「深海生物テヅルモヅルの謎を追え!」


東海大学出版部のフィールドの生物学シリーズの一冊.今回はクモヒトデの分類学者のリサーチ物語だ.題名は(おそらく売れ行きを考慮して)ややセンセーショナルな「深海生物テヅルモヅルの謎を追え!」となっているが,実際には著者がツルクモヒトデ屋になるまでの自伝付きの分類という営みにかかる地に足が着いたリサーチ物語だ.


著者は特に深い目的意識なく北大の生物学科に入学したが,そこで無脊椎動物学の分類を行う研究室の紹介に「珍しい生物を見たい」という忘れかけていた夢を強烈に喚起され,そのままその研究室に進学する.研究対象を選ぶに当たっては当初カッコイイ甲殻類や鋏角類をイメージしていたが,図鑑をめくるうちに堅い鱗とくねくねする柔らかさを兼ね備え,しかも自分が何も知らないことに魅力を感じてクモヒトデを希望する.


並行して分類学とはどんなことをするのか,クモヒトデとはどのような動物群か,標本とはどのように作るのかを解説しながら,基本文献のコピー集め,忍路へのサンプリング,そしてサンプルの種同定と話が進む.初めて種同定ができたときの状況はリアルで印象的だ.クモヒトデのようなすべての種が網羅的に図鑑に掲載されているわけではない動物群の種同定は,目の前のサンプルがどの属に属するかの見当がつかない初心者には大変難しい.図鑑だけでは歯が立たず,記載論文に当たって延々と悩むことになるのだ.そしてある日突然すべての記載がストンと一つの結論に収束する.このあたりはフィールドで図鑑と首っ引きになったことがある人にはよくわかるところだろう*1


そこから航海調査船での標本採集と師匠(藤田敏彦博士)との出会い,修士課程進学(北大にはクモヒトデ専門家がいないので師匠の属する科博と連携している東大の院に進むことになる.院入試の神懸かり状態成功談は傑作だ),学振DCの仕組みとそのための業績としての論文,論文材料を求めての苦労とから回り*2,一旦腹をくくって特定分類群(ツルクモヒトデ目の中のタコクモヒトデ科)について徹底的に極めてみることにしたこと,その結果あるサンプルが新種と思われることを見つけ,記載論文への道が開けたことと話が続く.
初めての論文作成については,その内容詳細,師匠の厳しく暖かい指導,膨大な更正,著者の自戒と反省が濃厚に書き込まれており,この自伝のハイライトともいえる部分になっている.そして結局学振DCには間に合わなかったが,論文を書き上げた著者にはある分類群についての全体像が見えるようになる.(著者はこれは「同定」から「分類」ができるようになったと表現している)そしてその結果フィールが以前にもまして楽しくなり,様々なサンプルも集まり,著者は研究者としてのキャリアを目指すようになる.


ここからは著者による海外博物館巡りの話が続く.分類学者としてツルクモヒトデ屋になるには原著記載論文を収集するだけではなく,そのタイプ標本自体を自分の目で調べておくことが非常に重要なのだ.初めての土地への旅情,分類屋たちとの交流の記述も面白いが,著名な分類学者が記載した現物に出会う喜び,記載だけではわからない様々な情報が脳にインプットされていく経験談は大変興味深く,読んでいて楽しいところだ.


こうしてサンプルが集まり,著者はツルクモヒトデ目の分類の整理に取り組む.大変な苦労の末に分子系統樹も作成し,これまでの分類を科レベルで改変し,分子系統樹を裏付けるミクロの形態特徴も明らかにする新分類を提唱する*3


そして博士論文が問題になる.単なる記載,分類提唱だけでは博士号論文としては物足りないということらしい.著者は四苦八苦の末,もう一度データを整理して,クモヒトデ類で腕が分岐するという形質は4回以上独立に進化している*4が,これは40メートルより浅い分布域でしか見られず,浅い分布域に関する何らかの適応形質である*5という考察を組み入れて博士号を取得する.最後に著者は最近の取り組みと併せて,分類学者として分類という営みの社会的価値については意識せざるを得ないが,それでも分類は楽しいのだと強く主張して本書を終えている.


本書はシリーズのお約束の自伝的リサーチ物語として楽しく書けている.周りから見るとやや地味な分類学のリアルがよくわかる.そして読み終えると,そのフィールドは野外フィールド(クモヒトデの場合は航海調査)だけでなくタイプ標本観察のための博物館巡りも重要であって,その意味でも「フィールドの生物学」なのだということがよくわかるという仕組みになっている.私としては枝分岐という大変興味深い形質の詳しい適応的意義も気になるところだ.今後さらに謎が解かれていくことを楽しみにしたい.
 

*1:バードウォッチングなら図鑑と見比べて割と簡単に同定することもできるが,それでも初心者にはなかなか難しい,そして見慣れない鳥について最初に自力で同定できたときは大変うれしいものだ.

*2:当時はやりの分子系統樹づくりに手を出してみたが,うまくいい系統樹を得ることができなかった

*3:これまで4科だったものを2上科,6亜科に再編.いくつかの分類群は亜科レベルで組み入れを替える

*4:これまで腕の分岐形質は近縁性を示すものと解釈されていたので,これ自体著者のリサーチによる発見ということになる

*5:逃避行動が素早くなり固着性の生物に絡んで捕食から逃れる必要性が減少したことと効率的な餌取得が関連すると考察されている