書評 「The Parasitic Mind」

 
本書は進化心理学者ガッド・サードによる一冊.ガッド・サードは消費者心理やマーケティングを進化心理学的に分析考察する業績で知られている.題名は「寄生性の心:どのように感染性のアイデアが常識を殺すのか」という意味であり,一見したところミーム論の本のように見える(私としては進化心理学者の書いたミーム論だと思って手にした一冊になる).しかし実際に読んで見るとこれは現在アメリカのアカデミアで一大勢力を振るうウォークプログレシブによるキャンセルカルチャー告発の書であった.アカデミアのキャンセルカルチャーの問題を扱った心理学者がかかわった本としては以前にルキアノフとハイトの「The Coddling of the American Mind」を書評したが,こちらが学生の安全を過度に重要視することから生じた問題として憂いていたのに対し,本書はこれは感染性の悪質なイデオロギーに起因する問題だと看破し,(まさにそのキャンセルカルチャーの餌食になるリスクを冒して)戦闘的な批判姿勢を貫いているのが特徴だ.
 

序言

 
冒頭でサードは西洋は現在人々の合理的に考える能力を破壊する悪疫に襲われているとぶち上げる.それはダイバーシティ,インクルージョン,エクイティのイデオロギー,ポストモダニズム,ラディカルフェミニズム,トランスジェンダーアクティヴィズムなどが含まれる悪いアイデアの集合体であり,その態様はアカデミアの教授たちの左派の先進性純粋性シグナルのランナウェイ競争により過激になり,被害者アイデンティティ競争(犠牲者ポーカー)や科学否定主義の形をとって人々の理性的思考能力を破壊するというのだ.そして本書は真実のための戦いの書だと宣言している.なかなかラディカルな序言になっている.
 

第1章 内戦からアイデア戦争まで

 
第1章ではなぜサードがここまで過激な真実と自由のために戦う戦士になったのかの背景が書かれている.ここではなかなか迫力のある経歴が記されている.

  • 私は1964年にレバノンでユダヤ人として生まれた.1970年にエジプトのナセル大統領が死に,レバノンにはイスラム教徒たちによるユダヤ排斥運動が吹き荒れるようになった(様々な恐ろしい出来事が振り返られている).(第4次中東戦争の直後)1975年にレバノンは内戦に突入し,イスラム教徒とユダヤ教徒の平和共存は望めなくなった.自宅が襲撃され,一家はレバノンから逃げることに決めた(間一髪の脱出行も振り返られている).
  • 一家はなんとかモントリオールに逃れた.そこは寒かったが雪は爆弾より遥かにましだった.しかし1980年に両親が一時帰国するとファタハに誘拐された.両親は数日後に高度に政治的な交渉の末に解放されたが,私には大きなトラウマが残った.
  • そこから15年ほどは平和に過ごせた.私は(怪我でサッカー選手のキャリアをあきらめた後)数学とコンピュータサイエンスの道を志し,マクギル大学でMBAに進んだ.私は自由と真実に対する強いコミットメントを持つようになり,それが人生の指針となった.(そのようなコミットメントを持つようになったいくつかの出来事が書かれている)その後社会心理学や進化心理学に出会い,それを生かしたマーケティングを研究するようになった.
  • 科学は真実に至るための手法であり,それは大学で実践されている.しかし大学は科学的真実の源泉であると同時に馬鹿げた反真実生成機でもあることに気づくことになる.その反真実に最初に出会ったのは消費者リサーチの論文誌に掲載されたポストモダニズムの論文だった(その社会構築主義的主張がいかに馬鹿げたものであったかが説明されている).
  • 1994年にコンコルド大学に移る.そこの自然科学者の同僚はダーウィニズムを取り入れて消費者行動を分析する私のリサーチ方針を問題なく受け入れてくれたが,社会科学者の同僚はそれを還元主義的で性差別主義的だとあざけるのだった.特にフェミニズム学者は進化心理学に敵対的だった.
  • そして私はいくつかの邪悪な力が西洋の理性と科学と啓蒙の価値へのコミットメントを侵食していることに気づいた.その力には政治的正しさ(ポリコレ),ポストモダニズム,ラディカルフェミニズム,社会構築主義,文化相対主義,道徳相対主義,被害意識からの攻撃文化(マイクロアグレション,トリガーウォーニング,キャンパスのセーフスペース,アイデンティティポリティクスなど)が含まれている.これらはアカデミアや政治家をセンシティブなトピックから退出させるように様々な圧力をかけ,我々のオープンなディベートを通じて真理に迫るという文化を脆弱化させているのだ.

 

第2章 考察vs感覚,真実vs痛みの感覚

 
サードが最初に取り上げるのは問題への向き合い方だ.冒頭で感情と理性,カーネマンのシステム1とシステム2の二重過程論などを簡単に解説した後でこのテーマに進む.伝統的な科学的なアプローチは物事をロジカルに分析するものだが,今日のアメリカの大学ではロジックよりも痛みの感覚があるかどうかの方が議論を主導してしまうのだ.ここからはそれらの具体的な例示が続く.

  • ドナルド・トランプが当選したときのアカデミアの雰囲気はまさに集団ヒステリー状態だった.彼等は「株価は暴落して二度と回復しない」「トランプは民主制を破壊するだろう」「マイノリティは危険にさらされる」「トランプは核戦争とジェノサイドを引き起こす」「北米は反ユダヤジェノサイド主義に染まる」と口走った.これは象牙の塔の住人たちが(理性的に分析したのではなく)トランプのスタイルを嫌悪したからとしか説明できない.少し落ち着いた後でさえ彼等の中には「トランプに投票した63百万人は皆人種差別主義のうすのろだ」と主張するものもいた.彼等には移民や減税や規制にかかる政策的観点からヒラリーよりもトランプを選ぶということが(ある種の政治的な価値観から)合理的でありうることの考察を拒否しているのだ.
  • サマーズ発言,グーグルメモ事件において,問題となった内容は(ポリコレには反していたが)進化心理学的には正しいものだった.ハーバード大学当局やグーグルがとった行動は「真実が痛むのなら,それは真実であっても多様性,インクルージョン,エクイティ,コミュニティの団結のために抑え込まれねばならない」というものだ.最近もCERNのストルミーアは「物理学において女性は差別されていない」ことをデータで裏付けた内容を講演した結果,偏見による憎悪者と糾弾され職を失った.
  • 冗談も対象にされる.例えばノーベル賞受賞化学者のティム・ハントは国際会議の場で,男女がいるラボについて「女の子がラボにいるとね,自分がその子を好きになったり,彼女が自分を好きになったり,批判して泣かれたりするかもしれないんだよね.そういうのをどうしても避けたいんなら同性のみのラボしかないんだよね」と冗談を飛ばしたことがSNSで広まり,激怒の津波に襲われて(女性科学者を含む擁護者も多かったにもかかわらず)最終的にはUCLを辞職せざるを得なくなった.また医学者で外科医のラザー・グリーンフィールドは性交により精子に接触した女性の方が鬱になりにくいことを示す論文の最後に「このことから,聖ヴァレンタインが考えていたよりも男女の絆が深いことがわかる.そして私たちは今やチョコレートよりいいギフトがあることを知ったのだ」と書いて糾弾され,論文誌の編集者を辞さざるを得なくなるとともにアメリカ外科大学で降格となった.
  • マット・テイラーは彼の宇宙工学の業績についての公開されているライブストリームインタビューで(ガールフレンドからプレゼントされた)下着姿の女性がプリントされたTシャツを着ていたために激しく糾弾された.マットを糾弾するようなフェミニストは,しばしば男性の視線を視覚レイプであるとし,ビキニは父権主義的性差別主義者のツールだが,ブルカは男性の視線から守られるために開放的で自由だと主張する.どんな皮肉もこのプログレシブな馬鹿話にはかなわないだろう.

 

第3章 現代自由社会において譲歩できない要素

 
サードは次に社会がリベラルでモダンであるために必要不可欠の要素は何かという問題を取り上げる.それはサードによると(1)どのような問題でも自由に議論できる権利と(2)競合するアイデアをテストするための理性と科学へのコミットメントだという.そしてそれがどのように脅かされているかを語っていく.

  • 多くの人々は言論の自由についてほとんど理解していない.SNSに現れる社会正義戦士たちはしばしば私が(SNSで彼等に対して丁寧に相手をしないからといって)「言論の自由」偽善者だと批判する.彼等は,個々人が嘲笑や馬鹿げた議論を相手にしない自由があることを理解しない.そして彼等はSNSカンパニーは政府ではないからどんな言論をプラットフォームに上げるかを選ぶのは自由だと主張する.知識が力ならこれらのソーシャルメディアの巨人はほとんど無限の力を持っていることになるのにもかかわらずだ.そしてこのような巨人はどのような表現内容にマネタイズを許すかという意味でも権力を持っている.彼等は電力会社やガス会社と同じような規制を受けるべき対象なのだ.
  • 私は現在ポリコレ関連で苦境にある学生や研究者たちの声を(ソーシャルメディア活動として)よく聞いている.常に現れるテーマはプログレシブ正統派からの逸脱として罰されないための「自己検閲の必要性」だ.(数多くの具体例が示されている)イデオロジカルなスターリン主義は今や北米の大学の日常的現実なのだ.
  • 2017年ライアソン大学は「大学キャンパスでのフリースピーチのための戦い」という名の講演会(サードも講演者として招待されていた)をまるでアンティファのようにシャットダウンさせた.大学当局はセキュリティ上の理由だと説明した.講演会をシャットダウンさせようとした圧力者たちはフェイスブックにナチの鉤十字を掲げて「我々はナチズム,白人優越主義,ユダヤ排斥主義を許容しない」と表明していた.私はレバノンで反ユダヤの迫害から逃れてきたユダヤ人だがナチズムと認定されるのだ.このような騒ぎは何百も生じており,幅広い講演者が拒否されている.北米の大学は左派のエコーチェンバーとなってしまっている.
  • 「マイノリティに対しての攻撃的な言辞はどんなものでも許されない」とする風潮が明らかになってきたのは1988年のサルマン・ラシュディー事件ぐらいからだ.この頃からマイノリティの信念体系で神聖と認められるものへの批判,皮肉を許容しない動きが過激になった.そしてイスラムへの攻撃は「イスラム恐怖症,人種差別主義」と認定される.しかし誰かがこれは神聖だといったら一切批判できないのでは言論の自由は成り立たない.
  • 科学的に優秀かどうかは政治ではなく能力主義で評価されるべきだ.科学が成功したのは,まさにそれが誰が遂行したのか,するべきなのかに無関心であったためだ.しかし現在それは(ありとあらゆる局面で男女同数を求める)アイデンティティポリティクスに侵食されつつある.そしてさらに「科学は白人男性植民地主義の知るための方法にすぎない(そしてそのような科学と異なる女性やマイノリティの知るための方法も同じく尊重されるべきだ)」という悪質なアイデア病原体が大学に広まりつつある.そうではないのだ.真理はただ1つであり,私たちは科学的手法によってのみそれに近づくことができるのだ.
  • プログレシブたちは「ダイバーシティ,インクルージョン,エクイティ(DIE)が達成されれば全ての問題は解決する」と信じているようだ.これは今や大学の公的宗教となり,DIE官僚団が結成されている.官僚団は暗黙連想テスト(IAT)を使って差別主義者のあぶり出しに躍起になっている.しかしIATは信頼できる手法とは到底いえないものだ.このような異端審問の嵐の中で協調性が生まれるはずもない.
  • しかも皮肉なことに大学内の政治的多様性は著しく減少している(2005年の調査では大学内の民主党支持,共和党支持の比率は5:1,社会学では44:1になっている).プログレシブたちは「大学教授たちは賢いのでリベラルになるのだ」と説明しようとするが,それはまさに自己選択バイアスに陥った考え方だ.おそらくこれはシステマチックな政治差別の結果だろう.このような多様性の欠如は政治学や経済学の弱体化を引き起こしかねない.このような偏りは大学だけでなく,娯楽,GAFAを含むオンラインサービス,新聞出版などの業界でも観察されている.

 

第4章 反科学,反理性,そして非リベラル活動

 
第4章でサードは大学にはびこる悪質なアイデア病原体を具体的に解説する.特に目立つものとしてはポストモダニズム,社会構築主義,ラディカルフェミニズム,トランスジェンダーアクティビズムが挙げられている.ラディカルフェミニズムに対しては火を吹くような批判が繰り広げられている.なおポストモダニズムに対する2017年版ソーカル事件の詳細はなかなか興味深い.

  • 多くのアイデア病原体はヒトを現実から遠ざけようとする.ブランクスレート前提は美しいが偽りのヒトの可塑性を主張し,ラディカルフェミニズムは進化的に生じる性差を否定する.最も極端な現実否定は「トランス」を頭に付けると生物学的性や人種を自由に変更できるとするトランスアクティビストの主張に見ることができる.

 
<ポストモダニズム>

  • ポストモダニズムは客観的真理などというものはないと主張する.私がある論客に「ヒトは女性だけが出産できる」という真理を主張したところ,彼女は「日本には男性が精神的に子をつくる部族が存在する」と返してきた.私が「太陽は東から昇る」と主張すると,彼女は「東」「太陽」などの概念の恣意性を指摘して議論を煙に巻こうとする.どのようにでも言い逃れて客観的真実の存在を認めないのだ.
  • 性差の否定:カナダの人権法Bill C-16はジェンダーアイデンティティとジェンダー表現をヘイトクライム法益に追加するものだ.これを厳密に適用すると進化的人間行動の授業も,3人称代名詞の使用もヘイトクライムになってしまう.今や「男性にも生理がある」という「真実」を学校で教えようという動きもある.カナダ癌協会は広告キャンペーンで「トランスジェンダーの女性にも子宮ガンリスクがある」としている.
  • 1996年のソーカル事件は有名だが,2017年にはリンゼイとボゴシアンが「ヒトのペニスは気候変動の原因たる構築概念だ」というでっちあげ論文を査読誌(Cogent Social Sciences)に掲載させることに成功した.それは何でも載せられるハゲタカ誌だという批判に対して,彼等はさらに20のでっちあげ論文をフェミニスト哲学,ジェンダースタディの主要なリーディング論文誌に投稿した.そしてそのうち7つがアクセプトされたのだ(一覧表が載せられている*1).

 
<トランスアクティビズム>

  • トランスアクティビズムはマイノリティの専制政治だ.トランスジェンダー女性(生物学的には男性)の女子競技への出場がしばしば認められる*2.全くアンフェアだがトランスジェンダーは女性よりマイノリティなので,彼女たちの権利の方が女性の権利より優先されるのだ.「トランス」教義によれば「ヒトはジェンダーを含むあらゆるカテゴリーを自分で選択できる」ことになる.私はある時「であれば私は8歳未満のカテゴリーで柔道競技に出場することも可能になるはずだ」と皮肉を飛ばしたが,(婚姻マーケットで有利になることをもくろんで)自分の年齢を法的に49歳にしようとする69歳の男性が本当に現れてしまった.
  • 北米のプログレシブ主義は認知的に非一貫で非合理的な信念システムだ.彼等は刑事裁判においては17歳11ヶ月の人間を認知的に完全に発達していないから子ども扱いせよと主張し,選挙権に関しては16歳で十分と主張する.そして自分のジェンダーアイデンティティを自覚するには3歳で十分だというのだ.彼等は自分たちの主張と一致するときだけ科学に価値を認めるのだ.

 
<ラディカルフェミニズム>

  • フェミニズムは歴史を通じて数えきれないほどの女性の苦境を救済してきた.しかし今やそれは(その他のイデオロギーと同じく)運動を永続化させるための作り込まれた犠牲ナラティブに頼るようになった.
  • 両面価値的性差別主義目録(ASI)がこのナラティブ作成に使われている.この基準によると男性が女性を理想化したり,歩道で車からかばったり,女性なしの人生は味気ないと感じているなら,彼は悪質な善意的性差別主義者(vile benevolent sexist)と認定されるのだ.ヒトは異性の配偶相手を求めるものだ.進化心理学者でなくともこの基準がいかに馬鹿げているかはわかるだろう.フェミニストたちからの40年にわたる洗脳と魔女狩りを受けた男性が,今や緊急時の女性への心肺機能蘇生術をためらうようになったのも無理からぬことかもしれない.
  • さらに悪質なのが「有害な男らしさ(toxic masculinity)」概念だ.多くの大学がこれに関する講演やセミナーを定期的に開催している.この概念にはスポーツにおける競争性,社会的あるいは身体的な優越性の表示,公的な場面での感情の抑制などが含まれる.そしてこれが暴力,戦争,レイプなどの社会的悪の根源だとされるのだ.男を解毒できさえすれば世界は平和になるというわけだ.しかも今やこの「有害な男らしさ」にはオタク的な性質(toxic geek masculinity)も含まれつつある.
  • 多くのアカデミアのフェミニストたちはこの「有害な男らしさ」概念に満足していない.彼女たちにすれば「男らしさ」は全て悪質であり「有害な」という修飾語は不要なのだ(いくつかの言説が引用されている).そして女性は常に被害者だ.彼女たちの全ての考察はこの「犠牲」につながる.
  • フェミニズムは科学を侵食しようとしている.今やフェミニスト建築学,フェミニスト生物学,フェミニスト物理学.フェミニスト化学,フェミニスト地理学,フェミニスト数学,そしてフェミニスト氷河学*3なる分野があるのだ.
  • 数々の生物学的,解剖学的,生理学的,形態的,ホルモン的,認知的,感情的,行動的な性差の知見が積み重ねられてきた.しかし依然としてフェミニストは心の性差を頑として認めない.最新のこの幻覚の表出は「ニューロ性差別主義」(脳の性差を主張するものは性差別主義者だ)としてパッケージ化されている.なんともいらだたしいことにネイチャー誌までもがこれを肯定的にカバーしているのだ.
  • ラディカルフェミニストたちはDIEカルトの頑固なサポーターだ.しかしウィメンズスタディーの研究者の男女パリティは無視する.彼女たちは幻想的な賃金不平等を糾弾し,(観客数の差を全く無視して)女性のサッカープレイヤーにも男性のプレイヤーと同じサラリーを払うべきだと主張する.彼女たちはこのサラリーギャップの経済的リアリティを理解しようともしない.

 

第5章 キャンパスの狂気:社会正義戦士の登場

 
ではイデオローグたちはこれらの真実からかけ離れたアイデア病原体をどのように防衛するのかが第5章のテーマになる.専制主義下なら検閲と犯罪化に頼ることになる.サードは西洋ではイデオロギー洗脳はもっと微妙なものだと説明する.それはポリコレ思想とキャンパスの思想多様性の排除により防衛されている.そして大学はポリコレ思想と社会正義戦士を生み出す土壌となるのだ.

