From Darwin to Derrida その183

 
ヘイグは第14章において自由について語る.ヴォルムス帝国議会で査問を受けたルターは「Hier stehe ich, ich kann nicht anders. (ここにわたしは立つ,別のやり方はとれない)」と発言した.彼の屈服しないという選択は自由意思からなされたものか,神の意思を感じて拘束されていたかが議論された.そして神の意思に拘束されていたという解釈と彼自身の内部の自由意思で外部の教会に反抗したという解釈が示された.
 

第14章 自由の過去と将来について その5

 

  • 私たちの形相因,つまり遺伝と個人的ナラティブのテキスト記録は,現在の行動と将来の意図の過去の源だ.私たちが現在の刺激に反応して行動するとき,何を選ぶかは私たちが何者であるかを示している.そして私たちが何者であるかについての作用因は今そこにいる他者に操作されていることはない.なぜならそれらの原因は過去,別の場所にあるからだ.

 
形相因とは乱暴にいうと「それが何からできているか」ということで,ここでヘイグは私たちは突き詰めれば遺伝的情報と個人的経験からできていると示唆していることになる.そしてそれは行動と意図の作用因(それを与えるものは何か)となる.すると私たちの選択は私たちが何者であるかを示しているということになる.するとそれが操作されているとしてもそれは太古からの自然淘汰を受けてきた遺伝子や過去の経験を通じてでしかあり得ないということになる.
 

  • 遺伝的テキストに刻まれた私たちの形相因と目的因は,私たちが何者であるかの一部だ.しかしそれは私たちの私たちを形作る経験にも当てはまる.50年前に生じた出来事と10億年前に生じた出来事は私の現在の選択に情報を与える.

 
ここで目的因が登場する.遺伝テキストは私たちの身体を作る設計情報(形相因)であり,同時に過去の自然淘汰を受けて適応的な意味を持っている(目的因)ということになる.経験については「私たちを形作る経験」だけが私たちが何者であるかの一部だとされている.ヘイグはここでは経験が目的因とはならないと主張しているのだろうか,それともそれについてはここでは議論しないので言及しないということだろうか.ちょっと興味が持たれるが,いずれにせよここでヘイグが強調しているのは遺伝も経験も私たちが何者であるか(形相因)であるということだ.
 

  • 遥か過去に生じた出来事はあなたのコントロールの外にある.しかしそれは私のコントロールの外でもある.私は至近因に基づく外部コントロールを究極因に基づく外部コントロールに代替しただけなのだろうか.この問題を考察するには説明のタイムスケールに注意を払わなければならない.

 
これはタイムスケールをきちんと考慮すれば,より明快に議論できるということを示唆しているのだろう.ここからヘイグのより緻密な議論が始まる.

From Darwin to Derrida その182

 
ヘイグは第14章において自由について語る.進化の過程で行動という解釈を行うシステムはより精密になり,サブシステムを包含するようなものに代わり,そして個体的経験をフィードバックできる仕組み(記憶と学習)が可能になりシステムはさらに精密になる.さらにヒトにおいては個体学習を他個体に伝える(言語と文化)ことができるようになり,特別になったことまでが描かれた.ここから話は宗教改革のルターに飛ぶ.

第14章 自由の過去と将来について その4

 

  • ヴォルムス帝国議会に召喚されたとき,マルティン・ルターは「Hier stehe ich, ich kann nicht anders. (ここにわたしは立つ,別のやり方はとれない)」と発言したと伝えられる.彼のこの毅然としたスタンスは自由意思に基づくものだったのだろうか.ルターはそれは必然だと考えていた.彼の意思は神の意思によって拘束されていた.

 
ヴォルムスはWormsと綴られるので,ヴォルムス帝国議会を英語にすると「the Diet of Worms」となってまるで「(ミミズのような)虫の食事」のようになる.ここまで読んで突然「the Diet of Worms」が現れて,このことを扱ったグールドのエッセイがあったのを思い出す.ルターがヴォルムス帝国議会に召喚され10日間に渡って喚問を受けたという歴史的事件が,まるでルターが10日間ミミズのみの食事を耐えさせられたかのような印象になるという話が含まれるものだった.このエッセイはグールドのお気に入りだったようで,エッセイ集の原題にも「the Diet of Worms」が登場する.(なお邦題においてはそこは省かれて「ダ・ヴィンチの二枚貝」になっている)
 

 
ともあれ,ここからこのルターのエピソードを用いてヘイグによる自由意思についての考察が始まる.
 

