Enlightenment Now その22

第9章 不平等 その4


ピンカーは格差の歴史を概観してきた.ここから核心の疑問「で,この格差の推移によって世界は悪くなっているのか,進歩していないのか」を扱う.

  • 「過去30年の格差の増大は,金持ちのみが栄え,皆は停滞か悪くなっている,つまり世界は悪くなっているということを意味する」という主張は正しいのか.
  • 確かに金持ちは栄えている.それは本来受け取るべき以上なのかも知れない.しかし「皆が停滞もしくは悪化している」という主張は間違いだ.
  • まずそれは全世界ベースで虚偽だ.人類のマジョリティはずっとよい状況になっている.確かにこの途上国の人達の状況好転の一部はアメリカの中流階級の負担によっているというのは正しいし,もし私がアメリカの政治家なら「このトレードオフを受け入れるべきだ」とは公式には言わないだろう.しかし世界市民として全人類のヒューマニティを考えるなら,このトレードオフの受け入れには価値があるというべきだろう.
  • 次に,富裕国の下層階級や中流下層にとっても穏やかなゲインは生活水準の低下を意味しない.今日の格差を巡る言説では,しばしば現在と「オートメーションとグローバル化で失われた黄金時代のしっかり賃金を支払われた品位あるブルーカラー職」とが比較される.こののどかなイメージは当時の労働階級の厳しさを偽っている.(ここで当時の厳しい状況の同時代的な記述が詳しく紹介されている)
  • どうすれば最近の生活水準の上昇と,巷にあふれる経済停滞認識をすり合わせられるだろうか.
  • まず,相対的繁栄と絶対的繁栄の違いをはっきりさせるべきだ.ウェルビーイングにとって重要なのは,絶対的な所得であり,彼等の社会の中のランクではない.ミドルクラスの空洞化が生じた理由の一つはほとんどのアメリカ人の生活水準が豊かになったからだ.
  • 次にはっきりさせておくべきなのは,入れ替わっていく層を追いかける場合とある特定個人たちを追跡した場合の違いだ.仮にアメリカの下位1/5タイルの所得が30年間不変だったとしても,それはそこに属していた人々の所得が上がらなかったことを意味しない.そこにいた個人は2/5タイルに上昇しているかも知れないのだ.これが世論調査における楽観主義ギャップの原因の1つだろう.アンケートによると過半数アメリカ人は「中流クラスの生活水準は下がっているが,自分の生活水準は上がっている」と答えるのだ.
  • また低所得層の状況は,累進課税社会保障などの社会移転により好転していることも知るべきだ.右派も左派もアンチ貧困プログラムには懐疑的だが,実際には貧困は減少しているのだ.(ここでアメリカの過去50年の貧困率の推移暗く蛾示されている.可処分所得によっても消費水準によっても貧困率は30%程度からそれぞれ10%程度,5%以下へと低下している;元データはメイヤーとサリバン2017)
  • 消費水準で見た貧困率の低下カーブは巷にある(所得から考える)認識の問題点を浮き彫りにする.人々が欲していたり必要だったり好きだったりするもののために一体いくら払っているかを経済学者は消費と呼ぶ.そして所得でなく消費で貧困を見ると,アメリカの貧困率は1960年以降30%から3%に低下していることがわかる.所得格差を生んだと非難されている2つの要因が,消費の格差を減少させているのだ.
  • 1つはグローバル化だ,グローバル化によって所得面では勝者と敗者が生まれるのかも知れない.しかし消費においては皆勝者になる.アジアの工場,コンテナ船,効率的な小売業はかつて富裕層向けでしかなかった商品を大衆が消費可能にしている.
  • もう1つは技術だ.テクノロジーの進展は所得の持つ意味を継続的に革新し続けている.今日の1ドルで買えるものは過去の1ドルで買えるものよりはるかに良い人生を提供するのだ.
  • グローバル化と技術進展によって,特に途上国では,貧困であることの意味が全く変わってしまった.かつての貧困者はやせこけて道端でぼろをまとっていたが,現代の貧困者は雇用者と同じように肥満で,フリースとジーンズとスニーカーを身にまとっている.そして現在のアメリカの貧困ラインより下の95%は電力と上水道の供給を受け,水洗トイレと冷蔵庫とカラーテレビを持っている.(150年前だとロイチャイルド一族でもこれらは持っていなかった)そして最も貴重な時間,自由,価値ある経験の水準は,あまねく上昇しているのだ.
  • 富裕層の改善度はそれに比べると大したことはない.確かにウォーレン・バフェットはより多くのエアコンを持っているかもしれない.しかし歴史的に見て貧困層のマジョリティがエアコンを持っているというのは驚くべき状況なのだ.


