「ダーウィンの覗き穴」

本書はメノ・スヒルトハウゼンによる生殖器に焦点を絞った性淘汰解説本だ.著者のスヒルトハウゼンはオランダのライデンにあるナチュラリス生物多様性センター(Naturalis Biodiversity Center)*1の進化生物学者生物多様性と形質進化についての研究者だ.一時ボルネオで陸貝のリサーチもしていたようで本書にもその話が出てくる.性淘汰にかかる本はこれまでもいろいろ出ているが,本書は特に生殖器の形質や機能について深く掘り下げているのが特徴だ.

まえがき*2で,生殖器について,人々は並々ならぬ興味を示すのだが科学的な探求はそれほどなされてこなかったことが取り上げられる.スヒルトハウゼンはその理由はダーウィンにさかのぼると指摘する.ダーウィンは性淘汰の概念を最初に提唱したことで知られるが,性的特徴を一次性徴と二次性徴に分け,前者は交尾のために必要なものであって性淘汰の対象ではないとしたのだ.そして生殖器の探求は主に分類学者が近縁種を区別するためのものに限定された.
1970年代になってようやくこの状況は変わる.ビル・エバーハードが進化の観点から見て生殖器は性淘汰の強力な影響を受けているに違いないと考え,それは「性淘汰と動物の交接器」(Sexual Selection and Animal Genitalia)という本にになって結実する.そして性淘汰と生殖器は世界中のリサーチャーによって探求されるテーマとなる.本書はこれを扱うのだ.

第1章:有性生殖についての概念整理

生物界の様々な交尾の方法を簡単に紹介した後,いくつかの性をめぐる謎を取り扱う.
まず最初にそもそも何故(2倍のコストにもかかわらず*3)性があるのかという問題を扱う.ここでは有性生殖のクローン生殖に対する有利性という観点で整理し,ハミルトンの寄生説とコンドラショフの修正説を紹介した後,この決着はついていないとしている.誰にとっての有利性かというところがやや曖昧な書きぶりで気に入らないが*4要点は押さえている.
次にオスとメスの存在の謎が扱われる.ここでは接合子におけるオルガネラ抗争を防ぐためだという説明がなされている.ここでメイナード=スミスによるサイズ依存的な適応度関数の形状により配偶子の大小が進化するという仮説が扱われていないのは少し残念だ*5
次は「第一次性徴と第二次性徴」.スヒルトハウゼンは,ダーウィンのもともとの議論を尊重し,性淘汰との関連からこの区別を説明する.そして第一次性徴は器官そのもの,第二次性徴は器官の属性と考えるとよいとしている.
最後に「生殖器」.このエバーハードの定義を紹介し,様々な生殖器があることを,イカの精包,カイダコの交接腕,カギムシのメスによる精包取り込みメカニズムなどの珍妙な例をあげつつ解説している.ここはなかなか意表を突く生殖器が紹介されていて読んでいて楽しい.

第2章:生殖器の近縁種間での多様性にかかる過去の考え方

冒頭はルネ・ジャネルによるメクラチビシデムシの交尾鉤の多様性の記載から始まる.このような近縁種間の生殖器の多様性はその他多くの生物グループに見られるものだ.ここではマルハナバチ,ハネジネズミのものが詳しく説明されている.そしてテーマは何故こうなっているのかという問題に移る.
当初生物学者たちはこれを「鍵と鍵穴」で説明した.つまり異種間交雑を避け,同種間でのみ交尾しやすくなるためにこうなっているという説明だ.これは1世紀近くも主流の考え方だったが,1980年代以降急速に棄却されるようになった.オスのペニスが多様なのにメスの膣が同じような形状であるマルハナバチという例外は以前から知られていたが,さらにカマキリのあるグループでのオスのペニスは左右非対称で種によって左右のキラリティが異なっているのにメスの膣は左右対称であるという例外が加わった.そしてエバーハードは洞窟性のメクラチビシデムシをはじめとする種間隔離が成立していてそもそも異種間交雑を避ける必要のない生物グループにも生殖器の種間多様性が進化していることを指摘した.
ヒルトハウゼンは特に指摘していないが,これは1960年代まではクジャクの尾羽のような派手な性淘汰形質ですら「メスの選り好みに基づく性淘汰形質」という説明を否定して,「異種交雑を避けるための目印」と解釈されていたのとパラレルということだろう.