  • 多くの唯物論者は,物理法則を神の意思に置き換え,ルターが自由に行動できなかったのは彼の行動には先行する原因があったからだということに同意するだろう.

 
この部分は少しわかりにくい.ルターの話を聞いて私が感じるのは,ルターは神聖ローマ帝国とカトリック教会に屈服することもできたし,屈服しないこともできたはずで,屈服しないという選択はまさに彼の自由意思による決定だろうということだ.だから多くの唯物論者がここで(彼の言葉をそのまま受け取って)彼が自由ではなかったとするのはかなり違和感がある.ともあれ,彼の言葉通りその時彼がほかの道を選択することができなかったとするなら,それには先行する原因(神の意思を感じた)ということになるのだろう.
 

  • 別の解釈は,私たちは自分の行動が外部の至近的な原因にコントロールされていないときに自由だというものだ.それは私たちは自分の目的のために自分自身で行動するときに自由なのだということだ.この解釈によるとルターが(自説の)撤回を拒否したことは,彼の外部コントロールからの自由を表していることになる.神聖ローマ帝国とカトリック教会の連合は彼の自由意思を曲げることができなかったのだ.

 
ヘイグは「別の解釈(another interpretation)」としてあたかも多数説に対する代替説のような言い振りだが,こちらの方がはるかにしっくり来る解釈に思える.
 

書評 「昆虫学者、奇跡の図鑑を作る」

 

今年の6月に「学研の図鑑 LIVE」シリーズの「昆虫」が刊行され,(特に虫が好きだとか詳しいわけでもない)私のところにもとんでもなく素晴らしいという噂が流れてきた.それは入手せねばということで早速Kindle版で入手したところ*1,私にもその迫力が伝わる充実の図鑑であった.そして(私にはわからないが)虫に詳しい人なら分かるこの図鑑のさらなるすごさがきっとあるだろうということが容易に想像できた.そこに出版されたのが,図鑑製作の中心人物丸山宗利によるこの「奇跡の図鑑」の製作内輪話が書き連ねられている本書だ.これはこの図鑑を味わい尽くすためにも是非読まねばならないという思いに駆られて手に取った一冊ということになる.
 

 

第1章 一切妥協なしの図鑑を作ろう

 
第1章では図鑑作成のそもそものいきさつが書かれている.著者は子どものころから昆虫好きであり,さらに昆虫図鑑が大好きという「図鑑少年」だった*2.長じて昆虫学者になり,ちょっと「図鑑にうるさい」図鑑好きになった.ある時ある図鑑についてのクレームを入れたことがきっかけで学研の編集者と知り合いになり,それがきっかけで学研の図鑑LIVEシリーズの「昆虫」の大改訂(新版の製作)の監修陣の一員になってほしいとの依頼が舞い込む.そして紆余曲折の末に監修の中心となって図鑑製作に関わることになる.
そしてここで製作方針に著者のこだわりが炸裂する.まず「昆虫の多様性と進化が分かる」図鑑にする,そして(これがとにかく破天荒なのだが)全ての昆虫を生きたまま(昆虫によっては死ぬと色が変わってしまうものがある)白バック(虫の輪郭が明瞭に分かる)で撮影するというものだ.刊行スケジュールから逆算すると撮影時間は1年しかない.学研の「昆虫」は日本の昆虫が対象になり,旧版では2100種の昆虫が収録されていた.図鑑製作にあたっては(どれを収録するかの候補群をそろえるという意味で)それよりかなり多い種を撮影しなければならない(最終的には7,000種,35,000枚の写真が集まったそうだ).そして生きたままだから,日本全国のフィールドに出て採集して*3(そして虫の動きをなんとかして止めて)撮る*4ということになる.そしてとんでもないプロジェクトがスタートする.
ここから様々な分類群の採集・撮影の担当(いわばドリームチーム)を集める話が書かれている.著者曰く「七人の侍」の島田勘兵衛のような心境だったそうだ.
 

