「The Monkey's Voyage」



本書は生物地理学の研究者であるアラン・デケイロスによる生物地理学の学説史についての本である.「生物は世界中に様々な態様で分布しているが,それはどのように説明されるべきか」というのが生物地理学の中心的な問題だが,これについてはダーウィン,ウォレスの時代から現在までにわたる大論争があるのだ.本書で特に問題になっているのは「なぜ似たような生物が,海で隔てられている両側に分布していることがあるのか」の説明の仕方だ.ダーウィンはそれは偶然に長距離を移動したのだと説明した.これに対して,そのような都合のいい話を持ち出すべきではないとし,陸橋,大陸移動などで説明しようという考え方が対立する.


冒頭ではゴンドワナ大陸の分裂による南半球,アフリカ,インドの類似した生物相の物語が紹介される.そして「それは素晴らしい物語だがどこまで信じていいのか」と読者に問いかけ,デケイロス自身によるガーターヘビのリサーチの様子が語られる.メキシコのバハカリフォルニア半島は,4〜8百万年前の地殻の分離により南から海が進出して形成された.そしてその南先端にごくわずかに分布するガーターヘビの遺伝子を調べると,それはメキシコ本土種とほぼ同じでごく最近(20〜30万年以内に)にメキシコ本土のガーターヘビから分岐したものであることがわかる.半島のほかの部分には全く分布域がなく,おそらくヘビは200キロ近い海峡を何らかの方法で越えたのだ.

ここで学説の体系が紹介される.本書によると大陸や島などの分断境界のない大地の上を生物が通常に拡散していく過程のみで分布を説明する考え方は分断生物地理学説(vicariance biogeography)と呼ばれる*1.これに対して偶然の長距離の移動により生物が分散することがあるという考え方は長距離分散学説(long distance dispersal)と呼ばれる.分断学派は分岐学とも深い関連を持ち,時に自分たちのみが真に科学的であり,長距離分散を持ち出すのは非科学的説明だと長距離分散派を非難し,両者の間には激烈な論争が巻き起こった.


第1章冒頭にはクロイツァが登場する.彼は1950年代に活躍した学者で,ダーウィンの長距離分散的な説明を憎み,「生物分布は地球の地質学的な歴史とともにある,地球と生物はともに進化する」と主張する汎生物地理学を唱え,偶然の長距離分散的な説明を徹底的に排除した.
ここでデケイロスは歴史を巻き戻し,ダーウィンとウォレスによる生物地理学の創設の様子を解説する.ダーウィンとウォレスの時代には大陸は不動のものであると考えられていた.すると海を越える移動は陸橋によるか,偶然の長距離分散によるしかない.ダーウィンは前者を都合のよい非科学的な説明だと考え,種子を海水に漬けるなどの様々な実験により偶然の移動が可能であることを示したのだ.
ダーウィンの死後,1910年代にウェゲナーが大陸移動説を唱える.アフリカと南アメリカの大陸棚の形は一致し,両側の地質学的な特徴も一致した.一般にウェゲナー説はその移動の原因を示せなかったので全く無視され,嘲られたということになっている.しかしデケイロスによると確かにアメリカでは全く受け入れられなかった*2が,欧州では様々な受け止め方があったようだ.
片方でダーウィンの死後,長距離分散学説はその主唱者を失い一旦下火になり,陸橋学説が優勢になっていた.その中でマシューは長距離分散学説を擁護し,島の生物は海を渡りやすそうな生物種が多いことを指摘した.そしてゲイロード・シンプソンやエルンスト・マイヤーはその考え方を受け継いだ.彼等は動物地理学のニューヨーク学派と呼ばれ,その啓蒙活動により1940年代にはアメリカでは陸橋学説より長距離分散学説が有力になった.


