Narrow Roads of Gene Land Vol. 1, 2, 3

このシリーズについて

Narrow Roads of Gene Land は全3巻ある.これは進化生物学者のWilliam Donald Hamiltonの自伝的エッセー付き論文集全2巻として企画された.第1巻は1996年に出版され,第2巻の原稿がほぼ完成していた2000年に,Hamiltonは急逝してしまう.関係者の努力により第2巻はほぼHamiltonの構想通りに2001年に出版された.それと同時に第2巻収録以降の論文,散文を集めて第3巻を出すことが企画され,ついに2005年に第3巻が出版されたものである.いずれも大部であり総ページ数は1900を超える.(測ってみると幅は9.5センチであった)

収録論文は第1巻が包括適応度をはじめとする遺伝子の視座からとらえた行動生態にかかる論文が中心.時期的には1964年から1980年.第2巻は有性生殖の維持,および性淘汰にかかる論文が中心で1981年から1991年にかけてのもの.第3巻は1990年以降の各種論文,散文が収められている.

私自身はHamiltonの急逝の知らせを受けて,改めて彼の業績を知りたくなり,本シリーズに手を出した.2001年に第1巻,2002年に第2巻をそれぞれ半年間かけて味わい,そして2006年に第3巻を万感の思いで手にしたわけである.もう20年以上進化生物学の面白そうな本はできるだけ読むようにし,ここ10年は原書にも手を出しているが,本シリーズはそのなかで最高の読書経験と断言できる.
何よりも一人の独創的でかつ巨人ともいえる学者の考え抜いてきたことを追体験できることの知的興奮は,言葉では言い尽くせないほど刺激的であった.


エッセー群について

Narrow Roadsという題は松尾芭蕉の「奥の細道」(Narrow Roads of Oku)に由来する.Hamiltonは日本文化にも造詣があり,論文集に付け加えるエッセーに自伝的な要素を加味することを企画し,自分を遺伝子の国を探索する俳人に,論文を俳句になぞらえているのだ.

そのような意図もあり,各論文の前にHamilton自身によるやや長めのエッセーが収録されている.なぜこれを研究したのかの説明とともに,そのころどこで何をしていたのか,何を考えていたのかがつづられていて大変興味深い.論文には盛り込めなかった思いがあふれているようなエッセーも多く,理解の鍵になるような記述も散見される.エッセーの背後にはHamiltonの人生が通奏的に流れており,この論文集の独特の香りを与えている.
第1巻のエッセーは学者として認められていく心の内面も多く語られていて,上質の自伝ともなっている.自分にとって自明なことが他人にとって自明でないことのギャップ,自分は何か人と異なっているのだろうか,そして自分の考えていることは本当に意味のあることなのか,と悩む若者と,その孤独の中で遺伝子の視点から考えて詰めて詰めて研究を進め,徐々に学問的に認められていく姿が浮かび上がる.プライスとの交流とその悲劇も描かれており,難解でエレガントな論文と,それに挟まれた孤高の人生模様との対比は不思議な読書感をもたらすだろう.
第2巻では性についての赤の女王仮説を真剣に考える中で,生物の種内に多くの遺伝的多型が存在するのは,今まさに自然淘汰が働き続けている証拠であり,それがパラサイト,つまり病原体への対抗であるとするなら,それをヒトという種に当てはめるとどうなるのかという考えが,やはり通奏的に流れている.突き詰めて考えたHamiltonの結論は「現代の医療がつづくなら,医療なしに生きられないような表現型を持つ遺伝子が速やかにヒトの遺伝子プールの中に蓄積し,ヒトは生物種としては病院なしには存続できなくなる.わずか数世代でヒトの平均的な健康は目に見えて低下するだろう.そしてもし将来文明が衰退するようなことが起きるとそれは大きな悲劇を生むことになるだろう.」というものであった.Hamiltonは帝王切開による出産にすら反対し,遺伝子検査によるスクリーニングと中絶を強く勧める.現代の「政治的に正当な」言説になれた人には思わず後ずさってしまいたくなるような記述も見られる.しかし本当に詰めて考え,正しいと信じたことをはっきりと提示するのがHamiltonなのである.ヒューマニズムだけで短期的に行動すると,将来に大きな悲劇が生じるというのは,見も蓋もないが,避けがたく冷たい現実なのだ.条件反射でこのような議論を避けるだけでなく,じっくりその背後にある真実を考えるとこのエッセー群はさらに味わい深いだろう.

死後編集された第3巻には,悲しいことに本人のエッセーは収録できなかった.共著論文については共著者がHamiltonの思い出を含んだエッセーを寄せており,周りから見たHamiltonの人柄が浮かび上がるエッセー群となっている.ナチュラリストとしてのオタク性,すべてを根本から考えようとするその独創性,リスク受容的で不器用な生き方,そして周りの人,特に若い研究者に対する限りないやさしさが感じられる.また第3巻にはエッセーの代わりにハミルトンの様々な散文も収録されている.受賞記念スピーチや本の序文などだが,これがまた結構独特で面白く,十分彼の息吹を感じることができる.




