協力する種 その23

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

協力する種:制度と心の共進化 (叢書《制度を考える》)

第6章 祖先人類の社会 その1


第6章冒頭部分で著者たちはこれまでの進化生物学者進化心理学者たちが議論してきたことをまとめ,そのような議論が想定していたEEAと実際のヒトの祖先環境は異なることをこれから説明すると始めている.しかしここでも彼等はこれまでの議論についての知識の浅薄さをさらけ出し,かつ,引き続き我田引水的な議論を行っていて見苦しい.


彼等はまず最初にトリヴァースをこう引用している.「個人間の不平等は,包括適応度にとっては非常に高いコストをもたらす可能性がある.この意味において,公正感や正義へのこだわりは自己利益に合致している」そしてこれは「公正感は,それを備えた人間の評判が高まることにより,相互作用を通じた包括適応度が増加する」ことを指していると書いている.
しかしなぜ(直接互恵性でなく)間接互恵性の説明にトリヴァースを持ち出すのだろうか.不審に思って引用されているトリヴァースの原文に当たってみると,当該部分はこう書かれている.

One needs a standard by which to judge deviations from symmetrical (or fair) interactions, the better to detect cheaters. Such cheating is expected to generate strong emotions because unfair arrangements, repeated often, may exact a very strong cost in inclusive fitness. In that sense, an attachment to unfairness or justice is self-interested and we repeatedly see in life ,as expected, that victims of injustice feel the pain more strongly than do the dis interested bystanders and far more than do the perpetrators.

(私訳)騙しをうまく見分けるためには,対称性あるいは公平からの逸脱を判断する基準が必要になる.そのような騙しは強い感情を引き起こす.それは不公正な扱いを受けることは,特にそれが繰り返されるなら,大きな包括適応度上のコストになるからだ.そのような意味で不公正や正義への執着は自己利益的だと言える.そして予想通り,我々は,人生において不公正の犠牲者の方が,第三者よりも強く痛みを感じ,そして不公正を引き起こしたものよりはるかに強く痛みを感じているのを繰り返し目撃するのだ.

そして前後を読むとこれは直接互恵性についての議論であることがわかる.(そもそもこの引用された論文の表題自体「reciprocal altruism: 30 years later(互恵性:30年後)」であり,トリヴァース自身の提唱した直接互恵性についての議論であることは明らかなのだ.*1)なぜ彼等はこんないい加減な引用と解説を行うのだろうか.


ともあれ本筋に戻ると,著者たちはここからドーキンスが「God Delusion(神は妄想である)」において「血縁に基づく淘汰」「互恵性」「間接互恵性」「コストのかかるシグナル」の4つのモデルで現代人の利他性の起源を説明したとして引用している.
まずここで,ドーキンスがこう議論しているなら(そして実際にこのような議論をしているわけだが)彼等がこれまで本書でほのめかしていた「ドーキンスの『利己的な遺伝子』における議論は『個人が利己的であるほかない』ことを示唆している(だから誤りだ)」という記述が全く誤りだということになる.そしてそれは実際に全くの誤解なのだが,彼等はこれを引用していながら,なぜこの誤解に満ちたほのめかしを続けているのだろうか.ボウルズとギンタスのドーキンスに対する態度は支離滅裂で,全くロジカルではないといわざるをえないだろう.
次の問題はドーキンスはが血縁淘汰を持ち出すときにはそれは当然ハミルトンの議論であり,著者たちの独自の怪しげな概念『血縁に基づく淘汰:kin-based selection』ではない.著者たちの用語に直すならそれは(これも本来使うべきでない)『包括適応度淘汰』であるべきだ.*2


このような不誠実な態度を一旦おいておくと著者たちの議論は,ここでドーキンスの想定しているEEAが適切かという部分にかかるものになる.ドーキンスのEEAの記述は以下のようなものだ.

  • 小さな集団であるバンドで暮らしていた.それは隣接バンドから隔離され,メンバーのほとんどは血縁者で,他のバンドのメンバーに比べてより近縁であった.
  • 近縁であろうとなかろうと,一生を通じて同じ人間と何度も繰り返し出合うことになった.


次に著者たちはコスミデスとトゥービイを採り上げる.ここでは彼等の議論が基本的にドーキンスと同じであること,そしてこのような社会的選好は現代環境では個人の適応度を下げてしまうと考えており,そこもドーキンスと同じだとまとめている.これはいわゆる現代環境とEEAのミスマッチの議論だ.彼等のミスマッチ議論の要約は以下のようになっている.

我々の祖先は滅多に見知らぬ人と遭遇しなかったため,人間は実験室と現実世界のいずれにおいても,1回限りの相互作用と長期的な相互作用を区別できない.そのため,見知らぬ人でも親しい仲間であるかのように扱ってしまうのである.

この要約は重大な点で大きな誤解がある.EEAで適応形質として進化したモジュールはどのようなものかについての理解が間違っているのだ.ボウルズとギンタスは,条件付きの行動戦略は,その条件について意識的に判断しているはずだと誤解しているのだ.しかしそれはその条件自体についての意識的な判断である必要はない.その条件と相関のある何らかの別の手がかりを用いていてもかまわないのだ.


そこから著者たちの議論はこう続く.

  • 繰り返し相互作用における評判形成,近親間での頻繁な相互作用が協力の進化に貢献したことは間違いないだろう.
  • しかしこれだけでは協力の進化は満足に説明できないと考える.
  • 第1に,(第3章で見たように)現代人は評判形成と非協力者への報復が可能な状況と不可能な状況を完全に区別できる.
  • 第2に,初期人類が家族や近親者以外とほとんど接触しない環境で生活していた党見解は,知られている事実と一致しない.


この第1の理由は先ほどの著者たちの誤解に基づく.第3章で見たように彼等は至近要因と究極要因の区別ができていないのだ.著者たちとしてはこれは既に第3章で議論済みということになる.(そして私も論評済みだ)というわけで第6章の議論はこの第2の理由付けにかかるものになる.そして著者たちは以下のように本章の議論の見取り図を示している.

  • 我々は後期更新世の人類の協力行動が,血縁に対する利他性や互恵的利他性によって説明されるという見解に否定的である.想定される集団サイズ,集団内での遺伝的関係性,人口統計から見てそれは支持されない.
  • 当時のヒト集団は小さく閉ざされた集団の中で暮らしていたわけではない.我々の祖先は公共心を持つコスモポリタンで戦争が大好きだった.これを考古学的,民族誌的なデータから明らかにしていきたい.


本章の議論のポイントは,考古学的民族誌的データは何を示しているかというところにあることになる.

*1:なおこの小論の中では直接互恵性が多人数のグループでは成り立たないという議論に対して,多人数のグループで会っても相互作用は2者,あるいは3者間で行われることが普通であり,批判は当たらないという反論を行っている.これもちょっと面白いところだ.もちろんボウルズとギンタスはこのあたりについては完全に無視している.

*2:そして原文の「kin altruism」についての引用部分でもこの『血縁に基づく淘汰』という用語を用いている.あるいはこれは訳の問題かもしれないが,もしそうでないなら原文の捏造というべきだ