第2章では本書最大の敵役「分断学派」が登場する.それは1960年代の半ば,ゲイリー・ネルソンにより引き起こされ,広まった流れなのだ.ネルソンは「反抗する60年代」の旗手の一人であり,大胆かつ傍若無人であり,礼儀正しさなどかけらもなかった.ネルソンはその啓示をスウェーデンの昆虫学者ブランディンの仕事から得た.ブランディンは南半球のユスリカ類を研究し,へニックの分岐分類の方法*3に従って分岐図を作った.そしてその分布はユスリカが大陸ごとに分断されていく様子を表しており,そしてそれはゴンドワナ分裂によってうまく説明できる*4ことを説得的に示した*5.これは分断生物地理学の最初の最も印象的なリサーチだといえる.
ケイロスは背景の大陸移動説の受容過程も詳しく解説している.ウェゲナーの大陸移動説はマントルによってその移動メカニズムが説明されることになり,また様々な地質学的な補強証拠*6も積み重なり,1960年代後半にはプレートテクトニクスとして広範囲に受け入れられるようになった.それは科学の世界ではよくあるように,決して単純な受容過程ではなかったようだ.
ブランディンは(後の極端な分断学派と違って)長距離分散が絶対生じないとは主張しなかったが,シンプソンたちニューヨーク学派に対しては「系統的な関連性について無関心で都合の良い説明をでっち上げている」と辛辣だった.ネルソンはこの分岐学と生物地理の融合に熱狂した.すべては革新的だった.彼は当時の主流の分類学パラダイムそして生物地理学パラダイムに猛然と攻撃を開始した.しかし大陸移動による生物分布の具体的かつ説得的リサーチ事例はブランディンのユスリカのものをのぞくと,ローゼンの中米のグッピー,カメ,ヘビのリサーチ,クレイクラフトの走鳥類とミナミブナ類のリサーチなどわずかしかなかったのだ.


第3章では分断学派の教条主義ぶりが取り上げられる.最初の例は海洋島であるハワイの生物についての説明だ.頑固な分断学派であるヘッズはハワイであっても生物分布は通常移動によるもののはずだとがんばるが,それがあり得ないことは,分布生物種の特徴や系統分析と分子時計からみて明らかだ.そしてその意味で最大の頑固者こそ汎生物地理学のクロイツァということになる.デケイロスはクロイツァの履歴と主張を追い,その反骨ぶりを描き出していく.権威には徹底的に反抗し,その主張は泥沼のように曖昧で,呆れかえるほど冗長だ.長距離分散は偶然のものだからパターンを生み出すはずがなく,目を凝らせば分断パターンが常に見えてくるのだ.デケイロスはクロイツァの主張に対して真正面から反駁しており,彼のいう最もはっきりした分断パターン「トラック」すら事実に反すること,長距離分散にもパターンは生じうることを指摘している.
学説史的にはクロイツァの主張は1960年代になされていて,ニューヨーク学派はこれを「非科学的」と批判し,ネルソンたち分岐分断学派は1970年代になって,彼をある意味でヴィジョナリーだったと擁護した.ネルソンは,分岐学の正確さに,クロイツァのビッグピクチャーを加えたかったのだろう.クロイツァはこれに乗り,ネルソン,ローゼンとの共著論文を書いている.
そして分断学派は「長距離分散は反証できないので科学的主張とはいえない*7」「化石による分岐年代推定はそれより新しくはないことしかわからないはずであり,また分子による分岐年代推定は全く信頼できない*8」と主張するようになった.分岐年代は大西洋の出現年代が約100百万年前で,年代推定が正しいとするなら哺乳類や鳥類の主要グループの出現前であることから重大な問題になるのだ.そうして彼等の主張はだんだん事実の基礎を失うようになっていった.極めつけは人類分布さえも中生代の大陸位置から説明しようとする試みだった*9*10


第4章はニュージーランドの真実.現在のニュージーランドの生物分布をゴンドワナ分裂とジーランディア沈降で説明する分断学派的物語はとても魅力的で,ネルソンのお気に入りであり,そして70年代までのニュージーランドの生物地理学者も,いかにも残存生物的なムカシトカゲ,キーウィ,カカポなどの多くの生物分布をその物語で説明しようとしてきた.
しかし化石証拠はこの分断学派的説明とは相容れない.もしこの物語が正しいなら,多くの現生ニュージーランド脊椎動物の化石は(ゴンドワナからジーランドが分裂した)75百万年まえから後の地層で継続して出土しなければならない.しかしそうなってはいない.ムカシトカゲやモアの化石は16〜19百万年前になって突如現れる.キーウィの化石出現はもっと新しい.確かに分断直後の脊椎動物の化石はあまり出土していないので,その時期にいなかったと断言はできない.しかし植物の化石,特に大量に継続的に採取できる花粉化石もゴンドワナ分裂による残存生物相物語を支持しないのだ.花粉化石は植物相がジーランド形成後も継続的に入れ替わっていることを示している.現生植物で大陸分裂まででさかのぼれる系統はごくわずかなのだ.デケイロスは様々な具体例,リサーチ例*11を示しながら,現在のニュージーランドの植物相はその大半が長距離分散によって説明できるものであることが明らかであると説明している.これらのリサーチは分断学派に対する反駁の流れの最初のものということになる.


