての初歩の解説を交えながら最近の知見が紹介されている.

  • 東アジア集団については,(1)アジア大陸南部から到達した東南アジア集団が北上したという説と(2)より北回りの集団との交雑集団だという説があったが,ゲノム分析からは(1)が支持されている.これは縄文人の古代ゲノムの分析とも整合的だ.
  • 現代日本人のゲノム情報をクラスター分析すると,「沖縄」,「東北・北海道」,「近畿・四国」,「九州・中国」に大別される(山陰,瀬戸内,高知とならないことは個人的には驚き).この結果は主成分分析とも整合的(第1主成分が縄文人と渡来人の割合と解釈でき,第2主成分が緯度・経度と相関する)
  • 親子の全ゲノムシークエンスを行うことにより世代ごとの突然変異率の実測が可能になった.ヒトの突然変異率は平均で1.2×10-8/世代程度.これは全ゲノムで1世代当たり約60個に当たる.また突然変異の75%は男性で生じている.
  • また組織をばらばらにして細胞を培養したサンプルの全ゲノムシークエンスから体細胞における突然変異率が実測された.これによると体細胞のおける変異は全ゲノムで1年当たり40個程度だった.
  • がん腫横断的なゲノム解析により,血液腫瘍や小児腫瘍では変異が少ないこと,喫煙や紫外線などの環境要因との関係が明確ながんでは変異が多いことなどがわかっている.
  • 全ゲノムシークエンスは遺伝的多様性についてもさまざまな知見をもたらした.ヒトゲノムには1人あたりSNV(一塩基多様体)が350万個,挿入・欠失は45万個,構造異常は1万個,マイクロサテライトの挿入・欠失は10万個あると推定されている.またたんぱく質のアミノ酸配列を変化させると考えられる変異が1万個,個体にダメージを与えると考えられる変異が48~82個あると報告されている.
  • 倹約遺伝子仮説は長らく直接の証拠がないままで議論されてきたが,最近CREBRF遺伝子座にポリネシアの人々にのみ高頻度で認められる肥満の表現型と相関し過去に正の自然淘汰を受けているアレルが見つかり,倹約遺伝子の有望な候補の1つとなっている.
  • (倹約遺伝子とは)逆に日本人の内臓脂肪蓄積に関連したTRIB遺伝子座のエネルギー亢進型(内臓脂肪の蓄積に抵抗的に働く)アレルは2万年前ごろに正の自然淘汰を受けていることがわかった.代謝性の熱生産量が上がるために最終氷期での生存に有利だった可能性がある.
  • この他の東アジア集団で正の自然淘汰を受けたアレルには,アルコール非耐性アレル,髪の毛を太くしシャベル型切歯をもたらすアレル,乾いた耳垢アレルなどがあるが,どのような適応的なメリットがあったのかはよくわかっていない.
  • 自然淘汰の影響を調べる手法は,連鎖不平衡を検出するために高密度SNPマーカーのデータを用いるものが主流だったが,最近全ゲノムデータシークエンシングが一般的になり,集団中に1コピーしかないようなマイナーアレル多型(シングルトン)を標的にした解析が可能になった.これにより東アジア集団でのアルコール非耐性アレルに正の自然淘汰がかかっていたことがわかった.

 

第3部 生きているヒト

 
第3部ではヒトについての生物学的な特徴のいくつかが解説されている.取り上げられているのは直立二足歩行,色覚,生理的(代謝的)特徴,腸内細菌フローラになる.直立二足歩行の部分は力学的な分析がかなり深く解説されていて*2面白い.また新世界ザルの3色型色覚の謎についても深く取り上げられていて(そして結論は必ずしもまだはっきりしていないところも合わせて)興味深い