第1巻 包括適応度と社会行動編


巻頭論文は血縁選択を世に知らしめたことであまりにも有名な1964年のもの.しかし「血縁選択と包括適応度は要するにrb-c>0のHamilton則ですべてであり,自然選択と同じでわかってみれば単純な話だ」と信じてこの巻を読み始めると,ぶったまげることになる.全3巻でもっとも難解な論文がこれである.読もうとしてみた人にしかわからないと思われるが,とにかくいきなり記号の嵐であり,(タイプライターが不調で,白丸と黒丸の区別が判然としない草稿をメイナードスミスが途中で放り出してしまったというエピソードも頷ける)よほど心してかからないと遭難してしまう.Grafenによると「包括適応度は決してrb-c>0で言い尽くされるような単純なものではない.この論文は単純なことを難解に述べているのではなく,Hamiltonは実に深いところまで議論しているのだ.現代の理解で読めばこの論文は理解できる」という.しかし要するに深い議論であり,難解である.私も初めて取り組んだときには最後の1/4ほどよく理解できなかった.しかし決してここであきらめてこの論文集を投げ出してはならない.この山さえ越えればきわめて美しい数理生物学の世界が待っているのだ.


遺伝子の視座から見ると同種個体は自分と同じ遺伝子をある確率で保有している.そしてその中で互いの利害に影響を与える行動を起こす遺伝子はどのように遺伝子頻度を変えるのか.この観点からHamiltonはいろいろな現象に光を当てていく.その現象の解釈はそれまでの生物学者の了解事項から見て意表をつくものばかりであり,独創の極みである.利他的な行動,意地悪な行動,生活史戦略,繁殖戦略,分散,性比の決定が,それぞれどのような遺伝子の頻度がどのように変化するのかという観点から取り上げられる.また同じ遺伝子を持つ確率とは何かも掘り下げられる.当初血縁から始まったこの共有確率の最終的なHamiltonの認識は,行為者から受益者にむけた同じ遺伝子を持つ回帰係数が重要であり,血縁はそれを実現する一方法にすぎないというものだ.プライスの定理から得られた洞察を出発点に,共分散と進化速度の関係が生物の集団構造と包括適応度に合体していく.

そしてその多くは行動主体にとっての包括適応度最大化を解とする微分方程式の解法によっている.その数学的エレガントさにはぞくぞくしてしまう.


論文上は「定義により数式(a)が成り立ち,故に数式(b)が導かれ,結果数式(c)の命題が成り立つ」のように簡潔に記述されている.読み飛ばしてはならない.じっくり微分方程式を味わおう.行間に10行ぐらい展開して考えると,それは解ける.そしてこの努力を惜しまないものだけが,この導出の見事さに打たれ,遺伝子の国にHamiltonが残した洞察の深さ,そして自然淘汰という過程の真の姿を味わえるのだ.


もうひとつのこの論文集の魅力は,数理から得られた結論を自然で観察される実例に当てはめるときのそのナチュラリストぶり,オタクぶりである.興味深い自然の実例が次々に紹介され,読者は目を見張るしかない.それは1964年の論文のパートIIからすでに顕著である.血縁認識が進化するだろうという予想に関してだけでも,カモメ,アジサシ,ハチ,チョウのいろいろな行動が提示される.特に社会性のハチについては複数のトピックで実に深い知識が披露されていて飽きさせない.(また細かな記述の中で深い議論をしているのも特徴である.この1964年のパートII論文には,すでに有性生殖に対するクローン(無性生殖)の包括適応度上の有利さや社会構造と分散と血縁の問題が深く意識されているし,互恵的利他行動,親から見た投資と性比の決定に非常に近いところまで議論されてる箇所もあり,うならされてしまう)その頂点は1978年の論文で,林の朽ち木の中の節足動物の詳細が深く深く分析されている.そのオタク的な美しさはある種感動的である.




Narrow Roads of Gene Land: Evolution of Sex (Evolution of Sex, 2)

Narrow Roads of Gene Land: Evolution of Sex (Evolution of Sex, 2)

  • 作者:Hamilton, W. D.
  • 発売日: 2002/01/17
  • メディア: ペーパーバック

第2巻 性の進化編


この巻のトピックは性である.進化生物学最大の難問とされる「なぜ有性生殖はその2倍のコストにもかかわらず,自然界に普遍的に見られるのか」,そして「性淘汰において,なぜメスは派手なオスを好むのか,そのような選好はどうして進化できるのか」という問いにHamiltonは真正面から向かい合う.