第5章と第6章は分断学派へのクリティカルヒット,分子的証拠にかかるものだ.大陸分裂などの地質学的なイベントはかなり正確な年代推定がある.だから生物の分岐年代が正確に推定できればそれが分断学派のストーリーと整合的かどうかがわかる.そして1990年代初頭においても分断学派はなお分子的な分岐年代についての懐疑的スタンスを崩していなかった.
ケイロスはまず1980年代に現れた*12分子年代推定におけるPCR技術のインパクトを語る.それはDNA配列決定を安価に実現し,それまで豊富なファンドを持つ医療的なリサーチでしかできなかった大量のDNA配列決定を進化生物学者の手の届くところに持ってきたのだ.デケイロス自身最初に使ったときには魔法のように感じたと語っている.大量のデータは様々な生物の様々なDNA配列の変化速度を分析して,より信頼できる配列変化モデルを組み上げることを可能にし,その結果ある程度信頼できる分岐年代決定を可能にした.デケイロス分子時計のテクニカルな問題点*13とその解決*14を詳しく語っている.これはこの問題がこの生物地理学の論争にとって非常に重かったことを示しているのだろう.
この結果信頼できる分岐年代を求めた大量の論文が出された*15.そして分子的な年代決定は(それまで単にそれより新しくはないという年代しか示していないと分断学派に扱われていた)化石出現による推定年代とも(4億年前ぐらいまでは)あまりバイアスなく良くマッチすることがわかってきた.論争の大勢は決した.分断学派の多くの主張は成り立たないことが明白になったのだ.


第7章からは,起こりそうもないが,長い年月の間に実際に生じたとしか考えられない長距離分散の実例が紹介される.
第7章は植物の分散.最初はヴェネズエラのギニア高地のモウセンゴケだ.ギニア高地のテーブル台地は下界から隔絶された生態系で,いかにもゴンドワナ遺存生物相のようだ.そしてモウセンゴケの種子は長距離分散には不向きであり,実際にモウセンゴケ系統樹は地域的な関係性の制約を大きく受けている.しかしギニア高地のモウセンゴケはその例外であり,オーストラリアのモウセンゴケと最も近縁(推定分岐年代は12〜13百万年)なのだ*16
次は大西洋の両側のマメ科の植物.ラヴィンは分断説を実証しようとデータを集めるが,得られた分岐図と分岐年代をみると,ほとんどの大西洋をまたがった分岐年代は極めて若く,頻繁な大西洋間の移動分散があったことが明らかになった.ポールによるニュージーランドの植物についての包括的なリサーチも,多くの大洋間の長距離分散があったことを示した.ニュージーランドの植物相はゴンドワナ遺存相とはかけ離れたものなのだ.さらにゴンドワナ由来地全体での調査も同じ傾向を示した.大半の植物分布はゴンドワナ大陸分断では説明できない(いくつか例外はある).ダーウィンは正しかったのだ.植物は種子の形で容易に大洋を越えることができるのだ.
ただし多くの動物においては(ブランディンのユスリカのリサーチが示すように)生物分布はゴンドワナ分断のパターンに一致する傾向を認めることができる.しかしもちろんこれには例外がある.


