「知のトップランナー149人の美しいセオリー」


本書はオンラインサイトEdge(http://edge.org)で恒例になっているAnnual Questions(http://edge.org/annual-questions)における「ある年の質問とメンバーたちによるその答え」を一冊の本にまとめたものの2012年版の邦訳だ.Edgeというのは,ジョン・ブロックマンが進化生物学,情報科学,物理学などの分野の刺激的な学者や知識人,芸術家を集めて創った私的なクラブのようなサイトで,実際に蒼々たるメンバー(有名どころではリチャード・ドーキンス,スティーヴン・ピンカー,ローレンス・クラウス,ダニエル・デネットなどなど)を集めることに成功している希有な企画サイトだ.*1
今回邦訳された年の質問は「あなたのお気に入りの,深淵で,エレガントなあるいは美しい説明は何ですか?:What is your favorite deep, elegant, or beautiful explanation?」*2だ.ちなみにこれはこのサイトでも人気のコンテンツで,質問自体は1998年からあり,2005年のものからは毎年あちらで書籍としても出版されている.質問を並べてみると以下のようになる.それぞれ面白そうだ.

2014 : もう引退してもいい科学的アイデアは何でしょうか?:What scientific idea is ready for retirement?
2013 : 私たちは何を恐れる「べき」でしょうか?:What *should* we be worried about?
2012 : あなたのお気に入りの,深淵で,エレガントなあるいは美しい説明は何ですか?:What is your favorite deep, elegant, or beautiful explanation?
2011 : みんなの認識ツールキットを改善する科学的なコンセプトは何ですか?:What scientific concept would improve everybody’s cognitive toolkit?
2010 : インターネットはあなたの思考法をどのように変えていますか?:How is the internet changing the way you think?
2009 : すべてを変えるものは何でしょうか?:What will change everything?
2008 : あなたは何について意見を変えましたか,そしてそれはなぜ?:What have you changed your mind about? Why?
2007 : あなたは何について楽観的ですか?:What are you optimistic about?
2006 : あなたの危険なアイデアは何ですか?:What is your dangerous idea?
2005 : あなたが自分では証明できないけれども真実だと信じていることは何ですか?:What do you believe is true even though you cannot prove it?
2004 : あなたの法則は何ですか?:What’s your law?
2003 : 国家や世界にとって緊急の科学的問題は何ですか,そしてそれについてあなたは私にどう取り組み始めるようにアドバイスしますか?:What are the pressing scientific issues for the nation and the world, and what is your advice on how I can begin to deal with them?
2002 : あなたの疑問は何ですか,そしてそれはなぜ?:What is your question? why?
2001 : 今何が?(9.11の後の緊急問題提起):What now?
2001 : 消え去った質問は何ですか?:What questions have disappeared?
2000 : 現在の最も重大なレポートされてないストーリーは何ですか?:What is today’s most important unreported story?
1999 : この2000年間で最も重要な発明は何ですか?:What is the most important invention in the past two thousand years?
1998 : あなたが自問している質問は何ですか?:What questions are you asking yourself?

これらの質問はメンバーたちをインスパイアすることもある.実際に2007年の質問はスティーヴン・ピンカーに「The Better Angels of Our Nature」を書かせるきっかけになったことが知られている.


さて本書においては2012年の質問「あなたのお気に入りの,深淵で.エレガントなあるいは美しい説明は何か」について149人のメンバーが回答を寄せている.ブロックマンの興味を反映してメンバーには進化学者が多いので当然ながら「ダーウィン自然淘汰の説明」には多くの票が集まっている.それぞれの学者がそれぞれの取り上げ方をしているのを読み比べるのも面白い.ドーキンスはちょっと捻って「自然淘汰はきっと他の人も選ぶだろうから」とダーウィンの曾孫のホーレス・バーロウの「生物の感覚知覚にかかる冗長性の削減原理」を取り上げている.これはシャノンの情報理論とも関連し,ドーキンスの若い頃の研究にも影響を与えたものだそうだ.ピンカーはトリヴァースのコンフリクト理論がヒトの社会生活の葛藤の説明として強力であることを取り上げている.性的コンフリクト理論には(進化心理学者の)デイヴィッド・バスも1票投じている.進化関連ではそのほか包括適応度理論,プライス方程式,ESS,適応度地形,ティンバーゲンの4つの問いにもそれぞれ1票入っている.心理学・認知科学分野ではいろいろなものが取り上げられているが,スペルベルのメタ表象の人気が高いようだ.