第2章〜第5章 春の虫の採集・撮影,夏の虫の採集・撮影,北へ南へ虫探しの旅,秋冬の虫の採集・撮影

 
第2章から第5章まではこのプロジェクトでの昆虫と採集と撮影の様子が語られている.どのような光を当て,どのような角度で撮影するか,展翅,深度合成撮影などの苦労やそれぞれの分類群毎の白バック撮影の難しさが語られている.採集の場面はいずれも名うての虫屋さんの熱量の高いエピソードに満ちている.特に印象的だったところをいくつか紹介しよう.

  • ハエは非常に素早く動くので生きたままの白バック撮影は至難の業だ.そこでハエの写真をTwitterにあげ続けて「ハエの伝道師」となっている久力さんにお願いした.彼女は苦労の末にコツをつかみ,人糞に集まるハエを捕るために野外で用を足してハエを採集,撮影してくれた.
  • 自分で用を足してそこに集まる虫を採集するのは糞虫を採集する世界では常道で仲間内では「セルフィー」と称している.テントウムシ担当の坂本さんが与那国島に採集に行った際には,糞虫担当チームはそこで取れるトビイロエンマコガネをどうしても採集してほしくて,LINEで坂本さんにセルフィーを懇願した.坂本さんは当初ためらっていたが,最終的に応諾し見事に採集に成功,その後何かに目覚めたようだった.
  • 水生昆虫の白バック撮影は屈折率の問題で困難だが,千代田さんはそのための特殊な撮影装置を作り見事な写真を次々に撮影してくれた.
  • トンボの撮影は限られた季節での採集が必要で,暴れるしすぐ死ぬので困難だったが,担当の富樫さんは苦労の末目を見張るような技術向上を見せてくれた.
  • 「ミクロ」なガは,食草を丹念に探して幼虫を採取して羽化させて撮影することになるが,幼虫は小さく葉や茎の中に潜り込んでいるので見つけるのは難しい.担当の屋宜さんは粘り強く集めてくれ,この図鑑の「原始的なガの仲間」はこれまでの図鑑にないような充実した内容になった.
  • ネジレバネのオスは羽化すると飛び回ってメスを探し数時間で死ぬ.このため世界的にも生きたオスの写真はわずかしか存在しない.しかし大変な苦労と幸運により寄生されていたハチを見つけ.オスを羽化させることに成功し,2種のネジレバネ(スズバチネジレバネ,スズメバチネジレバエ)のオスの写真を撮影することができた.
  • 図鑑表紙の写真は法師人さんの撮影で,カブトムシがノコギリクワガタを投げ飛ばしているものだが,クワガタの美しい背面が手前に来て(普通は腹面が手前に来る)全てにピントが合っているという奇跡の一枚だ.
  • 私(丸山)も甲虫の写真を数多く撮った.撮影300種を超えるあたりでほとんどの甲虫の動きが読めるようになり,(動きを止めるための)二酸化炭素麻酔が不要になった.
  • シミは原始的とされる昆虫で図鑑の冒頭を飾る重要な分類群で,かつては古い木造住宅でよく見つかったが,現代ではシミが住めるような住宅があまりなく,いざ狙うとなると見つけにくい.私(丸山)が担当したが,今回はTwitter上で飼育している方や生息場所の情報が得られて,撮影することができた.同じく原始的とされる分類群であるイシノミと合わせて文献を取り寄せて解説を執筆することになり,よい勉強の機会となった.
  • トラツリアブは全身モコモコで眼がクリクリしていてとても可愛いので是非載せたいと皆で話をしていたが,見つかっている場所が少なく,採集に難儀していた.近縁種の情報からおそらくバッタに寄生しているだろうということになり,バッタ担当の奥山さんが周到な計画の元についに採集・撮影に成功した.今なおトラツリアブの生態は謎のままで,この図鑑の発刊が実態解明につながればと願っている.

 

第6章 もう二つの図鑑

 
第6章ではよりひろく図鑑というものについての思い,そしてこの学研のLIVE「昆虫」とは別の図鑑の作成話が語られている.

