協力する種 その22

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

第5章 協力するホモ・エコノミクス その3

本章において,著者たちは,フォーク定理で繰り返しゲームを語り,進化ゲームにも少し言及し,混合戦略のインセンティブにもちょっと手を出し,結局情報が公的で正確であるかどうかが重要だという論点を繰り返し強調してきた.なかなか回りくどくて読みにくい.しかし結局言いたいことはこの後の社会規範の役割だったということなのだろう.著者たちはこう議論を進める.

社会規範と相関均衡
  • ゲーム理論にはナッシュ均衡のような(情報の不正確性に関する)弱点を持たない均衡が存在する.それが相関均衡(correlated equilibrium)だ.これは相関装置(correlating device)があり,すべてのプレーヤーが相関装置の指示に従えば,どのプレーヤーも手を変えてより高い利得を得られなくなるという均衡だ.
  • ナッシュ均衡より,相関均衡の方が,現実世界の均衡概念として適切だという見解が一般的だ.これはゲームとそのルール,利得に関する情報に加えて,関連する自然現象の生起確率についての共有信念を共有知識として仮定すれば,合理的個人が選択する戦略を相関均衡としてモデル化できるからだ.
  • 相関装置は抽象概念だが,社会規範は1つの相関装置だと見なせる.具体的には都市交通の信号システムを考えればわかりやすい.
  • 繰り返し囚人ジレンマゲームにおいて両プレーヤーが振り付け師の指示に従うなら,振り付け師は,両プレーヤーが指示に従わなければ利得が下がるという状況を作り,フォーク定理で実現可能な利得の組み合わせの中でパレート最適な組み合わせをどれでも実現できる.


ここまではわかりやすい.道路は右側通行でも左側通行でもいいが,規則としてどちらかに決まっていることが重要なのだ.ではその規則はどう決まるか,ここから著者たちの説明はわかりにくくなる.

  • 社会規範に支えられる協力均衡は進化的に安定だ.そしてその社会規範そのものも進化の産物であり他の社会規範の侵入に対して安定である.
  • 社会学者はすべての社会に規範があり,それが戦略的相互作用に決定的な影響を与えることを発見した.
  • ただし社会規範によって確実に均衡が保証されるわけではない.エラー,メンバーの入れ替わり,意図的な逸脱によって人々が規範の指示に従わない可能性があるからだ.
  • 規範の指示が個人の信念と不一致だったり,個人に不利益をもたらすなら個人はそれに従わないだろう.つまり規範の指示は,他メンバーの行動に対する最適反応になっていなければならず,個人的な信念とも一致していなければならない.
  • だから社会規範は中央集権のデウスマキナでもたらされるようなものであってはならない.我々の目的はボトムアップで協力が産まれることを説明しようというものであり,規範自体が力学系の中から生じるものとしてモデル化されなければならない.社会規範と時とともに変化しうるもので,それを持つ集団にとって不利になるようなものはグループ間淘汰で淘汰されるだろう.社会規範は社会や人口の変化によって進化的変容を遂げるのだ.


いろいろ突っ込みどころが満載のように感じる.
社会規範が進化産物であるから安定(均衡)だというのはどのような根拠によるのだろうか.観察される社会規範には短期的に実現されているだけのものもあり,動学的な安定均衡に達していないようなものが含まれるだろう.
規範が安定均衡を実現するものであれば,それは他者行動への最適反応でなければならないというのはよくわかる,しかし個人的信念と一致していなければならないというのは茫洋としていてよくわからないところだ.「利得を下げても個人的信念に従うことを優先する」という状況を考えているのだろうが,そもそも進化的なアプローチから見て,(ここでの利得が適応度に近いなら)その個人的な信念は進化可能なのだろうか.あるいは(経済学的な議論として)個人的信念に従うことに効用があるなら,このような場合当事者にとっては規範に従わずに信念に従うことによって効用が上がっているわけであり,そもそも規範自体が安定均衡ではなかったことになるから,このような安定均衡を考える際には各人の個人的信念も計算に含めるべきだと言っているのだろうか*1.あるいは長期と短期で異なることを想定しているのだろうか.いずれにせよわかりにくい.
最後の,中央集権的な強制的な規範で「あってはならない」というのはどういう意味だろうか.そういうものが存在したはずはないということをいっているのだろうか.著者たちの説明としてはそういうものを考えたくないということだろうか.これは実は重要なところだ.ボトムアップアプローチでもこのような中央集権的な規範の存在は説明可能だ.権力を持つものが,持たないものを操作しようとして(権力の行使あるいは洗脳によって)規範を押しつけることは実際に可能だろう.そして組織的宗教の宗教的な規範はそのようにしても説明可能だ.そして操作目的の規範がメンバー間の協力を生みだしてもおかしくはない(権力者にとっても社会が協力的で生産的であることは得になるからだ).
ヒトの協力をグループ間淘汰により説明しようとするマルチレベル淘汰論者には,この「操作」としての宗教や権力の観点が希薄であることが多い.これは彼等の議論の重要な欠陥のように思われる.これについては関連章でまた採り上げることにしよう.

5.6 行方不明の振り付け師

ここからは本章のまとめになる.

  • 繰り返しゲームにかかる経済学理論は均衡の存在を証明するが,それがいかに達成されるかについては説明しない.ここではフォーク理論について説明したが,「見えざる手」についても同様である.
  • 罰により協力を維持するフォーク定理の解においても非協力を抑止するためには高度な調整が必要で,振り付け師なしでは難しく思える.
  • しかしこのような高度な調整を行う規範や制度はヒトの先史時代には存在していなかっただろう.それは数千年の歴史の中で試行錯誤を経て進化してきたのだ.
  • ここで(その数千年の進化を経てきた)現実の規範・制度がどのようにして問題を解決しているのかを見てみよう.
  • まず,私的な情報がさまざまな慣習によって公的情報に変換される.(公共の場で食事をすること,相互監視の仕組み,裁判制度など)
  • 第2に,厳格な罰の実行を委託された専門家集団が存在する.
  • しかしいずれの仕組みも完全ではないし,そもそも制度が機能するには関与する人々が倫理的行動にコミットしていることが必要になっている.
  • 既存の経済学理論は,(現実的であることよりも単純であることを志向するために)道徳観念を持たない利己的な個人間で協力が生じることを説明できないのだ.


結論としては既往の経済学理論でヒトの協力の起源を説明できないということになる.ここはその通りだろう.

*1:であれば安定均衡を計算するには,すべてのプレーヤーの個人的信念込みの個別の利得表が必要になるだろう.しかもその各個人的信念が変化するなら動的な分析が必要になることになる