「言語が違えば,世界も違って見えるわけ」


本書は言語学者ガイ・ドイッチャーによる「言語がヒトの思考に影響を与えているか」という問題,いわゆるサピア=ウォーフ仮説の弱いバージョンについての本である.原題は「Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages」
この問題は,私の理解では,以下のような状況だ.最初「言語こそが思考を構成する」というサピア=ウォーフ仮説の強いバージョンが主張され,一部の哲学者や文化相対主義者たちが飛びついたのだが,数々の証拠から否定された.次に「言語は思考に影響を与えている」という弱いバージョンが主張されるようになった.そしてこれについて様々なリサーチが行われ,論争が繰り広げられ,少なくとも何らかの影響があることはほぼ明らかになった.そしてそれが「重大なもの」かそれとも「とるに足らないもの」*1かが最後のバトルフィールドになっている.本書は前者の立場に立ってそれを一般向けに説明したいという趣旨で書かれている.


まずドイッチャーはプロローグで舞台を整理する.19世紀まで,まるでよくあるディナーパーティの会話のように様々な学者が「言語とその話し手の特徴の関連性を考察する」論考を行ったが,基本的には一貫性も証拠もない思いつきの羅列にすぎなかった.そしてチョムスキーによる言語の普遍文法の発見と,ウォーフによる(サピア=ウォーフ仮説の強いバージョンとして)「北米ネイティブアメリカンはその言語ゆえ我々と全く異なるやり方で現実をみている」という主張が根も葉もないことが明らかになったことにより,主流の考え方は「言語の違いがその話者の思考や知覚に影響することはない」というものになった.
すると言語は文法がユニバーサルで,語彙の切り分けは自然の構造(イヌとネコなど生物種の分類が典型的)に従い,そのラベル付けだけが文化的慣習ということになる.しかし語彙がどう切り分けられるかはそんなに簡単ではないし(様々な抽象名詞,代名詞,身体の部位など),それが思考に影響を与えないと断言はできないはずだ.
そして読者は色の名前と知覚と思考に関する世界に招待される.


第1部は色の名前について
ここでは壮大な学説史が描かれる.話はヴィクトリア時代のイギリスの大政治家グラッドストンの(いわば余技としての)ホメロスにかかる考察から始まる.彼はホメロスの詩における色彩表現がおかしいことに気づき*2,それを詳細に調べた後,大著「ホメロス及びホメロスの時代研究」の中で古代ギリシア人は現代人ほどの色覚を持たなかったのではないかと主張した.同時代の学者は皆これを一字一句にこだわりすぎた妄想だと一笑に付した.
しかしこれに啓発されたガイガーは,語源学的分析を深く行い,言語の歴史的変化の中で,色の名前は特定順序(白・黒→赤→黄→緑→青)で増えてくることを見いだした.そしてちょうどそのころ,色弱や色盲という現象が見つかり,ダーウィンによる進化学説の影響もあり,人類は数千年のうちに白黒の世界から,総天然色の豊かな色覚を獲得したのだろうというマグナスの説が提唱される.しかしこれは19世紀末ヴァイスマンによる実験などで獲得形質は遺伝しないことが明らかになり捨てられる.
このころから世界中の言語のリサーチが進み,言語により色数や色名の境界は異なるが,だからといってその話者が言語にない色の違いを見分けられないわけではないことが明らかになる.においや味にすべて名前が付いていなくても知覚し意志疎通できるように色名はなくてもそれを認識できないわけではないのだ.学者たちは(ガイガーの知見について健忘症に陥って)「知覚はユニバーサルで,連続スペクトルの色をどう切り分けるかは完全に恣意的で文化により決まるのだ」と結論する.これは20世紀前半の文化相対主義の主張にもマッチした.
そして1969年振り子はまた振れる.バーリンとケイは色の境界が完全に恣意的でなく,特にある色名の典型的な色調は多くの言語で非常に狭い範囲に落ちること,そして言語の色獲得順序はきわめてロバストなパターンを示すことを(再)発見した.通説は今度は「色彩語はきわめて普遍的だ」ということになった.
しかしこれもやはり振れすぎだった.その後のリサーチでは,言語の色獲得パターンにはゆれがあること,色名は普遍的というより,かなり強い制約の中で恣意的に決まる部分もあることがわかってきた.
ドイッチャーはこうまとめている.