  • 学習図鑑には現在「御三家」と称されるものがあり,小学館の「NEO」,講談社の「MOVE」,そして学研の「LIVE」になる(それぞれの特徴が解説されている).
  • 日本は世界的に見て教育的な図鑑の宝庫であり,日本ほど子ども向けの図鑑が出ている国はない.現在の形に近いものは1960年前後から各出版社から次々と出版され,マニアックなものも数多く出版された(いくつか紹介されている).1980年代の終わりから子ども向け図鑑があまり売れなくなり学研と小学館のみが継続するという状況になった(講談社のシリーズは2011年に参入).
  • 学研の図鑑に関わる2年前に角川から声がかかり,「世界を旅しながらそこに生息する昆虫を見つけていく」というストーリーに沿った図鑑「角川の集める図鑑 GET! 昆虫」の監修に関わった(このときの図鑑作成の様々な苦労話が語られている).同時並行的に昆虫の深度合成撮影を駆使した豪華本「驚異の標本箱 ―昆虫―」の作成にも関わった.

 

 

 

第7章 修羅場の編集・校正作業

 
第7章は集まった写真を元に図鑑を作っていく編集・校正作業がテーマ.解説者を選び,解説をお願いし,7000種集まった写真から掲載する昆虫を絞り込む(最終的に2800種になったが,まさに胸が痛む作業だったそうだ).レイアウトを決め,そこでやっぱり種数が足りない分類群,やっぱりどうしても載せたい種を見つけてしまう(そこから泥縄式に採集・撮影作業が生じる).間に合わないかもしれないセクションの発覚,尽きない校正作業.このあたりが臨場感たっぷりに描写されている.またこれに絡んでいくつか楽しい逸話も書かれている.

  • 図鑑の製作中に発見されたカワゲラの新種が,図鑑の情報解禁直後に発表された.種名は学研の名を取って「ガッケンホソカワゲラ」.いろいろと話題になり図鑑製作に弾みがついた.
  • 最終許可や出現期の関係で(どうしても載せたい)ベッコウトンボの採集は校了終了の4月末の直前の4月中旬になった.日本全国で数ヶ所しか安定した生息地のない希少種(かつ絶滅危惧種)だったが,何とかぎりぎり間に合った.

そして最後に「奇跡の図鑑」が完成したと誇らしげに宣言されている.
 
以上が本書本文の内容で,これに加えて図鑑作成参加者たちからこれまた熱いコラムがいくつも収録されている.とにかく図鑑作りにかける熱量がひしひしと感じられる良い内幕話に仕上がっていると思う.私は当該図鑑を横において(実際にはPC画面とタブレット画面を並べて)じっくり眺めつつたいへん楽しい読書時間を過ごせた.この図鑑を持っている人にはとてもお買い得なブースト装置になると思う.
 

*1:大きなモニターで拡大表示できるのがとてもありがたい

*2:夢中になった図鑑には小学館の「昆虫の図鑑」「昆虫の生態図鑑」,学研の「昆虫」「世界の昆虫」「世界の甲虫」,旺文社の「昆虫」があり,その中でも学研の図鑑は「自分が中に入りたいほど」好きだったそうだ

*3:基本は野外での採集だが,好事家が飼育している昆虫を譲っていただいたりお借りして撮影する場合もあったそうだ

*4:いろいろなテクニックが紹介されている.撮影陣はオンライン講座で技術を共有化したそうだ

From Darwin to Derrida その181

 
ヘイグは第14章において自由について語る.RNAワールド仮説においてRNAの機能のうち化学的反応の制御についてはタンパク質に,情報の保存についてはDNAに置き換わった.行動という解釈を行うシステムはより精密になり,サブシステムを包含するようなものに代わっていくことまでが論じられた.

第14章 自由の過去と将来について その3

  

  • 1つ1つの遺伝的情報が遥か過去から継続するためには,遺伝子プールでの高い頻度に達するための多くの淘汰的死,その頻度を維持するための継続的な淘汰的死が必要だった.
  • 個体学習の進化は解釈的洗練における重要な進歩をもたらした.解釈者の内部機構における洗練のための淘汰的死が不要になったのだ.進化的過去の遺伝的情報と個体的過去の記憶はともに直近の経験のデータを意味ある行動に解釈するために利用できるようになった.文化伝統を含む他者からの学習は利用可能な情報の幅を広げた.記憶は,変化に関わらず持続するもの,変化の後に再発するものヘの応答を助ける.過去経験したことのないものに遭遇したときには,私たちはすでに知っていることのメタファーを探し求める.