  • 大学のキャンパスでは少数派の社会正義戦士(SJW)がマイノリティの専制を敷き,ポリコレを推し進める.このプログレシブたちにとっては感情がどれだけ傷つけられたかだけが重要で,力は犠牲者階級で決まる.これは抑圧オリンピックとも犠牲者ポーカーとも呼ばれる「どちらがより傷ついたか」競争を生み出す.私はさらに「集合的ミュンヒハウゼンシンドローム*4」と呼ぶべき状況があると指摘したい.
  • 大学のリベラル教職員たちは,いったんこのプログレシブたちの中心教義を破ったと認定されると自分のアイデンティティの盾を失うことになる.
  • SJWたちは「対立するものの見方は『暴力』だ」という被害者ナラティブを広め,だからこのような暴力から保護されるべきであると主張し,大学当局に自分たちが意見を異にする講演者のキャンセルを強要することを正当化する.その結果キャンパスは完全なエコーチェンバー,そして不毛な安全スペースになり,若者は対立する意見を扱うには脆くなり,クリティカルシンキングは失われる.
  • このような不毛な安全スペースはキャンパスだけでなくSNSにも広まりつつある.私はTwitterが検閲を行うのは最適ではないと考えている.人々は(考える力を失わないためには)醜い社会的相互作用に触れるべきなのだ.
  • この感情的脆さはトリガー警告によりさらに悪化する.そしてトリガーリストは増殖を続けている*5.刺激的なものを全て避ける様な態度によって健全な心は得られないだろう.今や大学は「真実の追究」よりも「感情的な傷つきを最小化させること」を優先するようになってしまったのだ.
  • 多くのシステムには現状維持のためのホメオスタティックなフィードバックがかかっている.これが犠牲者ナラティブを過激化し,増加させ,何が犠牲かの概念をどんどん矮小化させている.そしてこれは偽りの激怒とでっちあげの犠牲者を作り上げ,大いなる道徳的偽善につながっている.(いくつもの驚くべき具体例が紹介されている*6
  • 子どもやペットを虐待しそれを病気だと訴えるミュンヒハウゼンシンドロームはそれにより同情を集めようとしていると説明される.私が提案する「集合的ミュンヒハウゼンシンドローム」は皆が自分の犠牲者としての地位を広告し,注目や同情を集めようとする状況を指す*7.ヘイトクライムをでっち上げて犠牲者階級内を上昇しようというわけだ.
  • 特に理性と常識に反した主張を行うのは肥満受容アクティビストとトランスアクティビストだ.肥満アクティビストは肥満が多くの生活習慣病と関連することを否定し,肥満者は肥満差別主義者により配偶マーケットから締め出されていると訴える.トランスアクティビストは自分の配偶相手を生物学的性と性自認が一致している人に限ろうとする態度をトランス差別主義だと糾弾する.つまり異性愛は偏見による憎悪だというわけだ.
  • プログレシブにとっては全ての道が偏見による憎悪につながっている,白人男性が黒人女性を好きにならないことも黒人女性を好きになることも偏見による憎悪になる.そして自分の属する文化以外の文化的習慣を好むこと(「文化の盗用:cultural appropriation」と呼ばれる)も偏見による憎悪になるのだ(いくつもの「文化の盗用」として糾弾された(常識的にはなんの問題もないと思える)具体例が挙げられている*8).「文化の盗用」を騒ぎ立てる社会で,いったいどのようにして文化的多様性の豊潤さを経験できるというのだろうか.
  • なぜ人はSJWになるのか.男性のSJWは(進化生物学でいうところの)スニーカー戦略をとっていると考えられる.彼等はそのイデオロジカルなコミットメントにより感受性豊かで強圧的でない男性を演じ,プログレシブ女性の受けを狙っているのだろう.別の動機には自分を鞭打つことによりイデオロジカルな純粋性を(コストをかけて)ディスプレイするというものがあるのかもしれない.これはキリスト教の原罪概念の代替だ.典型的にはSJWは優越的地位にある白人の西洋人であり,このアイデアと整合的だ.彼等は永劫的に自らへの鞭打ちを行いグロテスクな謝罪を繰り広げる.そして彼等は(自己鞭打ちを永続させるために)現実から乖離し,そうでない人々との間に大いなる分断が生じるのだ.

 

第6章 理性からの離脱:ダチョウ寄生シンドローム

 
第6章ではプログレシブたちがどのように現実から乖離するのか,どこまで現実から乖離してしまっているのかが扱われる.

  • 科学は真実を追究する営みだが,個別の科学者はそこから逸脱することがある.グールドとルウォンティンは彼等のマルキシスト世界観と一致しない社会生物学を厳しく糾弾した.ルイセンコも共産主義イデオロギーを優先し,遺伝の事実をねじ曲げた学説を打ち出した.そして反ワクチン主義は現代のルイセンコ主義といえる.
  • もちろん現実を否定したいのは科学者に限らない.ヒトは他人を欺瞞し,自己欺瞞に陥る能力を進化によって得た.都合の悪い事実を無視したり否定する態度は(ダチョウが首を砂の中に突っ込んで現実を見ないようにする漫画イメージから)「ダチョウ政策(ostrich policy)」と呼ばれる.これは多くの例が記録されている.私はアイデア病原体が多くの人々を集合的にダチョウ政策に導く様を「ダチョウ寄生シンドローム(OPS)」と呼ぶことにした.彼等は現実から乖離した世界(ユニコーン世界)を構築し,そこで幻想的相関関係,実在しない因果,気分の良くなるプログレシブのでたらめと暮らしているのだ.
  • これらOPS患者は幅広い認知バイアスに身をゆだねて現実から身を守る.そしてありもしない因果関係で物事を説明しようとする.(科学者と名乗るビル・ニエがパリのイスラム過激派テロの原因を気候変動と主張した例が示されている)
  • カナダのトルドー首相は「多様性こそが私たちの強みだ」とことあるごとに唱えている.しかし多様性が全ての問題を解決し,安定した平和な社会をもたらすと考えるのは典型的なダチョウ政策だ.(私の友人でもある)マンスール教授は「移民が持ち込む文化的価値観や宗教的価値観の一部は,西洋的リベラル社会に憎悪や不寛容や分断をもたらす」とカナダ議会で証言した.マンスール自身は有色のムスリムであり,この証言を白人優越主義のイスラム恐怖症からでたものだと決めつけることはできない.彼は全ての文化が等しくリベラルではないことをよく知っているのだ.合理的な移民政策を議論しようとするものを人種差別主義者だと決めつける態度はまさにOPSだ.
  • OPS患者たちはイスラム教についてのどのような道理をわきまえた批判も激しく拒絶する.彼女たちのロジックの主要なものは「全てのムスリムがそうじゃない」「真のイスラム教はそうじゃない」「どんな宗教にも原理主義的過激派がいる」「じゃあ十字軍はどうなのか」「じゃあ15世紀アンダルシアでのムスリムとキリスト教徒の平和共存をどう説明するのか」など(問題を本質からずらすやり方)だ.また批判者に対して「あなたはそもそもアラビア語がわかるの」「あなたはムスリムなの」「あなたはコーランの哲学が本当にわかっているの」と無限後退しながらその資格を問いつづけるというのも彼女たちがよく使うテクニックだ.私はレバノン出身の有色ユダヤ人でアラビア語を解するが,彼女たちにかかっては論評する資格などないことにされるのだ.特定の現象については,それは複雑な問題だと多数の社会学的要因ジャーゴン*9を並べ立てて煙に巻く手法もよく使われる.
  • イスラムの聖典にある明確なジェノサイド的な記述を突きつけられると,彼女たちは誤訳だ,誤解釈だ,誤解だと逃げを打つ.彼女たちは文化相対主義,道徳相対主義にしばられて,どんなに残酷で醜悪でも文化的習慣や宗教的習慣(例えば女子割礼,名誉殺人など)を批判できない.そしてフェミニストたちは,このような女性抑圧的文化宗教習慣を,それは実は女性開放的だと事実をねじ曲げて逃れることになる.これは「高貴な野蛮人」神話の現代版だ.
  • シャリア法体系(特にその犯罪に対する極端な厳罰主義,刑罰がイスラム教徒かそうでないかで差があること,さらに女性の低い地位)が,現在のアメリカ法体系と全く相いれないものであることは明白だが,OPS患者たちはそうではないと主張する.犯罪者がイスラム教徒かどうかで差別される状況は,ちょうどフェミニストがアイデンティティポリティクスに基づいて「男性は性差別主義者になりうるが,女性はそうではない」と主張するのによく似ている.
  • OPS患者は犯罪捜査やセキュリティチェックのプロファイリング利用は差別主義的だと批判する(その結果空港のチェック対象はランダムに選ばれ,3歳の女児がテロリストチェックを受けたりすることになる).しかし観察事実から物事を推論するのはヒトの認知の基礎の1つだ.彼女たちは差別なしをほかの全ての優先する「差別なしカルト」に属しているかのようだ.

 

第7章 どのように真実を探すのか:累積的証拠のノモロジカルネットワーク

 
第7章では,このようなOPSに陥らないためにはどうしたらよいのかが扱われる.

  • 自由な社会での市民は事実に基づいた認識を持つべきだが,情報を求めることに怠慢である傾向,入手可能なあるいは入手したがる情報源の偏り,いったん受け入れた見解の反証を否定するバイアスなどがそれを難しくしている.スペルベルとメルシエはヒトが自己の見解の反証を受け入れるのに消極的なことを説明する理論を提示している.それは合理的推論能力は,真実を得るために進化したのではなく,自分たちや他者を説得するために進化したからだというものだ.
  • ではヒトは動機のある推論をするだけで真実を探そうとはしないのだろうか.私は現実主義的楽観主義者としてそうではないと答えたい.(主流の見解に異を唱える)認知的勇気を持ち,関連する情報を偏りなく集め,クリティカルシンキングを行うことによりヒトは真理にせまれるのだ.(ここで科学的な手法について概説がある)
  • ダーウィンの「種の起源」の議論は,累積的な証拠を統合するノモロジカルネットワークを用いた考察の典型例だ.ノモロジカルネットワークに支えられた議論は説明的な一貫性,理論的統合,コンシリエンスを備えることができる.(ノモロジカルネットワークによる議論の具体例がいくつか解説される.テーマとしては「子どものおもちゃの選好に性差があるか」「ヒトの配偶選好に性差があるか」が採り上げられている)

 

  • ここで「イスラム教の教義は平和主義的か」を考えてみよう.多くの西洋人はイスラムの性質について混乱している.それは平和的なのか,それとも好戦的なのか.これは累積的な証拠とロジック,理性,科学で考察することができる.
  • 感染症の疫学の理解は,アイデア,信念,都市伝説,宗教などの拡散の理解に役立つ.疫学的に考えるとイスラム教の拡散強度が強いことを説明できる(イスラム教がユダヤ教より遥かに拡散していることを,入信の容易さ,布教の義務の有無,イスラムにある世界観*10などから説明している).
  • FBIのグローバルテロリストリストを見ると,イスラム教徒は世界人口の25%程度を占めるに過ぎないが,様々な人種,出身国のイスラム教徒はテロリストの92.9%を占めていることがわかる.搭乗拒否リストや警戒リストは公表されていないが,似た傾向があるだろう.アメリカ政府によるテロ組織リストによると68のグループのうち55(81%)がイスラム組織だ.2001年以降のテロの犠牲者の96.6%はイスラムのテロリストに殺されている.宗教的転向はよくあることだが,転向者がテロリストになる傾向があるのはイスラム教へ転向した場合だけだ.(このような事実の指摘についての)プログレシブたちの反応は,「イスラム差別だ」という金切り声になる.
  • イスラム政治分析家のビル・ワーナーのイスラム聖典(コーラン,ハディス,ムハンマド伝)の内容分析によると,全文章の中でユダヤへの憎悪が表明されている割合は9.3%になる.これはヒトラーの「我が闘争」(同7%)よりも多い.
  • 人々の現代的啓蒙主義的リベラル的価値ヘの態度に関する多くのグローバルなデータがある.2010年のピューサーベイは,多くの国の人々のユダヤ憎悪度を調べている.ユダヤ憎悪は(典型的な人種差別現象であり)リベラル的価値観に関する炭坑のカナリアだ.ユダヤ人を好まない人々の割合は,レバノンで98%,ヨルダンで97%,エジプトで95%,(中東戦争にかかわっていない)パキスタンで78%,インドネシアで74%,トルコで73%,イスラム教徒平均で60%(キリスト教徒の平均は28%)だった.
  • イスラム教国はゲイへの不寛容でも突出している.ゲイに不寛容な人々の割合はセネガルで98%,ヨルダンで97%,エジプトで95%,チェニジアで94%・・・となっている.女性差別でも思想良心の自由への不寛容でもイスラム教国は世界をリードする.一部のイスラム教国(サウジ,イランなどを含む)では男性の同性愛行為や無神論者であることが死刑相当の犯罪となっている.宗教弾圧ワースト20カ国の15カ国はイスラム教国だ.
  • これらの事実への言及はもちろん個別のイスラム教徒への攻撃ではない.それはイデオロギーの中身,それが平和,多様性,自由をもたらすようななものかどうかの分析に使われるものだ.そして大半のイスラム教徒が親切で慎み深い人々であるとしても結論は明白だ.自由な社会においては真実に迫るためのデータに基づいたこのような分析は偏見による憎悪と罵られずに許容されるべきだ.

 

第8章 行動を起こそう

 
最終第8章では,言論の自由と理性と科学へのコミットメントを取り戻すにはどうすればいいのか,プログレシブたちの圧力に対してどう戦えばいいのかが語られる.

  • 私と同じ価値観を持つ多くの人々がそれを表明することに失敗している.ほとんどの人はこの危険に気づいていないか,大学でのことはたいした話ではないと考えている.傍観者効果も影響しているだろう.しかしそれはすぐにビジネスにも影響を与える.あなたもあなたの子どもも影響を受けざるを得ないのだ.個人的な責任を自覚しよう.そしてソーシャルメディアは個人の声が世界に影響を与えることを可能にしているのだ.
  • 政治や宗教に関する意義深い議論ができてこそ,友人関係は深く価値あるものになる.お天気の話しかできない友情に価値はあまりないだろう.今日多くの善意の人たちは他者を評価することを恐れすぎている.
  • SNSの発言に連帯のハッシュタグを貼るシグナルの効果はほとんどない.それはコストのないシグナルだからだ.表現の自由と理性と科学を守りたいなら,腹をくくってリスクをとる覚悟が重要だ.失職や脅迫のリスクをものともしない発言だからこそ信頼されるのだ.私の場合はそのようなリスクよりも自分が真実を犠牲にしなかったということの方が遥かに重要だ.
  • あなたが理性チームの一員なら,得点できるチャンスは逃さないようにしよう.あなた自身にあるラーテル(向こう見ずで有名なイタチ科の動物)を奮い立たせよう.あなたを黙らせようとする相手に1ミリも譲ってはいけない.そして彼等の戦術を逆手にとろう.私の場合は,彼女たちが犠牲者ポーカー戦術をとってきたなら,「自分はレバノンでユダヤ迫害を受けた中東の有色ユダヤ人だが,あなたたちは特権的な立場にいる白人ではないか」と言い返すことにしている.この反撃はしばしばクリプトナイトのように効果的だ.宥和戦術では決して勝てないことを理解しよう.イスラエルは決して敵に譲歩しない.彼等は中近東では力が正義だとよく知っているのだ.
  • イスラム教の教義を批判することはイスラム恐怖症ではないし,ラディカルフェミニズムを分析することは女性差別ではない.オープンボーダー移民政策に疑問を呈することは人種差別ではないし,トランスジェンダー女性が女子競技に出場すべきでないと意見することはトランス恐怖症ではないのだ.多くの状況においては複数の権利が競合する(そして犠牲者ポーカーの勝利者が絶対的に優先する理由などないのだ).多くの人が人種差別主義者や性差別主義者と告発されることを恐れすぎている.黙らせようとする圧力には死に物狂いで抵抗しよう.
  • 大学教授たちは狂気が報われる文化を作り出してしまった.これと戦う第一歩は憲法違反のスピーチコードに反抗することだ.思想警察にはNOと言おう.思想や視点の多様性に触れよう.そして対立する立場と議論するのだ.これこそ大学で行われるべきことだ.
  • 大学では学問の優秀性が競われるべきだ.大学は能力主義的理想に戻るべきなのだ.アイデンティティポリティクスをゴミ箱に放り込もう.誰も自分が白人だから,男性だから,キリスト教徒だから,異性愛者であるからという理由で謝罪する必要はない.学生をセーフスペースやらトリガー警告やらで甘やかすのもやめるべきだ.そして「文化の盗用」や「マイクロアグレッション」をもてあそばさせるべきではない.
  • ヒトは協力的でかつ競争的な生物だ.そして個人個人が完全に同じではなく,どんな集団にも階層が生まれる.ヒトの本性についての誤った前提に基づいて作られたシステムは失敗する運命にある.個人の傷つきやすい自己評価を競争から守ろうとするだけのシステムは虚弱で給付を受け取るだけで政治的無関心な社会に陥るだろう.人生は競争的なものであり,社会には階層があるのだ.誰も感情的に傷つかないユートピアを追求するのは誰にとっても無益な試みなのだ.

 
そしてサードは本書をこう締めくくっている.

  • 今から数十年前,大学から生まれたアイデア病原体のセットが,科学,理性,ロジック,思想言論の自由,個人の自由と尊厳を容赦なく侵食し始めた.私たちが自分の子どもや孫に,自分が育ったと同じような自由な社会の中で育ってほしいと願うなら,私たちの原則を取り戻し守らなければならない.
  • レバノン内戦の残酷の中で育ち,大学において常識がむしばまれる様を見てきたものとして,私は(この戦いへの)あなたの参加を請い願う.あなたには必要な変化を起こせる力がある.方策はあるのだ.それは真実の追究と擁護であり,西洋科学革命と啓蒙運動への再コミットメントだ.進め,理性の戦士たちよ,ともにアイデアの戦いを勝ち抜こう.

 
以上が本書の内容になる.なかなか激しいウォークプログレシブ,ポストモダニズム.ラディカルフェミニズム,トランスアクティビズムの告発の書だ.これはサードがレバノンで命を脅かされるような迫害を受けた中東の有色ユダヤ人だからこそ,犠牲者ポーカーでプログレシブたちに立ち向かうことが可能なのであり,このような本が書けるということなのだろう.特にユダヤ迫害を実際に受けた立場からのイスラム教義の問題点の指摘には迫力がある.そして進化心理学者としてポストモダニズムやラディカルフェミニズムの学者たちから難癖をつけられたサードにとってはユダヤ排斥のアイデアを含むイスラム教の教義もこれらのプログレシブの信念体系も事実に基づかないアイデア病原体で社会に悪をなす存在として同質に見えるのだろう.
最近ではこのようなキャンセルカルチャーやアイデンティティポリティクスの暗黒面を指摘する意見も時折目にするようになってきたが,本書は表現の自由と理性と科学についてのコミットメントを前面に出して,一貫した立場からの徹底的な批判があるのが特徴になる.私自身本書の全ての主張に賛成するわけではないが,傾聴に値する議論がなされている一冊だと思う.
 
