EVOLINGUISTICS 2018「言語とコミュニケーションの進化」参加日誌 その2


8月3日 キーノートレクチャー2 東京大学駒場キャンパス 21KOMACEE East


言語進化に関する連続講演会企画「EVOLINGUISTICS 2018」.
8/2の文京学院大学ふじみ野キャンパス(埼玉県ふじみ野市)の講演(脳の形態や道具との関連についてのもの)と東京学芸大(小金井市)の講演(社会的理解と向社会的行動の初期発達に関するもの)は都合がつかなかったが,8/3の駒場のキーノートレクチャーには参加できた.講演者は言語学者側からのキーノート講演者であるセドリック・ブックス.言語学者側のキーノートということで岡ノ谷ではなく藤田耕司からの紹介を受けて登壇.ちょっとしたジョークから話を始めた.


ロジカルからバイオロジカルへ(From the Logical to the Biological) セドリック・ブックス(Cedric Boeckx)

  • 今日の外はとても暑い(当日の東京の最高気温は35.4℃だった)ので,この空調の効いた部屋からは出たくないよね.だから私にはいつまでも喋り続ける誘因がある.聴衆の皆さんは囚人のような環境になりたくないでしょう.日本の学生はとてもシャイだとは聞いているが,是非活発に質問なりコメントなりの反応をして欲しい.
  • 今日の話は今(言語学専攻の)学生向けに書いている本の内容に沿ったものだ.そして今日の皆さんの反応によりこの本を書き続けるかどうかを決めようと思っている.だから是非いろいろ反応して欲しい.
  • さて,これまでの言語学にとってとてもパワフルな物語がある.それはノーム・チョムスキーによって作られたものだ.(ここで以下の2冊の本がスライドで表示される)

  • これが言語学の伝統を形作ってきたのだ.チョムスキーの最も大きな貢献は階層構造でも深層構造でもない.それは言語とヒトの心の関わりをリサーチプログラムとして提示したことだ.
  • そしてもしヒトの心が問題になるなら,本来ダーウィニズム,進化に興味が持たれるはずだ.言語の生物学に皆熱狂するはずではないか.
  • しかし実際にはそうならなかった.言語学者は進化にあまり関心を抱かなかった.チョムスキー自身「言語進化はミステリーであってプロブレムではない」と言い放ち,言語の進化に興味を抱かなかったのだ.私自身が(言語学専攻の)学生だったときには「言語進化など追求すべきではない,それは引退してから遊ぶものだ」と言われた.
  • 何故そうなのか.私はこれについて随分考えてきた.その理由を考えるにおいて役に立ったのは,言語学のロジックを考えることだ.
  • チョムスキーのAspectsの第1章のイントロダクションも今でも読む価値がある.そこでチョムスキーは自然淘汰自体に懐疑的であると書いている.
  • そしてKnowledgeはいまでも有用な本だ.そこではネイティブスピーカーがその言語について何を知っているかが分析されている.その知識はとても豊かで洗練されている.ではそれはどこからもたらされたのか.チョムスキーはそれは教育や経験によるものではないと論じた.
  • 学習や環境の影響でないとするなら,論理的には生得的ということになるはずだ.しかしチョムスキーも言語学者たちもそうはいわなかった.somehow獲得されたのだとしかいわないのだ.そしてチョムスキー派と反チョムスキー派の議論は学習可能かどうかの点に絞られた.そしてチョムスキー派は学習ではないとしたのだ.当時,ではどうやって言語を獲得するのだと聞かれたチョムスキーは「私は知らない」と答えている.チョムスキーは学習や環境を認めず,しかし生物学(生得性)も認めなかったのだ.
  • 学習を否定したチョムスキーの議論はとてもロジカルだ.それは「刺激の不足」の議論だった.
  • (チョムスキーがこのような議論を行った)当時生物学はまだ遺伝子の作用についてあまり強い主張ができる段階ではなかった.だから生成文法家はどのような生物的な仮定でも自由に持ち出せた.しかしだんだん生物学の理解が進展してくると,遺伝子が1種のレシピであることがわかってきた.だから例えば「動詞節」や「名詞節」の獲得を直接遺伝子の作用とすることは不可能になったのだ.
  • ここで言語学者には選択肢があった.生物学にベットするなら,それは進化にコミットすることになる.ヒトの本性は進化によって形作られたはずなのだ.
  • しかしチョムスキーはそれを否定した.言語はヒトにしかなく他種にはない.(だからこれほど複雑な言語が進化時間で突然現れたことになり,それは不可能だ)これは「遺伝の不足」議論と呼ばれる.つまりチョムスキーは環境も進化もどちらも否定したのだ.
  • なぜチョムスキーはここまで進化を否定するのだろうか.ここからは私の推測も混じっているが,次のような事だろうと思われる.
  • まずチョムスキーはスキナーを厳しく批判している.環境への応答だけで動物やヒトの多様な行動が説明できるはずがないという議論だ.そしてチョムスキーにとってダーウィンの議論はスキナーと類似しているように感じられたのだろう.ダーウィンの自然淘汰は結局環境条件に適応して進化が生じる.つまり環境に依存しない物理法則のようなかっちりした議論ではなく,環境への(単純な)応答で複雑なものを説明しようとする怪しい議論に感じられたのだ.これが彼を進化の否定に向かわせた理由だろう.