第8章では動物における意外な長距離分散の例として両生類が取り上げられる.両生類はいかにも海水に弱そうで,ダーウィンが海洋島には分布しないとしたことでも有名だ.
アフリカのギニア湾にあるサントメ島とプリンシペ島は火山性の海洋島であってアフリカと地続きになったことはない.しかしここにはアシナシイモリ1種とカエル6種の固有種が生息する.本土で見つかっていないアシナシイモリとカエルをヒトが移入したとは考えられず,だから彼等は海を越えて来たに違いないのだ.これ自体分断学派には打撃だ.さらに分子的に分析すると,カエルの近縁種は東アフリカのコンゴ川上流地域のものであることがわかった.彼等は洪水の際に自然にできた巨大な筏に乗ってコンゴ川を何百キロも下り,さらに海流に乗って島にたどり着いたのだろう.カエル類の海越えはさらにマダガスカルとマイヨット,セイシェルの間でも確認されていて*17,デケイロスはこのふたつの研究物語を詳しく語っている.ここは謎解きがスリリングで読んでいて大変面白いところだ.
ケイロスはこの章の最後に,このような「過去にあることが生じた可能性を示す」リサーチの意義についてコメントしている.これは分断学派のポパー的な批判に対するものということになるだろう.確かに私たちはある特定の移動がどのようにして生じたのかを示すことはできない.それでも長距離分散による生物分布の説明が十分意義のあるであることは当然だろう.


第9章では本書の題にもなっている霊長類の長距離分散が扱われている.
最初の前振りとしてブラジル沖のフェルナンド・デ・ノローニャ島のトカゲが南アメリカではなくアフリカのトカゲと近縁であること(そして分岐年代は3百万年前程度)が紹介される.このトカゲは最短でも2900キロ,海流から考えるとおそらく5000キロ程度の海上の旅をしているのだ.そのほかのリサーチで何種類もの爬虫類が大西洋を最近渡っていることが明らかになっている.しかし爬虫類はしばらくの間メタボリックレートを落とせる.では哺乳類はどうだろうか.
いくつかの霊長類(マダガスカルへのキツネザル,最近の有名どころではフローレス島へのホモ・フローレシエンシス)が海を渡ったことが知られているが,いずれも距離はそれほど大きくない.ここで南アメリカの新世界ザルの起源が問題になる.分断学派に従うと旧世界ザルと新世界ザルの分岐は大西洋の起源年代である100百万年のオーダーになるはずだ.しかし新世界ザルの最古の化石は26百万年前であり,分子的な分岐年代は40百万年前程度,最大でも58百万年前になる*18.これは分断学派的には説明できず,彼等は何千キロもの海上の旅をしたに違いないのだ*19.デケイロスはここでシャーロック・ホームズを持ち出している.「不可能なものをすべて消去して最後に残ったものがあるなら,それはいかに生じそうにないものであっても,真実に違いないのだ」
ケイロスは,この後楽しそうに大西洋の旅の推測ルートをいくつか検討している.そして齧歯類も大西洋を渡っていること*20,これらの陸生脊椎動物の大西洋越えはすべて西向きであったこと,恐竜も少なくとも1種テチス海を渡ったらしいこと*21なども付け加えている.