第3章:メスの選り好みによる性淘汰

では何が生殖器の多様性の説明になるのだろうか.第3章は「メスの選り好み」(Female Choice)による性淘汰形質という説明を扱う.ダーウィン生殖器自体に性淘汰がかかることを認めていなかったが,しかし理論的にも実際にも生殖器の特徴に性淘汰がかかりうることは明らかだ.スヒルトハウゼンは,ダーウィンフジツボのペニスの種間多様性に気づいていなかったはずはなく,これはダーウィンが器官そのものと器官の属性をきちんと区別しなかったからか,あるいはヴィクトリア朝の慎み深さ*6の故に言及を避けたからだろうとコメントしている.いずれにせよこの可能性を考察する仕事はエバーハードのもとに残された.

ヒルトハウゼンはここで性淘汰の解説をおいている.学説史の部分ではダーウィンのあとにフィッシャーではなくベイトマンを持ってくるのが独特だ.ベイトマンは卵の数と精子の数の不均衡から,オスは常に交尾に積極的でメスは選択的になるのだと主張し,ショウジョウバエにおいてオスは交尾回数を増やすと利益を得るがメスは(それほど)利益を受けないことを示した.スヒルトハウゼンはメスの選り好みによる性淘汰の受け入れについてはこの実証が最も重要な仕事だったとして考えているようだ*7
では何故メスは一見適応度を下げるように見える形質を持つオスを選り好むのか.ここのスヒルトハウゼンの解説は,コッコの2003年の論文*8を引いて「ランナウェイ説と優良遺伝子説の違いは思い込みに過ぎない」という書き方をしている.確かにある選り好み形質の進化の過程においては両方の力学が働いていて,両過程を互いに排他的なものとして扱うべきではないだろう.しかし息子が「メスにもてる」以外の優秀性を引き継がない場合に選り好み形質が長期的に崩壊してしまわないかどうか,そして崩壊しないとするならその説明はハンディキャップ形質である(つまり優良遺伝子を持つことの情報伝達である)こと以外にはあり得ないという意味でこの違いは理論的には重要ではないだろうか.コッコの主張は「メスの選り好みの進化は何らかの適応度の上昇が子孫にあれば生じるのであり,両過程は排他的ではない.だからある形質の進化については統一的なフレームで考察した方が有用である.さらにこれまでの多くのリサーチは,特定の適応度コンポーネントとの相関を(事後的に)示せたことを持ってハンディキャップディスプレーだとしているが,それでは検証になっていない」ということであり,概念的にこの区別が無用だとはしていないと思う.ここは私がこだわりすぎているのかもしれないが,スヒルトハウゼンの説明振りには問題があるように感じる.

さてではメスの選り好みによる性淘汰は生殖器をどう進化させたのだろうか.スヒルトハウゼンはバーリーのキンカチョウ実験と「感覚便乗」を説明した後*9生殖器が感覚便乗をきっかけにしたメスの選り好み性淘汰により種間多様性を得たというエバーハードの主張を取り上げる.スヒルトハウゼンのあげる具体例は,ガガンボバイブレーター付きペニス,有蹄類のペニスにある尿道突起の鞭を振るうような運動などでどれも面白い.またスラスト運動自体もペニスにあるこぶや畝や棘などをメスに感じさせるために進化したのではないかともコメントしている.するとメス側にはこれを感知,評価すべき仕組みが進化していることが推測される.評価のあと選択までしているかについてヒトについての実証的な証拠はまだ不十分というところだが,ほかの動物では選択的精子排出が確認されている.スヒルトハウゼンは具体的にタマゴグモの1種の実証例をあげていてなかなか興味深い. そして選択的精子排出はエバーハードの次のアイデア「メスによる隠れた選択」(Cryptic Female Choice)につながる.