 
関連書籍
 
ガッド・サードの本来の専門分野である消費者心理についての本.途中にかなり激しい宗教批判の章がある.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2019/01/25/204023

 
上掲書に先立つ専門書 
サードの編集によるビジネススクールでの進化心理学の教科書 
 
アカデミアのマイクロアグレション,キャンセルカルチャーの問題点の指摘としてはハイトとルキアノフによるこの本がある.基本的には学生に対する(望ましくない)過保護から生じている問題だとされている.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2019/04/04/172150
 
後半部分でキャンセルカルチャーの中のスピーチコードの問題点を扱ったもの.著者は進化心理学者のミラー.特にアスペルガー傾向がある人や背景の文化的文脈文脈に疎い外国人留学生にとって過酷であることが強調されている.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2020/04/29/093951
 
ピンカーがキャンセルカルチャーの対象となった事件についての私の記事
shorebird.hatenablog.com
 

*1:「レイプカルチャーヘの反応と都市のドッグパークのクイア遂行性」「裏口からの挿入:ストレート男性のホモヒステリアとトランスフォビアを受動的侵入的セックス玩具の使用で克服する」「私たちの戦いは私の戦いだ:ネオリベラルと選択フェミニズムのインターセクショナルリプライとしての団結フェミニズム」「誰が測るのか?:人体測定学の克服と肥満ボディビルディングのフレームワーク」「ジョークがあなたに関するとき:ポジショナリティが皮肉にどう影響するかについてのフェミニストスタンス」などが論文の題名とされている

*2:このほかトイレやロッカールームの使用がしばしば問題になる

*3:論文のアブストには「フェミニストポスト植民地主義的科学とフェミニスト政治的生態学を統合することにより,フェミニスト氷河学はダイナミックな社会生態システムのジェンダー,権力,認識論の頑健な分析を提供できる.これはより公正でエクイタブルな科学とヒトと氷河の相互作用につながる」とあるそうだ.サードは「氷河が性差別主義者で父権主義者だなんて誰が知っていただろう」と皮肉っている

*4:ミュンヒハウゼンは嘘つき男爵の名前だが「ミュンヒハウゼンシンドローム」は子どもを虐待してそれを病気の症状として訴えるような症状を指す

*5:現状のリストは「虐待,レイプ,誘拐,中毒,薬物,針,血,吐瀉物,昆虫,ヘビ,クモ,ぬめぬめのもの,死体,頭蓋骨,骸骨,いじめ.ホモ恐怖,トランス恐怖,死,自殺,怪我,医学的措置,暴力,戦争,ナチスの表象,妊娠,出産,人種差別,階級差別,性差別,肥満差別,身障者差別,その他あらゆる差別,(同意のものも含む)性交,汗,あざけり,強迫性障害のトリガーになるもの全て」にまで広がっているそうだ

*6:カナダのLorne Grabher氏は27年前から車のナンバープレートを自分の(ドイツ系の)名前である「GRABHER」としていたが,これが「grab her(彼女をつかめ)」と読め,レイプカルチャーを体現する攻撃的なものだという理由でこのプレートを禁止されてしまったという事例,黒人市民権運動家が書いた本の題名を学生との会話で出した結果,そこに含まれる「niggar」という単語を発したという理由で大学の管理職ポジションを失った女性教員の事例,サンドウィッチの商品名「Gentleman’s Smoke Chicken Caesar Roll」が性差別的だと糾弾された事例などが挙げられている

*7:典型例としてトランプ当選時に,ある学生が「私はバイセクシャルな黒人女性だが,もはや怖くてキャンパスを安全スペースとは感じられなくなった」と訴え,そこからありとあらゆるマイノリティアイデンティティの学生が口々に自分こそ真に脅かされていると訴えたというケースが紹介されている

*8:授賞式で日本の着物を着た歌手ケイティ・ペリーが謝罪に追い込まれた事例,西洋の大学がカフェテリアで寿司を出すことが問題視された事例などが紹介されている

*9:例えば「それには古代植物学要因,社会文化要因,生物学的政治要因,神経生理学的要因,心理経済学的要因,ヘテロ歴史学要因,地理的オーガニック要因,民族ケトン食的要因が絡んでいる」などと並べ立てるらしい

*10:イスラムでは世界は「戦争の家」と「イスラムの家」に分かれており,平和は全世界が「イスラムの家」で統一されなければ訪れないと考える.また国内でもイスラムの家に統一しようとする.実際多くのイスラム教国ではイスラム教徒の比率が95%以上であるなどと説明されている

書評 「進化政治学と平和」

 
本書は進化政治学者伊藤隆太による3冊目の進化政治学本になる.伊藤は1冊目の「進化政治学と国際政治理論」では国政政治理論の古典的リアリズムを進化心理学的知見を基礎に進化リアリズム*1として再構築し,(ネオリアリズムの立場から見ると不合理な)戦争開始決定を部族主義,過信,怒りなどの概念を用いて説明してみせた.2冊目の「進化政治学と戦争」においては進化リアリズムの基礎的知見を人間行動モデル*2として提示し,ヒトには戦争することに使われる人間本性が備わっているとする「戦争適応化説(個人レベル,集団レベルの抗争を可能にする心理メカニズムを奇襲と会戦に分けて説明するもの)」を提示した.2冊とも科学哲学的に実在論に立っていることを強調している.そして今回の「進化政治学と平和」においてはやはり実在論を強調しながら新しく進化リベラリズムを提唱することが目指されている.
 

序章 進化政治学に基づいたリベラリズム

 
冒頭ではピンカーに対する除名運動騒ぎを引き合いにして現代のリベラリズムが危機にあると論じられる.運動家たちは本来実証的に論じられるべき問題(警官の黒人射殺が多いのは制度的レイシズムがあるからか,それとも単に警察との接触機会が多いからか)に対して,差別の問題の矮小化だと決めつけてピンカーの社会的立場の抹消を企図した.伊藤はこのようなキャンセルカルチャーを推し進めるwoke progressiveはリベラリズムの仮面を被った不寛容で権威主義的な反自由主義者だと断罪する*3
そしてこのような問題の根底にはヒトの認知に進化に由来するバイアス(とそれを利用して大衆を操作しようとする試み)があるのであり,これに対処するには進化的な視点を持つコンシリエンスに基づいた啓蒙が重要だとする.そしてその中核としての進化リベラリズムと進化啓蒙仮説が本書のテーマとなる.
 

第1章 進化政治学を再考する

 
まずこれまでの2冊の著作の復習的な内容がおかれている.進化政治学は進化学的発想(特に進化心理学)を政治学に応用する試みであること,自然淘汰や進化学の概説,進化心理学の概説,特に領域固有性(モジュール性)の解説が簡単に行われている.ここではヒトラーによる独ソ戦の決定(ネオリアリズム的には不合理な決定だが,過信により説明できる)の説明,ロングとブルケによる領域固有性と和解心理に基づいた国際政治理論などの話題が出てくるのが進化政治学書らしいところになる.
 
ここから進化政治学がもたらす政治学のパラダイムシフトが解説される.

  • 進化政治学のもたらす大きなインパクトは非合理的な政治行動を科学的根拠が備わった形で説明できることだ.(非合理な行動としては引きあわない戦争の開始,自爆テロが例に挙げられている)
  • 2番目のインパクトは既存の研究に進化的視点から科学的根拠を与えることができることだ.(古典的リアリズムのアナーキー観の根拠付けが例にあげられている)
  • 進化政治学は究極因まで考察するので,現状の問題の解決策を(ほかの政治的な立場より)深く考察できる.(ここでは至近要因に偏りがちな政治心理学と,究極因も視野に入れる進化政治学の統合が提唱されている)

 
最後にこのようなパラダイムシフトの具体的な成果がいくつか紹介されている.

  • 新たな理論的視座が提供されている.例えばマクデーモット,ロペス,ピーターセンは進化政治学に基づいた新奇な国際政治学的仮説を提唱している.(集団を単一アクターとして少々する心理メカニズム,指導者による敵への憤りの利用,相対的利得と絶対的利得の選好の条件性(同盟国なら絶対性,敵国なら相対性),好戦的な外交政策をとる要因,特に性差を用いた仮説になる) 
  • 国際関係論のリアリズムを科学的根拠を持つ形で再構築している.セイヤーは古典的リアリズムを人間本性の観点から再構築し,ジョンソンとともに攻撃的リアリズムを科学的に強化した(自助,相対的パワー極大化,外集団恐怖を用いる).
  • ペインは戦争を狩猟採集時代から現代まで連続的に解明しようとしている(感情,特に名誉にかかわるものを要因として考える)
  • 過信について様々な科学的根拠を持った議論がなされている.ジョンソンは過信をキーに肯定的幻想理論を構築し,第一次世界大戦,ヴェトナム戦争,イラク戦争を説明した.またティアニーとともにルビコン理論を構築した.
  • ジョンソンとトフトは戦争における領土の重要性を進化ゲーム理論から説明した.
  • マクデーモット,ロペス,ハテミは進化的な知見に基づいた政治的リーダーシップのモデルを構築した.
  • セイヤーとハドソンはイスラム世界で自爆テロが多いことを一夫多妻制と包括適応度から説明する仮説を提示し,データの裏付けを行った.
  • セイヤーは核抑止論を合理的アクターのゲームではなく,損失回避や感情を組み込んだアクターのゲームとしてモデル化して第三世界の独裁者による瀬戸際外交を説明した.
  • ロングとブルケは国際紛争の和解をめぐる進化的モデルを構築し,和解に向けたシグナルの重要性を説明した.
  • メルシエは国際政治学の分析概念としての感情を4つのカテゴリー(付帯現象,非合理性の原因,機転の利く戦略のためのツール,合理性の構成要素),3つの分析レベル(個人,国内,国際システム)で分析した.

 
基本的にはおさらいの章で,前2冊を読んでいない読者には親切な作りだ.様々な進化政治学の議論が進展している様子は興味深いところだ.
 

第2章 政治学と人間本性

 
第2章では既存の(政治学を含む)社会科学の何が問題なのかが整理される.1冊目の「進化政治学と国際政治理論」では既存の理論についてブランクスレート,合理的経済人のような科学的事実とはいえない前提を持つ社会学や経済学,および道具主義にたつ経済学や政治学を実在論の立場から批判してきたが,本書ではかつてコスミデスとトゥービイが行った標準社会科学モデル(SSSM)批判の枠組みに整理し直している.

  • SSSMの前提はブランクスレート説(ヒトには遺伝的に決まる人間本性はない),ヒトの行動は生物学の対象にならない(生物学恐怖),ヒトの行動は文化を含む環境要因のみにより決定される,進化は脳に及ばない(デカルトの機械の幽霊)というところにある*4が,これらは正しくない.
  • これらの前提はロック,ルソー,デカルトに由来するといえる.ロックは「人間悟性論」でブランクスレート説的主張を行った.これは人間は皆平等であるという考えにつながり,フランス革命などの民主主義的革命の大きな影響を与えたが,片方で権威主義的ハイモダニズムやソビエト共産主義や中国の文化大革命の根拠ともなった.ルソーは「高貴な野蛮人」」説を唱え,西洋文明に批判的だった.これはポストモダニズム的な反文明論につながり,ギアツやミードの文化相対主義に影響を与えた.デカルトは心身二元論を主張し,ヒトの本質は心にあり,それは物理科学的に分析できないとした.これらの主張が科学的に正しくないことは今や明らかである.
  • これらに対して最近の科学的知見はホッブスの見方が真実に近かったことを示している.ホッブスは人間本性の中に競争,不信,誇りという争いの原因を見いだした.これらは進化環境における部族間闘争,相互敵対状況のゲーム理論的分析,抑止の信頼性の分析から裏付け可能である.ホッブスはこの争いの解決策としてリヴァイアサンを提示したが,現代の国際関係にはリヴァイアサンは存在せず,アナーキー状態である.それがリアリストが国際関係の分析において国内政治のアナロジーを拒否する理由になる.リヴァイアサン不在時にはヒトはより人間本性(部族主義,自己胞子バイアス,楽観性バイアスなど)にしたがって行動しがちになる.国際関係においては人間本性の考察は非常に重要になるのだ.

 
ここは著者のよって立つ科学哲学の実在論をSSSM批判という形で整理して見せてくれている章になる.著者の立場は実在論にたって,科学的知見であるホッブス的人間本性を政治学に組み込むべきだというものになる.
 

第3章 修正ホッブス仮説

 
第3章ではホッブスの議論を拡張,ブラッシュアップして新たな自然状態論である「進化的自然状態モデル」が提示される.

  • 進化的視点から考察すると,ヒトには攻撃適応があると考えられる.ヒトには攻撃システム(自己や敵の戦闘能力を査定し,それにより条件的に振る舞う)が存在し,それには性差がある.様々なリサーチはそれを裏付けている.
  • セルは怒りの修正理論を提唱している.それによるとヒトは無意識に相手の強さのキューを検知し,強い男性ほど怒り,攻撃経験,攻撃性の支持,好待遇の期待,争いの成功経験を持ち,強い兵士ほど怒りと攻撃の閾値が低く,戦争の効用を信じる傾向にある.
  • 片方でヒトには協調適応もある(互恵性や社会的交換について解説がある*5).
  • ヒトの自然状態論を考察する際に重要になるのが部族主義だ.ヒトに部族主義があることは科学的に説明できる.*6
  • 狩猟採集時代のダンバー数程度の集団は特別に高い地位を占める男性に率いられ,かつ平等主義的であったことが推測されている.(ボームの平等主義とリバースドミナンスの説明が解説されている)*7 真の意味でリアリスト的な政治的指導者は単に相手を恐れさせるのではなく,尊敬されることで権力を獲得,維持,拡大するものだったはずだ.
  • このような初期のヒト社会の中では協調すると見せかけて自己利益を追求できることが最適解になるだろう.この状況が自己欺瞞を説明する(トリヴァースの自己欺瞞の理論が紹介され,ドナルド・トランプについて議論されている).政治指導者が自己欺瞞に陥ると,政治学的に「過信」と呼ばれる問題が生じる.これは不合理な開戦決定,軍事的無能などを説明する重要な概念になる.
  • ホッブスに端を発するリアリストリサーチプログラムに科学的根拠を与えて整理したのが(著者による)進化的リアリズムの戦争適応仮説だ(集団レベルの戦争を奇襲と会戦に分けてそれぞれの心理メカニズムを整理した前著の議論が要約されている.*8
  • この戦争適応の政治学的インプリケーションは,戦争原因を国家間アナーキーにのみ求めるネオリアリズムが必ずしも妥当ではなく,人間本性が戦争を起こすと考えた古典的リアリズムの方が分析レベルにおいて優れていた(国家間アナーキーがキューとなって政治指導者の人間本性に与える因果効果が重要)ということだ.

 
この章で科学的知見としての人間本性を組み込んだ著者の国際関係モデルが提示される.そしてネオリアリズムよりも古典的リアリズムの方が,そしてそれをブラッシュアップした進化的リアリズムの方が(実在論的意味で)優れていると主張されている.実在論は著者の立場ということだろう.私としては前著の書評でも書いたが,あえて声高に実在論を叫ばなくとも道具主義的に立ったとしても,そして今回のプーチンのウクライナ侵略を説明できるかという1点だけからでも進化的リアリズムの方がネオリアリズムより優れた道具だと主張できると考えられる*9し,それで十分ではないか(道具主義に立つ政治学者に対しても進化的フレームワークの有用性が主張できて学界内での説得力が増すのではないか)という思いを禁じえない.*10
なおこの章は(註に落としておいたが)進化的な説明のところどころで説明がやや雑になっており,危なっかしい記述が目立つ部分になっている.
 

第4章 平和と繁栄の原因

 
第4章において著者はピンカーの暴力減少説を基礎に進化的リベラリズムを提唱する.

  • ピンカーの提示した暴力減少説はリベラリズムにとって重要だ.それはリベラリズムが平和のための環境要因として主張してきた民主主義,経済的相互依存,国際制度と暴力減少との因果を科学的根拠をもって再構築していると同時に,(科学的にはルソーより正しい)ホッブス的人間本性がリベラル啓蒙主義により相殺されて平和が生まれるという新奇知見を付け加えるからだ.(これらの再構築と新奇知見が追加されたリベラリズムを著者は進化的リベラリズムと呼ぶ)
  • ピンカー説を批判する政治学者も存在する*11が,進化的視点にたつ学者の圧倒的多くはピンカー説を支持する.
  • ピンカー説に立てば,平和のために重要なのは理性と科学による啓蒙ということになる.理性によりシステム1のバイアスを抑え,情緒的な議論(ドグマ,オカルト,宗教,神秘主義,ロマン主義)の問題点を理解し,科学により無知と迷信(そして科学を敵視するポストモダニズム)から脱却すればよいということになる.(ここで科学的実在論の擁護と反実在論の依拠する決定不全性のテーゼが誤っていることについての議論がなされている)
  • 事実として暴力が減少傾向にある(これをデータで裏付けるのが合理的楽観主義になる)にもかかわらず多くの人が世界を悲観的に見てしまうのはなぜかについては,自然主義的誤謬,(事実から規範を導こうとする)生得的認知バイアス,(物事を悲観的に見て警戒しようとする)ネガティビティバイアス,利用可能ヒューリスティックとマスメディアの姿勢から説明できる.
  • 進化政治学はリベラリズムが論じてきた平和の因果論に新しい理論的説明を付け加えることができる.これは科学的実在論でいう使用新奇性の意義を持つ.

 
本章は著者なりのピンカー読解ということになるだろう.コンパクトによくまとまっていると思う*12
 

第5章 進化的リベラリズムに対する批判:欺瞞の反啓蒙仮説

 
第5章では第4章で説明された進化的リベラリズムにしばしば寄せられる非理性的な反発がなぜ生じるのかを扱う.

  • 社会や学会には,現代の科学が明らかにしたホッブス的人間本性を拒絶するラディカル左派やラディカル右派が存在する.これらの非理性的態度はいくつかの生得的バイアスから説明可能だ.
  • ヒトはパターンを探し,(火災報知器の原理から)より重大な悪い結果をもたらすリスク(そしてこれはしばしば悪意あるエージェントの意図になる)を過大に評価する.これによりヒトは超自然現象や陰謀論を信じやすくなっている.
  • ミームはそれが真実かどうかではなく,伝播しやすいかどうかで広まるかどうかが決まる.そして成功するミームの中にはヒトにとって望ましくない悪性ミームも存在する.しばしば凄惨な殺し合いを招いてきた正義を掲げる宗教は悪性ミームとして理解できる.
  • トリヴァースは他人を説得するための心理的適応として自己欺瞞を説明した.自己欺瞞傾向が強いという特徴はナルシスト的パーソナリティにあることが知られる.この概念をもちいてトランプやヒトラーやスターリンの政治的行動を説明することが可能だ.
  • ヒトにはモラライゼーションギャップ(自分は被害者であると思い込むバイアス)や自己奉仕バイアスがあることが知られており,これは紛争の種になり,報復の連鎖をより悪化させる.そして集団レベルでは部族主義と相まってマイサイドバイアスを発生させ,より状況を悪化させる.
  • そしてこれらのバイアス(や悪性ミーム)の存在は啓蒙主義の理念の重要性に帰結する.

 
著者はここで進化的視点をとる社会学説への反発をヒトの持つバイアスとミームから説明している.これらももちろん要因として大きいだろうが,さらに進化的な人間本性を認めるかどうかが自分が学界の中の主流派であるかどうかのバッジになっている(このバッジをつけないとインナーサークルに入れず追放されるリスクが生じる),かつてそのような雰囲気の中でそのような主張をしてしまっており今更撤回できないなどの事情なども大きいのではないかという気がするところだ.
 

第6章 進化政治学と道徳

 
では啓蒙はどう進めればいいのか.それを考えるなら進化によって組み込まれたシステム1的道徳感情を理性的に(システム2的に)克服することが啓蒙のキーになる.第6章では道徳が論じられている.