  • 3色型視覚は霊長類で何度か独立に進化しており,その実現のさせ方も多様である.この適応的意義については長らく木の葉の背景から果実を見分けること(果実説)と考えられてきた.しかし赤や黄色にならない果実も多いし,季節限定の果実も多い.対立仮説には成熟葉と(食料になる)若葉を見分けるため(若葉説),社会シグナル説,捕食者検知説などがあったが,それぞれ問題が多い.現在(著者にとって)最も有望だと考えられるのが森林説だ.これは森林の中で背景となる成熟葉から,若葉,体毛,皮膚,果実などを「何でも」検出するのに役立つという考え方だ.
  • 2色型色覚は3色型色覚に比べてより多くの色を区別できるかという部分で不利だが,片方で(哺乳類の赤緑色覚は輪郭視の神経回路に相乗りしているために)輪郭視においては有利になる.つまり2色型は果実を見分けるのに不利だが,隠蔽色の昆虫を見分けるには有利だということになる.
  • 新世界ザルのうちオマキザルやクモザルはL/Mオプシン遺伝子座のヘテロ接合によって3色型色覚を得ているため集団内に2色型色覚個体と3色型色覚個体が混在している.しかし30年に渡る野外調査は両タイプに繁殖成功度の差がないことを示している.片方でTajima’s Dを用いたゲノム分析によるとL/Mオプシンの多型は自然淘汰によって維持されていることが示されている.
  • また新世界ザルのうちホエザルは(LオプシンとMオプシンの遺伝子座が異なる)恒常的3色型色覚を持つが,約10%という高頻度の個体においてLMオプシンが融合している.これはわざわざ2色型色覚に戻すような変異になる.このような変異は狭鼻猿類にはほとんど見られない.これは新世界ザルにおいては2色型色覚が有利である生態的条件がある程度存在するが,狭鼻猿類にはないことを示唆している.
  • さらに狭鼻猿類の中ではヒトは例外になる.ヒトでは男性のいわゆる「色覚異常」(片方の遺伝子が欠損する場合と融合遺伝子になっている場合がある)の割合が高い(3~8%).融合遺伝子の場合,正常色覚とほとんど区別できない「軽微な色覚異常」しか引き起こさないこともある.そして融合オプシン遺伝子の頻度は40%になる.これはもはや「異常」とはいえないかもしれない.これに対してヒトを除く狭鼻猿類では融合オプシン遺伝子も遺伝子欠損もきわめて稀だ.これはヒトにおいて3色型色覚への淘汰圧が緩んでいることを意味する.これが進化史のいつ頃からなのかはわかっていない.3色型色覚が森林環境への適応だったとすれば,それはサバンナへの進出時からなのかもしれない.(これに対して融合遺伝子を女性においてより色覚が向上する適応として説明する仮説もある.しかし他の狭鼻猿類には見られないことから著者は否定的)
  • ヒトの寒冷適応はイヌイットとアボリジニとカラハリのサンで独立に進化し,それぞれ代謝型適応(積極的に産熱亢進),断熱型適応(体表面の温度を下げ深部の体温を維持*3),低体温型適応(体表面の温度は一定だが深部体温を下げる)を獲得している.
  • 高地適応についても2ヶ所で独立に異なるメカニズムが進化した.アンデス集団ではヘモグロビンを増やす適応が見られるが,これは血液の粘性を高めるため高山病のリスクを伴う.チベット集団ではヘモグロビンは増やさずに血流量を極端に高めるという適応が見られる.これは高山病のリスクがなく,よりすぐれた高地適応メカニズムだと考えられる.チベット型の適応にかかるEPAS1遺伝子変異はデニソワ人由来である可能性がある.
  • 発汗は暑さへの適応だが,熱帯地域集団の発汗機能を調べると日本人よりも発汗量が少ない.日本人(の非アスリート)に見られる「暑いときに生じるぽたぽたと滴り落ちるような発汗」は体温調節にはあまり役立たない無効発汗である*4
  • ニューギニア高地集団ではタロイモ・バナナ(300年前からはサツマイモ)中心の農耕を営んでおり,タンパク質摂取が非常に少ないが健康を保てる.これは(より効率的にタンパク質を利用する生理的適応だけでなく)腸内細菌フローラで窒素固定,アミノ酸生成を行うことにより可能になっていると思われる.

 

第4部 文化と人間

 
第4部ではまず言語,考古学と人類学が解説され,最後に「人種」についての章がおかれている.人種についてはヒトの多様性が(遺伝子の頻度を含めて)スペクトラム的である中ではっきり区切りできる「人種」は存在せず,それは社会的に構築された概念であるという立場で解説されている.