第4章:メスの隠れた選択

エバーハードはこのアイデアを磨き上げ1996年に「メスの支配」(Female Control: Sexual Selection by Cryptic Female Choice)という本を書く.交尾後どの精子を卵に受精させるかについて,それはメスの体内で起こるのだから基本的な選択権はメス側にあるはずであり,そして実際に様々な現象が見つかっている.
ヒルトハウゼンは,まず一部の齧歯類における2段階交尾*10,同じくクモによる明確に分かれたドライ(精子受け渡しなし)とウェット(精子受け渡しあり)の2種類の交尾を説明する.このように2段階あればメスは最初の段階のパフォーマンスに基づきどのオスと次に進むかを選択することができる.実際にクモにおいてはドライ交尾の持続時間と受精確率に相関があるのだ.
考えてみるとオスの都合だけなら交尾時間は短いほどよい.メスはそれを長引かせオスを選択するために迷路のような生殖管や内なる扉を進化させている.そしてペニスはそれをこじ開ける鍵でもあるのだ.実際にブタの人工授精においてはメスに本物のオスと交尾していると感じさせる工夫や精巧に作られたペニス型の受精器が受精率の向上の鍵になっているそうだ.
ここでヒトの女性のクリトリスとオルガスムは実はこの隠れた選択のためではないかという仮説(オルガスムを感じたときの精子受精率を高めるのではないかというもの.具体的にはそのときの精子排出率を下げることなどの方法が考えられている)が扱われている.クリトリスは広く哺乳類に見られ,観察からはオルガスムも同様に広く存在すると推測されている.スヒルトハウゼンはこれに関する学説史を紹介し,ヒトのオルガスムの究極因についてそれが隠れた選択のためだと決定的に実証することはまだなされていないが,サイモンズやグールドの主張する副産物説がいかにあり得なさそうかを説明している.
さらに動物界を広く見ると精子を長期間保存できる動物の方が多い.そして多くの場合そのメスは貯蔵庫を複数持ち,どのオスの精子を使うかを選択できるようになっている.スヒルトハウゼンはフンバエの解剖学的な状況とその機能について詳しく説明している.さらに哺乳類の場合にはメスは受精後も流産という形で選択を行うことができる.そしてスヒルトハウゼンはブルース効果*11の一部はこれで説明できるのではないかと示唆している.

第5章:性淘汰が与える生殖器形質への影響

冒頭でポミヤンコフスキーと巌佐のモデルを説明し,これによるダイナミズムは不安定になることが多く,性淘汰形質は安定的になりにくいことが説明される.形質が極限に達するとメリットが失われ崩壊しやすくなるし*12,(感覚便乗や免疫の利益のために)少数派を好むという選好が生じた場合にも不安定になりがちになる.そして生殖器にも性淘汰が関わっているなら,その形態は種間で気まぐれに多様になるだろう.
そして実際にはどうなっているのか.スヒルトハウゼンはまず過去からの変化を問題にし,40百万年前の琥珀の中の甲虫や4万年前の泥炭層の中の昆虫の交尾器の形態を取り上げている.40百万年前の甲虫の交尾器は現在のよく似た甲虫のものとかけ離れていたが,4万年前のものは現在と大差なかった.さらにイトトンボの分子系統樹生殖器の形質の比較から形質の差と分岐年代に相関がないことがわかった.スヒルトハウゼンはこれを断続平衡的な進化として説明しようとしているが,ほかの解釈も可能なように思えやや無理筋に感じられるところだ.
次は交尾器の大きさの問題.よく知られたアロメトリーの規則は「交尾器は最も大きな負のアロメトリーを持つ」ということだ*13.何故なのかはなかなか面白い問題だ.エバーハードはオスの交尾器はメスの生殖器の「押すべきボタンをすべて押す必要がある」ため適切なサイズについての淘汰圧があるためだと推測している.そしてこれには例外もある.フジツボは固着生活のために長いペニスが有利になるし,グッピーのように性的ディスプレーとしても機能する場合にも大きい方向に淘汰がかかる.スヒルトハウゼンが挙げる面白い例はある種のクモのケースだ.このクモのオスは蝕肢の1つを交尾器として使うのだが,これに大きさの淘汰がかかった結果1対の蝕肢が大きくなり,運動性能上の重いコストになった.そしてこのために片方を自ら切断して身軽になるという習性が進化しているのだ.ここも奇想天外で面白いところだ.