  • 進化により組み込まれた道徳感情が(平和を実現するために)不合理なものであるなら,その問題性を自覚する必要がある.それには(人文系も含めた広い意味の)科学が重要になる.
  • 進化リベラリズムによる啓蒙に対する疑問には3つある.それは(1)自然主義的誤謬になるのではないか(2)システム1の直感的道徳感情を利用して平和は実現可能なのではないか(啓蒙はむしろ有害ではないか)(3)システム2の理性的議論が共産主義や権威主義的ハイモダニズムの様な失敗に陥らないための条件は何かというものだ.(本章では(1)と(2)が議論される)

 

  • 確かに事実命題だけから当為命題は引き出せない(ヒュームの議論)し,事実的性質だけから価値を定義できない(ムーアの議論).しかしムーアの議論は意味論にとどまり存在論的に「事実的性質を持って価値を記述すること」は可能だ(著者はこれを道徳の存在論テーゼと呼ぶ).
  • 道徳を進化的に論じる際には,直感的道徳感情を議論するのか,理性的道徳推論を議論するのかの区別が重要だ.
  • ハウザー,スリパーダ,ニコルズたちの研究では(彼等の間には様々な論争があるが),道徳感情には生得性があることが示されている.これには協力推進のための合理的デフォルト戦略のようなものだけでなく縁故主義や内集団贔屓などのような性質も含まれる*13.(だからシステム1の道徳感情だけによる平和の構築は難しい)
  • ここから道徳的進歩はシステム2的理性的議論によるシステム1的道徳感情のコントロールによるものだと考えられる.「道徳とは何か」の考察は進化による知見の影響を受けず,生物学的な意味での道徳的な行為はない(著者はこれを啓蒙の反実在論仮説と呼ぶ).進化適応としての道徳的感情はヒトの包括適応度極大化戦略に資するものにすぎないのだ*14*15.(ここではジョイスによる啓蒙の反実在論仮説の洗練された議論が紹介されている)
  • 啓蒙の反実在論仮説への批判としては,徳倫理学からのもの,道徳的構成主義からのもの,反応依存説からのものがある(それぞれの批判の概要とそれに対する反論が書かれている).
  • ハイト,ブルーム,グリーンは進化的視点から道徳を論じていて,いずれも反実在論と親和的だ.ブルームとグリーンは功利主義的な理性を擁護する.進化リベラリズムは同じく功利主義により人間本性のもたらす悲惨から脱却することを目指すものだ.

 
本章は様々な道徳的な議論がコンパクトにまとまっていて内容は深い.基本的な主張は平和のためには(包括適応度最大化戦略に過ぎない)道徳感情を含む人間本性だけに頼ることなく理性的に最大多数の最大幸福を目指す方がよいということだ.
ただし自然主義的誤謬についての道徳の存在論テーゼの部分はよくわからなかった.価値を定義せずに記述することにより「道徳感情が進化適応産物だ」という議論ができるというのはわかる.しかし結局進化リベラリズムによる啓蒙を擁護するなら,どこかでたとえば「私は自由で平等で平和な社会の実現に資すものを善と定義する」と価値に踏み込んで宣言するしかない(リベラリズムをよしとする基礎も功利主義をとる基礎もそこに求めざるを得ないし,その価値を認めないものに対しては真正面から価値観を議論するしかない)のではないだろうか.
 

第7章 人間本性を踏まえた啓蒙

 
第7章は前章で示された疑問(3)が扱われる.啓蒙を成功させるための条件は何か,著者はこれを進化啓蒙仮説として提示する.

  • システム2の道徳のヒトの受容可能性はシステム1の人間本性により制約を受ける.外在的道徳律は無制限に設定できるわけではない.人間本性から乖離した社会は持続しがたく,人間本性の適応上の利点を軽視した啓蒙は失敗する可能性が高い.(ボイドとリチャーソンによる)適応文化仮説からは「文化は個人の包括適応度に資するものでなければ受容される可能性が低い」ことが示唆される.このことから啓蒙の対象として成功しやすいのは人間本性が現代環境とのミスマッチを起こしている部分や悪性ミームの部分ということになる.
  • 過去の啓蒙の成功例としては歴史的な人類の暴力減少が挙げられる.これらの暴力減少はいずれも個人の包括適応度に利するものであったと考えられる.(戦争による被害の減少や,ヒューマニズムをとることによる評判の上昇などがその傍証と指摘されている) 
  • 失敗例には(私有財産制の廃止,完全な平等主義,家族制度の解体を目指した)イスラエルのキブツがあげられる.これらは性役割心理,血縁間の絆と愛情,部族主義という人間本性を無視した試みだったために失敗したと考えられる.
  • 進化的リベラリズムが考える啓蒙は人間本性を踏まえた平和と繁栄になる.個人の包括適応度を考慮した啓蒙は古典的リベラリズムが「消極的自由」と呼ぶものを擁護することと重なる可能性が高く,また家族制度を重視する点で保守主義との関連性もあると考えられる.
  • (ここで前著で示された「適応としての人間本性,個人の遺伝的差異,後天的要因,環境のキュー」という4段階の人間行動モデルが解説される)人間本性は人間行動モデルの第1レベルにあり,進化的リベラリズムは第3レベルにおいて働くものと整理できる.

 
本章では啓蒙は人間本性を無視してはうまくいかないことが主張されている.古典的リベラリズムの消極的自由と保守主義の家族価値の重視が啓蒙を成功させるために重要であるかもしれないことが示唆されている部分は興味深い.
ここで啓蒙が人間本性を無視すべきでないことは同意できるが,しかし見極めの条件が「現状において個人の包括適応度に資しているかどうか」と考えることには同意できない.基本的には問題となる人間本性がどこまで頑強かという要素(これは現在ではなく過去の進化環境における淘汰圧の強さが関係する)と,共感の輪の拡大(これは包括適応度を上げるとは限らない,ある意味人間本性をハックするテクニックということになる)やよい評判を得られるかという説得力の要素のかねあいで決まると考えるべきではないだろうか.
 

終章 理性と啓蒙を通じた繁栄

 
終章では簡単に本書の概要が提示され,ここから導き出されるインプリケーションがいくつか示されている.

  • 自然科学と社会科学の融合により新しい学際的知見を生み出すことができる.本書はEOウィルソンのいうコンシリエンスの実践試論である.
  • ヒトの人間本性から来る非合理性(あるいは生態的合理性)は政治に重要な影響を及ぼしている.これは政治学の方法論的仮定に取り込まれるべきである.そして政策決定者や個人はマイサイドバイアスや楽観性バイアスによる「欺瞞の陥穽」に注意を払うべきである.
  • リアリズムとリベラリズムはともに近似的真理を措定しそれに漸進的に接近できると考える点において科学的実在論と親和的であり,メタ理論的に擁護されうる.本書はリアリズムについて進化的自然状態モデル,リベラリズムについて進化的リベラリズムを構築した.これによりこれらの考え方はポストモダニズムや社会構築主義からの批判を克服可能になる.
  • ネオリアリズムが国際政治学を席巻するにつれて古典的リアリズムは非科学的と批判されるようになった.しかしネオリアリズムはSSSMの陥穽に陥っている.人間本性を科学的知見として取り入れて古典的リアリズムを再構築することによりこれを克服できる.
  • (リアリズムの一派である)攻撃的リアリズムは,国際関係のアナーキー構造と安全保障のジレンマを強く見積もり,戦力均衡による抑止,バックパッシングが有効だと主張する.また(同じくリアリズムの一派である)防御的リアリズムは,安全保障のジレンマは協調により解決可能と考え,軍縮,融和政策の有効性を主張する.この両派の論争に対して,本書は攻撃的リアリズムに(戦争原因をアナーキーから人間本性に移すという)理論的修正が可能であり,世界は攻撃的リアリズムが想定する悲惨なものから防御的リアリズムが想定するマイルドなものに移行していった(暴力減少説)と考える.世界は攻撃的リアリズムの世界観がデフォルトだが,啓蒙により防御的リアリズムの世界観に移行していったのだ.
  • どのような啓蒙が成功するかを考えるには人間本性の考慮が重要だ.

最後に著者はもう一度SSSM的な立場からの進化政治学への(想定される)批判とそれに対する反論を整理し,アイデンティティポリティクスやラディカルフェミニズムなどの(ポストモダニズム的)イデオロギー的信念体系がリベラリズムに与える脅威を指摘し,それは事実と理性によりリアリズムとリベラリズムを再構築することにより克服できると主張して本書を終えている.
 
以上が本書の内容になる.進化政治学と人間本性について(SSSM批判を含めて)再整理し,国際関係論の自然状態を部族主義から再構成し,ピンカーの暴力減少説を人間本性に対抗する理性からの啓蒙と要約し,どのような啓蒙が望ましいのかを道徳と絡めて,どのような啓蒙が成功しやすいのかを人間本性と絡めて議論している.そしてこのような立場から議論するなら政治学としては古典的リアリズムの主張を再構築すべきであり,平和の実現のためにはリベラリズムを再構築した進化的リベラリズムからの啓蒙が重要であると主張されている.
著者の進化心理学と政治学のコンシリエンスの試みは最初の「進化政治学と国際政治理論」2冊目の「進化政治学と戦争」そして本書へのわずかな期間で大きく前進している*16.なおところどころ進化的議論の危うさは残っているが,刮目すべき進捗という印象だ.私的には政治学のリアリズムについての議論が大変興味深かった.さらに一層のコンシリエンスの進捗を願うものである.
 
 
関連書籍
 
著者の前著2冊.私の書評はそれぞれhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2020/04/20/113326https://shorebird.hatenablog.com/entry/2022/02/28/105349

*1:当初は進化のリアリスト理論と呼称していたが,のちに進化リアリズムと改めている

*2:心理学者や生態学者が受け入れている行動モデルを政治学者向けにモデル化したものと見ることができるだろう

*3:進化的リベラリズムに基づく啓蒙を唱える本書が,真っ先に啓蒙されるべきものとして名指しするのがキャンセルカルチャーだというのはちょっと意外な気もする.著者の伊藤自身が最近キャンセルカルチャー運動家から攻撃されており,強く問題意識を持っているということなのだろう

*4:方法論的全体主義はここでは指摘されていない

*5:なおこの部分で「包括適応度が個体の利己性を示し,(ドーキンスの遺伝子視点に沿う)遺伝子の利己性と異なる」ように読める記述があるが,これはミスリーディングだ.包括適応度は遺伝子の利己性を考えたときに,エージェントとしての個体がどう振る舞うべきかを記述するものであり,「個体の利己性」を示すものではない

*6:部族主義の説明のところは特に議論が雑になっている印象だ.著者はヒトに部族主義があることを示唆するものとしてダンバー数,マルチレベル淘汰理論,二重過程論,内集団バイアス,血縁淘汰理論をこの順序で並列に挙げている.まず部族主義は外集団への敵意と内集団贔屓が合わさった概念と思われる(著者自身部族主義について「自らの所属する集団にポジティブな感情を抱く一方,外部の集団にネガティブな感情を抱く傾向」と定義している)が,著者は(4番目の要因説明として)内集団バイアスがあることが実験的に示されており,これが部族主義の至近的説明であるとしている.至近的説明というより部族主義の一要素という方が適切ではないか.そもそも(外集団への敵意も含む)部族主義的傾向がヒトにあることを示す社会心理学的な実験が多数あるのであるから,部族主義があることを示すならそちらをダイレクトに示す方が遥かにわかりやすいだろう.またマルチレベル淘汰理論と血縁淘汰理論は数理的な進化理論であって,何らかの実証的事実ではないので部族主義があることを示すものとして並べて論じるのは適当ではないだろう.さらにマルチレベル淘汰理論と血縁淘汰理論にかかる説明もあまり感心できない.マルチレベル淘汰については「狩猟採集時代においてうまく団結して協力体制をつくった集団はそれに失敗した集団に打ち勝ってきた」として部族主義が根拠づけられるとしているが,かなりナイーブで問題含みだ.部族主義的な心性を持つ集団が闘争で強ければ,それは個々のメンバーにも利益をもたらすのであり,マルチレベル淘汰を持ち出さなくとも(敵対部族との部族間戦争が頻発する進化環境における)個体淘汰で十分説明可能だろう.説明のためにマルチレベル淘汰(あるいはそれに数理的に等価な血縁淘汰理論)を持ち出す必要があるのは,自己犠牲的な利他行動になるが,部族主義は利他的行動が中心的な要素にあるものではない(仮に部族主義に利他行動的要素があると主張し,その説明としてマルチレベル淘汰理論を持ち出すならわかるが,その場合にはグループ間淘汰の方がグループ内淘汰より強いという条件を満たす必要がある.しかしここではそのような吟味はない.)血縁淘汰理論については内集団バイアスの根拠として引き合いに出しているが,内集団バイアスは血縁集団でなくとも容易に生じることが知られており,短い説明としては適当ではないだろう.そして内集団バイアス自体も進化環境における個体淘汰で説明可能だろう.またそもそもマルチレベル淘汰理論と血縁淘汰理論は数理的に等価であり,なぜここでことさらに区別して,さらにかなり重なる概念である部族主義と内集団バイアスのそれぞれの別の根拠とするのか全く理解に苦しむ.一読したかぎりではこけおどし的にとりあえず関係ありそうな知っている事実や理論を並べて見ましたという印象で,深く考察されているようには読めない.これは本書全体の議論に疑念を生じさせかねない著述態度であり,啓蒙書としては損だと思う.部族主義があることを科学的に説明したいなら,まず実際にそういう傾向があることを示す社会心理学的知見を示し,次の段階でその究極因を考察し,近隣部族間での戦争が頻発したであろう進化環境における(個体淘汰で十分説明できる)適応であることが推測されるとまとめるべきだっただろう

*7:なおここでリバース・ドミナンスが「自分は弱者である」と訴える方が適応的だったことを意味する(そして現代の社会正義運動の根源がここにある)との解説があるが,疑問だ.ボームのリバース・ドミナンスはわがままで利己的なリーダーを集団の皆で制裁することによって生じるのであり,そこで弱者アピールが有効だったという証拠はないのではないか

*8:なおここでもマルチレベル淘汰理論に入れ込んだ説明がなされているが,先ほどと同じく利他性をことさらに問題にしているわけではなくあまり適切な解説とは思えない.詳しくは前著の書評でも述べたことなのでここでは繰り返さない

*9:実際に著者はフォーサイトにプーチンの決定についての寄稿を行っている.https://www.fsight.jp/articles/-/48927

*10:そもそも経済学でフリードマンが道具主義を説得力高く提示できるのは,経済的合理人の仮定でもかなり精度高く経済現象が説明できるし,知られているヒトの非合理性を組み込んだ精度の高い経済モデルが構築困難という事情があるからで,政治学にはそのような事情はないのではないだろうか.であれば実在論でも道具主義でもどちらでも進化的リアリズムの有用さを主張できるだろう

*11:セイヤーはピンカーの議論は非西洋圏には適用できないのではないか,中南米の対立のシステム要因を見逃しているのではないかと批判し,レヴィとシンプソンはピンカーのあげる文化的観念的要因は物質的制度的要因の内部変数に過ぎないのではないかと批判し,フリードマンはピンカーの挙げる要因だけではなくパワー構造,同盟関係,核抑止などのリアリスト的要因にも目を配るべきだと主張しているそうだ

*12:私的には政治学者たちのピンカーに対する反応をもう少し詳しく読みたかったところだ

*13:それだけではなく正義や報復にかかる感情も国際平和においては脅威となるだろう

*14:ヒトの適応産物としての道徳感情が客観的倫理基準と合致する必然性がないことについて重複論法(道徳感情が進化的に説明されるのであれば,それと異なる客観的道徳からの説明を信じる理由がなくなる)と特異性論法(ヒトの進化史が異なるものであれば異なる道徳感情が進化したはずだ)が紹介されている.特異性論法はEOウィルソンがシロアリの道徳がいかにヒトのそれと異なりうるかを提示したことで有名だ

*15:またここではDSウィルソンによる適応産物としての宗教擁護論も批判されている

*16:例えば1冊目では暴力減少を謎だと扱っていたのを本書ではきちんと進化政治学のフレームで説明できている

書評 「証拠法の心理学的基礎」

 
本書は英米法の中の証拠法について,心理学的な視点から考察を行う本だ.心理学と法学のコンシリエンス的な内容で面白そうだし,海外ドラマの法廷ものを観るときにより楽しめるのではないか*1と考えて手に取った一冊になる.
著者のサックスとスペルマンはともに法学,心理学の両分野のキャリア*2を持ち,行動科学,心理学と法律の関係性や記憶と推論の法・公共政策などの研究者だ.原書はNYU Pressの法の心理学シリーズ*3の一冊.原題は「The Psychological Foundations of Evidence Law」.
 
日本は古代ローマ法を継受した大陸法系に属する.大陸法系では基本的に自由心証主義をとり,日本においては法廷で用いられる証拠の証拠能力に関する制限はほとんどない.例外は戦後に英米法の影響で憲法および刑訴法に導入された自白法則(任意性のない自白の排除)と同じく戦後に刑訴法に加えられた伝聞法則(伝聞証拠の排除)ぐらいになる(違法収集証拠については明文規定がなく,判例で重大な違法がある場合についてのみ排除が認められている).しかし英米法においては陪審制が基本であることから,陪審が惑わされかねない証拠は排除されるべきだという法原則が判例法としてのコモンローにおいて成立し,その後連邦証拠規則などによる整理を経て,さらにさまざまな新規立法がなされ,刑事だけでなく民事において証拠法の体系が確立している.すると,どのような証拠がヒトの判断を惑わすのか,証拠を見たあとで排除すると(陪審員に向けて)説示することに効果があるのかなど様々な心理学的な問題が生じることになる.本書はこの問題に真正面から取り組んだ一冊ということになる.
 

序章 心理学と証拠法の交差点

 
冒頭では証拠法のルールの作成者(かつてはコモンロー裁判官,現在では司法委員会,議会,特別小委員会)は,特定の証拠が事実認定者にどのような影響を及ぼすかを予測しなければならないのであり,応用心理学者として行動しなければならないこと,今日成立した証拠法はそれに関する心理学的信念の産物であることが強調されている.
信念の内容を示す具体的例として伝聞証拠排除ルールの例外「興奮状態下の陳述」が挙げられている.これは「虚偽証言をでっち上げるには認知能力が必要であり,刺激的な事件下ではそれが残っていないだろう」という信念に基づいているということになる.より一般的には証拠法ルール決定者は「ルール決定者は事実認定者の心理的プロセスと結果を推論できる」という信念を持っていることになる.本書はこのような信念に合理性があるのかどうかを問いかけていくことになる.
次に証拠法が英米法系で進展し,大陸法系にはほとんどない理由について触れている.通説的説明は陪審制とコモンロー裁判官が陪審の能力に疑義を持っていたことを理由とする.著者たちはそうではなく英米法の強い当事者主義の元では当事者たちの行き過ぎを抑制する必要があったという事情が大きかったのではないかと考察している.
序章の最後では証拠法系も世の中(特に科学の進展)とともに変化していくものであり,証拠法の法学は実証的社会科学を良きパートナーとして持つべきことが説かれている.そして現代において特に重要な実証的問題として,「精神汚染の影響」「ヒューリスティックスとバイアスの影響」を挙げ,また英米法における心理学的知見の応用の曲がりくねった歴史を振り返っている.
 