  • 動物にもシグナルはあるが(ミツバチのダンス.ベルベットモンキーの警戒音,鳴鳥の囀りなどが紹介されている),ヒトの言語とは大きく隔たっている.ヒト言語の独自性について,ハウザー・フィッチ・チョムスキーは再帰構造(併合)の重要性を強調し,トマセロは共有注意,共同志向性に注目している.(ここで著者は狩猟における協力,道具作りにおける再帰的構造を関連するものとして詳しく解説している)
  • これまで見つかった最古の縄文式土器の年代は16,000年前,弥生式土器は2,800年前とされている.縄文時代にはイヌを除く家畜利用の証拠はなく,植物を栽培した遺構も見つかっていない.資源利用はジェネラリスト的でその季節的な利用パターンは縄文カレンダーとしてモデル化されている.弥生時代には形態の変化したブタがいたとされ家畜利用の証拠とされている.水稲の寄与について意見が分かれており,弥生時代人が水稲のスペシャリストかどうかについて現時点では明言できない.
  • 縄文時代の植物栽培については「縄文農耕論」として長年論争されている.栽培化されたと思われるマメ(長野県で発見された大粒のマメについての議論が詳しく紹介されている),クリ純林(管理されていた可能性が高い)などが取り上げられて議論されている.ただし全体的に資源利用の態様を見るとジェネラリストの傾向が色濃い.

 
以上が本書の概要になる.「ヒトとは何か」を生物学的に捉えようとする自然人類学の営みのアウトラインを知るには格好の本であり,よい入門書に仕上がっていると思う.
 

*1:本書では猿人,原人,旧人という用語法を,正式な分類群ではないし欧米では使われなくなっているが,日本では慣例的に使い続けられており便利であることを踏まえて使用するとされている

*2:二足歩行を訓練されたニホンザル個体との比較部分は特に面白い

*3:本当に断熱性を高めているのかどうか(もしそうならどのようなメカニズムで)は興味深いところだが,それについては解説がない

*4:なぜそのような発汗が見られるのか,何らかの機能があるのかに興味が持たれるが,これについては解説がない

From Darwin to Derrida その88

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その7

 
究極因と至近因についてのヘイグの探求.究極因とは何かについて曖昧だったマイアの議論後の状況として,究極因/至近因の区別の有用性をめぐる哲学者たちの論争があったこと,それよりはるかに前にティンバーゲンが究極因の生存価(何のために)と進化史(どのようにして来たのか)の問題を区別していたということが描かれた.そしてここからさらに議論がねじれていく様子が解説される.
 

マイア以降の至近因と究極因 その2

 

  • (進化生物学者にとって)「何のために」は自然淘汰に関連する.しかし「どのようにして来たのか」は追加的な歴史的要因を含む.
  • 論争当事者がどちらの意味で「究極因」を用いているかをよく見れば.彼等の立場や誤解がなぜ生じたかを理解できる.(究極因/至近因の区別は無用だとする)一部の論争当事者はこの区別を時系列的なものだと理解している.(リックリターとベリー,ホックマン,ラランドの文章が引用されている)この立場から見ると至近因と進化的原因の区別は「どのようにして」と「どのようにして来たのか」を区別しようとするもので,誤謬になる.

 
ここで系統的要因を究極因とする議論が引用されている.まず1990年のリックリッターとベリーの論文は「系統発生誤謬:発達心理学の進化理論の誤用」という題で,ヘイグが引用しているのは発生が何によって決定されているかについて,発生中に生じた原因(至近因)と発生以前に生じた原因(進化因)を区別できるというのは誤りだという議論だ.
https://psycnet.apa.org/record/1991-12214-001psycnet.apa.org

 
次のホックマンの論文は「系統発生誤謬と個体発生誤謬」という題で,それは系統発生誤謬というより個体発生誤謬と見る方がいいという議論を行っている.ヘイグの引用箇所は「至近的説明は現在の因果にフォーカスしている.進化的説明は現在がどのように過去の出来事によって形作られたかにフォーカスしている」という部分だ.
link.springer.com


ラランドの論文は前回引用されたものと同じものだ.ヘイグの引用は「至近因はある特徴についての直近でメカニカルな影響を与えるものだ.・・・究極因は歴史的な説明だ」という部分だ.
https://edisciplinas.usp.br/pluginfile.php/4270853/mod_resource/content/1/More%20on%20how%20and%20why%20cause%20and%20effect%20in%20biology_%20Laland%20et%20al%202013.pdf


  • これに対して究極因/至近因の区別の擁護者は「どのようにして」と「何のために」を区別しようとしており,「どのようにして来たのか」をより至近因的に扱おうとする.(バーンハムとジョンソン,ディッキンズとバートンの文章が引用されている)

