Enlightenment Now その9

第4章 進歩恐怖症 その2

ピンカーはインテリの間にある進歩恐怖症,そして一般の人々にあるニュースの性質の利用可能性バイアスから来る悲観主義を解説し,それを是正するためにデータとグラフを見せるだけでは不十分だったことを述べ,典型的な否定的反応を紹介した.

  • 私は暴力の減少以外の人間社会の進歩のプレゼンを行うにあたってこれらの反論をよく吟味した.
  • 「暴力の人類史」に対する信じられないほどの反動的な反応は,人々の悲観主義や運命主義の理由はニュースの性質と悲観主義だけにあるわけではないことを私に納得させた.進歩恐怖の心理的な基盤はもっと深いのだ.
  • 最も深い基盤的バイアスは「悪は善より強力だ」というスローガンによく表されるものだ.このアイデアはトヴェルスキーによる思考実験によってよく示される.「あなたは今より良く感じる状況をどの程度想像できますか」「あなたは今より悪く感じる状況をどの程度想像できますか」この2つの質問にどう答えるか.多くの人は前者には今より少し良くなることをいくつか答えられるだけだが,後者に対しては底なしに悪い状況をいくらでも想像して答えられる.これは人生の質も一種のエントロピーであることを反映しているのだろう.
  • そして心理学的なリサーチは人々が将来のゲインを楽しみにするよりもはるかに強くロスを恐怖することを示している.実際に英語の語彙には良い感情を示す語よりもはるかに多くネガティブな感情を示す語がある.
  • このネガティヴィティバイアスの例外は自伝的記憶だ.我々は確かにネガティブな事件をより記憶するが,その否定的カラーは時間とともに薄れる.我々はノスタルジアに向かって配線されているのだ.
  • あと2つ過去の記憶を歪めるバイアスがある.1つは大人になり子育てを行うことに伴う義務を純粋無垢から遠くなると感じること,もう1つは(老いによる)個人的能力の衰えを全般的な時代の衰退と混同することだ.
  • インテリ文化は本来このような認知的バイアスに抵抗すべきだ.利用可能性バイアスを克服するには定量的思考が重要だ.しかしスティーヴン・コナーによると「芸術と人文科学の世界には,数字に関する領域についての浸食的な恐怖が例外なくみられる」のだそうだ.このイデロオギー的な数理音痴性は「過去戦争があり,現在も戦争がある」ことだけから「何も変化はない」という結論に飛びつかせてしまう.
  • そしてインテリ文化はネガティヴィティバイアスにも対処できない.それどころか悪いことへの警戒心は,常に危機を叫ぶという職業的気難し屋の市場を創り出している.リサーチによると批判的書評は肯定的書評よりよりコンピテントだと評価される傾向がある.「常に最悪を予測せよ,そうすれば預言者として喝采を受ける」というわけだ.実際にジャーナリストたちは,自分たちの記事に否定的な色づけをすることで番犬やホイッスルブローアーとしての義務を果たしていると信じている.そしてインテリたちは,「問題は解決不能で社会の宿痾だ」と指摘すると尊敬を受けることをよく知っているのだ.
  • そして逆も成り立っている.悲観主義的言説は読者を助けようとしていて,楽観的言説は何かを売りつけようとしていると取られやすい.何か問題の解決策が提示されると,批判者たちはそれは万能薬ではなく,副作用のある弥縫策に過ぎないと指摘する.もちろんこの世界には魔法の弾丸はない.でもこのような修辞的批判は単に進歩の可能性を探ることを拒否しているだけだ.
  • インテリたちの悲観主義は,相手を出し抜こうとする戦略のひとつでもある.現代社会ではあらゆるフィールドでエリートたちが競争している.現代社会の批判はライバルを引きずり降ろすバックハンドの手になる.つまりアカデミアはビジネスパーソンを見下し,ビジネスパーソンは政治家を見下し・・・ということができるのだ.


ここではピンカーは(単なるマーケティングの有効性だけでなく)「悲観主義的な方が楽観主義的であるより利口に見える」という「認知能力のディスプレイ」が生む影響についてはあまり触れていない.職業的マーケティングを指摘しておけば十分だという判断かも知れない.しかしおそらくその基盤の一部は認知能力ディスプレーにあるだろうし,この影響も大きいのだろう(特にインテリの間では強そうだ).そしてこの場合ディスプレイには特有の「うまくディプレイするにはその欺瞞性については報道官は気づいていない方がいい」ということから深い自己欺瞞とセットになっていることが多いだろう.これもなかなか厄介なところだ.

  • もちろん悲観主義にもいいところはある.同情の輪の拡大はそれまでの醜悪な時代に無視していた害悪に気づかせてくれる.今日我々はシリアの内戦について人道主義的な悲劇だと認識できる.しかし少し前まではそうではなかったのだ.私が子供だった頃はいじめは少年世界の自然な出来事だと考えられていて,大統領がそれについてスピーチする日*1が来るとは思いもしなかった.
  • しかし徹底的な否定主義は意図しない結果を生みだしうる.ニューヨークタイムズのボルンシュタインとローゼンベルグは(メディアの傾向について)ベトナム戦争ウォーターゲート時代までさかのぼった上でこう回顧している.