第1部 陪審を考える

 

第1章 裁判官 vs 陪審:事実を認定するということ


まず,陪審の任務,裁判官によるその管理,証拠法の果たす役割が解説される.最初に驚くのは英米法の陪審員は法廷でメモを取ることを許されていないということだ*4.さらに一度見た証拠をもう一度確認することはできず,証人に質問できず,(証拠調べ終了までの間)陪審員同士で議論してもいけない.これに加えて裁判官から「ある証拠をある目的については利用できるが別の目的については利用できない」などの(認知的な離れ業としかいえない)説示を受ける.
基本的に裁判官は陪審が何を聞くことができるのかを証拠法に照らして判断するのであり,証拠法は陪審が正しく適正な判断を下すために作られているということになる.本章ではここから生じるいくつかの疑問に答えていく.
 
<陪審と裁判官の役割分担>

  • 証拠法を適用するには,ある証拠が採用可能かどうかを判断するもの(裁判官)とその判断に従って採用された証拠だけで事実を認定するもの(陪審)という分業が必要になる.法学者や裁判官たちは(裁判官のみの公判審理(ベンチトライアル)において)裁判官が前者の判断をしたのちに(すでに見た証拠に精神汚染を受けずに)後者の判断ができるとナイーブに信じてきたが,実証研究はそのような期待を支持しない.
  • 一般的に「陪審員が誰であるかが評決に影響する(陪審員のバイアスで評決が左右される)」と信じられているが,実証研究によるとその影響は小さく,評決を左右する圧倒的に大きな要因は証拠だ*5.これは選任において公判参加者と個人的なつながりのある人が排除されること,陪審が集団として判断することで説明できる.(ただし,勝敗判断が五分五分に近い案件,特殊な知識が重要な案件,(人種や民族など)個人的な特性が争点になる案件では例外がある)
  • 証拠法はチャルディーニが「影響力の武器」で示した説得の技術(返報性,コミットメントと一貫性,権威,希少性など)の多くを制限している.これは公判審理をより適正にする効果があると評価できる.
  • 公判審理において証拠はQ&A方式で提示される.これはヒューリスティックスやバイアスの影響をなるだけ受けずに証拠を提示する良い方法だと評価できる.陪審員の意思決定プロセスは,このようなQ&A形式で展開される証拠をベイズ的に一貫性のある物語に作り上げるものだと考えられる.法律家は陪審に一貫性のある物語を提示するか,あるいは相手方の物語の一貫性を攻撃することになる.

 
<集団としての陪審>

  • 陪審が集団であるのは,集団の意思決定の方が優れているという考えに基づいている.ただしこれには独立の判断が為されたあとで話しあうことが重要であり(多数派効果の排除),裁判官は証拠の検討が終了するまでは最初の投票をしないように説示することが望ましい.

 
<裁判官と陪審の意思決定の違い>

  • 裁判官と陪審の意思決定が異なりうる可能性には一般的認知能力(バイアスへの耐性)の差,専門的訓練の効果が考えられる.
  • しかし実証研究によると裁判官が陪審より様々なヒューリスティックスに伴うバイアスに耐性があるという期待は支持されていない.証人の嘘を見抜く能力にも差はなかった(どちらもチャンスレベル以上に嘘を見抜く能力はなかった).
  • 裁判官は確かに法的な訓練を受けているが,事実認定についての訓練はほとんど受けていない.
  • 基本的に両者に事実認定者としての差はない.実証研究もそれを示している.

 
<結論>

  • これら全ての考察において浮かび上がるのは証拠の重要性である.

 

第2章 利益衡量

 
証拠法にはある証拠の証拠価値と陪審に与える不適切な影響のトレードオフが存在する.このためほとんどのルールはある証拠の採用を制限するかどうかについて裁判官に利益衡量を行うように求めている(例外的な絶対的排除ルールも存在する).利益衡量を行うためにはその証拠が陪審員にどのように影響するのかを推測する必要があることになる.ここではその心理学的な問題が利益衡量のルールに沿って解説される.
 
<一般的規則>

  • 利益衡量をするには証拠価値の判断とそれが陪審員に与える負の影響の判断の両方が必要になる.
  • 証拠価値は証拠の関連性を定量化したものになる.(1手法として事件の蓋然性の変化を用いるベイズ的なやり方が解説されている)
  • 排除類型は多様だ.
  • 「不必要な遅延,時間の無駄,重複的証拠」基準:これを判断するためには陪審員の心理状態を推測する必要があるが,その際には「知識の呪い」に注意しなければならない.いくつかの州では陪審員が裁判官に質問提出することを認めているが,良い方法だと考えられる.
  • 「不公正な予断,争点の混乱,陪審の誤導」基準:「不公正な予断」に含まれるものに「陪審の感情を掻き立てる証拠」(しばしば写真が問題になる)がある.これは感情的になると判断を誤りやすく,またぞっとするような被害を示す証拠は陪審に報復感情を生じさせるという前提の上にある.しかし怒りのレベルと有罪判断の可能性に相関はないとする実証研究がある.
  • かつては感情は不合理なものと考えられてきたが,近時の研究は必ずしもそうではないことを示している.感情を含むシステム1が常に誤りの結論をもたらすものではない.また陪審の評決は時間のかかる集合的プロセスなので,感情の生起と判断までに時間差があること,個人個人が一貫性の好みを持つこと,評議があることにより感情による誤りが是正されやすい.ただし集団感情伝染には注意する必要がある.また法律家による感情アピールは(陪審員に操作されているという疑惑を起こさせ)しばしば失敗することが知られている.

 
<証人の誠実性と前科>

  • 証人,被告人にかかる前科の利用の制限:前科は(当該事件の犯行事実の証拠として用いることはできないが)証人の誠実性を示すものとしては利用されて良い.しかし証拠価値と予断の間の比較考量を行うべきであるとされている(ただし偽証の前科については制限なしで証拠採用を認める).(様々な場合が詳しく解説されている)

 
<不法行為の有責性にかかる証拠の類型的排除>

  • 法がすでに利益衡量済みであるとして類型的に排除される証拠がある.多くは過失による不法行為にかかる証拠に関するものだ.
  • 事故が生じてそれについて改善策が立てられたことは過失,有責性,製品の欠陥,警告の必要性についての証拠として用いることはできない.これは陪審が後知恵バイアスから誤導されやすそうなこと,改善は社会的に望ましくそれを妨げるべきではないことから説明される.
  • 和解,和解の提案の事実は有責性の証拠として用いることはできない.これは陪審が帰属理論(他人の行動の原因に特定の意図があると考える傾向)から誤導されやすそうなこと,和解が社会的に望ましいと考えられていることから説明される.
  • 医療費の支払いの事実は事故の有責性の証拠として用いることはできない.被害者の治療に資したいという人としての衝動を,のちの訴訟において不利に扱うことにより阻害すべきではないということから説明される.
  • 責任保険への加入の事実を有責性の証拠として用いることはできない.これは責任保険の普及が社会的に望ましいこと,陪審が「保険がかかっているなら有責性を認めても被告は困らないからいいではないか」と考えて有責性の認定に傾きやすいだろうことから説明される.しかし今日においてはほとんどの被告は保険に加入しており,ほとんどの陪審員はそれを正しく想定しているのでこのような目隠しでそのような認識や影響を排除できないだろう.また逆に目隠しにより保険にかかっていないかもしれないと考えることにより有責性を認めがたくなるという影響も生じるかもしれない.

 
<結論>

  • 利益衡量ルールには複数の多層にわたる心理がかかわり,混乱をもたらすことがある.ルールの根拠の多くは心理学的な意味を持つように見えるが,それが本当に機能しているかどうかはあまり調べられていない.より機能的効率的ルールについて検討の余地がある.

 

第3章 証拠の無視や利用制限を求める説示

 
いったん特定の証拠が排除されたなら,(そしてそれが陪審が見聞きしたものであれば)裁判官は陪審にそれを無視するように,あるいはある特定の目的には利用しないように説示する.第3章はこれに関係する問題を扱う.
 
<概説>

  • 膨大な数の実証研究が,人は無視するように指示されても聞いたことの影響をしばしば受けることを示している.しかしどこまでうまくやれるかに影響する要因がいくつかある.これを考える上での重要なポイントは精神汚染と心の働きの二重過程論になる.

 
<証拠の無視を求める説示>

  • 人々に「見聞きした証拠を無視する能力」がないことを示す実証実験は数多い(模擬陪審員を使った実験の詳細が説明されている).

  
<無視できないのか>

  • 長期記憶に定着するまでなら人は意識的にある事柄をより長期記憶に定着させたり定着させないようにしたりをある程度操作できることが示されているが,法廷では証拠は事件と関連性をもって提示され,即座に物語の中に組み込まれるのでこのような操作の対象にはならない.事件に関連する重要な事柄をいったん知ってしまった後で意識的に記憶から除くのは困難である.
  • 無視するように指示されることでより(何を無視するべきかを覚える必要があり)注意が向くという心の過程,物語りに組み込まれた事柄を無視するには物語を再構成する必要があることなどが無視することの難しさを説明する.
  • その情報を知らなかったならどう判断したかを推論することも難しいタスクになる.ある事柄を理解するときにいったんそれを信じるという過程を経ること,いったん1つの信念を得たならそれに固執しがちであること(信念固執)という2タイプの精神汚染が関連する.後知恵バイアスもいったん得た評価を覆すことを難しくする.

 
<無視したくないのか>

  • 陪審が無視せよと説示された証拠を無視したくないと感じていることを示す実証実験がある.
  • 理由には,真実に至りたいという正義の感覚,権威者に指示されたくないという感覚の2つが提示されている.また「誰かが何かを隠そうとしているなら,そこに重要な真実に至る鍵があるのではないか」と信じる傾向があることも重要だ.これは訴訟当事者がある証拠に異議を申し立てることにリスクがあることを意味する.その意義が却下されたときには陪審員がその証拠を重視してしまう可能性があるのだ.

 
<どうすればいいのか>

  • 改善のための様々な実証研究があるが確かな結論は得られていない.

 
<利用を制限する説示>

  • 証拠法はしばしばある証拠についてある目的について採用を認め別の目的について制限をかける(いくつかの具体例*6が解説されている).裁判官はこのことを陪審に説示することになる.
  • 実証研究は,陪審員はある証拠を特定目的にかぎって利用することはないし,そうすることもできないこと,説示はむしろ逆効果になる(説示がないときより禁じられた用法の影響を増幅させてしまう)ことを示している.
  • これは法律家にとっては驚きではない.実際に法律家は(異議があれば排除されることがわかっていても)その様な証拠を賢く陪審に聞かせることに利益があることをよく知っている*7し,しばしば相手方の法律家はその証拠を強調しないためにあえて制限説示を請求しない.
  • 制限説示は法自身が困惑している事柄を隠すための無花果の葉に過ぎないのかもしれない

 
<裁判官自身は無視や利用制限できるのか>

  • 裁判官たちは,自分たちは証拠を適切に評価できると主張し,ベンチトライアルではしばしば証拠法のルールが無視される.
  • しかし実証研究は裁判官の証拠を無視する能力も完全ではないことを示している.(不法行為の有責性を示す)許容性のない証拠を知ったときには裁判官も陪審も責任を認める判断をしやすくなる.
  • 刑事被告人が許容性のない証拠が採用されたことを理由に上訴した場合,上訴審裁判官は(証拠の許容性がないと認めた場合には)「下級審の陪審がこの証拠を聞かなかったらどう判断したか」を推論しなければならない(結論が同じであると判断されたならば上訴は棄却される).これはメタ認知に関する一層困難な離れ業であり,心理学研究はこれが困難であることを示している.

 
<結論>

  • 説示には様々な解決困難な問題が潜んでいる.これについてのよい解決策はいまだに発見されていない.

 

第4章 証人を観察する

 
証拠には証人による証言が含まれる.第4章の証人の証言に関連する問題を取り扱う.
 
<概説>

  • 陪審は証言を聞くだけでなく,証人の記憶が確かなのか,真実を述べているのかを評価しなければならない.
  • 証人が意識的に嘘をつく可能性に対しては,法は宣誓,反対尋問,弾劾の制度を用意し,陪審は証人の態度を見ることができる.しかし証人が本当に誤解している場合にどう対処すればいいのかについて司法制度はよくわかっていない.

 
<記憶の変容>

  • 心理学の研究は人間の記憶が変容することがあることを示している.記憶は常に再構成される.誘導尋問によって記憶を変えることができるという事実もよく検証されている.
  • 法が主尋問において誘導尋問を禁じているのは適切だと評価できる*8.単に質問に同意するよりも自分の言葉でしゃべる方がバイアスを受けにくいのだ.
  • また法は証人の隔離を定めているが,これもほかの証言を聞くことによる影響の観点から適切だと評価できる.

 
<証言者の制限>

  • かつて法は潜在的に信用できない証人を排除しようとし,女性,アフリカ系,重罪前科者,無神論者は証人不適格とされた.この態度は社会的文化的心理的な面で劇的に変化した.現在なお能力の欠如で排除される証人は精神障害者,子ども,薬物の影響下にある人などだ.
  • 同じくかつて法は(真実を述べる)動機が疑わしいという理由で当事者,当事者の配偶者,利害関係人など広範囲な証人排除を行っていた.現在では陪審員の評価能力を信用し,この面のカテゴリカルな証人排除は無くなり,個別に証人適格を推定する形になっている(配偶者については配偶者側に証言拒否権がある形式になっている).
  • かつて宣誓は宣誓の元での偽証が深刻な罪になることを信じる証人へのプレッシャーとなると考えられていたが,現在では証人に真実を述べる義務があることを自覚させるための手段だと考えられている.この面での宣誓に効果があるとする心理学的研究*9がある.

 
<証言内容の制限>

  • 非専門家証人は個人的知識についてのみ証言が許される.これに対して専門家証人は個人的知識に加えて「知らされた知識」さらに「意見」を述べることができる.この区別については微妙な問題が多い(いくつか解説されている)
  • よく問題になるのは目撃供述の誤謬性について心理学の専門家証人を呼べるかだ.裁判官は陪審員は記憶の正確性や証人の評価についてよく知っているだろうと考えてしばしばこの手の証人を排除してきた.しかし最近では一般的な専門家証言は許容される傾向にある.

 
<嘘>

  • 証拠法のルールは証言の信憑性を陪審員が評価できることが前提になっている.特に「どのように言ったか」が手がかりになると考えられている.しかし数多くの実証研究は「人は話し手の態度に基づいて話の信憑性を評価するのが得意でない」ことを示している(詳しく解説がある).実際には「話し手の態度」ではなく,「話し手の能力」や「事件とのかかわり」,そして「物語の現実性」に基づいて判断しているのだ.
  • ポリグラフの利用は1923年の判例で否定された.これ以降fMRIを含む様々な技術的進展がある*10が,アメリカの司法制度では嘘発見器の利用は一貫して否定されている.この否定の主な理由は基本的には技術水準が一般的な承認を受ける水準でないというもの(1923年判例の理由)だが,裁判官や陪審が技術を過大視するリスクも理由の一つとされている.とはいえポリグラフの正答率は70〜80%とされており,有用性がないわけではない.これについては人間が人間を評価するところに裁判の道徳的正当性の基礎があるという議論がある.そうだとするならこのルールが変わることはないだろう.*11

 
<反対尋問>

  • 反対尋問は証拠法の原則の中で最も重要な位置を占めている.伝聞証拠が原則的に許されない最も重要な理由が反対尋問が行えないところにある.
  • 敵対証人に対しては証人の弾劾(信用性に疑問があることの証拠を提示すること)が認められている.これには前科のほか評判や意見に関する証言も認められているが,実証研究によると不明確かつ一般的な評判や意見にはあまり効果がないことが示されている.
  • 反対尋問ではしばしば嘘をつく動機の存在,供述の矛盾がテーマになる.実証研究は証人の自己矛盾が信用性評価を下げることを示している.
  • 反対尋問では(主尋問でも要求される)関連性と許容性が要求され,さらにその内容について主尋問で現れた事項と証人の信用性に影響する事項に限られている.しかし研究によるといかなる証言も信用性評価に関連する可能性があると考えられる.
  • 証人の自信を示す言動(断言など)は陪審員による信用性評価に影響するが,研究の結果,証人の自信と証言の正確性にはあまり関連がないことがわかっている.
  • 反対尋問などにより陪審がある証人の信用性に疑問を持ったとしても,そこから遡ってその証言内容をなかったことにして物語を再構成するのは難しい.これは証拠制限説示と同じ種類の問題になる.

 
<秘匿特権>

  • 証拠法は社会的利益の観点からいくつかの秘匿特権(法律家,医療やカウンセリング従事者,家族など)を認めている.秘匿特権を持つ証人はしばしば事件についての極めて有益な情報を持っているので,この特権を認める心理学的社会的な根拠が問題になる.しかし心理学的な問題(秘匿特権はどのような行動の変容をもたらすか,そもそも人々は秘匿特権を知っているのか,秘匿特権がなければ結婚関係が損なわれるということが本当にあるのか,同じく医療やカウンセリングが損なわれるのか)についての研究はほとんどない.
  • いずれにしても秘匿特権の存在は,嘘をつく最も強い動機を持つ証人が排除されるという結果を生んでいる.

 
<結論>

  • 証人尋問は拷問への道につながっている,このため法は様々な制限や制度を設けている.反対尋問は誠実性と正確性に役立つとされているが心理学的研究はあまり為されていない.反対尋問では誘導尋問が許されているが,そこでソース・コンフュージョンが生じないのかかはもっと懸念されるべきかもしれない.

 

第5章 性格証拠

 
英米では法廷で検察官が「被告人(あるいは証人)がいかに悪い(あるいは信頼できない)人間であるか」を強調しようとするのは極く普通になされているそうだ.そこでこのような「性格証拠」がどこまで許されるのかが問題になる.
 
<概説>

  • かなり多くの証拠のルールが「性格」(と法が呼ぶもの,明確な定義はないが人のパーソナリティ上の特徴や心理的帰属とだいたい同じと考えてよい)について定められている.実務ではそのうちの真実性,誠実性,暴力性などがよく問題になる.法は性格と行動をつなぐ線は曖昧で不完全であることをよくわかっているが,例外的に法意思決定のための特定目的に使うことが認めている.これが様々な問題を生じさせている.

 
<性格証拠ルールの概観>

  • 最も重要な一般的ルールは「性格はそれに沿って行動が生じたことの証拠として許容されない」(傾向性ルール)というものだ.しかしこれには多くの例外が定められている.
  • まず実体法で性格が要素になっている場合がある.(名誉棄損を受けた人の誠実性,子どもの監護における親の性格,保釈や仮釈放の要件など)この場合は性格が法廷で争われ,評判に関する証人の意見や証言が利用される.
  • 刑事訴訟においては被告人側は自分の(好ましい)性格についての証拠を提出できる.いったんそれが争点になれば検察側も性格証拠を提出できる.
  • 性格証拠は(行動の証拠としては利用できないが)動機,機会,意図,準備,計画,知識,(犯人と被告人の)同一性,錯誤(ミス)の非存在,事故(偶然)の非存在の立証には利用できる.多くの法律家はこの抜け穴を何とか利用しようと試みる.
  • ある人物の習慣的行動,ある組織の日常的習慣を示す証拠は(性格証拠と区別され)許容される.
  • 1990年代に証拠法に特殊な例外が追加された.性的暴行や子どもへの性的虐待事件については民事刑事問わず,「過去に性的暴行,子どもへの性的虐待を行ったこと」についてのいかなる証拠も許容されるようになった.これは傾向性ルールの重大な例外になる.
  • 証人の信用性については性格証拠の提出が許容される.ただし宗教的信念にかかる証拠は許容されない(かつてはキリスト教徒のみ証言が認められていたが,その制限がなくなると法律家は(キリスト教徒でない)証人の宗教的信念を攻撃するようになった.1975年にこのような攻撃が禁止されることになった).