 
バーンハムとジョンソンの論文は2005年のもので,アブストを読む限りヒトの利他性の進化について(ボウルズとギンタスなどの)グループ淘汰論者を批判するような内容になっている.ヘイグの引用箇所は「行動を理解するには・・・至近因(生理的メカニズム)と究極因(進化の“目的”)を区別することが重要だ」という部分だ.
https://www.imbs.uci.edu/files/docs/2007/evolution_punishment/jOHNSON2.pdf

 
ディッキンズとバートンの論文は前回も引用されたものだ.ヘイグの引用箇所は「究極因的な説明の有用性は,詳細なメカニズムや祖先からの変遷にあるのではない.それは機能の説明,なぜそれがそこにあるのかのところにあるのだ.・・・歴史的な記述はそれだけでは究極的説明を構成しない.・・・それは純粋に至近的に理解できる問題だ」という部分になる.
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From Darwin to Derrida その87

第9章 どのようにして? 何のために? なぜ? その6

 
究極因と至近因についてのヘイグの探求.マイア論文後の状況を語る.
 

マイア以降の至近因と究極因 その1

 

  • マイアの至近因と究極因の区別は進化生物学者に広く受け入れられたが,機能生物学者からはほとんど無視された.進化生物学者にとっては「究極」と「至近」という言葉の含意に魅力があったのだろう.確かに究極の方が至近より重要そうだ.しかし至近因に興味を持っている機能生物学者には受けが悪かった.フランシスは「『究極因』とはいかにもうぬぼれたラベルだ」と書き,デューズベリーは「懲罰的熱狂」だとこき下ろしている.ビーティは1994年に「マイアの究極因/至近因の区別に対するちょっとした不同意も異端とされる」と書いている.

 
進化生物学を分子生物学に圧倒されることから守ろうと「究極」の言葉を使ったマイアはしかし至近的メカニズムの研究者からは受けが悪かったということになる.それはある意味当然だろう.
そしてここから本エッセイが書かれた真の背景が説明される.それは最近の究極因/至近因に関する哲学的論争ということらしい
 

  • しかしながら生物学の哲学者によると最近この教義的な問題について論争が勃発しているということだ.教皇の権威は現代のルターにより挑戦され,当代の十字架のヨハネにより擁護されているそうだ.(現代のルターについてラランド,シエリーが,当代の十字架のヨハネについてディッキンズ,バートン,ガードナーの名が挙げられている)

 

  • この「究極因/至近因の区別は有用なのか,時代遅れなのか,あるいは有害なのか」にかかる最近の論争は行き違い,ねじれている.なぜなら究極因,至近因の区別について2つの基準がごちゃまぜに議論されているからだ.その1つは直近の原因と歴史的原因の区別,もう一つはメカニズムと適応的機能の区別だ.1961年のマイアは第1の基準を示しているが,ほとんどの進化生物学者は第2の基準を強調する.マイアの批判者の多くは第1の基準で議論し,マイアを擁護する生物学者は第2の基準を用いて反論する.これが議論を意味論的泥沼に引きずり込む.そして論争は「正しい」区別は何かをめぐるものになる.片方は歴史的にマイアが何を言ったかを問題にし,片方は多数決(多くの人がどう使っているか)を支持する.そして何が正しい基準なのかが食い違うのだ.

 
ヘイグの解説によると2013年ごろのこの論争はマイアが曖昧にした2つの究極因の意味が論争の当事者によって異なっているからということになる.ちょっと興味深いし,あまり聞いたことのない論争だったので,ヘイグが引用している論文のアブストを読んできた.ちょっと読んだだけだが,いかにも筋悪の科学哲学者の議論に生物学者が反論批判している論争のような印象だ.
 
おそらく論争の口火を切ったと思われるラランドたちの論文.PDFで全文公開されている.アブストではマイアの用語について至近因を生理的要因、究極因を自然淘汰的要因と扱っており,さらにこれでは個体発生要因や周辺分野が進化生物学から除かれるとか,(マイアのような区別をするのではなく)「相互的因果」を考えるべきだあたりについて(やや筋悪気味の)議論しているように見える.アブストだけからだとややヘイグの解説とは趣が異なっているように感じられる.
https://edisciplinas.usp.br/pluginfile.php/4270853/mod_resource/content/1/More%20on%20how%20and%20why%20cause%20and%20effect%20in%20biology_%20Laland%20et%20al%202013.pdf

 
それに先立つシエリーの論文.アブストを読む限り,ランダム過程,種淘汰,エピジェネティックスあたりを強調する筋悪の議論に見える.
www.researchgate.net