第6章〜第7章:性的コンフクリト

ハグロトンボのオスのペニスが,先に交尾したオスの精子の掻き出し器でもあるという発見は1979年に報告されている.オスは単純にメスの隠れた選択に対してあきらめているわけではないのだ.オスは物理的な掻き出しのほかにメスを欺瞞的に操作することも行う.ここでスヒルトハウゼンは精子競争,そして性的コンフクト,コンフリクト状況下での性拮抗的共進化(Sexually antagonistic coevolution)を概説している.
ヒルトハウゼンは具体例としてヒトのペニスの返しが精子掻き出し機能を持つのかという話題から始めている.人工ペニスと人工膣による水力学的実験では掻き出し機能が確認されたそうだが,乱交で有名なチンパンジーのペニスには返しがないこともあり,スヒルトハウゼンは結論について慎重に留保している.
そこからサメのオスに見られる膣洗浄器,コオロギのオスにある精子押し出しポンプが説明される.メスは排出に協力するように進化する場合(メスに協力させる能力のあるオスは,その能力の故に隠れた選択の対象になり得る)もあるし,逆もある.後者の場合には拮抗的共進化となり大変複雑な生殖器官や内部メカニズムが進化する.スヒルトハウゼンはヒゲブトハネカクシやカモの具体例を説明している.それぞれ細部は複雑で興味深い*14.さらにレイプを阻止するメスの生殖器の機構を回避して皮下精子注入をする例*15,さらにそれに対するメスの対抗策*16が解説されている.さすがに軍拡競争的な拮抗進化の産物は複雑だ.

性的コンフクトは交尾後のメイトガードという形でも現れる.そのひとつは交尾栓だ.そして一部のクモのオスは交尾器である蝕肢自体を交尾栓として使用する.この蝕肢は再生しないので事実上自ら去勢する形になる.これは生涯一回交尾で交尾後メスに食べられてしまうクモのオスならではの戦略ということになる.動物界でしばしば見られる交尾栓は接着剤状の物質だ.私は知らなかったがチンパンジーのオスも交尾栓を使う.そして霊長類においては乱婚的傾向と交尾栓を使う傾向に相関があるのだそうだ.スヒルトハウゼンはこの霊長類の交尾栓の固まるメカニカルな仕組みも詳説している.そして(先ほどの精子排出への対応と同じく)メスは強固な交尾栓を作るオスを選択するためにこの形成に協力するように進化することもあるし対抗するように進化することもあるのだ.
さらに交尾栓のような物理的な障壁だけでなく,行動操作的にメイトガードする場合もある.たとえば精液に含まれる成分によってメスに性欲を失わせるように操作することが可能だ.そしてこれもメスが協力するように進化する場合も対抗するように進化する場合もある.これは化学コミュニケーションあるいは化学戦ということになる.スヒルトハウゼンはイエバエにおける化学コミュニケーションの詳細を説明している.そしてペニスにある棘は精子注入だけでなく化学的な成分の注入のためであるのかもしれないと解説している.
なおこのような性的対立の様相を(デフォルトとして)メスの隠れた選択側の勝利と読むのか拮抗的共進化と読むのかについて両派(エバーハード派とアンクヴィスト派)の論争があるようだ.スヒルトハウゼンによるとこの論争には「どちらが男性優位主義のイデオロギーに影響されているか」というポリティカルコレクトネスの絡んだ相互非難の側面もあるのだそうだ.スヒルトハウゼンは理論的な違いはわずかだと前置きした上で,メスが多数のオスと交尾したときに子孫の適応度が下がるか上がるかで検証可能だが,誰もこのデータを得ていないとあとがきで触れている.