 
<心理学と証拠法の方針>

  • 傾向性ルールを作り上げたコモンロー裁判官たちは,暗黙の性格理論に従っていたと考えられる.彼等は「性格は行動の源泉として各個人の中に一貫して存在するが,予測因として高度に信用できるものではない,しかし陪審員はそれを理解しない可能性がある」と考えていたのだろう.
  • その後の法律家たちも,陪審員が性格証拠に不当な重みを与える可能性があること,陪審員が被告人が悪人だと知れば証拠がなくとも有罪に傾きがちになることを傾向性ルールの理由としてあげている.
  • 心理学研究は性格による行動の傾向性がコモンロー裁判官たちや法律家たちの考えよりはるかに小さく,予断のリスクが高いことを示している.人格尺度が行動を予測する力は驚くほど小さいのだ.(性格よりその場の状況の方がはるかに重要であることを示すいくつかの研究が紹介されている) 将来の行動予測には性格よりも過去の行動の方がましなのだ.
  • では性格が重要だという認知が多くの人にあるのはなぜか.それは進化環境で他人の行動パターンを理解するためには単純化され一貫性のあるショートカット的な説明が有用だったからかもしれない.
  • この研究知見の法政策的含意は何か.それは性格証拠の禁止は賢明だということだ.また傾向的な証拠を利用する場合にはヒトが賢明な統計的推論者(特にベイズ推論者)でないことを考慮すべきだ.特に前述の性的暴行についての証拠法の例外を保つなら陪審に統計的説示を行うことが必要ではないかと考えられる.

 
<許容される個人についての証拠>

  • 「動機,機会,意図,準備,計画,知識,(犯人と被告人の)同一性,錯誤(ミス)の非存在,事故(偶然)の非存在の立証のため」という性格証拠の許容ルールはコモンローで時間をかけて発展してきた.このルールの目的は心の状態,同一性の確認,犯罪にかかわった状況(res gestae)の3つにまとめることができる.このルール群は多くの議論を招き,一貫しない裁判所の決定が生じてきた.またこれらのルールは利益衡量の諸問題,特定目的のみについての証拠利用や制限説示の問題を生じさせる.
  • 法は性格証拠と習慣証拠を区別する.これは習慣的行動はより引き金刺激により自動的に生じやすいという心理学的知見からみて是認できるものだ.
  • 法は証人の信用性について前科の提示を許容する.何であれ罪を犯すような人間はうそつきである可能性が高いと仮定しているのだ.しかし研究によると,陪審員の被告人の証言の信用性判断は前科の有無により影響を受けず(そもそも被告人の証言ははまったく信用されていない),いったん被告人の前科を知った陪審員は(制限説示があっても)有罪である可能性を高く見積もるようになる.
  • また法は証人の信用性について意見や評判などの性格証拠を許容する.正直性と評判が相関すると仮定しているのだ.しかしヒトの正直性についての研究は.それは大きく状況依存でかつ複雑であり,事態がそのように単純ではないことを示している(アリエリの一連の研究が紹介されている)
  • 性的犯罪についての傾向性ルールの例外を是認するには,性犯罪はその他の犯罪と行動態様が異なるという前提が必要なはずだ.しかしそのような主張を支持する経験的証拠は全くない.少なくとも少年犯罪についてはこの前提が全く当てはまらない.成人犯罪においても再犯率は性犯罪よりも窃盗などの財産犯と薬物犯の方が高いのだ.

 
<結論>

  • 多くの人は性格から行動を予測しすぎる.法はこれを抑える賢明なステップを踏んできたと評価できる.ルールには多くの例外が定められて様々な問題がある.心理学的研究が問題解決を支援していくことが望まれる.1990年代に定められた性犯罪についての傾向性ルールの例外はなんら経験的証拠なく採用されたもので,問題があると考えられる.

 

第3部 その他のタイプの証拠

 

第6章 伝聞と伝聞の例外

 
伝聞証拠は原則として許容されないが,様々な例外がある.第6章はこの伝聞証拠を扱う.(なお日本法においては刑事訴訟法においてのみ伝聞証拠が原則禁止されているが,面前調書などの広い例外規定がある)
 
<伝聞についてのルール>

  • 証人は自分で見聞した知識を証言できるが,他の人が見聞したと言っていることについては証言が許されない.それは見聞者の知覚や記憶の正確性や真実性について評価できないからだ.これが基本的なルールになる.
  • 伝聞は聞いたことに限られない.公判外で行われた供述(書面など)も含まれる.そしてそれを陳述した内容が真実である証拠として用いるものが制限される伝聞証拠になる.しかし法は2ダースを超える例外を認めている.

 
<伝聞についての研究の概観>

  • 伝聞証拠の一般的な問題についての心理学的研究は少ない.主に調べられているのは伝聞証拠の重みが低く扱われるかという点になる.
  • そのような研究のメタ解析によると伝聞証拠は完全には無視されないが,他の証拠に比べると影響度は小さい.ヒトは伝え聞いたことについては原則的に懐疑的であるようだ.(いくつかのリサーチが詳しく紹介されている)
  • 例外は実際の証人である子どもの供述を大人が代理して証言する場合だ.実験室実験では陪審員は成人の捜査官から得られた代理証言を子どもが直接証言する場合より信じていた.このような場合には伝聞証拠は過大に評価されることになる.

 
<例外>

  • 例外は必然性と信頼性の利益衡量から作られたとされている.それぞれの例外における信頼性,陪審員がどこまで信頼するかが心理学的な問題となる.
  • 諮問委員会の記録を読むと立法者が注意を払っているのは作り話(嘘)のリスクであり,誤認知や記憶の減衰にはほとんど注意を払っていないことがわかる.しかし近年の心理学的研究は記憶の脆弱性を明らかにしており,もっと注意が払われるべきだ.

 
<現在の感覚の印象と興奮した発言>

  • 「現在の感覚の印象」例外は,当該出来事が発生している最中に行われたその出来事に関する供述(911通報の録音など)を証拠として認めるものだ.同時性が記憶の変容の問題をなくし,(別途法廷に呼び出して)反対尋問可能であることから是認できると考えられる.
  • 「興奮した発言」例外は,供述者が興奮のストレスのもとにあり,その興奮を引き起こした出来事に関する供述を証拠として認めるものだ.これには興奮している状態では嘘をつく認知能力が制限されるという根拠が挙げられている.これは興味深い心理学的仮定のうえにある.現在の知見からみて嘘をつくのに認知資源が必要だというのは正しいと考えられるが,ストレスは長期短期の記憶を損なう可能性があり,法が考えるほど信用できる証拠ではないのではないかと考えられる.実際に陪審員はそのような証拠について低い重みづけしか与えないという研究もある.

 
<現存する精神的,感情的,身体的状態>

  • この例外は,供述者が自分の現存する心身の状態(どのように感じ,何を計画しているか)を供述する場合の例外だ.
  • 立法者はこれは「現在の感覚の印象」例外の応用だとしているが,心理学者は懐疑的だ.まずこのような供述は基本的に検証不可能だ.動機については,ヒトは自分の行動の理由を説明することが全く不得手であることが知られている.さらに意図や計画の供述については,(コミットメント効果,将来自分ができることについての過信傾向,将来自分がよい行動を行う確率の過大評価など)いくつもの問題がある.実際に陪審員は自己高揚的な供述について低い重みづけしか与えないようだ.

 
<瀕死の際の供述> 

  • 自分の死が差し迫っていると信じている供述者(実際に死ぬ必要なない)がその死の原因や状況について行った供述も例外となる.
  • この例外は瀕死の人は嘘をつく動機がない(嘘をついたまま地獄に行きたい人はいないだろう)という理由で非常に古くから認められている.
  • しかし最近の研究を見れば,そのようなストレス下での証言の正確性には懸念が生じるはずだ.片方で陪審員がこのような瀕死の状況での供述を疑うことは難しいだろうと想像される.

 
<規則の変遷>

  • この他にも多くの例外がある.例外の多くはビジネスや行政において様々な記録が導入されたことに関連している.前科や評判の利用も例外に当たる.評判に関する規定に関しては現在のようなネット世界でどう扱われるべきかについて再考すべきかもしれない.

 
<結論>

  • 伝聞証拠法則の例外ルールは多く,証拠法ケースブックの1/4を占める.
  • 立法者はもっぱら嘘のリスクを懸念したが,心理学者は意図せずに不正確になることをより警戒するだろう.
  • 心理学はこのルールの改善について多くのことができるだろう.

 

第7章 科学的証拠とその他の専門家証拠

 
第7章は科学的証拠がテーマ.法はこの世界の有り様や動きについての専門性のある(一般人にはあまり知られていないが,真実である蓋然性が高い)証拠や証言について特別の扱いをするのだ.
 
<概説>

  • 裁判所が科学的証拠と格闘する必要があるのは,(判例法の)ルール創造場面,専門家証言を法廷に入れるかどうかのゲートキーパーの場面.許容された証拠を陪審員が用いる場面だ.

 
<ルール創造>

  • 諮問委員会は審判対象事実(特定の事件の事実)と立法事実(ルールの創造,変更のために助けになる(法的推論や立法過程に関連する)事実)を区別する.前者において裁判官は調査においても決定においてもなんら制限を受けない(調査をしない完全な自由がある)が,後者において(特に矛盾する下級裁判所の判例を整理する必要がある時には)より広く関連事実を検討する必要があるとされている.
  • しかし実際には裁判官は立法事実についても調査をせずに直感に頼ることがしばしばある.心理学研究はどのような場合に直感が誤りやすいのかを示すことができる.

 
<ゲートキーピング>

  • ゲートキーピングは専門家証拠,科学的証拠に関する証拠法の焦点であり,多くの議論がある.
  • 専門家証言は(一般の証言と異なり)意見や推論の結果を述べることができる.
  • 平均人が有していない知識を持つものは誰でも専門家として扱える.
  • ゲートキーピングの許容性の試金石は「有用性」になる.
  • 法は専門家証人が中立的であることを想定しているが,実務では証人として申請した当事者側に立つことが大半だ.

 

  • 専門家とされた証人が実は専門知識を有していない場合やバイアスを持つ場合に生じる混乱に備えて,専門家証人のスクリーニング手続きが定められている.また法は裁判官に自らの選択による専門家証人を任命する権限を与えている(これは当事者があまりに劣悪だったりバイアスを持っている証人を申請することへの抑止になる).
  • 証人が申請者側のバイアスを持ちやすいことは,選んでもらったことへの忠誠バイアス,弁護士との対話の中で生じる一貫性バイアス,弁護士への権威に従うバイアスから説明できる.いったんバイアスを持つと推論は「動機付けられた推論」になりやすい.
  • 刑事においては科学捜査研究機関職員の証言が重要になる.彼等はいわば検察に恒久的に雇われたガンマンであり,そのグループ内で期待されるように振る舞う強い傾向を持つ.これが(最終的には主観が入り込みやすい)指紋や弾痕や足跡の類似性判断がしばしば重大な問題になる理由だ.弁護側はしばしば独自の専門家証人で対抗するが真実の発見のためには有効だと考えられる.

 

  • 最も初期の許容性テストは「資格」だった.19世紀には「市場性テスト」(消費者から信頼を得ているか)がしばしば用いられた.20世紀になりフライ基準(その専門知識が属する特定の分野で一般的に承認されているか)が採用された.フライ基準には同業者は消費者より甘い(占星術の専門家は占星術を有効だというだろう)という欠点があった.また裁判官は特定分野を広く解したり狭く解したりして許容条件を操作できるという問題もあった.
  • 現在のルール(ダウバート基準)は,専門分野の科学的有効性と証人の証人適格についてそれぞれ判断されなければならない,その分野の一般的承認では不十分だとされている.
  • このルールの変遷は基準がシステム1型からシステム2型に移行してきたと評価できる.実務的には民事においては専門家証言はより承認されにくくなり,刑事においては検察の専門家証人に対する被告人の異議が認められにくくなっている.
  • 最近の科学的再調査では,これまで法廷に招き入れられていたいくつかの分野(指紋の同一性判断,弾道学など)が全く信頼に値しないものであることが明らかになった.これは(社会心理学がいう責任の分散により)裁判所が機能不全であったことを示している.

 
<公判での利用>

  • 陪審員は専門家証言をどこまで理解し,正しい重みづけを行えるのかが問題になる*12
  • 陪審員は単純な事件で事実関係を整理することについては有能だが,複雑な事件ではその能力は疑わしい.専門家証言は本来はその中身で評価されることが望ましいが,陪審員にそれはできず,証人の表面的な特性で判断するか,その証言を無視することになる.
  • 特に理解されにくいのが確率的証拠についての統計的な解釈だ.陪審員は統計学ではなくヒューリスティックに従って判断し,因果を誤解する(様々な誤謬の例が紹介されている).データを提示する専門家証人は物語的で質的な証言を提示する証人よりも理解されにくいのだ.
  • 裁判所は長きにわたって専門家の証言に対しては反対尋問や対立する専門家証拠による弾劾に効果があるという立場をとってきた.しかし実証研究によるとその効果は疑わしい.
  • 改善のためのいくつかな試みがある.その1つは裁判手続きの改善だ.メモとりの許容,専門家への質問の許容,裁判ノート(専門家のスライドと用語集),チェックリストの利用などだ.研究によるとメモや質問には効果がなく,ノートとチェックリストには効果があった.
  • 別の方法は統計情報の表示方法の改善だ.ギゲレンツァはヒトは確率表示より頻度表示の方をより理解することを示した.統計的な理解についてのヒューリスティックの知見からデータ表示の方法についていくつかの改善案が提示されている.
  • 陪審員を法廷で直接教育するという方法も提案されている.直接的な教育が因果推論を(時間をかければある程度)改善できるとする研究結果がある.

 
<結論>

  • 科学的証拠は(専門知識を持たない)裁判官や陪審員に多くを要求する.
  • スクリーニングルールは時代とともに改善された.かつては現在では「無効」と考えられる「法科学」が法廷に持ち込まれていたのだ.
  • その下流にあるルールは陪審員が直面している理解・評価の問題について全く貢献していない.いくつかの改善提案はあるが,裁判官や陪審員に科学リテラシーがない以上根本的な解決は難しいだろう.

 

終章 証拠法のための心理学の教訓

 
最終章はここまで述べてきたことの教訓を中心にまとめられている.

  • 証拠ルールの創造者は(陪審員の心理を推測するメタ認知課題などをもつために)応用心理学者として活動するしかない.かつては素人的な素朴心理学が応用されてきたが,より体系だった方法で心理学が用いられることが望まれいる.
  • 法制史学者は証拠法の出現は素人陪審の台頭への応答と考えてきた.しかし実際には19世紀に弁護士に手続きが委譲されるのがきっかけになっている.証拠法は主として弁護士を抑制するために発展してきたのだ.
  • 証拠法の特に重要な機能は弁護士に(「影響力の武器」で示されたような)説得の技術を妨げるところにある.
  • 利益衡量テストにはメタ認知が必要になる.テストは意味ある試みだが,本当に機能しているかについては研究の余地が残されている.
  • 証拠無視や証拠利用制限の説示の効果は疑わしい.他の方法を考案すべきかもしれない.
  • 反対尋問は証言の信用性を評価するための重要な手段とされているが,これについての心理学的研究は少ない.
  • 性格証拠は(多くの例外はあるが)原則として禁止されており,これには意味がある.しかし近年の性犯罪に関する例外は根拠なく採用されたものであり問題含みだ.
  • 伝聞証拠の例外は証言が必要で信頼できることを前提に認められているが,(例外の体系が複雑であることもあり)これについての研究は少ない.
  • 科学的証拠は(真実の発見のためには)重要だが,裁判官や陪審員にこれを評価する能力がない.裁判官はゲートキーパーの役割を果たせていないことがしばしばある.特に統計的,確率的証拠はほとんどの人にとって不可解なものであり,効果的な教育方法の導入が望まれる.

 
 
以上が本書の内容になる.コモンロー裁判官が素朴心理学をもとに様々な証拠法を作り上げてきたこと,その多くは真実の発見のために役に立っているが,限界もあったこと(特にバイアスと二重過程,態度で嘘を見抜けるか,記憶の減衰や変容あたりについては理解されてない部分がある),今後心理学の応用として証拠法の改善の可能性があるということあたりが印象に残る部分だ.なかなかニッチな分野の書物で関心のある人は少ないかもしれないが,私的にはいろいろ楽しめた.裁判員制度が導入された日本でも今後重要になる部分(特に科学的証拠の扱い,記憶の変容の認識あたりはそうだろう)であり,多くの法律実務家たちに読まれればよいと思う.
 
 
関連書籍
 
原書

 
その他の法と心理学シリーズ

*1:かなり以前に英米刑法について本を一冊読んだことがあって,それは海外ドラマの刑事ものや法廷ものを見るときに大変参考になった.英米刑法では大陸刑法と責任についての考え方が基本的に異なっている.大陸法では故意と過失だけだが,より細かく分かれていて,しかも個別判例に遡った形でアドホックに定められていてとても興味深い.それが謀殺(murder)と故殺(manslaughter)の差を説明する.故殺はかっとなってやった殺人や未必の故意による殺人(日本法ではどちらも紛れもない殺人罪になる)を含む概念で,字幕ではしばしば「過失致死」と訳しているがあれはかなりミスリーディングだ.また「重罪:felony」も英米法特有の重要な概念で,これを知っているとシナリオをより深く楽しめることがある.ドラマでは法廷で証拠の採用をめぐって争う場面も多いので,それなら証拠法を知るとより楽しめるだろうと考えたわけだ.

*2:サックスは心理学博士で法学修士(MSL),法科大学院および心理学部でリージェント・プロフェッサーを務める.スペルマンは心理学博士で法務博士(J. D.),現在は法科大学院教授を務める

*3:証拠法のほかには財産権法,家族法,不法行為法,環境法が出ているようだ

*4:私のような強迫観念的メモとり人間が陪審員になったらものすごいストレスを感じるだろう.なお日本の裁判員はメモをとってもいいようだ

*5:評決の予測モデルを用いた研究では,評決の分散の80~90%が証拠で説明でき,陪審員の個性や特徴は10~15%しか説明できないそうだ

*6:例えば被告人に前科があることは,当該事件の犯行事実の証拠として用いることはできないが,被告人の性格を示す証拠としては採用が認められている

*7:これは海外ドラマでよく見かけるシーンだ

*8:なお日本法でも主尋問における誘導尋問は原則禁止されている.

*9:ダン・アリエリの行動経済学リサーチが紹介されている

*10:fMRIを用いる最新技術についての多くの神経科学者の意見はまだ法廷で使えるのを正当化できるレベルには達していないというものだそうだ.