ディッキンズとバートンによるラランドへの反論論文.ラランドたちのいう「相互的因果」なるものは標準理論にすでにあると手厳しく批判している様子だ.
www.springer.com

 
数理進化生物学者として有名なアンディ・ガードナーによる論文.これも全文公開されている.このアブストを読むと少なくともガードナーは,自分が考える究極因(適応的理由)とラランドが考える究極因(歴史的理由)の意味が異なっていることに気づいてそれを指摘した上でラランドたちの「相互的因果」が進化生物学の生産性には寄与しないものであることを主張するものになっている.(これも定義が異なったまま論争が生じたというヘイグの説明とはやや趣が異なる印象だ.とはいえ,どちらの定義がより生産的かという議論になっているというあたりはヘイグの説明通りということになる)
https://citeseerx.ist.psu.edu/viewdoc/download?doi=10.1.1.387.2624&rep=rep1&type=pdf

   

  • この「究極因」の曖昧性はwhyの曖昧性から生じる.ティンバーゲンは1968年にこの曖昧性を避けようと生存価の問題と進化史の問題を区別した.マイアは目的因論的な「何のために」を明確に拒否して歴史的な「どのようにして来たのか」を持ち上げた.しかし多くの進化生物学者は(適応機能的な)「何のために」をメカニズム的な「どのようにして」に対して擁護したいと考えたのだ.

 
そして(おそらく当初からこの曖昧性に気づいていた)ティンバーゲンは適応的な機能の問題と歴史的な系統的理由の問題を区別した.だから哲学者たちもマイアのみによらずにティンバーゲンを持ち出して概念整理して考察すべきだったのだし,そうすれば激しい論争になるはずもなかっただろう.そして(少なくとも日本では)今日的に究極因と至近因を説明するときには(特に入門書などでは)ティンバーゲンが引かれて解説されることが多いのもこの曖昧性を考えると当然ということになる.
 
なおヘイグはティンバーゲンのもともとの論文も引用している.
www.science.org

書評 「最後通牒ゲームの謎」

 
本書は最後通牒ゲーム(および独裁者ゲーム)の謎についての本である.著者はミクロ経済学から学問の世界に入り,ゲーム理論の魅力にはまり,行動経済学,進化心理学と視野を広げてきたという経歴を持つ小林佳世子.経歴通りにこの面白い現象を多面的な視野から捉え,さまざまなトピックについてきわめて明晰かつ分かりやすく網羅的に解説されている好著である.
 
冒頭「はじめに」で最後通牒ゲームとは何かについて解説がある.このゲームで多くの参加者が経済的短期的合理解を選ばないことが大きな謎であること,そのため人間を対象とした実験の中で最も頻繁に行われてきたものであること,これが「ヒトの持つ合理性とは何か」という大きな問いにつながっていくものであることが簡単に紹介されている. 
 

第1章 謎解きの道具

 
ここではこれからの考察の道具として行動経済学と進化心理学が使われることが予告されている.また章末の補足では「合理性」についての説明が置かれており,さまざまな考え方,利己性との違いなどが解説されている.
 

第2章 ホモ・エコノミクスを探して

 
この第2章からいよいよ謎解きが始まる.まず最後通牒ゲームの構造をおさらいする.
参加者がエコン(自己利益を合理的に追求する行動主体ホモ・エコノミクスの略語)であれば提案者は相手へ最小分配,相手は受容となるはずだ.しかし実際に実験するとそれとは異なる結果になる(多くは半分近くを分配,相手は少ない分配額だと拒否する).ここでは実際の実験結果が大規模国際比較実験の結果なども含めて詳しく解説され,これから取り組むべき謎が整理される.*1

  • よく見られるのは40~50%を分配提案し,相手は20%以下だと拒否するというパターンだ.国際比較によると小規模社会では提案額の分散が大きい.一部では一部には提案者が半分以上相手に渡そうとし,相手はあまりに分配額が多いと拒否するような社会*2もある.先進国だと分配額は40~48%あたりに収まる.一部の小規模社会では提案額が15%ほどと低く,相手はほとんど拒否しないというエコン的な振る舞いが見られるが,真のエコンで見られるはずの最小分配提案とその受容は世界のどこでも観察されない.
  • ここから2つの謎が浮かび上がる.なぜ提案者はほぼすべてを独り占めしようとしないのか,そしてなぜ相手は時に損をしてでも拒否するのかだ.