トランプは,アメリカのジャーナリズムのほぼユニバーサルな信念の受益者だ.その信念とは「『重大なニュース』とは『何かが悪くなっている』と定義できる」というものだ.何十年にもわたるメディアによる「治癒不可能な社会の宿痾」問題への集中は,トランプが不満と絶望の種をまく土壌を提供したのだ.その結果今日の多くのアメリカ人は,物事を少しずつ累積的によくすることなんかできないんだと信じるようになった.それは革命的なシステム変更,既往制度をぶっ壊せ運動への嗜好につながったのだ.

  • もし進歩恐怖がヒトの本性に根付くものなら,そもそも私の示唆自体が利用可能性バイアスによる幻想なのだろうか.(この後の本書の議論のスタイルを先取りして)客観的な測定結果を示しておこう.(ここで1945年〜2005年までのニューヨークタイムズの記事,1975年〜2010年までの130カ国のワールドブロードキャストデータにおいて,ニュースのトーンの時系列の動きを計測した結果を図示したグラフが掲載されている)ニュースのトーンが時代とともに悲観的になっている傾向はリアルなのだ.


ここまでがピンカーによる「なぜ『進歩』があったかなかったかをデータを使ってみていくなどという試みを行うのか」の理由付けの説明ということになる.それは世の中に進歩恐怖症,進歩否定信念が蔓延しているからだ.彼等に対する批判は第3部で行われることになるので,ここではなぜそういう信念が蔓延しているかだけ説明すればいいはずだが,結構辛らつな批判も混じっている.やはり筆が止められなかったということだろうか.あるいはある程度は否定的トーンを入れ込んでおいた方が第2部全体が頭に入ってきやすいからということなのだろうか.


ここからは第5章以下の予告編になる.

  • 進歩とは何だろうか.あなたは,その質問は主観的で文化相対的であり回答不能だと考えるかも知れない.しかし実際のところそれは最も回答が容易な質問なのだ.
  • ほとんどの人は生は死よりいいということに同意するだろう.そして健康は病気より,満腹は飢餓より,豊穣は貧困より,平和は戦争より,安全は危険より,自由は恐怖政治より,平等は差別より,識字は文盲より,知識は無知より,知性は無知性より,幸福は悲惨より,家族や友人や文化や自然を楽しむ機会がある方が単調な苦役よりいいことに同意するだろう.これらすべての事柄は計測可能だ.もしこれらが時代とともに増加しているのなら,それが進歩なのだ.
  • すべての人がこのリストに完全に同意しないかも知れないことは認めよう.これらの価値はヒューマニスティックなもので,救済,神聖,英雄,栄光などの宗教的,ロマン主義的,貴族的価値とは袂を分かっている.でも多くの人がこれが不可避のスタートであることを認めるだろう.抽象的に超越的価値を導き出すことはたやすいが,多くの人は生きていることや健康や安全などをまず大事に思っている.それにはこれらの事柄がすべての前提になっているからだという明白な理由があるのだ.あなたがこれを今読んでいるということは,あなたは死んでおらず,飢えてもなく,識字能力があり,恐怖におののいても,奴隷になっているわけでもないだろう.それはあなたがこれらの事柄を無価値だとしたり,他の人があなたと同じ幸運を得たいと望むことを否定したりできるポジションにないことを意味するのだ.
  • そして,実際に,世界はこれらの価値に同意している.2000年,国連のすべての加盟国189カ国は(これらの価値に基づいている)2015年までの8つのミレニアム開発目標に同意した.
  • ここからが衝撃的な事実だ:このすべての人類のウェルビーイング指標において世界は素晴らしい進歩をしている.そしてさらに衝撃的な事実:ほとんど誰もそのことを知らない.
  • 人類の進歩についての情報は,確かにメジャーなニュースメディアには流れていないが,見つけるのは簡単だ.素晴らしいウェッブサイトにきれいに整理されている.(いくつかのサイトの紹介がある)華麗に書かれた本もある.(17冊の本が紹介されている)そしてリスト好きの人のためのリストもたくさんあるのだ.(リストが多数紹介されている)最も私の好みに合うのは「私たちが現在世界史上最も偉大な時代にいることについての50の理由(Reasons)」というものだ.ではその理由(Reasons)をいくつか見てみよう.


ピンカーが紹介しているサイトや本のうちいくつかを並べておこう.


<ウェブサイト>


<本>

The Progress Paradox: How Life Gets Better While People Feel Worse

The Progress Paradox: How Life Gets Better While People Feel Worse

The Infinite Resource: The Power of Ideas on a Finite Planet

The Infinite Resource: The Power of Ideas on a Finite Planet

The Rational Optimist: How Prosperity Evolves (P.s.)

The Rational Optimist: How Prosperity Evolves (P.s.)

The Case for Rational Optimism

The Case for Rational Optimism

Utopia for Realists: And How We Can Get There

Utopia for Realists: And How We Can Get There

Abundance: The Future Is Better Than You Think (English Edition)

Abundance: The Future Is Better Than You Think (English Edition)

The Moral Arc: How Science Makes Us Better People

The Moral Arc: How Science Makes Us Better People

このうち「The Infinite Resource」についてはピンカーはカバーの推薦文を書いているようだ.この中で私が読んだことがあるのはリドレーの「The Rational Optimist」(邦題:繁栄)だけだ.「The Rational Optimist」についての私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100925,訳書情報はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20101020


<リスト>

ピンカーが最後に紹介しているリストはこちら

*1:オバマ大統領は2011年にそういうスピーチをしているそうだ