第8章:雌雄同体生物における性淘汰

これまでの話はオスとメスが分かれた雌雄異体生物のものだった.では雌雄同体生物ではどのように性淘汰が効くのだろうか.ダーウィンは雌雄同体生物の限られた心的能力から派手なディスプレーのような性淘汰形質が進化することを想定しなかった.しかし雌雄同体生物では特に生殖器に大きな性淘汰圧がかかっているらしい.スヒルトハウゼンは最終章でこれを詳しく解説している.
まずナメクジの交尾の複雑な様相が説明される.ある種のナメクジではまずペニス複合体にある肉矢で延々と互いに身体を舐め合い,その後いきなり精子のかたまりを噴出させ,ペニス複合体にある複数の指状構造物で相手と精子を交換し,さらにその先端の腺から化学物質を相手に浴びせかける.何故交尾がこれほど儀式的でさらに生殖器が複雑な構造物になっているのか.実は彼等は自らのオス機能とメス機能にとって交尾の各側面に対してそれぞれの利害を持ち,交尾相手とその合計の極大化をめぐってゲームを行っているのだ.そして互いにオス機能もメス機能も持っているので操作化学物質は既にそこにある.だから必然的に激しい軍拡競争的淘汰が生じる.また雌雄同体生物のオス機能,メス機能それぞれの利害テーブルを考えると交尾を避けるべき状況が少ないこともこの複雑な進化が生じる要因としてあげられている.
ヒルトハウゼンが次に解説するのはカタツムリの恋矢だ.交尾の際に互いに矢を打ち込む理由について当初は求愛行動としてカルシウムを贈呈しあっていると考えられていたが,詳細な観察はそうではあり得ないことを示している.そしてこれは相手を操作しようとしていることが明らかになった.恋矢を打ち込まれた個体では蠕動運動が高まり,これによりその際受け渡された精子による受精が生じやすくなるのだ.さらにその他の雌雄同体生物の複雑な交尾の具体例が詳説される.精子の吸収消化,使い捨てペニス,互いに体長の何倍もの長さにペニスを伸ばしてからその先端で行われる精子交換*17など息もつかせぬ面白さだ.
そしてスヒルトハウゼンは最後に自分自身のリサーチを紹介している.巻き貝類は同じ巻き方向同士でないとうまく交尾できないために正の頻度依存効果が働き,通常種内で巻き方向は同じになる.しかしボルネオには右巻きと左巻きが種内で半々になっているカタツムリが存在する.スヒルトハウゼンが調べてみると,巻き方向は遺伝的に決まり,生態的な分離はなかった.リサーチは行き詰まったかと思わせたがさらに調べると何とこのカタツムリではメス機能生殖器だけでなくペニスの先端にも巻きがあり,逆巻き同士の個体の方が交尾しやすくなっていることが明らかになった.つまり負の頻度依存が効く形になっていたのだ.スヒルトハウゼンは何故このカタツムリがこのような形に進化したのかまでは語ってくれてない*18が,生殖器の先端のちょっとした形質に巻き方向という大きな形質が左右される面白い例として最後に提示しているのだろう.

