「Did Darwin Write The Origin Backwards?」 第1章  「ダーウィンは『種の起源』を逆向きに書いたのか?」 その3 

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)

Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)



ソーバーはここまでにダーウィンの議論の主題は共通起源性だったのであり,自然淘汰はその原因であるとしてまず議論したのだと解説した.しかし「種の起源」は自然淘汰の記述が圧倒的に多い.その中では共通起源性はどう扱われているのかが本章の次のテーマになる.


<共通起源性を自然淘汰を考えるときに使う>

ソーバーはまず眼の進化の議論を取り上げる.

ダーウィンは眼のような複雑なものが小さな変化の積み重ねで進化することについてかなり丁寧に説明している.ダーウィンはそれを説明するために祖先型の推定を行い,少しずつ複雑な眼が完成していった様子を再現するという議論を行っている.ソーバーによると,ダーウィンは祖先形質の推定について共通起源性を前提にした最節約法的な手法を用いているということになる.ここでソーバーはカメラ眼,カップ眼,眼が無い状態の3つの状態がある系統樹を使って最節約法を説明している.この部分はなかなか哲学的に詳しい.最初のドイツのへニックの弟子たちはこの手法はカール・ポパーのいう仮説と反証による説明力により正当化できると主張した.しかしのちに英語圏にへニックの考えが伝わり,フィッシャーの弟子のアンソニー・エドワーズとルイジ・カバリ=スフォルツァはこれは系統推定のための(そのような推定が正しいことが多いという意味での)ヒューリスティックだと規定した.この系統学的推定法の本質は現在も論争中であり,それについては第6章で扱うとされている.これはアブダクションの議論ということだろう.

ダーウィンはこの最節約的祖先推定を用いて別の問題も扱っている.それは「頭蓋骨の縫合腺が哺乳類の出産のための適応かどうか」という問題だ.ダーウィンは,縫合線は爬虫類や鳥類にもみられるので,哺乳類の出産のための適応として最初に現れたとは考えにくいという議論を行っている.
また「よじのぼり植物のフックがタケにもみられることから起源時においてはよじのぼりのための適応形質ではなかっただろう」という議論を行っている.さらに「陸上脊椎動物の肺が魚類の浮き袋由来である*1」という議論でも同じような推論を行っている.
ここではダーウィンは以下の前提を元に議論を行っているとみるべきであり,基本的に最節約法的だったというのがソーバーの評価だ.

  • 「形質Tはその生物の祖先がXを行うために進化した」という仮説が成立するためには,「形質Tが進化しつつあるまさにそのときに祖先生物はXを行っていた」という事実が必要だ.一旦進化した後にXのために使っているだけでは不十分だ.
  • そしてそれを主張するためには,その時点以降のすべての子孫生物が同じ形質を持っているかどうかが重要だ.そしてそれは共通起源性から導かれる.

ソーバーはこの第2点は二次的喪失があれば成り立たないこともあると注釈している.そしてダーウィンがフックや肺の議論を行っているときにはこの二次的喪失のない状況を頭に描いていたのだろうとコメントしている.


系統樹思考>

ソーバーはダーウィン理論,そして現在の進化生物学において,共通起源性が,自然淘汰を検証するためのフレームワークになっていると主張する.

  • 要するに共通祖先性があることにより,自然淘汰の歴史を推定できるのだ.これは共通祖先性が自然淘汰と独立に事実としてあることから可能になる.そしてそれは自然淘汰によらない形質によって事実であることを示すのが可能になった.
  • サメとイルカが同じように流線型になるならそれは自然淘汰の力が強力であることを意味している.ダーウィンはそのように考えていただろう.そして系統が離れていても収斂が生じることこそが,自然淘汰のパワーを説明することになるのだ.
  • つまりダーウィンの議論においては自然淘汰を共通起源性から独立させておかなければ成り立たない形になっている.だからその裏付けにはマルサスにヒントを得た演繹的な議論と人為淘汰の観察を利用したのだということになる.

ソーバーはダーウィン自然淘汰の議論を以下のように整理している.

  • 自然淘汰の存在を示すにはマルサスを利用した演繹的議論(と人為淘汰)を利用した.
  • 自然淘汰が何をなし得るかについて,共通祖先性を利用した議論を行った.


ソーバーの最後の結論は以下のようなものだ.

ではダーウィン種の起源を逆向きに書いたのか?それは因果的には正しい順序でかかれている.しかし証拠という面では逆向きなのだ.

ここでもう一度ソーバーの主張をまとめてみよう.

  • 種の起源」は共通起源性についての議論が本筋の本だ.共通起源性こそが当時問題になっていた「進化は種の壁を越えられるか」に対してクリアーな答えが出せるからだ.
  • しかしダーウィン自然淘汰から始めた.それは分岐の原則により共通起源性の原因が自然淘汰にあるとダーウィンが考えていたからだ.その意味では共通起源の議論をその原因から始めていて進め方に問題はない.
  • しかしダーウィンは共通起源性の原因として自然淘汰を持ち出さず,むしろ淘汰のかからない不要器官や痕跡器官における共有派生形質を利用した.
  • それは自然淘汰がどのように働くかについての議論の基礎としての祖先形質の推定に共通起源性を使う必要があり,淘汰と共通起源は独立の問題にしておかなければならなかったからだ.


私の『種の起源』を読んだ経験を踏まえた印象は以下の通り.

  • 種の起源」はどこまでも「自然淘汰」についての本であり,共通起源性は「自然淘汰によって進化が生じたとするなら生じうる興味深い現象で,実際に観察はそれを支持している」として扱われていると読むのが普通だろう.
  • 素直に読むと,「種の起源」は,まず「自然淘汰」を主因に生物が進化することを説明し,もしそれが正しいとするなら,生物分類は分岐的に考えるべきであり,そしてそのためには適応形質でない相同形質を基準に系統推定すべきであり,事実の問題として全生物は単一あるいはごく少数の共通起源を持ちそうだが,「自然淘汰を主因とする進化」はそれをうまく説明できるというロジックが骨格になっているということになるだろう.
  • 当時問題になっていたとされる「進化が種の壁を越えられること」についてのダーウィンの記述は,まず「種」と「変種」が連続しているという主張があり,さらに「小さな変化でも積み重ねると大きくなるのだ」というロジカルな議論が中心だ.
  • そしてダーウィン自身が全生物が単一起源なのか数種の限られた別の起源を持つのかについて確信がなかったこともあり,共通起源性についてはあまり上段に構えて主張しているようには感じられない.

グレイへの手紙や当時の議論の様相から「共通起源性」が大きなトピックだったというソーバーの指摘に説得力がないわけではないが,なおやややうがった読み方ではないかというの私の感想だ.




 

*1:残念ながら,今日的には肺の方が祖先形質で,浮き袋が硬骨魚類における新規派生形質であることがわかっており,この点ではダーウィンの議論は誤っている