 

第3章 「目」と「評判」を恐れる心

 
第3章では最初の謎,なぜ提案者は最小分配を提案せずに半分近くを渡そうとするのかを扱う.

  • 最初の仮説は「提案者は相手が小さい分配額には(不合理にも)拒否することを理解していて,拒否されないと考える最少額を提案する」と考えるものだ.もしそうなら相手に拒否権のない「独裁者ゲーム」では独り占めするはずだということになる.しかし独裁者ゲームの実際の実験結果は提案者は(最後通牒ゲームより若干低くなるなるにしても)大体20~30%程度の配分を行うというものになる*3
  • なぜヒトは(ゲームの設定である)見知らぬ他人に20〜30%も分配するのか.1つの仮説は「実験者に分配額を見られていることを気にする」というものだ.ここで「分配額を実験者にもわからないようにしている」と教示して実験を行うと平均分配は10%に下がり,60%の参加者が独り占めをするようになる.教示がどこまで信用されているかという問題を避けるためにさらに「ランダム回答法」で匿名性を高めると平均分配は6%に下がる.また実験時にニセモノの目を提示しておくだけで分配額が10%以上上昇する.どうやらヒトは観察されていると(無意識を含めて)感じているときにはより他人に分配し,その心配が無くなるとより利己的になるように行動を調整しているようだ.

ここで著者は「目の効果」のさまざまなリサーチを紹介している.ここで「目の効果」リサーチについての再現性の問題も,一部の実験に再現性がないという報告があるが,全体的なメタ分析の結果は「目の効果」があることを示していると整理している*4.またここでよい評判を得たときには脳の報酬系が活性化し,仲間外れにされると痛みを感じる部分が活性化するというリサーチを紹介して「目の効果」の至近メカニズム的な意味を示唆している.その上でさらに提案者の心理メカニズムを独裁者ゲーム実験のバリエーションを見ながら考察していく.

  • 単に分配するだけではなく相手から(一定額まで)奪ってもよいという条件にすると結果は大きく異なる.単純な500円分配条件だと平均分配提示額は130円だが,100円まで奪ってもよいとすると提示額は30円に減り,500円まで奪ってもよいとすると平均分配額は-250円(つまり250円奪う)になる.「これなら評判的に大丈夫」と感じる基準が文脈に大きく依存しているためだと思われる.
  • 選択肢が2つだけの独裁者ゲームで(独裁者:相手)の取り分が(500円:500円)と(600円:100円)とする.単純条件では多くの人が(500円:500円)を選択する.ここで(500円:?)と(600円:?)を画面上に提示するが,「?」をクリックすると相手の取り分がわかるような条件にする.すると半数の参加者は相手の取り分を見ようともせずに(600円:?)を選んだ.彼等は戦略的無知を利用したことになる.
  • 1000円を分配するが,実験者に100円払えば相手に分配の予定があったことを知らせないようにできるという条件にすると,30~40%の参加者が(単に独り占めすれば1000円もらえるのに)このコストを支払って残りの900円を持ち帰った.利得は欲しいが相手に自分が欲張りだということは知られたくないということだと解釈できる.
  • 分配額の提示が「独裁者が決めた分配額」と「あらかじめ決まっている分配額」がランダムに決まるような条件にする.あらかじめ決まっている分配額条件が1000円:0円や950円:50円などの極端なものである場合,多くの参加者はこの極端な分配を提示した.相手に自分が決めたとわからないなら大丈夫と感じるようだ.
  • これらの結果を眺めると,ヒトは最後通牒ゲームや独裁者ゲームでかなり多くの部分を相手に分配するという行動を見せるが,それは「見知らぬ他人への思いやりを持つ」というより「周りからフェアだと見えることを気にしている」側面が大きいからだと解釈できるだろう.


第3章で著者はなぜ提案者が最小分配を提案しないかについて,基本的にフェアであるという評判を気にする心理から説明している.確かに人々は独裁者ゲームでも独り占めしようとしない.これは評判を気にしているからだろう.しかし最後通牒ゲームと独裁者ゲームで分配額に違いが出ることはこの心理だけでは説明できない.評判的には20~30%程度分けておけば十分だが,相手の拒否をできるだけ避け利得の期待値を最大化させるには40%以上分けた方が合理的だ(これはもちろん参加者が相手の分配額に応じた拒否確率と期待値を意識的に計算していることが必要なわけではなく,あんまり渋るとしっぺがえしされそうだと無意識的に感じているということで十分だ)ということではないだろうか.ヒトには評判を気にする心理と,相手からの報復リスクまで組み込んだ期待値最大化分配戦略心理がともに進化的に組み込まれていると考える方がよいと思う.そして(評判を気にする心だけでなく)後者の心理メカニズムも著者が(最終章で)持ち出す適応合理性の現れと見ることができるだろう.
 