第10章はゴンドワナの真実の物語.
物語はフォークランドから始まる.フォークランド諸島はアルゼンチンの沖合にあり,生物地理的には19世紀ダーウィンが訪れたころに(現在は絶滅してしまった)フォークランドオオカミがいたことでも有名だ.フォークランド諸島が乗るフォークランドプレートはゴンドワナ由来であり,最後につながっていたのはすぐ近くの南アメリカではなくアフリカだ.形態的に見てフォークランドオオカミがアフリカではなく南アメリカのものと近縁であるという事実は分断学派的説明にとっては問題になっていた.そしてオオカミだけでなくフォークランド全体の生物相が分断学派的に説明できるようなものでないことがマクドゥワルのリサーチによって明らかになった*22.彼はまずガクシオイド属の淡水魚はアフリカではなく南アメリカのものに近縁で海を渡ってきたことを突きとめた.そして昆虫や植物も南アメリカとの近縁種が多く,長距離分散してきたものであることを示したのだ.
ケイロスはここで分断学派の問題点を指摘する.結局生物相は起源だけで決まるのではなくその後の長い時間の中で多くの偶然の出来事を経験し,様々な変容を受けるのだ.絶滅,分岐,そして移動が生じるのだ.特に小さな島では大絶滅によって生物相が一掃されることは十分に起こり得るだろう.フォークランドはまさにそれを示している.
チャタム島もゴンドワナ由来地だ.ここの生物相はその特徴を残しているだろうか.実際にはあまり残っていない.(バードウォッチャーでもある)デケイロスはチャタム島を訪問したときにはその固有種であるブラックロビンを観察するのを楽しみにしていたが,それはニュージーランドの近縁種に非常によく似ていてがっかりしたと書いている*23.遺存相は過去に火山と沈降により一掃されてしまったのだ.ニューカレドニアにはゴンドワナ遺存的な種がよく残っているとされることもあるが,よく調べるとやはり一旦海に沈んでおり,現在の生物相はその後オーストラリアなどの別のゴンドワナ由来地から移入してきたものによる.
そしてデケイロスはここでニュージーランドに戻っている.第4章で示したように植物相の大半は移入によるものだが.動物相はどうなっているのだろうか.最近の分子的なリサーチを総合するとだいたい3/4は移入種ということのようだ.ゴンドワナ遺存種の象徴ともされる走鳥類も,系統樹におけるシギダチョウの位置を見るとその祖先種は飛べていたと考えられる.モアもキーウィも分断後の移入種であり,彼等は飛んできたのかもしれないのだ.そしてマダガスカルも同じだ.マダガスカルが最後に分かれたのはインドとだが,生物相はアフリカに近い.キツネザル,テンレック,フォッサなどゴンドワナ遺存種とされていた動物群はいずれも分断後にアフリカから渡ってきているのだ.


第11章と第12章はまとめの章になる.
第11章では結局分断学派とは何だったのかが考察される.導入としてデケイロス自身によるハワイのイシノミ(無翅昆虫の一種)のリサーチが取り上げられている.イシノミは飛べない昆虫だが海洋島であるハワイ諸島のうち6島に侵入している.分子的証拠は彼等が北アメリカから長距離分散してきたことを示しており,さらに逆にハワイから北アメリカに移動して定着したものもいることが明らかになっている.島から大陸への侵入というのは,個体群の大きさや,島嶼環境への適応や捕食に対する適応の緩みなどから極めて生じにくいと考えられるが,しかしこれが実際に生じているという事実は,非常に生じにくいことも長い時間の中では起こったことがあることをよく示している.また適応放散で有名なハワイのミバエ類の分子系統樹は,彼等が軽々と太平洋の島々に,そしてオーストラリアやアフリカにも拡散していることを示している.
ここでデケイロスは論争全体を振り返る.最後の決め手になったのは分子時計のデータだ.では分断学派はハードエビデンスなし(結局ユスリカ以外の支持データはあまりなかった)に何故あれほど強く主張できたのか.デケイロスは主張者のパーソナリティ以外にも,プレートテクトニクスと分岐分類を用いる論理の簡潔性と一般性による魅力という要因があったのだろうと総括している.そしてその魅力を突き崩した分子的な証拠はそれほど強力だったということになる.デケイロスはさらにこの論争全体をクーンのパラダイムの学説に当てはめられるかを考察している.分断学派は完全な主流にはなりきれなかった.だからパラダイムとは言えないが,その対立は激しく「プリパラダイム」の状況には当てはまるだろうとしている.
最終章ではこのような長距離分散学説による説明は,生命観にどう影響を与えるのかという問題が取り扱われている.そしてそれは生物相の移り変わりは偶然に大きく左右されているというグールド史観を支持するものだと主張されている.この最後のクーンとグールドへの言及は激しかった論争全体を眺めてきたデケイロスによる実感ということなのだろうが,詳細の物語は面白いとしても*24,内容的にはあまり深いものではない印象だ.


というわけで本書は自身生物地理の研究者であるデケイロス自身から見た論争史であり,論争の臨場感が肌で感じられるものになっている.分岐学の巻き起こした論争がナスティであったというのは生物分類にかかる論争で有名だが,彼等は生物地理の世界でも旋風を巻き起こしていたのだ.もっとも分岐分類はそれなりの位置を得ているが,分断生物地理学説は現在かなり劣勢になっているというのがちょっと違うところなのだろう.とはいえ本書の最大の魅力は,デケイロスが紹介する様々な長距離分散の実例とそのリサーチの詳細だ.またゴンドワナ生物相とされてきたものの実態についての解説も深い.いずれも大変興味深く,読んでいて楽しい高水準の本に仕上がっていると思う.