  • これについてチョムスキー自身はそう明言していない.しかしここにチョムスキーに近い哲学者と言語学者が書いた「What Darwin got wrong」という本がある.この本には前半でダーウィニズムで説明できない(と彼等が思い込んでいる)事例が集められ,後半でダーウィンは間違っていると断言している.そしてその部分にはダーウィンとスキナーの類似がダーウィン否定の1つの論拠として主張されている.この本自体は生物学者からは全く馬鹿にされていて読む価値はない.しかしチョムスキーはこの本を褒めているのだ.
  • ではチョムスキーはどうしたのか.ここで彼はマジカルな議論を組み立てた.それは帽子からウサギを出したマジシャンが,まずウサギを消し,さらに帽子を消してみせたようなものだった.彼は当時の生物学理論を参照して「サードファクター」なるもので説明しようとしたのだ.

  • 当時の生物学のサードファクターの議論とは,遺伝と表現型の間に発生があるというものだ.ルウォンティンはそれをノイズとか発達とかの用語で説明している.ミッチェルは遺伝子からの光線が発達のプリズムで多様な表現型になるイメージを提示している.
  • ではチョムスキーの議論はまともなのか.そうではない.彼は表面的な部分だけ借用して中身のないファクターを創り出しただけだった.

  • この本を読むと発生の部分の詳細は「遺伝子・分子→物理法則→結果」という形であり「個別の細胞の振る舞い→集合的な現象の創発性」を説明できるものであって,チョムスキーが主張するようなサードファクターと全く違うものであることがわかる.
  • ここがロジカルとバイオロジカルの分かれ目だ.言語学がバイオロジーを拒否してロジカルだけで進むならチョムスキーのようにマジカルなファクターに頼らざるを得なくなる,
  • ロジカルを保ちかつマジカルに頼らないためにはどうすればいいのか.それは遺伝の不足を否定すればいいのだ.遺伝も十分に豊かであればマジカルファクターは不要になる.
  • 20年前チョムスキーはミニマリストプログラムで言語獲得の問題は解決されたと主張した.その際に次の問題は何かということについて,パラドキシカルにも言語進化の問題だと答えている.これは一体どういうことだろうか.
  • おそらくチョムスキーは言語獲得と言語進化は極めて類似していると思っているのだろう.だから獲得がミニマリズムで解決できたなら進化も解決できるだろうと考えているのだろう.彼は言語獲得について一瞬で生じるような過程を好む,そして言語進化についても(進化時間で)一瞬にしてあんな複雑なものが生じるはずがないというような議論をしている.つまり彼は時間依存性を強く否定しているのだ.
  • そしてこれからの言語学者には2つの選択肢が残されている.
  • 1つはチョムスキーに従って(生物学を否定し)ロジカルを追求することだ.言語学は哲学の一部門になり,椅子に座ってただひたすら思索するような学問になるだろう.
  • もう1つはバイオロジカルへの道だ.椅子から立って実験室に向かうのだ.時間軸を認め,他種にもプロト言語があることを認める.しかしこれは難しい道だ.なぜなら言語学者は実験科学者として訓練されていないからだ.
  • 個人的にはバイオロジカルの道しかないと思っている,そうしないと言語学は孤立した学問の島になってしまうだろう.


ここでレクチャーは終了.質疑応答となった.興味深いものをいくつか紹介しよう.

質疑応答

Q:この領域研究でなぜ藤田さんと岡ノ谷さんが手を握れているのか驚きだ.言語学も変わってきているのでは

A:これはパーソナルコメントだが,このような共同研究領域で,おそらく岡ノ谷さんに代われる生物学者はたくさんいるだろう.しかし藤田さんに代われる言語学者はいない.進化にコミットできる言語学者はいい意味でユニークなのだ.このような存在が希少であることが私の問題意識だ.(分野が継続できるための)クリティカルマスに達しているのか,疑問に感じている.