物理分野では回答は分かれている.熱力学の第二法則,アインシュタイン一般相対性理論(その中の重力の普遍性についての説明),光子理論,ハイゼンベルグの不確定性理論,電磁理論,色の説明などがある.量子論はなかなか複雑な取り上げられ方になっていて面白い.量子論についてのファインマンの特定の説明にも1票入っている.宇宙論の分野ではマルチバース理論に票が集まっている.マルチバースは最近かなり支持を集めているようだ.情報や論理の分野ではシャノンの情報理論ラッセルの記述理論,鳩の巣原理,ムーアの法則.ユニバーサルチューリングマシンに票が入っている.美しい説明だが間違いだったものをあげているメンバーもいる.ケプラーの正多面体理論,ケルヴィン卿の熱い地球モデル*3が取り上げられている.もちろん私にはエレガントは思えない説明も取り上げられている.ヘレン・フィッシャーはエピジェネティックスにご執心のようだし,レイコフの隠喩論も複数のメンバーのお気に入りのようだ.

そのほかで私が面白いと思った回答には以下のようなものがある.

  • ジョナサン・ゴットシャル:フォリー=レイモンによる左利き喧嘩上等説仮説.しかしその証拠とされてきたニューギニア高地族における喧嘩データの怪しさが露見し,そしてそれは本当は喧嘩の有利性ではなく儀式的なスポーツにおける女性へのアピールの有利性で説明できるのではないかと望みをつないでいる.
  • ディミター・サセロフ:オイラー座標とラグランジュ座標の可換性
  • リー・スミス共感覚の重要性.だれもが「レモンは速いか遅いか」と聞かれると「速い」と答える.私たちは周囲の世界の理解を行うにあたって感覚同士の相互作用を利用しているし,それが理解を大いに深めている可能性がある.
  • エリザベス・ダン:時間当たりの所得が高くなることが時間に追われる感覚を引き起こす.
  • マーティ・ハースト:なぜプログラムにはバグがあるのか,プログラムは扱いやすく何でもできそうなので,過度に楽観的になりやすいから.
  • アルバート=ラズロ・バラバシ:おいしい料理のレシピにおける素材の組み合わせは何によって決まるのか.素材の味が補完的だからか,それとも共有要素が多いからなのか;ネットワーク解析によると西洋料理は共有性が,東アジア料理は補完性が効いている.
  • シェリー・ヌークル:移行対象(自分でないものを内に取り込む);これまで(最初の移行対象である)抱き毛布は大人になると捨てられてきた.しかしデジタルガジェットは捨てられずに常にそばにあり続けることができる.私たちは歴史始まって以来の実験をしているのかもしれない
  • ニール・ガーシェンフェルド:「電気力線は毛がはえた輪ゴムのような性質を持つ*4」というシールド教授の説明;それは縮まろうとするが互いに反発するという意味で,直感的にわかりやすい.


訳者の長谷川眞理子もあとがきに書いているが,本書はとにかく啓発的で面白い書物で,読んでいるだけで知的に興奮できる.設問自体興味深いし,選りすぐりのメンバーが,それが世界中で読まれることを十分に意識して練りに練った回答を寄せて競い合っているという贅沢な作りもすばらしい.是非他の年の本も邦訳出版されてほしいものだ.


関連書籍


原書

This Explains Everything: Deep, Beautiful, and Elegant Theories of How the World Works (Edge Question Series)

This Explains Everything: Deep, Beautiful, and Elegant Theories of How the World Works (Edge Question Series)


2013年版

What Should We Be Worried About?: Real Scenarios That Keep Scientists Up at Night (Edge Question Series)

What Should We Be Worried About?: Real Scenarios That Keep Scientists Up at Night (Edge Question Series)

*1:本ブログでは以前ピンカーによるグループ淘汰についての否定的な主張とメンバー間の議論のついてのエントリーを扱ったことがある.参照http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20120714

*2:本書では「あなたのお気に入りの,深淵で,エレガントで,美しい説明は何ですか?」になっていてこのorが訳されていないように思える.正確には「エレガントなあるいは美しい」だろう.

*3:俗説ではケルヴィン卿は放射能を知らなかったために誤ったとされるがそうではなく,地球を対流のある液体とモデル化せずに固体としてしまったことにあるのだそうだ.知らなかった

*4:邦訳では「electric field lines」を「電力線」,「furry rubber bands」を「毛皮の輪ゴム」と訳している.しかし「電力線」だと送電に使う電線の意味もあり,「電気力線」とする方がいいように思う.また「furry rubber bands」は輪ゴムと輪ゴムの間に静電気が発生して反発することの比喩なので,「毛皮の輪ゴム」では意味が伝わりにくいのではないだろうか.