本書は特に生殖器に焦点を絞った性淘汰の解説書だ.この生殖器というテーマはこれまであまり一般向けに解説されてなくてしかもその詳細は大変面白い.さらに最新の性拮抗的共進化リサーチや,雌雄同体生物の性淘汰の知見も紹介されていて(理論的な解説振りには一部納得できない部分もないではないが)興味深くかつなかなか得がたい本になっている.
ヒルトハウゼンはあとがき*19で基礎科学は(芸術やスポーツと同じく)人類全体にある種の楽しみを与えるために存在すると言い切って本書の視点を明らかにしている.そして本書で次々に紹介される具体的な生物の様々な生殖器や交尾の様子の詳細は興味深い知見にあふれている.読んでいると,どうだ面白いだろうと読者をのぞき込んでくるスヒルトハウゼンの楽しそうな顔が浮かんでくるような感覚におそわれる.そして確かに大変楽しい本に仕上がっていると評価できるだろう.


関連書籍


原書

Nature's Nether Regions: What the Sex Lives of Bugs, Birds, and Beasts Tell Us About Evolution, Biodivers ity, and Ourselves

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エバーハードによる性淘汰による生殖器の進化,およびメスの隠れた選択についての本

Sexual Selection and Animal Genitalia

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Female Control: Sexual Selection by Cryptic Female Choice (Monographs in Behavior and Ecology)

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アンクヴィストによる性的対立の本

Sexual Conflict (MONOGRAPHS IN BEHAVIOR AND ECOLOGY)

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性淘汰のみに関する一般向けの本は最近あまり見かけない.今でも以下のようなところが代表的な本になるだろう.


まずは長谷川眞理子によるこの本.2005年に増補改訂版が出て性的コンフリクトまで扱っている.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20071005#1191583417

クジャクの雄はなぜ美しい?

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より一般向けの本だとマット・リドレーによるこの本.原書は1993年,邦訳本が1995年.最近文庫化,および電子化されている.

赤の女王 性とヒトの進化

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同原書

The Red Queen: Sex and the Evolution of Human Nature

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ヒトに関してはやはりこの本

恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (1)

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恋人選びの心―性淘汰と人間性の進化 (2)

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同原書

The Mating Mind: How Sexual Choice Shaped the Evolution of Human Nature

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ちょっと古いが学説史としてこの本も外せない.

性選択と利他行動―クジャクとアリの進化論

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同原書

The Ant and the Peacock: Altruism and Sexual Selection from Darwin to Today

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ハンディキャップ理論提唱者ザハヴィのこの本も性淘汰がらみの本としては外せないところだ.

生物進化とハンディキャップ原理―性選択と利他行動の謎を解く

生物進化とハンディキャップ原理―性選択と利他行動の謎を解く


同原書

The Handicap Principle: A Missing Piece of Darwin's Puzzle

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きちんと総説を読みたいなら行動生態学のこの教科書をおすすめする.性淘汰は第7章で扱われている.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20150505

デイビス・クレブス・ウェスト 行動生態学 原著第4版

デイビス・クレブス・ウェスト 行動生態学 原著第4版


同原書

An Introduction to Behavioural Ecology

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なおハミルトン=ズック仮説で有名なマーレーン・ズックによる「性淘汰」という書名のこの本は実は性淘汰の解説本ではない(私の評価ではこれは進化生物学とフェミニズムの関係を扱った本だ)ので注意が必要だ.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20150505

性淘汰―ヒトは動物の性から何を学べるのか

性淘汰―ヒトは動物の性から何を学べるのか


同原書

Sexual Selections: What We Can and Can’t Learn about Sex from Animals

Sexual Selections: What We Can and Can’t Learn about Sex from Animals

*1:日本でいえば科博に当たる自然史博物館.オランダ国立の自然史博物館,地質学鉱物学博物館,動物学博物館,植物標本館が統合した際にこういう名称になったようだ.