*11:なお日本においては,捜査段階でのポリグラフの使用に被験者の同意が必要だが,いったん同意されて行われたポリグラフの結果の証拠能力は判例で認められている

*12:法が専門知識を持たないものに専門家証言のスクリーニングや評価の義務を与えているのは逆説的だとコメントされている

書評 「進化と人間行動 第2版」

 
本書は進化心理学,人間行動進化学の(日本語で書かれた)最も優れた入門書として読まれ続けてきた本*1の22年ぶりの改訂版である.著者には初版の長谷川夫妻に大槻久が加わり,この間の様々な知見の進展に合わせた全面的なアプデートを行っている.トピック的には生活史戦略,協力行動の進化(特に間接互恵性),文化の重要性の部分の改訂が大きい.また全体を3部構成にして見通しをつけやすくする工夫も加わっている.
 

第1部 進化とは何か

 
第1部は本書のテーマについての序章と進化学についての概説(ダーウィンの進化学,分子進化学,行動生態学)がおかれている*2
 

第1章 人間の本性の探求

 
第1章は序章的な部分になる.人間の理解のためにはヒトの進化と適応という観点が有用であること,遺伝と環境の問題(ヒトの行動には遺伝も環境も影響を与えていることは当然であり,それぞれどれほど,どんな影響を与えているかの解明が重要),これまでの社会科学における前提とその誤り(SSSM批判),遺伝決定論(という誤解),(近年知見が深まってきた)エピジェネティックスの重要性が説かれている.また最後には本書で扱うテーマがどのような(誤解に基づく)批判を受け論争を経てきたのかについて(社会ダーウィニズム,社会生物学論争)簡単に解説がある.
 

第2章 古典的な進化学

 
第2章は伝統的な進化学の解説.ダーウィンが進化と自然淘汰を提唱するまでの歴史,自然淘汰・適応・適応度の簡単な解説,様々な適応の例(ダーウィンフィンチのくちばし,オオシモフリエダシャクの工業暗化,ヒマラヤを渡るインドガンのヘモグロビン構造,鎌型赤血球症,ヒトの皮膚の緯度勾配),ヒトが引き起こした適応(病原体の適応性獲得,乱獲によるタラの生活史変化)が解説されている.
 

第3章 現代の分子進化学

 
第3章は分子進化学の解説.遺伝子の物理化学的実体(DNAの構造,複製機構)*3,遺伝子の発現機構(転写,転写調節,翻訳),突然変異,中立説と分子系統樹,ゲノム科学の進展がまず解説されている(ここは第2版で追加された部分になる).こののち行動にも遺伝子が影響を与えうることが様々な例(トックリバチの巣,インコの雑種の行動,カッコウのヒナの宿主の卵排除行動,色覚が行動に影響を与えること,オキシトシンの感受性が配偶システムに影響を与えること)とともに説明されている
 

第4章 「種の保存」の誤り

 
第4章は行動生態学の解説だが,特に進化が「種の保存」に向かって進むという誤解を解くことに注力されている*4.ローレンツにみられるグループ淘汰*5の誤解,ウィリアムズによる誤解の指摘,メイナード=スミスによる数理的解説,行動生態学の勃興,子殺しの個体淘汰的解釈,進化ゲーム理論による儀礼的闘争の説明,例外的にグループ淘汰が働く場合(そしてそれは血縁淘汰としても解釈できること)が解説されている.
 

第2部 生物としてのヒト

 
第2部ではヒトの進化,適応形質が扱われる.人類進化史,生活史戦略,家族(血縁淘汰),協力の進化,性の違い(性淘汰)が主に採り上げられている.
 

第5章 霊長類の進化

 
第5章では霊長類の特徴が概説されている.霊長類というグループの特徴.大きな脳と社会脳仮説,大型類人猿とその社会構造,チンパンジーの特徴(協力傾向,道具使用,コミュニケーション)などが解説されている.第2版では霊長類全体の進化史が大きく付け加えられて充実している.
 

第6章 人類の進化

 
第6章では人類進化史が概説されている.ここでは初期猿人,猿人,原人,旧人,新人という区分を用いて,犬歯の縮小(性的二型性),直立二足歩行,臼歯の発達と退化(食性の変化),大脳の発達の傾向を概説したのち,それぞれのグループが取り扱われている.第2版で付け加えられた知見として,現在直立二足歩行についてはラブジョイの「食料供給仮説」が有力視されているがこれはアルディピテクス・ラミダスの分析から生まれた仮説であること,最近発見が続くアジア地域での原人の多様性,旧人段階での火の利用と調理仮説,ネアンデルタール,デニソワとサピエンスの混血などのトピックが紹介されている.
 

第7章 ヒトの生活史戦略

 
第7章は第2版で付け加えられた章になり,ヒトの生活史戦略を扱う.生活史戦略とは何かがr戦略とK戦略を用いて説明され,そこから霊長類の生活史戦略の解説になる.霊長類は典型的なK戦略者であり,中でも類人猿はその極致ということになる.続いてヒトの生活史戦略が解説される.脳の大型化などに伴い様々な生活史パラメータが調整されている.ここでは妊娠期間(脳の大型化との関係で議論がある*6),離乳時期(ヒトの離乳時期は大型類人猿よりはるかに早い.共同子育てが大きく関係していると考えられる),長い子供期と思春期の存在,閉経の存在(ホークスのおばあさん仮説とカントの世代間競争仮説)などが解説されている.
 

第8章 血縁淘汰と家族

 
第8章は血縁淘汰を扱う.まず血縁淘汰理論の解説があり,ハミルトン則,血縁度,生物世界の例(社会性昆虫の不妊ワーカー,ジリスの警戒温,鳥類のヘルパー),血縁認識(表現型マッチング,物理的近縁性,ヒトにおける親族呼称)が説明される.
ここからヒトの血縁者間の協力がテーマとなり,具体例としてバイキングの連合形成,イヌイットの捕鯨船クルー,ヤノマミの争い,おばあさん仮説の解釈,アヴァンキュレート*7,チベットの一妻多夫制,半きょうだいと全きょうだいの親密度の違いが採り上げられている.
続いて血縁淘汰とコンフリクト状況がテーマとなり,殺人の研究,子殺しの状況(シンデレラ効果),親子間コンフリクト(親の投資理論の簡単な解説含む),母親と胎児のコンフリクトとゲノミックインプリンティング,親による選択的投資(トリヴァース=ウィラード効果),父系社会における女児差別,女児への偏向投資が解説されている.
 

第9章 血縁によらない協力行動の進化

 
第9章は直接互恵,間接互恵による協力の進化がテーマ.
直接互恵性のロジックの説明,動物に完璧な例は認められないというのが大勢だが,その側面を示す例(チスイコウモリ*8,雌雄同体の魚類の交尾行動)がまず紹介される.そこから具体的な直接互恵性の成立条件,特にフリーライダー排除の必要性と繰り返し囚人ジレンマ実験としっぺ返し戦略の有効性,裏切り者検知心理メカニズムの存在と4枚カード問題が詳しく解説される.
次に間接互恵性のロジック,ヒトの歴史においては農業革命以降知らない他人との相互作用が増えてよりこのロジックが重要になったであろうことが説明される.そこから公共財ゲーム,罰あり公共財ゲーム,最後通牒ゲームにおける知見とそれが間接互恵性(評判を重要視する心理)と進化環境と現代環境のミスマッチから説明できる部分があること*9が詳しく解説されている.
最後に「ヒトは元来協力的か」ということについて簡単なコメントがある.ヒトの進化環境においては直接互恵性に基づく社会関係が重要であり,ヒトの行動には「相手の協力には協力でお返しする」という社会的交換ヒューリスティックが埋め込まれているのではないかと示唆している.
 

第10章 雄と雌:性淘汰の理論

第10章は行動生態学の基本解説に戻り性淘汰がテーマ.生物の性,有性生殖と無性生殖,性差の存在をまず抑え,そこから性淘汰理論が解説される.ダーウィンの洞察,同性間競争強度の性差についてトリヴァースの親の投資理論からの説明と実効性比からの説明,同性間競争の態様(量と質)と精子競争,配偶者の選り好み,ハンディキャップ理論とランナウェイ,配偶者防衛とEPC,(霊長類に見られる)子殺しとメスによる対抗戦略(メス連合戦略と乱婚による父性の撹乱戦略),雌雄間コンフリクトが簡潔に解説されている.
 

第11章 ヒトにおける性淘汰

 
第11章はヒトにおいて性淘汰がどう働いているのかを扱う.
まずXY染色体による性決定の仕組みを説明し,LGBTQの説明(性決定メカニズムが複雑であることから,一定割合でシナリオ通りに進まない事態となる*10)がある.
ここからヒトの進化においてどのように性淘汰が働いてきたかが解説される.まず配偶システムが説明される.身体の性差から推測される配偶システム(性差はそれほど大きくないが,典型的な一夫一妻種よりは大きく,若干のオス間競争,精子競争があったことが推測される),歴史的民俗史的に見た配偶システム(20世紀前半まで法制度的には一夫多妻を認める社会が多いが,実際には極く少数の男性のみ一夫多妻を実現していた)が説明され,近縁の類人猿と比較した場合の大きな特徴は一夫一妻や(少数の)一夫多妻の家族が集まって共同繁殖する多層構造の社会を持っていたことだと指摘される.
次にどのようにペアボンドが形成されていくのかが解説される.ヒト社会では本人同士の恋愛・愛着だけでなく,家族(特に親)の承認,社会の承認が重要になる.そこから社会における配偶競争,配偶者選択(恋愛)事情が,伝統的父系社会(家父長制社会)の場合,狩猟採集民の場合,現代社会の場合についてフィールドリサーチの結果も交えて丁寧に説明される.
ここで進化心理学的な配偶者選択基準として有名な男性の女性のWHRについての好みが取り上げられて特に丁寧に解説がある*11
最後に家父長制が論じられている.伝統社会で見られる家父長制的慣習には配偶者防衛と考えられるもの(女子割礼,女性の行動制限)があること,家父長制の起源*12,出世地からの分散*13,男性の暴力,権力志向*14などが説明されている.
 

第3部 心と行動の進化

 
第3部ではヒトの行動の進化を解明するアプローチ,その際の文化要因の重要性がテーマとなる

第12章 ヒとの心の進化へのアプローチ

 
行動の進化へのアプローチとして他動物種との比較(近縁類人猿との比較,同じような生態を持つ動物群との比較*15),ヒトの個体発生からの考察*16とネオテニー説や自己家畜化説,人類学や考古学とのコラボレーション*17,文化間比較(進化心理学勃興時にはユニバーサルが強調されたが,現在では通文化性と文化間差異の両面から検討されることが増えている),進化理論に基づく仮説検証型研究(殺人率の性差,年齢別カーブの研究が解説されている*18)などが扱われている.
 

第13章 ヒトにおける文化の重要性

 
第13章は第2版で大幅に改訂され,ヒトの行動における文化の役割を強調する.
まず文化の定義,動物に文化はあるかを簡単に解説し,文化伝達の様式(目的模倣: emulation,動作模倣: motor mimicry,社会的促進,教育),スペルベルの表象感染説と個人の考えの変容の重要性,ニッチ構築*19とヒトの文化,遺伝子と文化の共進化*20,文化の累積的発展,進化環境と現代環境のギャップのトピックが扱われている.
 
 
以上が本書の概要になる.初版の当時から進化,行動生態学,ヒトの行動進化と進化心理という膨大なトピックを簡潔にまとめた素晴らしい教科書だったが,それが様々な知見を加えて改訂され,さらに充実した教科書にブラッシュアップされた*21.この分野の初学者にとっては前にもまして必読本ということになるだろう.
 
 
関連書籍
 
初版

 
その他の初学者向けの進化心理学本
 
個別の行動の至近因,究極因を整理した事典,通読しても面白い.私の書評は
https://shorebird.hatenablog.com/entry/2021/07/09/131933

 
中国の進化心理学学習者向けのガイド本.多くの著名進化心理学者のエッセイが集められている.私の書評は
https://shorebird.hatenablog.com/entry/2018/11/30/081619

 
本書初版と並び,2000年代に出された入門本

*1:初版は2000年4月,21刷りまで進んだそうだ

*2:本書はもともと東大駒場の教養科目のテキストとして書かれたものであり,進化全般についての概説がなされているということになる

*3:なお本章のコラムでなぜDNAのチミン(T)がRNAではウラシル(U)なのかが解説されている.化学的にはUを使う方がエネルギー効率がいいが,DNA上のシトシン(C)は時折ウラシルに化学変化してしまう(修復酵素によりすぐに修復される).このため暗号にUを使っているとCが変化したUなのか,もともとのUなのか区別できなくなり,DNAの役割である長期保存記録として望ましくないことになる.しかしRNAでは短期間なのでエネルギー効率優先の方が適応的ということらしい

*4:初版では章題は「「利己的遺伝子」と「種の保存」」とされていたが,第2版ではこうなっている.いつまでたっても消え去らないしぶとい誤解ヘの問題意識が窺える

*5:本書では群淘汰という用語が使われている

*6:かつてはヒトは生理的な早産とされていた.チンパンジーはメス体重が30キロで妊娠期間が34週なのに対し,ヒトは50キロで38週しかない,アロメトリー的には早産に見える.これは胎児脳の大型化と2足歩行のトレードオフの中での適応だと考えられてきた.しかし最近別の可能性も指摘されているそうだ.メス体重だけでなく新生児の体重と脳重まで考えるとアロメトリー的にはヒトの妊娠期間が長いと判断でき,また女性の骨盤をもう少し大きくしても歩行効率はたいして下がらないことも示されているそうだ.とはいえ出生後に脳が大きく成長する必要があるためにヒトの新生児がチンパンジーに比べて無力なのは確かだ.この新しい考え方によるとヒトの妊娠期間は子どもの脳の成長に必要なエネルギーを子宮内で与えるより体外授乳および共同子育てで与える方が効率的になる時点で出産が生じるということになるそうだ

*7:母方のおじが男の子に特別な投資をする例

*8:チスイコウモリの例は有名だが,血縁個体間の血縁淘汰的な説明も可能ではないか,「恩人」への選択的な応報についての明確なデータがないのではないか,という疑義があるそうだ

*9:罰あり公共財ゲームで見られる利他罰的な行動や最後通牒ゲームに見られる不公平分配への拒否は,実は将来相互作用する可能性のある相手への裏切りへの威嚇をおこなう(自己のタフさについての評判を守る)心理と完全な匿名性はない(あるいは二度と相互作用しない他人というのはほとんどいない)という進化環境での行動傾向の現代環境へのミスマッチで説明できる可能性がある

*10:これは自然に生じるプロセスであり,そのような個体も差別を受けずに自由に暮らしていく権利を持つと思っているとコメントがある

*11:1990年代にデヴェンドラ・シンは0.7程度のWHRの好みがユニバーサルに見られると報告した.しかし調査対象男性が西洋文化に偏っていたためユニバーサルではないのではないかという疑義が出され,ペルーやタンザニアの西洋文明とあまり接触のない集団ではそのような好みが見いだせないとういう報告も出された.片方で思春期になる女性のウエストがくびれてくるのは生物学的事実でもある.ここでは西洋文明でランナウェイが生じた可能性も含めてより調査が必要だとまとめられている

*12:父性の不確実性から来る配偶者防衛が究極因と考えられる.資源の防衛が可能になると男性間競争が激しくなることが予想されること(民俗史的には家畜の飼育とともに母系制から父系性社会に移行する傾向がある)から農業革命以降に階層化と家父長制が顕著になったと考えられることなどが解説されている

*13:ミトコンドリアとY染色体遺伝子からヒトにおいては父方居住と女性の分散が多かったことがわかっている

*14:男性間でより競争が激しいこと,男性が女性をコントロールできることにより父性を確実にできることが重要だと説明されている.より地位の高い男性が女性から選り好まれるためにそれを志向したという要因も効いている可能性については触れられていない

*15:狩猟行動,配偶システム,言語などが例に採られている

*16:ヘッケルの反復説,フロイトやピアジェによるヒト心理についての(現代においてはとても受け入れられない)反復説的な考察,それが心理学の中でなお総括されていないことなどが説明されている

*17:ミズンの認知考古学,ヘンリックの小規模伝統社会における最後通常ゲームのフィールド実験などが解説されている

*18:ここで著者の1人である長谷川眞理子の日本の殺人の研究についての解説がある

*19:本書ではニッチェ構築と表記されている

*20:有名な乳糖耐性と酪農文化の話を紹介し,これ以外には個別の文化との共進化の明確な事例はないととする.ここでは新奇性追求とDRD4遺伝子の関係(ただしのちのメタ分析では当初報告されたよりもずっと関係性が小さいことがわかった),セロトニントランスポーター遺伝子の日米差なども説明されている.

*21:私的には,性淘汰の理論的解説があまり改訂されていないところ(フィッシャー条件の吟味が解説されていない),進化心理学の重要概念である心の領域特殊性(モジュール性)の説明が削られているところ(なぜ省略したのかは定かではない.紙幅の都合ということだろうか)が少し残念だが,それは完璧を求めすぎるないものねだり的な感想の領域ということになろう

書評 「Birds and Us」

 
本書はティム・バークヘッドによる鳥類と人類のかかわりについての本になる.バークヘッドは鳥類の性淘汰をめぐる研究で有名な鳥類学者,行動生態学者で,様々な著書があるが,最近では鳥類の行動生態についての総説本,鳥類学の歴史についての総説本,鳥の卵についての本などを書いている.本書は鳥類学や学説史よりさらに一般的な鳥類と人類のかかわりを扱っていて,大家の風格を感じさせる一冊となっている.
 
冒頭の序言では,これまでの自と鳥とのかかわり(アーサー・ランガムの子ども向け小説*1に登場するハシグロアビの話に6歳の時に夢中になり,少しあとでスコットランドで実際にそのハシグロアビに出会うという経験から鳥類に魅せられるようになり,ついには鳥類学者としてのキャリアを歩むことになる)に触れ,本書では人類と鳥とのかかわりの歴史(資源としての利用から,バードウォッチングで楽しむようになるまで)を綴っていきたいと抱負を語っている.
 

第1章 新石器時代の鳥

 
第1章ではスペインにある新石器時代の洞窟壁画がテーマになる.有名なラスコーやアルタミラ洞窟の壁画は哺乳類が中心だが,エルタホ渓谷の洞窟壁画では鳥類がやや抽象的なシルエットの形で多数描かれている.バークヘッドはその発見の経緯,描かれた鳥(フラミンゴ,サギ,トキ,ノガン,猛禽,セイタカシギ,バンなど判別できるだけで16種以上208羽*2)を詳しく語っている.ここでバークヘッドは新石器時代人がなぜこれを描いたのかについて考察する.20世紀中ごろまでは,芸術のため,宗教的トーテミズム,などの説明に勢いがあったが,食料とされた鳥類種と描かれた鳥類種が一致していることから否定された.1980年代にはシャーマニズムの幻覚説が生まれ,現在ではシャーマニズムを含む宗教的な説明が主流になっている.バークヘッドは宗教的な意味合いもあるかもしれないとしながら,その鳥の姿のリアリズムに注目し,あるいは現代でいうフィールドガイド的な役割もあったのではないかとコメントしている.
 