まずピンカーは世界全体で皆の所得水準が上昇していること,そしてその中で痛手を受けているとされる先進国の中流下層クラスも絶対水準では向上していることを指摘する.そして所得だけで考えることは数十年単位でのウェルビーイングを考える上ではいい方法ではないことを強調している.確かにウェルビーイングを見るには所得より消費が向いているし,それも貨幣価値ではなく,真に何を得ているかを見るべきなのだ.そしてそう考えると貧困層の生活水準は大幅に向上し,格差は大きく縮小しているということになる.実際に現在では先進国のマジョリティの人が「エアコンの効いた部屋でネットにつながりながら大型カラー画面で映画を鑑賞する」ことができるが,これは20世紀中葉までならどんな大金持ちでも事実上不可能だった贅沢だ.明らかに貧者にとって世界は良くなっているのだ.

  • もちろんここ数十年で先進国の下層と中流クラスの生活が改善してきたということを認めるからといって,21世紀経済に問題がないことになるわけではない.彼等の所得上昇率は鈍く,消費者需要を(本来より)押し下げて,経済に下向きの力を加えているのかも知れない.中年の教育程度の低い田舎にいる白人アメリカ人の苦境はリアルで悲劇的なものだ.それは薬物利用水準や自殺率に表れている.ロボット技術は多くの職を危機に陥れるし,自動運転車は運転手の職をなくすかも知れない.教育は現代経済が要求するペースについて行けていない.税システムは穴だらけで,政治に金の影響が及びすぎている.
  • それでも,視野狭窄的に所得格差のみに注目し,20世紀中葉を懐かしがるのは間違っている.現代世界は改善し続けているのだ.アメリカ人にプリウスではなくポンティアックを買うように強制すべきではないし,ハリー・ポッターシリーズを著者を億万長者にするからという理由で排除するのは馬鹿げている.労働者にかつてのような危険で単調な仕事をさせようとすべきでもない.
  • 個別の経済問題は個別に解決を考えるべきなのだ.そして明白なプライオリティは経済成長率を上げることにある.それは分配する元になるパイを大きくするからだ.過去の政府は成長と分配の両方の役割を負っていた.
  • 社会支出の大きな歴史的トレンドにおける次のステップは,おそらくユニバーサルはベイシックインカム(あるいは負の所得税)だろう.その社会主義的な香りにもかかわらず,このアイデアミルトン・フリードマンリチャード・ニクソンに支持されている.もちろん実施に向けた制度構築は容易ではないが,それは複雑怪奇でつぎはぎだらけの現行の福祉政策を合理化できるし,ロボットのような技術進展に伴う職種転換の痛みを緩和できるだろう.


この部分のピンカーのコメントは味わい深い.ピンカーは経済学者でもエコノミストでもないが,経済政策の目標はまず経済成長,それから再配分を考えるべきであり,それは簡素な形のベイシックインカムや負の所得税の形が望ましいと論じている.優れた知性を持ってより多くの人々の幸福をフラットに考えるとそうなるということだろう.


ピンカーは最後に本章の複雑な議論をこう要約している.

  • 格差は貧困とは異なる.そしてそれは人類の繁栄の基本要素でもない.国別のウェルビーイングの比較を見ると,格差の問題は富の総量の問題に比べて圧倒的に色あせる.
  • 格差の拡大は必然的に悪であるわけではない.社会が貧困から抜け出す際にはしばしば一旦不平等状態を通る.それは社会が新しい富の創造方法を見つけたときに繰り返し生じうる.
  • 格差の縮小も必然的に善であるわけではない.社会はしばしば疫病や大規模戦争や暴力的革命や国家の崩壊とともに平等化する.
  • 啓蒙運動以降の歴史的な長期トレンドはすべての人々の富の増加だ.そしてそれは経済成長だけでなく,現代国家による再配分政策の進展にもよっている.
  • グローバル化とテクノロジーの進展によって何十億の人々が貧困から抜け出し,グローバルなミドルクラスを形成し,それによりグローバルな格差は縮小している.それらの力は同時に分析力や想像力や経済力がグローバルリーチを持つエリートを富裕にした.先進国の中下流層はそこまで幸運ではなかったが,彼等の所得も上昇している.そしてその改善は社会支出,人々が欲する製品の価格下落と性能向上によって強化されている.
  • いくつかの面では世界は不平等化しているが,それより多くの面で世界中の人々の生活は向上しているのだ.