From Darwin to Derrida その194

 
最終章「ダーウィニアン解釈学」.ヘイグは大学における文理の起源に遡る蘊蓄からはじめる.そして「解釈学」の起源に話が進む.
  

第15章 ダーウィニアン解釈学 その2

  

  • 解釈学は書かれたテキスト,特に聖なる宗教テキスト,古典古代のテキストの解釈研究の方法論として発達した.その中心となる問題は,はるか過去に別の言語で書かれたテキストにどのように意味を見いだすかだった.
  • 解釈は,個別の単語や文節の意味は全体から得られ,全体の意味は個別のパートの意味から構築され,そして全ては他のテキストを読むことにより得られる文脈に依存するという再帰的なプロセスだと考えられた.この部分の解釈が全体に依存し,全体の解釈が部分に依存するという相互依存関係は解釈学的循環(hermeneutical circle)として知られる.
  • そして解釈学のスコープは,単にテキストの解釈ではなく,全ての社会的な現象に拡大した.この解釈学領域の拡大は,テキストの定義の拡大を伴った.その極限において,全ての解釈可能なものはテキストとされた.それには歴史,意図的,非意図的含めた全てのヒトの行動が含まれる.私の個人的なテキストの定義「解釈されることを意図されている解釈」というのは非意図的なものを排除しているの,より狭いものになる.

 
この蘊蓄部分は面白い.解釈学はギリシア・ローマの古典の解釈から始まり,それは当初から全体の解釈は部分の解釈に依存し,部分の解釈は全体の解釈に依存するという再帰的な問題「解釈学的循環」を扱う学問だったというのだ.そして「全体」の範囲はテキストを超えて拡張し,解釈学のスコープは広がったということになる.
 

  • ヴィルヘルム・ディルタイは社会人文科学の独特な方法論とそれに関連した解釈学の一般的な問題を論じている.彼の1894年の言明「Die Natur erklären wir, das Seelenleben verstehen wir」は,自然科学の説明モード(the explanatory mode)としての「Erklären (説明:explanation)」と社会人文科学の説明的原理(the elucidatory principle)としての「Verstehen (理解:understanding)」の違いを示したものとしての権威ある古典になっている.

 

  • 私たちは自然を説明するが,心的世界は理解するのだ.内的経験は,私たちが何かを達成するプロセスと心的世界の個別の機能の組み合わせを全体として把握する.全体のコンテキストの経験が先に来る,その後に個別のパーツを区別するのだ.これは心的世界,歴史,社会の探究手法は,自然の知識を得るために使われる手法と大きく異なるということを意味する.

ディルタイ

 
ヴィルヘルム・ディルタイ(Wilhelm Christian Ludwig Dilthey)はドイツの哲学者.ここで引用されている言明は「Ideen über eine beschreibende und zergliedernde Psychologie.(記述的分析的心理学についての思索)」という論文の中にあるとされている.そして「Die Natur erklären wir, das Seelenleben verstehen wir」はこの引用文章の最初の文で「私たちは自然を説明するが,心的世界は理解するのだ」という意味になる.
心的世界の理解はまず全体の経験的認識となるということで,いかにも観念的なドイツ哲学にありそうな考え方だ.
 
www.vr-elibrary.de

From Darwin to Derrida その193

 
このヘイグの難解な本もいよいよ最終章に来た.表題は「Darwinian Hermeneutic」とあり,またまた難解そうだ.
 

第15章 ダーウィニアン解釈学 その1

 
冒頭の引用はオーストリアの生理学者エルンスト・テオドール・ブリュッケのものだ.ブリュッケは1880生まれで1941が没年なので,「生物学者」をheで受けていたりする.これはウォルター・キャノンの「The Way of an Investigator」(1945)でなされた引用の孫引きということになる.ここでは当然この本の最終章らしく「目的論:Teleology」がテーマとなるらしい.
 

  • 目的論はそれなしにはどの生物学者もやっていけないような婦人だ.しかし彼は公衆に彼女と一緒いることを見られるのを恥じるのだ.

Ernst Theodor von Brücke

 
そしてやはり最終章にふさわしく冒頭は蘊蓄話から始まっている.ここでは自然科学と社会人文科学の成り立ちが扱われている.
 

  • フランシス・ベーコンはミネルバとミューズの女神たちを不毛の処女とおとしめ,アートを物理的探究のカテゴリーから外した.ルネ・デカルトは思考する心を物理的身体メカニズムと分離させたが,これには似たような含意がある.創造性はゴーストにあり,機械にはないという意味だ.そして科学革命の開始時には,すでに人文科学と自然科学の知識へのアプローチに疎隔の兆しが見える.