第4章 不公平への怒り

 
第4章では2番目の謎「相手はなぜ時に損をしても拒否するのか」が扱われる.

  • これを学生に質問すると「ズルイから」という答えが多く返ってくる.これは不平等な結果を嫌う「不平等回避理論」からの説明とフィットする.脳科学的に調べると,公平な分配額が提示されたときには報酬系である線条体が反応し,不公平な分配額が提示されたときにはネガティブな情動を司る頭皮質前部が反応することが示されている.さらに脳が嫌うのは「不公平そのもの」ではなく「不公平にしてやろうという意思」であるらしいことも示されている.
  • 要するに不公平な分配提案にはヒトはムカッとするわけだ.しかしなぜ損をしてまで拒否するのか.

 
ここから著者はそれが一種の「利他罰」である可能性を示唆し,利他罰を調べる罰ステージ付き公共財ゲーム実験の結果を丁寧に説明する.ここでコストのかかる罰は悪の大きさやコスとの大きさを反映した合理的に決定される側面があることが強調されている.また罰のコストはしばしば報復リスクを含む大きいことがあることを示したあと,これを乗り越える心理メカニズムとして被害者への「共感」,(特に男性において)加罰行為が報酬となっているという知見を持ち出す.さらに「コストのかかる第三者罰実験」の結果,第三者の行為を評価する能力が赤ちゃんにもあることなどを説明する.その上でこのようなメカニズムがあることについてこうコメントしている.

  • 脳には見知らぬ他者にも共感でき,悪い奴を罰する心が組み込まれている.科学哲学者のモッテルリーニはこれを「見えざる手:invisible hand」と呼んだ.これは初期人類がアフリカのサバンナで生き延びていくために必要な協力的な集団を作り維持するための能力だったという意味だ.

 
本章は利他罰についての総説としてよくまとまっていて好感が持てる.しかし第4章のこのまとめ方にはやや疑問がある.
 
第1に著者は最後通牒ゲームで拒否する理由について利他罰だと扱っているが,そうとはかぎらないのではないか.最後通牒ゲームが繰り返し状況であれば,拒否は「このような不公平な分配を続けるならそちらも何も得られないぞ」という脅しを含んだ意思表示になり,公平な分配を相手に促す合理的な戦略になる.そして進化環境では誰かと一回限りでしか相互作用しないということは稀であり,この相手とまたどこかで同じ状況になる可能性が高い.(実験者による「もう二度と相互作用しない他者」という教示があったとしても),(無意識的な場合も含め)いつどこでまた相対するかわからない相手と扱う方が適応合理性があると考えるべきだろう.
さらにもう一つ重要なこととして周りに「あいつは御しやすいカモだ」と認識されることは進化環境ではきわめて不利になるだろう.だから自分が不合理な扱いを受けたらどう反応するのかについての評判を(無意識的な場合を含め)気にするのも適応合理性があると考えられる.
だからこれは利他罰ではなく,進化環境における相手や周りになめられないための長期的に利己的で合理的な戦略だと解釈する余地がおおいにあるように思う.(そして大多数の人が実際に拒否するからこそ最後通牒ゲームで提案者は20~30%ではなく40%以上提案することになると解釈できる)
 
第2に著者は本章の説明を「見えざる手」だけで終わらせている.確かに社会的な機能としてはそれでいいのかもしれないが,進化的な説明にはなっていない.そもそも利他罰の最大の理論的な問題はなぜそのような利他行為を行うような心理メカニズムが進化するかであり,本文中でこれに全く答えていない*5.著者もそのあたりについてはわかっていて,脚註で「個々人にメリットのない罰という行為をヒトがなぜとるのか」など考えなければならない問題はまだたくさんあるとし,さらに章末の補足でフィールドではコストのある罰行動はあまり見られないという報告があること,罰を行う人間は必ずしも高く評価されない(つまり間接互恵性では説明が難しい)こと,罰には信頼を破壊する恐れがあることを説明し,「罰」の問題は今まさに研究途上の分野だと補っている.これらは註や補足ではなく本文として記載すべきであっただろう.
 