  • 藤田からのコメント:岡ノ谷さんと私の関係は長い歴史に基づくものだ.20年前にはお互いに全く相容れなかった,憎み合っていたといってもいい.10年前にはようやく互いに相手の主張が理解できるようになった.しかしまだ相互の信頼関係はなかった.互いに信頼でき,リスペクトできる間柄になったのはようやく最近のことだ.


Q:なぜチョムスキーはそんなにも影響力があるのか

A:チョムスキーが天才であるのは間違いない.彼は50年前に言語学がどう言語を扱うかというスタンスを革新したのだ.それまでの文法の記述学問からヒトの心との関係を探るリサーチプログラムへの変革を提示した.そして50年間そのプログラムはうまく働き続けている.これは科学革命に匹敵する偉業だと思う.しかし今,彼はかつてほどポピュラーではなくなってきている.次何をするかが難しくなっているのだ.彼はいろいろな知見を世界に与え続けた,しかし同じ方法論で将来も生産性を維持し続けられるかは疑問だ.言語学はそろそろ別の方法論に向かうべきなのだ.そしてその1つが生物学的方法だというのが今日の私の話の趣旨になる.チョムスキー革命により言語学は人文科学の1つになった.次は自然科学の1つになった方がいい,ただしこれはインフラの大変更であり,とても難しいのだ.


Q:なぜチョムスキーは「環境に応答している」という説明がそんなにも嫌いなのか

A:それは本人に問うべき質問だ.私にはわからない.彼にとってはある意味リサーチにおける暗黙の前提なのだろう.このような前提に意味がないわけではない.よくわかっていないことについては制限的に取り組むというのは1つのやり方だ.しかし進化や遺伝子については随分いろいろなことがわかってきている.かつての制約はもはや生産的ではなくなっているということかもしれない.


私には言語学者の話を聞く機会が普段あまりないので,このレクチャーは非常に興味深かった.最初に深く感じるのはチョムスキーが未だにものすごい影響を与え続けているということだ.私のような立場から考えると,チョムスキーがどんなに天才で言語学において偉業を達成していたとしても,基本的に生物学について勉強不足知識不足であり,進化を否定する部分(そしてその後のある程度の進化を認めた上でなお言語の突然の創発性にこだわる部分)は相手にする必要はないとしか思えないが,言語学の世界ではそうではないのだろう.


またレクチャーの中でグールドもピンカーも一切登場しないのにも驚かされた.
チョムスキーほどの天才がなぜ(ほとんどトンデモと言える)言語の進化にたいする否定的スタンスにこだわったのか.それは本当にダーウィンがスキナーに似ていたからなのか.この環境依存性を嫌ったという説明は確かに興味深いし,フォーダーたちの本に書いてあるというのも傍証としてなかなか渋いところかも知れない.しかしそんなロジカルな理由であんなに馬鹿げた主張になるだろうか.私にはそれは同じリベラル左派の同志グールドのイデオロジカルにねじれた与太話に乗せられたからだという方がよほどありそうに思われる.チョムスキーは単に「言語進化には興味がない」とだけ言っていればよかったのに,グールドの「ヒトに進化適応を認めれば認めるほど人種差別に利用されかねないからできるだけ否定すべきだ」というイデオロギー的な動機に基づく「言語もきっと副産物さ」という話を(その当時はあまり進化について深く考えていなかったこともあり,古生物学の専門家の主張として)真に受けて言語進化について否定的な態度を示してしまい,(そしてイデオロジカルな動機だけでなく,その高すぎるプライド,そして自己欺瞞により)後に引けなくなって苦し紛れの理屈をこね回しているという方が天才がトンデモに染まる経緯としては納得感があるのではないか.いずれにしてもグールドに一切触れないというのはなかなか異様な印象だ.
そしてこの話題を取り扱っておきながらピンカーの「The Language Instinct」に一切触れないというのも私のような立場からはなかなか理解しがたい.あるいは彼は(その言語に関するリサーチに関しては)認知科学者であって言語学者ではないという位置づけなのだろうか.それとも彼は「背教者」なのだろうか.レクチャーの結論「言語学者は孤立したくないのなら生物学を取り入れて実験科学者になろう」を考えるとまさにピンカーはその美しい先駆者ということになるのではないのだろうか.



ピンカーの「The Language Instinct」.Kindle版は何故か時々表紙が入れ替わるが,現在の版はセキセイインコだ.


同邦訳.


ケニーリーによるこのあたりの経緯についての本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20140613