  • 結局グラッドストンはただ一つの点をのぞいて正しかったのだ.数千年をかけて獲得したのは知覚ではなく語彙だった.古代ギリシア人は色数の限られた言語を持っていた,そして西欧言語は徐々に新しい色名を獲得してきたのだ.
  • 言語にはヒトの本性や自然の現実による制約が確かにある.しかしその制約は常に完全ではない.いったん隙間があればそこには文化的な恣意性が生まれてもおかしくないのだ.

この学説史の部分は読んでいて大変に面白い.ドイッチャーにとっては導入にすぎないのだろうが,役者も大物ぞろいで振り子の振れ具合も過激だ.「空が青い」というのは実は知覚しにくいなどの詳細部分もなかなか楽しい.この分野の学者が色の話になるとぐっと力が入る背景もよくわかる.


第1部では最後に言語的な複雑さと文明の発達程度の関係を扱っている.これは「言語の複雑さはすべての言語で同等である」といういかにも文化相対主義者が喜びそうな言説が,何ら根拠なくドグマのように出回っていることに関するものだ.
では言語的な複雑さと文明の発達程度は相関するだろうか?確かに語彙の多さは文化の複雑さと相関する.しかし語形の複雑さ(あるいは一単語あたりの情報量)は逆のようなのだ.ドイッチャーは,単純な社会の方が親しい人と話す頻度の方が高いこと,成人の他言語学習が少ないこと,文字を持たないので単語における新たな融合が起こりにくいことなどによるのだろうと推測している.それとは逆に従属節の使用は文化が複雑な方が増えるようだ.ドイッチャーは複雑な社会では複雑なやりとりを伝えなければならないことが増えるのでこうなっている可能性があると指摘するに止めている.どちらも面白いところだ.


第2部は本書の主題「言語は思考に影響を与えるか」について
最初にウォーフによる言語相対論(いわゆる強いバージョンのサピア=ウォーフ仮説)の興隆とその凋落が語られる.本格的な西欧言語以外の言語研究はフンボルトに始まる.それはボアズ*3に受け継がれ,サピアと弟子のウォーフは北米のネイティブアメリカンの諸言語を研究する.ウォーフは「言語はその話者の思考そのものを形作るものである*4」と主張した.そしてたとえばホピ語には時間に言及する手段がなく,彼らは時間の概念を持たないと言い切った.
これはいかにも文化相対主義者の喜びそうな主張であり,ウォーフは一躍時代の寵児になった,しかし40年後,1983年にマロトキがホピ語に時間の概念があることを暴露し,この仮説は地に墜ちた*5
それでもしぶとく残った強い仮説的主張は「言語の時制の制限が話者の時間の理解を制限する」という部分だそうだが,これも時制に制限があっても話者の時間の理解に何の問題もないことは明らかだとドイッチャーは具体例を挙げて説明している.このあたりは未来形のない日本語の話者読者としては非常に説得的だ.
ドイッチャーは確かにウォーフの過ちはひどいが,しかしそれは「言語が話者の知覚や思考に全く影響を与えない」ということを意味するわけではない(つまり弱い仮説についてはなお未解決だ)とし,ここで教訓をまとめている.

  • 言語が話者の知覚や思考に影響をあたえるというなら,ウォーフのように空想に浸るのではなく,証拠が必要だ.
  • 言語が話者の思考を制限するという考えはおそらく間違っている.問題は言語が何らかの思考を強制するのではないかという事だ.(「言語間の決定的な違いは話者にどんな表現を強制するかの違いだ」という命題はボアズ=ヤーコブソンの原理とされる)


そしてドイッチャーはこの「話者に何の表現を強制するかの違い」が生む言語の思考への影響の具体例に進む.
最初は空間的認識と使用する座標系が言語の影響を受けるという話だ.カンガルーの語源*6を提供したグーグ・イミディル語はものの配置を東西南北を使って表す.そのために話者は自分が常にどの方角を向いているかを意識しながらしゃべることを強いられ,配置を考えるときにその座標系をより使うようになるというものだ.証拠としては南北を逆転した部屋を使った実験(被験者に対し特定物を別の部屋の配置と矛盾なく置いてほしいと指示し,左右を重視するか南北を重視するかをみる)が紹介されている.
この実験の評価については論争があったようで,詳しく議論が紹介されている.ドイッチャーは,これは同じ現実を異なって認知しているとしか評価できないし,話者は常にある座標系を認識することを強いられるし,ピンカーは「環境がそういう座標系を選ばせる」というが,環境の与える制約の中で言語の恣意性はあるのだと主張している.