第5章 脳に刻まれた“力”

 
第5章では第3章で示された評判を気にする心を進化心理学的に説明する章になる.
ここでは進化心理学を説明するためにコスミデスたちやそれに続く進化心理学者たちの「ウェイソンの4枚カード問題」実験について詳細が丁寧に説明されている.一連の実験結果が(特に意図的な)裏切り者検知モジュール,およびそれとは異なる危険を避ける予防措置モジュールが存在するためだと解釈できること,具体的でなじみがあるかどうかだけでは説明できないこと,社会的立場によって発動する検知対象の裏切りタイプが変わってくることなどが解説され,これが進化的に組み込まれたものだという説明を行っている.また裏切り者をよりよく覚えること,うわさ話には裏切りを示唆するネガティブな情報が多いこと,評判とエラーマネジメント理論(裏切りを疑われることはリスクが大きい)なども説明があり,これらを第3章の「評判を気にする心」につなげている.
また最後に「市場が発達している社会ほど最後通牒ゲームでの分配額が大きくなる」という知見を紹介し,それはなぜなのか,因果の向きがどちらかなのかがまた新しい最後通牒ゲームの謎として浮上していると結んでいる.
 
本章は4枚カード問題についてよくまとまっていて,これについての進化心理学的な総説としても読みごたえがある.
 

第6章 進化の光

 
第6章はこれまで説明してきたことを踏まえた上で「合理性」について考察する章になる.

  • なぜヒトは独裁者ゲームで20~30%も相手に渡すのか.それは分配を渋ると「裏切り者」という評判を立てられるリスクが高く,そのコストがきわめて大きいからだ.だからこれはある意味合理的な行動であり,(エコン的な短期的経済的な合理性に対して)適応合理性(進化的戦略)があると考えることができる.(ここで「合理性」についての哲学的な議論も行っている)
  • 何が適応合理的な行動かは周りの状況や文脈に大きく依存する.だから適応合理性とエコン的合理性が一致することも一致しないこともある.そしてこの状況を理解する視点を与えてくれるのが進化心理学だ.(進化環境やモジュールの考え方について簡単な解説がある)

そして最後に著者は利他性について簡単にふれている.利他性の定義と利他的な動機との関連,利他性の進化の謎,および協力と道徳との関連を(読者の今後の興味につながるような導入として)議論し,それらの考察が経済学をより豊かにするのではないかという希望をおいて本書を終えている.
 
本書は最後通牒ゲームと独裁者ゲームに対する人々の(ミクロ経済学的最適意思決定から見て)不可思議な反応という興味深い題材を導入にして,ヒトの評判を気にする心,利他罰,裏切り者検知について解説する楽しい本だ.この評判を気にする心(間接互恵),利他罰,4枚カードについての解説部分は多くのリサーチを丁寧に紹介しながらも,初学者にとって分かりやすくなるように工夫が重ねられており,つかみの導入の面白さと合わせて全体として優れた進化心理学のサイドリーダーになっている.私自身は最後通牒ゲームの謎解きについて著者とは異なる見解だが,それでも進化心理学に興味のある人にぜひ勧めたいと思わせるきりっと引き締まったいい本だと思う.

*1:本章末の補足では1000円を分配するときに<999円:1円,受容>だけでなく<1000円:0円,受容>もナッシュ均衡(部分ゲーム完全均衡)だという解説がある.そこでは相手は受容しても拒否しても利得0円だからこれも均衡だということになるという説明がなされている.しかし相手は拒否してもやはり0円なのだから,提案者の立場から見るとこれは不安定(確率50%で拒否される)で,合理的には1円きちんと分配しておくべきということになるだろう.このゲームをヒトの意思決定として解析する上では部分ゲーム完全均衡だけ考えるのではなく均衡点の安定性も考慮すべきであるように思われる

*2:このような社会では高い地位を得るために競い合って贈り物をする文化があると説明されている

*3:これは実験ゲーム理論における最も不可思議な結果の1つといわれているそうだ

*4:なお本章の補足において「目の効果」は当初報告されたものより限定的である可能性があることについて詳細な説明がある

*5:本文中で「見えざる手」だけ提示するのは進化的に悪しきナイーブグループ淘汰的な説明によっていると誤解されるリスクが高いだろう.