*2:原文ではForewordではなくForeplayとされているようだ.このほか原著の章題は凝りに凝っていると訳者解説にある

*3:本書ではこれについて4倍のコストという言い方をしている.メス個体から見て子孫にオスの遺伝子が半分入り込むための2倍のコストに加えて,集団全体でメスしか子孫を作れないことによる2倍のコストがあるという趣旨だが,この異なる視点からの比較を単純にかけ算するのは適切とは思えない.

*4:先ほどの「4倍のコスト」という計算もこのあたりのスロッピーさから来ているのだろう.またそもそも寄生説と修正説は排他的な仮説ではないので,両方が効いているという可能性についてもコメントがなくやや不満だ.

*5:この2つも排他的ではないが,まず大小が生じてその後サイズに基づいてオルガネラ抗争の問題が解決されたと考えておく方が自然な気がする

*6:ヒルトハウゼンはダーウィンフジツボ総説書にフジツボのペニスの多様性が言及されていないのもおそらくこのためだろうとコメントしている

*7:通常はフィッシャーのランナウェイ理論,アンダーソンのコクホウジャクの実験,そしてザハヴィのハンディキャップ理論とハミルトン,ズックによる寄生耐性説と続くところだ

*8: H Kokko, R Brooks, MD Jennions, J Morley 2003 "The evolution of mate choice and mating biases" /Proceedings of the Royal Society of London B: Biological Sciences/ 270 1515 653-664

*9:ここでスヒルトハウゼンはランナウェイや優良遺伝子という説明と感覚便乗の関係を明確にしておらず議論の流れがわかりにくい.ランナウェイや優良遺伝子は何故メスが本来の子孫の適応度を下げそうな形質を選り好むようになるのかについての進化的な議論であり,感覚便乗はその際にどのような性淘汰形質が進化し始めやすいかという「きっかけ」の議論であるということをきちんと解説しておかないと読者は混乱するだろう.前掲のコッコの論文でもこの感覚便乗は「the initial ‘nudge’」を説明するものとしている.

*10:まず深い腰スラストのみで射精をともなわない交尾があり,最後に急速な浅いスラストによる射精をともなう交尾がある

*11:妊娠中のメスが新しいオスに出会うと流産する可能性が高まる現象を指す.基本的にはオスによる子殺しへの対抗策として理解できるが,ここでは隠れた選択の場合もあるかもしれないと議論されている

*12:純粋のハンディキャップ形質の場合にはそうならないはずだ.連続モデルで考えるとフィッシャー過程の力学も必ず加わるはずだということになるのだろう

*13:なおこれはヒトの個人差についても当てはまるようだ.

*14:カモは鳥類の例外としてペニスを持つが,カモの種間でその長さはレイプ頻度と相関する.またオスのらせん状のペニスの巻き方とメスの膣の巻き方は逆になっていて(つまり挿入されにくくなっていて)進化的軍拡競争の結果と解釈できるのだそうだ.何故メスが勝った形になっているのかは解説されていないが興味深い

*15:多くの無脊椎動物で見られる.ここではクモとトコジラミの例が説明されている.なお精子が体内経由で卵巣を目指すのは生物界ではかなり普遍的でヒトにおいても観察されると解説されている.実際に片方の子宮が閉じている女性でも左右の妊娠確率は変わらないというデータもあるのだそうだ.これはちょっとした驚きだ

*16:トコジラミのメスは注入された精子を偽膣に誘導し血液経由で卵巣に送る仕組みを持つ.

*17:ヒルトハウゼンはこれは少しでも長い方がより相手に多く精子を渡せ,受け取る精子を減らせるからだろうとしている.体外で精子を交換するだから余分にもらったら吸収消化してしまえばよい(そして余分に渡しても吸収消化されてしまう)と考えるとこの説明だけではやや納得感がないところだ.

*18:これはなかなか難しい.祖先形質は逆向き交尾が不利になっていたはずなので,何がこの障壁を越える理由になったかは興味が持たれる

*19:これもAfterwordではなくAfterplayとされている