 
ヘイグは個体学習が進化的な大革新の1つだと主張する.それにより「ランダムな変異と大部分の不適合個体の死」という過程なしにシステムをより洗練されたものにすることが可能になる.さらに個体学習の成果を他個体に伝達することができればこの洗練への動きは加速する.この観点から見るときにヒトは特別な生物ということになる.
  

  • それぞれの種はユニークだ,しかしヒトは特別だ.その特別な何かの核には文化と言語がある.これらの兆しは他の種にもある.しかし私たちは閾値を超えて全く新しい存在になったのだ.
  • それぞれの語には特有の用法がある.10の4乗の語彙を持つ言語は長さn語で10の4n乗の文章を作ることができる.その大半は(ランダムなヌクレオチドやアミノ酸配列と同じく)非文法的だが,意味を持つ文章の数だけでもこの文ぐらいの長さですでに超天文数となる.
  • ほとんどの発話されたテキストはすぐに消え去るが,多くのオーラルコミュニティは非常に長い韻文を記憶する吟唱詩人たちを生み出してきた.文字は偉大な発明だった.それにより非常に多くの文章を外部記憶装置に半永久的に保存することができるようになった.私たちは「本の人」(それは今や「インターネットの人」だが)になった.

 
個体経験の他個体への伝達は,言語により飛躍的に効率的になり,さらに文字という外部記憶の発明により正確性を増し,さらに時間や対象者の制限を超えることができるようになった.それらを使いこなしたヒトは意味を見いだす解釈システムの極限ともいえる存在になった.ここまでがヘイグの議論の前振りで,ここから自由についての議論が始まる.

From Darwin to Derrida その180

 
ヘイグは第14章において自由について語る.(RNAワールド仮説における)最初の自己複製子RNAは自然淘汰を受け,意味を見いだす解釈の軍拡競争が始まる.そして機能的にDNAとRNAとタンパク質にわかれて分業を行うようになった.
 

第14章 自由の過去と将来について その2

 

  • RNAからタンパク質への置き換えは化学的語彙の重要な拡大(RNAの4つの塩基からタンパク質の20のアミノ酸ヘの拡大)だ.これは,単にnの長さにおいて(RNAの4nに対して)20nの可能性があるというだけではない.20の異なる側鎖は化学言語の表現力を大幅に引き上げたということだ.20のアミノ酸は4つの塩基よりより多くのことを可能にするのだ.

 
これはなぜRNAの触媒機能がタンパク質に置き換わったかという説明になる.それは化学的語彙が飛躍的に拡大できるから,つまりより多様な,より精妙な化学反応を可能にするからだ.
 

  • 複雑な解釈者は進化的なやっつけ仕事とその後の洗練化により単純な解釈者から作り出された.生命体は,環境により示された情報の単純な受容的消費者ではなく,有用なあれこれを探し求める探索者なのだ.行動的出力という感覚的情報の洗練された解釈は,生命体のサブシステム解釈者の単純な解釈に依存している.

 
難しい言い回しだが,(行動という)解釈を探索するシステムが自然淘汰を受けると,(より多様でより精密な解釈を可能にするために)サブシステムを持つシステムに進化するということだろう.
 

  • 1つのサブシステムの出力は別のサブシステムの入力となる:アロステリックな(反応性御製のある)タンパク質とRNAは,リガンドと細胞表面受容体の結合を細胞内の遺伝子の発現の変化として解釈する制御ネットワークの中で共同して働いた;神経伝達物質の放出と多くのシナプスの神経修飾物質はニューロンが発火するかどうかの決定に統合された;ニューロンの集合はフィードバックとフィードフォワードの複雑なプロセスによりより高いレベルの決定を行うように相互作用した;分子記憶は過去の解釈を意思決定の入力としての将来利用のために記録した.

 
そしてその一つの例が示されているということになる.ここまでが自由を論ずるための前振りになる.ここからシステムに個体学習が加わった場合の話になる.