「凹凸形の殻に隠された謎」


本書は東海大学出版会のフィールドの生物学シリーズの一冊.このシリーズは生態学者などの生物学者による執筆が多いが,本書は古生物学者の手によるもの.登場するのは古生代の腕足動物だ.


物語は宮城県気仙沼の上八瀬地域から始まる.著者はあまり深い興味知識なしに,しかし少年時代に幕張メッセで大恐竜博を見たことがきっかけで強固な「将来は化石研究者になるのだ」という思い込みを持ち,古生物学を学べる大学に進学する.そこでの卒業研究のテーマが上八瀬地域の地質調査なのだ.ここは地質や化石の簡単な解説を交えながら,当時の悪戦苦闘振りが語られる.なかなか複雑な地殻変動を経ている古生代の地層のため一筋縄ではいかないのだが,露頭を探すローラー作戦,エンジンカッターまで使った岩石採取,標本の運搬,研磨,教科書との比較,考察などを経てようやく地層の全貌が浮かび上がる.そこは大陸棚のやや深い地域で高所から乱泥流が時折発生して降り積もり,さらに一時期の地殻変動に起因する石灰質泥岩の堆積もあるというものだった.なお卒業研究として始めたこのリサーチの成果全体を論文として発表できるところまで漕ぎつけたのは卒業後はるかに後の博士号取得後のことだったそうだ.


こののち著者は修士課程に進み,いよいよ化石の研究を行うことになる.古生代といえば三葉虫の化石が有名だが,上八瀬地域のような日本の古生代地層からはあまりいい三葉虫化石は出ないそうだ.著者は比較的よく採れる腕足動物に目をつける.
ここで腕足動物の解説がある.腕足動物は門を構成し,二枚貝に見た目はちょっと似ているが全然異なる動物グループだ.2枚の殻は二枚貝のように身体の左右にあるのではなく,腹と背にある.だからそれぞれの殻はきれいに左右対称で,背側の殻と腹側の殻は形が異なるのだ(本書の題名の「凹凸型の殻」というのはこの背側と腹側の殻が異なり,一部の腕足動物で腹側が出っ張り,背側がへこんでいることを表している).殻の開閉は2種の異なる筋肉によってなされる.そして基本的に海水を濾しとってプランクトンを食べる生活を送っている.著者はさらに現生種の生態や飼育経験,古生代の各種の腕足動物の消長を解説する.さらに保存状態のよい古生代地層があるスウェーデンへの調査ツアーの経験も臨場感たっぷりに語られる.このあたりの描写は著者の腕足動物への熱い思い,ツアーの興奮が伝わってきて大変楽しい.


とはいえ国内ではスウェーデンのような化石は産出しない.著者は一旦博士課程への進学をあきらめ,趣味の延長で上八瀬地域で腕足動物の化石採集を行う.そしてそこで硬く締まった砂岩の中で石灰質の腕足動物の殻が溶脱し,殻の外側だけでなく内側まで鋳型になった化石を入手する.このうち殻が凹凸型になったプロダクテス類の殻の内側を見て,教科書と対比しながら殻の開閉筋の付着部を観察し,何の気なしに指導教官の鈴木先生に解説していると,鈴木先生はそれが筋肉の付着部位ではあり得ないことに気づく.そこから著者の研究テーマが一気に浮上する.著者は鋳型化石からシリコンで型どりしてその細部を観察し,教科書で付着部位とされている部分は力学的にそうではあり得ないことを見つける.そして力学的にありそうな筋肉付着形態はこの腕足動物が代謝の低い受動的な濾過生活者であるとするならうまく説明できることに気づき,そのような受動的な水流がこの殻の形から導き出せることを水流模型を使って説明するのだ.物理が苦手な著者が四苦八苦してこれを成し遂げるところはなかなか読ませる物語になっている.これは通説を覆す見事な結果だった.著者はこのテーマをさらに進めるべく一転して博士課程に進むことにする.


次のテーマは殻の中央が縦にへこんでいるスピリファー類だ.このスピリファー類の濾過水流がどうなっているかについては学会では論争中だった.著者は最初はプロダクテス類と同じような水流だろうと考えて,化石から精密な模型を使って水流のシミュレーションを行ってみるがどうもはっきりしない.悩んでいると材料力学の先生から「解析しちゃえば」と軽くいわれる.「先生,物理を履修したことがありません」と答える著者に物理学者は一言.「椎野君,学問とは気合いだよ」
著者は,結局数値流体解析の世界に飛び込み,大変な苦労と試行錯誤のすえについにスピリファー類の濾過水流を解き明かす.それはプロダクテス類とは逆方向で,やはり殻のへこみが機能的に効いているのだ.この数値解析には思い入れがあるのだろう,かなり詳しくその結果が解説されている.


その後は国際学会,論文受理の内幕*1,さらなる国外採集ツアーなどのエピソードが紹介される.また最近のリサーチテーマも紹介されている.テーマは濾過水流の複雑さの進化というものでなかなか渋い.そして著者は最後に研究の意義などについての力の入った思い入れを書き込んで本書を終えている.


このフィールドの生物学シリーズは若手リサーチャーの面白い研究物語を次々に出しているが,本書も他の本に引けをとらない出来だ.1つのテーマを粘り強く追求し,そしてふとしたきっかけで新しい世界に飛び込む.そして興味深い真実が著者の前に姿を現す,その面白さと興奮がよく書けている.本書はところどころ解説がとてつもなく深くなっていてそれも著者の思い入れのなせる技なのだろう.読んでいてどんどん引き込まれる本だ.



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フィールドの生物学シリーズ.若手研究者の手による自らの研究物語を熱く語った本が多い.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20121204http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20121023http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20120226


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*1:プロダクテス類の論文受理に絡んでは,査読者の「自分の師匠と異なる見解だから受理できない」というコメントもあったそうだ.これは学会でその大物に直接コンタクトして解決したそうだ.