 

*1:基本的には1970年代に声高に唱えられた狭義の分断学説を指しているが,本書では「vicariance」という単語を時に陸橋学説や汎生物地理学説をすべて包含した呼び方としても用いられている

*2:ケイロスはウェゲナーの議論が全く定量的でなかったのが原因ではないかと示唆している.

*3:ケイロスは生物分類における分岐学論争も紹介している.デケイロス自身のクラディズムへの「転向」は1980年代初頭のことだったそうだ.

*4:ブランディンの仕事は1966年のもので,それはちょうど地質学界でプレートテクトニクスが優勢になりつつあるがまだ完全に広く受け入れられてはいなかった時期に当たる

*5:ユスリカの多くのサブグループで独立に同じ分岐パターンを示したのだ.

*6:海嶺山脈の発見と磁気パターンの一致が重要だったようだ

*7:明らかにポパーの影響を受けている

*8:70年代の分子年代推定手法にはさまざまな限界があったことも事実だ

*9:ネルソンはどこまで本気だったのだろうか.デケイロスは本書執筆に当たってメールで「本当にそう考えていたのか」と問い合わせてみた.回答は一言「Yep」だったそうだ.

*10:ケイロスは分断学派がここまでおかしくなった理由についても考察している.白黒はっきりした議論への魅力,物理や化学などのハードサイエンスの手法へのあこがれ,大統一理論への渇望などが要因としてあげられている.これは最後でもう一度取り上げられる.

*11:説得的なリサーチの1つによるとキーウィの祖先は少なくとも45百万年前より後にオーストラリアからタスマニア海を越えて渡ってきたようだ.

*12:自伝でも有名なモリスによる発見物語も紹介されている.

*13:どこかに基準ポイントをおき,その年代について化石年代より求める必要があること,系統によって分子時計の進み方が異なること

*14:基準ポイントについては議論の余地の少ない明確な年代をもつものを,さらに幅を示して用いればよい,分子時計の進み方についての信頼できるモデルを構築すればよい

*15:なお基準ポイントに大陸分断を使って結論がおかしくなった論文もあって,本書ではそれも紹介されている

*16:どのように運ばれたのかはわからない.デケイロスは,渡り鳥のルートもないので,あるいは迷鳥に運ばれたのかもしれないとしている.

*17:さらに別のリサーチでそれ以外のいくつかの両生類の海越え移動が主張されている

*18:20以上の独立したリサーチで31百万年前から70百万年前の間とされている.デケイロスは70百万年前としたリサーチの前提にやや疑問があるとほのめかしている.これをのぞくと幅は31から58百万年前になり,合理的な推定値としては41百万年前というところだとしている.ただ,そのようなデータを考慮に入れたとしても,70百万年前には大西洋は十分広かったというのが議論の一つのポイントになる

*19:なおベーリング海峡(当時地峡)回りという苦しい言い訳もあるらしい.デケイロスはこれではその時期の北アメリカに全く化石がないことを説明できないだろうとしている.

*20:カピバラやモルモットの系統

*21:Tethyshadoros insularisが島に移り,島嶼矮小化を起こしていると主張されている

*22:この仕事は1970年代のもので,マクドゥワルは分断学派から厳しく批判されたようだ.デケイロスはリサーチの詳細のほかそのあたりの経緯も紹介している

*23:両者の写真が掲載されている.双方とも大変可愛い鳥で,特にブラックロビンは名前の通り真っ黒で確かに魅力的だ.ニュージーランドのものはグレーがかっていて真っ黒ではないがよく似ている.

*24:グールド史観にかかる部分は結構延々と議論されている.「ジャガイモのヒトによる移動がドイツとロシアの人口増加を通じて欧州史を動かした」などの歴史的事実から「パナマ地峡の成立の影響」などの進化史的事実まで広範囲な物語が語られていて,その詳細を読んでいる分には面白い.