 
ここで出てくるベーコンの著書は「The Advancement of Learning 」,デカルトの著書は「Meditations and Other Metaphysical Writings」になる.デカルトの心身二元論に芸術と科学の区別の含意があるとは知らなかった.
 

  

  • 中世の大学のリベラルアート(ars liberalis)は文法,修辞,論理の三学科(trivium)と算数,幾何,天文,音楽の四学科(quadrivium)の組み合わせだった.
  • 15世紀から16世紀にかけて三学科は現在の人文科学につながる人文諸学(studia humanitatis)に改組された.このカリキュラムの改組は論理学的議論(dialectic)から古典の読解と解釈に重点を移すことが含まれている.詩,歴史,道徳哲学が自由人となるための教育に付け加えられた.
  • 17世紀には現在の自然科学につながる自然哲学が大きく発展した.社会科学がアカデミアに加えられるのは19世紀になる.これらの学問の分割は現在のアカデミアの教職員の地位やカリキュラムのカバレッジの争いにつながっている.

 
ヘイグの蘊蓄が続くが,19世紀ドイツの話あたりからが本題のようだ.
 

  • 19世紀のドイツの大学は自然科学(Naturwissenschaften)と社会人文科学(Geisteswissenschaften)と間の論争の場となった.論争はドイツ語でなされており,私にはこれらの論争の全てを理解し解説することができない.長いドイツ語の文を翻訳しようとしても,理解可能な一部の文節の意味をほぐし出すことはできるかもしれないが,意図された意味を特定することはできないのだ.なぜならそれぞれの部分の意味は文全体と関連しており,同時に文の意味は,今読んでいる文より長く複雑な多くの文よりなる広い議論,その主張全体の一部として理解される必要があるからだ.英語への翻訳がある場合も,長いドイツ語文を分析可能な部分に分けて訳出しており,それによる解釈は解釈の別のレイヤーを失うというコストを避けられない.

 
ここはヘイグの学術的なドイツ語の用法についての愚痴話のようで楽しい.しかしここには愚痴話だけではなく,本書の議論につながる部分がある.それは全体を理解するには部分を理解する必要があり,部分を理解するには全体を理解する必要があるという再帰的な構造についてだ.

訳書情報 「傷つきやすいアメリカの大学生たち」

 
以前私が書評した「The Coddling of the American Mind」が「傷つきやすいアメリカの大学生たち:大学と若者をダメにする「善意」と「誤った信念」の正体」という邦題で邦訳出版された.邦訳書は昨年の11月に出版されており,私は見逃していたのだが,コメント欄でUZさんに教えていただいたものだ.
本書は法学者のルキアノフと社会心理学者のハイトが2018年に出したもので,アメリカの大学に吹き荒れるキャンセルカルチャーとアイデンティティポリティクスの問題点,その原因,対策について語った本だ.最近はキャンセルカルチャーの問題点を指摘する本も増えてきたが,本書はその嚆矢となった本ということができるだろう.著者たちは基本的にはリベラル支持の立場から本書を執筆しており,本書はこの現象について,そのイデオロギー的暗黒面をあまり強調せず,「大学生の安全」を過度に追求した結果としてマイルドに捉えているところが特徴になるだろう.
 
 
原書  
原書についての私の書評
shorebird.hatenablog.com

 
 
キャンセルカルチャー関連
 
典型的な実例としてのスティーヴン・ピンカーへの糾弾事件についての私の記事
shorebird.hatenablog.com

 
進化心理学者サードによるすがすがしいまでのキャンセルカルチャー徹底批判の本.

 
 
私の書評
shorebird.hatenablog.com

 
新「知の欺瞞」事件の首謀者である数学者のリンゼイと政治ライターのプラックローズが書いたキャンセルカルチャー糾弾の書

 

同邦訳.

 

英国人ジャーナリストマレーによる糾弾書

 
 
同邦訳 

訳書情報 「ドーキンスが語る飛翔全史」


以前私が書評したリチャード・ドーキンスの最新刊「Flights of Fancy」が「ドーキンスが語る飛翔全史」という邦題で邦訳出版されるようだ.「魅惑の飛翔」という原題に比べてちょっとダサい邦題だが,売り上げを考えるとこうなってしまうということだろう.
ドーキンスも原書出版時には80歳(今年の3月で82歳になる),ここのところの著作は自伝や新無神論関係の本が多かったが,久しぶりにがっつりした進化関係の本を書いたということになる.ということで蘊蓄や余談は語りたいだけ語るぞと本人が楽しんで書いているのがよくわかる一冊になっている(何しろ所々に「by the way」で始まる余談コラムがあるのだ).全般にちりばめられているイラストも美しい.ドーキンスファンにとってはまことにうれしい一冊ということになるだろう.