第2章 カタコンベ:古代エジプトの鳥

 
第2章は農業革命以降の人類と鳥類の関係がテーマであり,特に古代エジプトでの事情が語られる.
古代の農業革命は宗教革命を伴い,エジプトでは様々な動物神が信仰された.またエジプトは(ジブラルタルと並ぶ)ヨーロッパとアフリカの渡りの中継点であり,多様な鳥類が集積し,捕鳥網やデコイが発明され,資源として利用された.墳墓の壁画にも様々な鳥は描かれており,その平面的で理想化されたイメージはどの種の鳥が描かれたのかが明確にわかるものになっている.
そしてエジプト文明の象徴的存在でもあるミイラにも多くの鳥が含まれている.これまで発見された鳥類のミイラは90種以上で,特にトキ(アフリカクロトキ)のミイラは大量に見つかっている*3.この鳥のミイラは死者のための食料,ペットであり,トキは知恵の神であるトト神のシンボルでもあった.考古学者は古代エジプト人は大量のミイラをコンスタントに作るためにトキを飼育していたと考えてきた(飼育場の遺跡も見つかっている).しかし最近のDNAのリサーチによると彼等は遺伝的ボトルネックを経ておらず,バークヘッドはおそらく野生の巣から卵をとってきていたのだろうと推測している.
 

第3章 鳥類記述の始まり:ギリシアとローマ

 
第3章は鳥類学の始まりがテーマ.そしてそれはアリストテレスから始まる.
アリストテレスは鳥好きで,繁殖に興味を持っていた.彼は様々な鳥の交尾頻度を観察し,鳥の脚の大きさと精巣能力にトレードオフがあると主張した(バークヘッドはこれは大間違いだったとコメントし,精子競争やペア外交尾にかかる現代の知見を解説している).アリストテレスはまた機能あるいは生活様式に着目して鳥の分類を行った.アリストテレス自身は自分が間違いうることを理解していたが,彼の観察に基づく記述は(仮説構築と検証を行う科学革命が始めるまで)1500年間も後代の学者に決定的な説明として受け継がれた(バークヘッドはリンネやキュビエもこの観察に基づく段階に止まっており,それを打ち破るにはダーウィンを必要としたと語っている).
アリストテレスやギリシアの哲学者たちは理性と言語は緊密な関係にあると考えた.アリストテレスは鳥の囀りも一種の言語と考え,一度は鳥も理性を持つとした(例えばアリストテレスは鳥は囀りを学習によって獲得すると論じている).しかし最終的にそれは模倣に過ぎないと考えるに至り鳥の理性を否定した.これはキリスト教的な動物とヒトを峻別する世界観に道を開き,鳥をリソースとしてのみ見る価値観につながった.
古代ローマを代表する博物学者は大プリニウスになる.彼は百科事典的な知識を書き残し,その知見はその後の1500年間ドミナントであり続けた(ワシ,カッコー,クジャク,ヨタカ,ウズラについての記述の詳細がバークヘッドにより講評されている).古代ローマ人はまた多様な鳥類を食材として楽しんだ.(アピシウスのレシピからフラミンゴの舌の料理が紹介されている)
本章は最後にアリストファネスの演劇「鳥」と現在の西洋のワシの紋章の起源(大プリニウスの記述にさかのぼれる)についての蘊蓄を述べて終わっている.
 

第4章 追求:狩猟と顕示的消費

 
第4章のテーマは中世ヨーロッパの鷹狩り.登場するのはバイヨータペストリーに登場するハロルド王,ポンテュー伯ギーとともに描かれる鷹,そして神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ2世の鷹狩りの書だ.
バークヘッドはまずバイヨータペストリーに描かれているタカについての最近の考察*4の蘊蓄を語っている.西洋の鷹狩りの起源は紀元前1300年ごろのアナトリアまで遡れるようだ.ギリシアの歴史には記述がないが,ローマのモザイクにはそれらしい絵が描かれている.ブリテン島においてはローマ人が去った後サクソン族が鷹狩りを持ち込んだ.鷹狩に使われるのはオオタカ,ハイタカなどのタカ類と,シロハヤブサ,コチョウゲンボウなどのハヤブサ類だ.鷹狩りは王を含む貴族層のステータスシンボル(タカの飼育調教にはコストがかかった)であり,鷹狩りをこなすにはタカとの絆と自然の知識が不可欠だった.
バークヘッドは15世紀描かれたペピジアンスケッチに登場する鳥の多くが猛禽類であること,黙示録に現れる鳥のイメージに触れたあと13世紀のフリードリッヒ2世の鷹狩りの書を採り上げる.フリードリッヒ自身鷹狩りを行う君主であり,鷹狩りの書にはイラストとともに鳥の解剖,生態,渡りについての記述が含まれている.バークヘッドは,フリードリッヒはキリスト教のドグマ,神秘主義,シンボリズムから脱却し鳥類を考察したのであり,鳥類学の祖とも呼べると評価している.
バークヘッドは最後に,中世は鳥の扱いが残酷だったことにも触れている.タカの調教は残酷な過程*5を含むもので,ツルやサギなどの獲物の扱いにも容赦がなかった.そしてそれらは17世紀以降ゆっくりとより残酷ではない方向に変わっていったのだ.
 

第5章 ルネサンス:鳥の解剖学

 
第5章はルネサンスとチューダー朝英国がテーマ.
冒頭はレオナルド・ダ・ヴィンチによるキツツキの長い舌の解剖学的探求の話が描かれる.この観察と探求への姿勢は中世のドグマ的時代からの解放の象徴なのだ.そこからバークヘッドは鳥類の科学的探求としてのルネサンスをとりあつかい,古代ギリシア哲学の再発見,ルネサンス的探究姿勢とキリスト教教義との緊張関係,アンドレアス・ベルサリウスの人体解剖学,ヴォルヒャー・コイターの(鳥類を含む)比較解剖学,ピエール・ベロン,アンドレ・テヴェ,コンラッド・ゲスナーたちのオオハシの頭部の解剖学的探究物語を語っている.
ここでチューダー朝英国に話は変わる.16世紀の英国では鳥は農業害獣として扱われていた.16世紀に成立した一連の害獣駆除法は片方で貴族の領地の狩猟動物を保護しながら,農地に飛来する鳥類の駆除を奨励した.バークヘッドはこれらは実際に鳥類の数を減らしただけでなく人々の心に駆除心理を深く植え付けたのだとコメントしている.またこの部分では領地の鳥類を詳しく記載した貴族の残した文書,鳥類が食料として,また薬として利用された記録などについても触れている.
 

第6章 科学の新しい世界:ウィグルビーとレイ

 
第6章のテーマは17世紀の鳥類学者フランシス・ウィグルビーとジョン・レイに始まる新しい鳥類学.冒頭はバークヘッドの若き日のサギの観察の思い出話から始まる.バークヘッドの観察フィールドはフォークス家の領地で,その館にはターナーの鳥類画コレクションがあることで有名だった.バークヘッドは鳥類学者として大成したのちにそこを訪れ,ターナーの絵を見ることになる.そしてウォルター・フォークスがこのコレクションを始めるきっかけになったのがウィグルビーとレイの鳥類本だった.
バークヘッドはウィグルビーとレイは科学革命の流れの1つを形成したと評価する.それまでの鳥類の記述は事実と神話と幻想が交じり合ったものだったが,彼等は観察された客観的事実を優先したのだ.そして彼等はハビタットと解剖を基本にした鳥類の分類に取り組み(これは100年後のリンネの鳥類分類の元になっている),1676年に「鳥類学」を出版した.そこでは英国の鳥のすべて,ヨーロッパの鳥の大半が記述され,さらにドードーの様な珍しい鳥も扱われている(バークヘッドはここでドードーがヨーロッパに知られた経緯などを詳しく語っている).新太陸の鳥はスペインの征服とともにヨーロッパに知られるようになった.バークヘッドはここで新大陸の鳥を科学的に記述し,アステカ文明における鳥の宗教的文化もあわせてヨーロッパに伝えたフランシスコ・ヘルナンデス,ウィリヘルム・パイズ,ジョージ・マクグレイブたちの業績を紹介している.この時代は大征服時代でもあり,ヨーロッパでは新大陸の鳥の美しい羽が帽子用に大量に輸入されて消費された(バークヘッドはこれを固有文化の陳腐なディズニー化だと嘆いている).
最後にバークヘッドは,ウィグルビーとレイは自然神学的考えから自由ではなかった*6が,小さなひねりを加えているとコメントしている.レイは「動物は人間に利用されるためにだけ神にデザインされているわけではない.人間はその知恵で利用を見いだしているのだ」とし,鳥の姿や囀りの美しさを賞賛している.バークヘッドはこの自然をそのまま賛美する態度はキリスト教的態度とは異なっているのだと評価している.
 

第7章 鳥への依存:非顕示的消費

 
第7章のテーマは近世における鳥の資源としての利用だ.特に採り上げられているのはスコットランドのファロー諸島島民の海鳥資源の利用になる.ファロー諸島の切り立った崖は海鳥の一大コロニーであり,4〜6世紀頃から定住した島民たちは海鳥を様々に利用する文化を作り上げた.ルーカス・ディーベは17世紀にファロー諸島の海鳥の自然史と島民の文化を記した本を書いた.バークヘッドをそこに描かれたオオウミガラス,ウミガラス,ツノメドリ,フルマカモメの生態やそれを利用する島民文化,そしてそれが20世紀にまで受け継がれ,しかし過剰捕獲により多くの鳥の個体数が減少している状況を詳しく紹介する.また同じように海鳥に依存したセントキルダ島の文化についてもここで取り扱っている.
 

第8章 鳥の自然神学の終焉:ダーウィンと鳥類学

 
第8章のテーマはダーウィン前後の英国の鳥類学.
レイの鳥類学はギルバート・ホワイト,レオナード・ジェインズ,ジョン・ウッドたちに受け継がれ,観察を主体にした様々な鳥類学が実践された(それぞれの取り組み姿勢や業績が簡単に紹介されている).彼等は多かれ少なかれ自然神学の影響下にあった.またヴィクトリア朝の英国ではカナリアなどの鳴鳥の飼育が流行する.貴族たちはキリスト教的ドミニオンから鳥をどう扱ってもいいのだという感覚と,ペットとしての愛着対象の感覚の両方を持っていたようだ.
このような状況の中でダーウィンの「種の起源」が発表される.自然淘汰は自然における神の役割をなくしたことになる.バークヘッドはこれが巻き起こした論争のうち鳥類に絡むものを語っていく.ダーウィンの支持者としてはハクスリーとフッカーが有名だが,鳥類学における支持者にはヘンリー・トリストラム,アルフレッド・ニュートン,鳥類愛好家のチャールズ・キングズレイ,フランシス・モリスがいる(キングズレイとモリスについては詳しく紹介されている).自然神学との論争の関係で重要な鳥にはカッコーがいる.カッコーのヒナが宿主の卵を巣外に押し出すことと神の慈愛がどう調和するのかがトピックになった.バークヘッドはこの現象が知られるようになった経緯から始めて詳しく解説している*7
またバークヘッドはここでダーウィンが絵画のラファエル前派の絵画に与えた影響(自然神学的なテーマを描くことをやめて唯美主義,象徴主義に移行),オーウェンの自然神学的好みはロンドン自然史博物館の建築様式に残ったことについても触れている.
 

第9章 危険な戒律違反:殺しの時代

 
第9章のテーマは近代における鳥の殺戮.19世紀の博物学者は熱心に鳥やその卵の標本を集めた.この伝統は16世紀からのもので,剥製は博物学の基礎資料として扱われた.バークヘッドは採集法,剥製製作法,ラベリングの進歩を詳しく解説し,意欲的にインドの鳥の標本を集めたアラン・ヒューム*8,英国のスパイ兼鳥類学者で博物館から卵標本を大量に盗んだリチャード・マイナーツハーゲン,巨額の資産を標本集めにつぎ込んだウォルター・ロスチャイルドの逸話を語っている.
彼等はどのようにこれらの大量殺戮を正当化したのだろうか.バークヘッドはその背景にはステータス誇示のための蒐集欲があり,キリスト教のドミニオン思想,そして科学革命以降の科学のあり方はその正当化に役立ったのだろうとコメントしている.とはいえ博物館に納められるような標本数(10百万体ほどだそうだ)はネコが捕獲する数(1日でそのぐらいだとコメントされている)に比べればたいしたことはない.問題はコレクターたちが特に珍しい標本を集めようとすることだ.バークヘッドはコレクターの蒐集欲が絶滅を加速した事例をいくつか紹介している.
今日の科学では標本蒐集は下火になった(これにはヨーロッパとアメリカで温度差があるそうだ*9.しかし過去集められた標本(鳥類標本は他の分類群に比べてより完全なのだそうだ)は科学に多いに貢献し,現在も新たな技術(DNA分析など)で新しい知見を得るのに貢献している.
バークヘッドは最後に卵蒐集(日本ではあまりポピュラーな蒐集対象ではないようだが,英国では非常に盛んだったそうだ)にもふれて,その怪しい魅力と蒐集家たちの狂騒ぶりについて語っている.
 

第10章 鳥を観る:光の顕現

 
第10章のテーマはバードウォチング.鳥類学の流れは標本集めから観察にうつる.バークヘッドはその移行を鳥類学者エドモンド・セルースのヨタカを観察していたときに得た啓示として描いている.この移行は双眼鏡の普及とともに世界に広がり,鳥類学は変容し,鳥類保護の流れを作り,そしてバードウォッチングはメジャーな趣味になった.バークヘッドは鳥類学の変容として,エリマキシギやカンムリカイツブリのオスのディスプレイとメスの選り好みなどの行動の研究,足輪標識に基づく渡りの研究を紹介し,ガイドブックの登場,バードセンサス,バードウォッチャーによる科学の市民参加,鳥類学のためのトラスト創設などの動きを解説している.またここでは幼い頃からバードウォッチングに親しんで鳥類学者へとなった自分のキャリアを振り返り,バードウォッチングの楽しさ,リスティングの醍醐味,デジカメやスマホそしてeBirdなどの技術進歩,アッテンボローが登場するような自然番組の興隆などについても語っている.
 

第11章 鳥類研究のブーム:行動,進化,生態

 
第11章のテーマは鳥類行動生態学の興隆.バークヘッドはこの章を数多くの鳥を卵から飼育したマグダレーナ・ハインロートの話から始めている.彼女はその飼育と行動観察により鳥類の行動にかかる本能的プログラムと孵化後の環境による影響をインプリンティング現象の発見とともに考察した.残念ながら彼女の研究は(ドイツ語で発表されたために)注目を集めなかった.そしてエソロジーと呼ばれる新しい学問の創設者とされたのはのちにノーベル賞を受賞したローレンツ,ティンバーゲン,フリッシュとなった.バークヘッドはローレンツはハインロートとユクスキュルの肩に乗っているのだと評価している.
しかしエソロジーは1970年代に急速に時代遅れとなった.行動の適応度を考察する行動生態学が勃興したのだ.バークヘッドはその先頭ランナーとしてのデイヴィッド・ラックの業績,ウィン=エドワーズとの論争,ジョージ・ウィリアムズ,ジェフ・パーカー,ロバート・トリヴァースの登場,ドーキンスの「利己的な遺伝子」,社会生物学論争という流れを描いていく.そして行動生態学の成功の原因は,予測と一般性のほかに鳥類があったのだと指摘する.鳥類は,多様で美しく行動観察が容易であり,行動生態学の完璧な対象動物だったのだ.バークヘッドはここからニック・デイビスのカッコーの托卵研究,ヘルパーとハミルトンの血縁選択的解釈,モノガミーとされていた鳥類のEPCの発見などの話を語っている.
 

第12章 オオウミガラスの亡霊:第3の大量絶滅

 
第12章のテーマは保護と絶滅.物語はヴィクトリア朝英国の鳥類学のドン,アルフレッド・ニュートンから始まる.彼は衒学的な知識を集める典型的なスノッブで特段の学問的な業績はなかったが,鳥類保護の動きに道を開いた先駆者だった.それまで英国では狩猟対象鳥の保護法制はあったが,海鳥や猛禽や小鳥は対象外だった.ニュートンはアイスランドでオオウミガラスを探索したが見つけられず,ヒトの乱獲による絶滅を知る.彼は以後鳥類の保護に情熱的に取り組むことになる.彼は大衆のセンチメンタリズムに訴えると同時に,当時のドミニオンを信じる人々にはそれを濫用すべきではないと主張した.これはターニングポイントになった.バークヘッドはここからニュートンに続く様々な先駆者たちを紹介し,動物愛護協会へのヴィクトリア女王の認可(1840),英国海鳥保護法(1869),鳥類保護協会*10の設立(1889)などの一般的な鳥類保護の流れを解説している.狩猟や科学目的の収集からの保護の流れはこれにやや遅れる.これは狩猟対象鳥の数のリサーチがなされ,その減少が明らかになって盛り上がることになる.これらの流れは合わさり,1961年にはWWFが創設される.
バークヘッドは保護の視点も念頭に置いてなされた50年にもわたる自分のウミガラスの長期リサーチの顛末を最後に説明している.それは個体数増減の要因分析から始まり,トピックは大洋汚染から温暖化に移り変わったのだ.
 

エピローグ

 
バークヘッドはエピローグで人類と鳥類のかかわりを振り返る.それは宗教的な意味付けから始まり,科学的探求と資源利用に大きくシフトした.そして最近また愛着と保護に向けて大きく動いているが,そこにはスピリチュアルな世界への復帰と共感の広がりがあるのだろうと感慨を語っている.
 
 
本書は大家による悠然とした歴史物語の風格を持つ鳥類本だ.新石器時代から始まり,様々な人類と鳥類のかかわりが大河が流れるがごとく語られている.話はあまり難解に流れず,一般向けにわかりやすく書かれている.東洋の話がほとんどないのが残念だが,鳥類好きで歴史好きの人にはとても楽しい一冊だ.
 
 
関連書籍
 
バークヘッドの本
 
鳥の卵についての本.エッグコレクターの話も出てくる.

 
同原書 私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20160824
 
鳥類学説史.ダーウィン以降を扱う.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20140418
 
その前著になるアリストテレスまでさかのぼる鳥類学の歴史. 
鳥の感覚を扱った本,私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20130409
 
同原書 
性淘汰と性的コンフリクトについての行動生態学の本. 
同邦訳. 
フリードリッヒ2世の鷹狩りの書には邦訳がある.

 

*1:「Great Northern?(邦題:シロクマ号と謎の鳥)」,これは私も大好きだった「ツバメ号とアマゾン号」シリーズの最終第12巻.子供たちがハシグロアビの卵をコレクターから守ろうと奮闘する物語だ.

*2:このような多様性の背景には,エルタホがジブラルタル海峡の近くにあり,鳥類のヨーロッパとアフリカの渡りの巨大集積地だった事情があると推測されている

*3:トゥーナ・エル・ガベルの地下カタコンベでは4百万羽の鳥のミイラが発見されその多くはトキのミイラなのだそうだ

*4:1980年代にウィリアム・ヤップにより解説されたもの.タカの種類にもめられた意味とそれが描かれている場面でのハロルドとギーの関係性が考察されている

*5:服従させるために睡眠を許さない期間があるのだそうだ

*6:のちのウィリアム・ペイリーはこの2人に影響を受けているという指摘があるそうだ

*7:反進化論の立場に立つグールドは宿主親が神の意向を受けカッコーを育てるために自らの卵を廃棄するのだと主張したそうだ.

*8:彼のたどった悲劇的な運命も書かれている

*9:ヨーロッパの鳥類学者たちはもう標本を集めようとはしないが,アメリカの一部の博物館にはまだ蒐集意欲があるそうだ.これはアメリカの博物館にはしばしば富裕層の支援があるからではないかとされている

*10:当時の重要な論点は婦人用帽子に用いられる羽根のための乱獲だった