2番目の例はジェンダーだ.名詞の男性型,女性型を持つ言語*7の話者は認知にその影響を見せる.証拠としては,様々なものに固有名詞をつけて覚えてもらうというタスクで,名前の性別と名詞のジェンダーが一致している方が成績がよいなどの実験が紹介されている*8


そして3番目の例はまた色に戻る.
日本の青信号のトリビア*9に触れた後,話者の言語の色の境界が色の認知に影響を与えることが説明される.ここではある色と別の色が同じであるかどうかを判断する時間に影響すること,それが右眼か左眼かで異なる(左脳に言語野があるので右で見た方が言語影響を受ける)こと,MRI画像においても差があることなどのリサーチが紹介されている.


ドイッチャーは最後にまとめとして以下のように主張する.

  • 母語が私たちの知的地平を限界づけ,他言語の概念や区別を理解する能力に制約を課すという説については何の根拠も発見されていない.
  • 母語は論理的推論能力に影響を与えはしないが,話者に頻繁に何かの表現を強いるという言語的習慣は記憶,直感,連想などの感覚的な部分に影響を与えている.これについては上記3例の証拠がある.
  • そして日常の思考の大半は,論理的推論というよりも,記憶,直感,連想が効いてくる感情,衝動,実用的スキルなどの領域においてなされており,母語が与える思考への影響は「重要」だと評価できる.


ドイッチャーのあげる根拠はソリッドで,確かに言語的慣習は思考に何らかの影響を与えていることは納得できる.でもそれは「重要」と主張できるほどのものだろうかという感想はやはり残る.
ドイッチャーは東西南北の座標系を用いる習慣,能力をさも不思議なことのように強調している.しかし多くの人は絶対座標系と相対座標系の両方を使い分けているのではないだろうか.ちなみに私は市街が東西南北の通りで区切られた地方都市で育ったためか,日常生活で屋内にいても常にどちらが北かを把握しているのが普通だ*10.その二つの座標系をスイッチする閾値*11が少しずれるということがそんなに「重要」なのだろうか?またジェンダーや色名という言語習慣が,ある認知タスクをするときに,よく使う回路の助けを借りられたり干渉したりするために反応がミリセコンドずれるという影響を与えるということがそんなに「重要」なのだろうか?
確かに無意識的に生じる連想が,最終的な判断に影響を与えることはあるだろう.しかしどのような習慣でもある程度の反復的な習慣はそれに特化した脳回路を形成して,無意識的に処理できる領域が増える.するとそれは別の隣接領域の認知タスクを補助したり干渉したりして処理時間に影響を与えるだろう.だから本書を読む限り,ここで主張されている母語影響はごくふつうの習慣の与える影響(たとえばよくゴルフをする人と野球をする人の違い,ミステリーをよく読む人と恋愛小説をよく読む人の違い,ガラケーを使う人とスマホを使う人の違い,そして碁盤目状の市街地区で育ったかそうでないかの違い)と何か質的,量的に異なるとは思えない.だから私にはドイッチャーは「あらゆる習慣は思考に重大な影響を与え,それは言語についても当てはまる」と言っているだけのように思われるし,それは結局ピンカーのいう「とるに足らない影響」と単に主観的な表現の差にすぎないように思われる.


結局「重要かどうか」は定義がない以上,あまり意味のある議論にはならないということだが,それでも生涯をかけて研究していることを「とるに足らない」といわれた言語学者たちの怒りはわからないわけではない.それをふまえるとドイッチャーの本書の主張はきちんと歴史をたどり,ウォーフの勇み足を総括した上で,事実を元にきちんと説明しており,その姿勢は抑制的でフェアで好感が持てる.そして事実ベースで母語が話者の思考にどのような影響を与えるかについてよくわかるし,この部分はコンセンサスと言ってもいいのだろう.一般向けの書物として特に色彩語の学説史は読み物としても大変面白いし,ところどころに挟んだトリビアも楽しい.サピア=ウォーフ仮説に興味のある人にはピンカーの「思考する言語」と併せて必読書物ということになるだろう.