原書

 

原書に対する私の書評
shorebird.hatenablog.com

From Darwin to Derrida その192

 
ヘイグは第14章において自由について語る.私たちは遺伝にも経験にも完全に拘束されず,意思決定は内的な目的(telos)を持つ「魂」が関与する.この魂は複雑な非線形システムであり,ヘイグはそれを生命の対位法の交響曲にたとえる.ここからちょっと語源的な蘊蓄が始まる.
   

第14章 自由の過去と将来について その14

 

  • 生命体(organism)の中の器官(organ)はどこから来たのか.ギリシア語のorganonは道具を意味する.それは「それを使って仕事をするもの」であり,「仕事」を意味するergosが母音交替したものだ.ラテン語のorganumにはメカニカルなデバイス,戦争の推進力,楽器という意味もあった.古英語のorganは楽器を意味し,同時にメロディや歌の意味もあった.しかし15世紀にその語義は広がり,機能を持つ体内の器官も意味するようになった.動詞のorganizeは「organを備え付ける」という意味であり,そこからorganization,そしてorganismが派生した.
  • 文脈(context)の中のテキスト(text)はどこから来たのか? contextのOEDの第一義は「語と文を織りなすこと,発話の創造,作文」だ.関連する語にはtextile, textureがある.これらの単語を語源的に連結するのは「織る」なのだ.

 
この部分は前後の文脈とあまり緊密につながっているわけではなく,ちょっとした蘊蓄披露の脱線のような感じだ.ヘイグはここから本章のまとめに入る.
 

  • 全てのヒト,そして全ての生命体は,世界の中で生存し機能するために恒常的に膨大な情報を処理し続けている.私たちが入力を出力として解釈するのは,私たちのユニークな進化史と経験により条件付けられた内部的プロセスによるのだ.
  • 私は世界を私が解釈するように解釈する,それは私が私であるからであり,私でなければ別の解釈をしただろう.もし私が,どのように,そしてなぜあなたがあなたの解釈するかを理解する必要に迫られれば,私はあなたが何者であるかを理解しなければならない.
  • 私たちの観察と行動のエントロピーは十分な自由度を持つので,私たちの反応できる物事ややり方の数は超天文数になる.それが無限ではなく超天文数に過ぎないから私たちは拘束されていると文句を言うのは意味のないことだ.私は自分の人生を生きるには十分な自由度を持っている.

 
私たちの行動は遺伝子や外部環境,経験に決定論的に拘束されているわけではない.行動は内部的目的を持つプロセスによって最終的に決定される.そしてこのプロセスは(複雑な非線形システムであり)「その個人はどういう人間なのか」としてしか理解できない.そしてそれが選ぶことのできる方法の数は(様々な組み合わせの上に立つ)超天文数であり,人生を決めるには十分なほどの自由度があるということになる.
 

  • コントロールからの自由は他者の意図の道具として使われることからの解放だ.私たちは自分のために決断し安易に操作されないように進化している.しかし私たちは自分の選択に影響を与えようとする他者の努力(強制,欺瞞,洗脳,説得)に包囲されている.ヒトの本性についての科学はそのメカニズムに弱点があること,意思決定を歪める簡単なやり方があることを明らかにした.そして関連する科学は,そのような弱点を突いて私たちの行動に影響を与えるマーケティング,ドラッグ,政治的操作の技術を編み出した.それらにより私たちは自由なエージェントではなく道具として扱われる.
  • これらの技術の一部は私たちの内部的複雑性をブラックボックスとして扱い,入力と出力の統計的規則性を利用する.別の一部は内部をのぞき見し.そのメカニズムを理解し,出力を調整しようとする.これらの技術は将来的にますます洗練されていくだろう.なぜならそれに大金を払う人たちがいるからだ.

 
そしてこの行動の自由は(社会性動物である私たちにとっては社会的相互作用が重要であるため)特に他者に操作されないために進化的に重要だったということになる.そして他者を操作しようとする能力と操作されないようにする能力は進化的アームレースになるので,この自由は完璧ではない.そしてテクノロジーはそれを利用して他者を操作する手法を洗練させていく.ヘイグはちょっと悲観的なコメントを最後においている.
 

  • 私たちは降伏し他者の道具になることを甘受するしかないのか? 私たちは自分の魂をハックから救えるのか? ヒトの歴史の物語は私たちを崖っぷちに立たせたままエンディングロールを迎えている(The narrative arc of human history leaves us hanging on the brink as the credits roll.)