有性生殖の本質は遺伝子の組み換えである.組み換えるとどのようないいことがあるのか.Hamiltonは環境の変化とヘテロの超優性の場合の分析から初めて,少しずついくつもの論文を重ね,この難問の山を登っていく.現在生物種内には多くの遺伝的変異,多型が認められる.これは生物が今も強い自然淘汰を受けている証拠ではないのか,だとするとその淘汰圧は何なのか.Hamiltonはパラサイトの存在に目を向ける.遺伝子をシャッフルすることによるメリットは対パラサイト戦略ではないのか.そしてどうすればパラサイト説を論証できるのか.Hamiltonは,ひとつまたひとつといろいろな論点を議論する.ポイントはヘテロの超優性ではなくパラサイトとの競争上生じる頻度依存淘汰である.パラサイト耐性遺伝子は遺伝率がある程度大きくなければならない.淘汰はソフトなものを考えるとうまく説明できる.ライバルである修復説についてはどう考えるべきなのか.

そして論証の問題を解決するには,ホストとパラサイトの生態の動態分析,ホストの集団遺伝動態分析,パラサイトの集団遺伝動態分析を統合しなければならない.この複雑な力学系はカオス的な振る舞いをする.そしてHamiltonが最終的にとった戦略はコンピュータシミュレーションによる論証であった.


有性の保持に取り組み,パラサイトのことを真剣に考えている中で,やはり当時の進化生物学の難問である性淘汰の問題が浮かび上がる.メスが何かを選んでいるのならそれはパラサイトに対する耐性ではないのか.オスの派手さは当時提唱されたもののまだ議論の真っ最中のハンディキャップシグナルではないのか.この問題についてのHamiltonの戦略は今度は種間比較である.より寄生者の多い種の鳥のオスはより派手なのか.今なお議論の多い論文であり,読み応えがある.さらに Hamiltonは有性の保持の問題と関連して,変異を保つ頻度依存によるサイクルが対パラサイト耐性遺伝子の遺伝率に与える影響とメスの選好遺伝子の関係についても考察を深める.さらにパラサイト,病原体が進化に与える影響を総括的にとりまとめた論文や,性淘汰について総括的にとりまとめた論文,そして巻末には1991年以降の性淘汰に関する理解の進展に関する補説も収められている.

また第1巻の議論を引き継いだ論文もあり,繰り返し囚人ジレンマに関するアクセルロッドとの共著論文や血縁認識についての論文も収められている.実際に読むと包括適応度,集団の構造と絡んだ深い議論がなされているのがわかるだろう.


この巻の本筋は二つの性の難問の山を一歩一歩手探りで登っていくHamiltonの知的格闘である.そしてこの手探りの中,少しずつ問題の本質が浮かび上がる様を読者は追体験することができる.そこが本巻の圧倒的な醍醐味である.シミュレーションの論文は微分方程式の解法によるものとまた味わいが異なり,エレガントさはやや後退するが,逆に真実の複雑さを実感することができる.870ページとシリーズ中でも特に大著であるが,読み終えた読者は十分な満足を味わえるだろう.




第3巻 最後の言葉編


Hamiltonの死後企画された本巻には1991年以降の論文に加えいろいろな散文が収められている.

コンピューターモデルによる遺伝的アルゴリズム,ホストの性比を歪曲させる細胞質への寄生体,性が異型接合的である理由,無性生物の存在について,パラサイト側の多型の進化,オスとメスとでホストが異なっているネジリバエ,病原体の毒性の進化,海の藻類による分散のための雲を発生させる形質の進化,秋の紅葉の耐アリマキ戦略としての説明などの論文が並んでいる.きわめて面白い内容のものが多く,宝石箱のようで読んでいて楽しい.バクテリアによる雲の発生と紅葉の進化的説明はいかにも発想がHamilton的であり,深い印象を残さずにはいられない.
散文も不思議な雰囲気を醸し出すものやとびきりのユーモアが込められているもの,そしてエイズの原因についてのポリオワクチン説に関するものまであり,飽きさせない.

中で面白かったのは近親交配についての本のエピローグとして書かれた文章である.その意表をつく総説のあり方や,数々の昆虫のオタク的な行動生態の詳細もいかにもHamilton的であり,読んでいてわくわくさせられた.
ただこの巻を読んでどうしても抱かずにはいられない感想は,失われた巨大な知性に関しての哀悼の情感であることは間違いない.
最後にHamilton Archiveの説明とGrafenによるHamiltonの業績総説が収められている.今後Darwinと同じようにHamilton学が勃興していくのかと思うと少し心がなぐさめられる思いである.




Foundations of Social Evolution (Monographs in Behavior & Ecology)

Foundations of Social Evolution (Monographs in Behavior & Ecology)

further reading

最後に本Narrow Roadsシリーズ,特に第1巻の包括適応度編の理論的な詳細に興味を覚えた方には,Frankによるこのさらなる発展と統合の本を推薦しておきたい.プライスの等式から始まり,複数主体間にかかる影響について遺伝子型値から見たパスを個別に定式化して全微分方式でといていく考え方,そしてそれに繁殖価が絡む場合の線形代数的な処理の方法,限界価値と共分散と回帰係数についての解説,そしてその応用が詳しく説明されている.本シリーズと同じく微分方程式を駆使したエレガントな解法は本当に美しいし魅力的である