関連書籍


原書


本書とほぼ同趣旨の本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20101225


敵役ピンカーによる「影響はあってもとるに足らない」旨の主張のある本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20080925


同邦訳(上中下の3巻になる)


かなり強いサピア=ウォーフ的主張を行っている「ピダハン」.ピンカーから徹底的な批判がなされたことが知られている.本書では完全にスルーされている.


 

*1:こう言い放って仮説肯定派の言語学者たちの怒りを一身に買っているのは,もちろんスティーヴン・ピンカーだ.本書でも仮想敵として引用されている

*2:ワイン色として海と牛を,スミレ色として海と羊を表現し,クローロスという単語で植物の葉と木製の棍棒の色を示していたりする.全般的に色の描写,色の語彙が少ないなど

*3:本書ではボアズの紹介になかなかユニークなポーズの写真が使われている.グーグルで画像検索すると結構上位にくるのでこれは有名な写真らしい.

*4:本書では,ウォーフは「母語は,話者の知覚と思考のみならず宇宙の物理的特性にまで影響する力を持つ」と主張したと書かれている.言語が宇宙の物理的特性に影響を与えるとはどういう意味だろう?

*5:この話はフリーマンによるマーガレット・ミードの「サモアの青春」のウソの暴露とよく似ている.結局リベラルな価値観を持つインテリたちの心の底にある文化相対主義的主張は無批判に受け入れられがちになるということなのだろう.なお私は読んでいないが「ピダハン」も「いかにも文化相対主義者の喜びそうな話」という出発点は似ているように感じられる.本書の原書刊行は2010年では「ピダハン」の原書の出版2009年より後だが,ドイッチャーはいっさい「ピダハン」には触れていない.そういうことなのだろう

*6:本書では「カンガルー」という言葉を巡る物語を前振りに使っている.私は「知らない」という単語が「カンガルー」になったという俗説しか知らなかったが,本書によるとある特定の種類のカンガルーのグーグ・イミディル語の名前であるらしい.

*7:ドイッチャーはなぜ様々な西欧言語が様々なやり方で統一感なく名詞を男性と女性(と言語によってはさらに中性)に分けるようになったかの経緯を詳しく解説してくれている.ここもなかなか面白い.

*8:この部分の最後にジェンダーを持つ言語(ヘブライ語)を母語に持つドイッチャーは「私の心は恣意的で非論理的な連想という重荷を背負っているかもしれないが,そのおかげで私の心はあなた(英語話者)には想像もつかないほど豊かなのだ」とコメントしている.よほど英語話者である同僚言語学者からジェンダーを持つことの不合理さを日常的に攻撃されているのだろう

*9:そもそも古代日本語では「青」は緑を含んだ色名だった.(ちょうど古代ギリシアと同じように古代大和言葉には黒い,白い,赤い,青いの4色しかないようだ)信号機が導入された1930年代には基本的に青と緑は分離していたが一部で青と緑をあわせて青という用法も残っており,緑色の信号はいくつかの理由と経緯の末「青信号」と呼ばれるようになった.1973年に国際基準に従って青信号の標準色調を決める際に,日本政府は現実を言語世界に寄せることを選び,許される範囲内でもっとも青みを帯びた緑色が選ばれた,だから日本の青信号は世界でもっとも青い.

*10:大阪や京都や札幌の市街区では常に把握できるし,東京でも丸の内とか神保町とかの碁盤目状の区画にとどまる間は大丈夫だ.区画を通り抜け斜めの通りやカーブした通りを延々と行くと自分の方角感覚と実際の方角が食い違ってきて混乱することになる.初めて上京したときには東京の人が地図を描くときに北を上に描かず,描いている人にどちらが北かを聞いてもわからないので仰天したものだ.神戸の人たちが常に海側と山側を意識しているのも同じだろう.

*11:私の感覚では話し相手と共通の視界の中にあるものについては相対座標を使い,ないものについては距離に依存してスイッチする.大体数十メートル以上の間隔があれば東西南北の方がしっくりくる.このあたりは個人差があるところだろう.