「医療現場の行動経済学」

医療現場の行動経済学―すれ違う医者と患者

医療現場の行動経済学―すれ違う医者と患者



本書は行動経済学の知見を応用して医療現場をより良いものにしたいという思いで書かれた本だ.編者は大竹文雄と平井啓で,行動経済学者や医師などこの問題に取り組んでいる17人の分担執筆になっている.日本では長らく医師がよかれと思う治療を(医学的知識がないと想定される)患者に施すパターナリズム型の医療が主流だったが,ここ20年ぐらいで,医師が患者に医療情報を提供して医師と患者の合意による治療にかかる意思決定を行うインフォームドコンセント方式に切り替わっている.そしてこのインフォームドコンセント方式は患者が確率を含む情報を理解して合理的に意思決定ができることが暗黙の前提になる.これはまさしく経済学は人間をホモ・エコノミクスと仮定していることとパラレルになり,行動経済学の知見が応用可能ではないかと考えられたということになる.

第1部 医療行動経済学とは

第1部は全体の概説になる.まず最初に診療現場での典型的な医師と患者のやりとりと,その際にどのようなバイアスが観測されるかが紹介されている.抗がん剤の副作用の負担が大きくなっているので中止してはどうかを勧める医師とサンクコスト・バイアスから中止を嫌がる患者,症状悪化に対して緩和治療を開始することを勧める医師とこれまで大丈夫だったからという現状維持バイアスからそれを拒む患者,延命措置についての決断を迫る医師と今は決断したくないとしりごむ患者の家族*1,抗がん剤治療を勧める医師と利用可能バイアスから代替治療にすがろうとする患者の例が取り上げられている.意思決定において行動経済学で問題になるバイアスが医療現場でも現れていることがよくわかる.
ここから行動経済学の枠組みが概説されている.意思決定とバイアス,プロスペクト理論,自信過剰傾向,損失回避,フレーミング効果.現状維持バイアス,現在バイアス(将来価値にかかる双曲割引問題をこう呼んでいる)とコミットメントによる回避戦略,社会的選好,限定合理性(サンクコスト・バイアス,限りある意志力,選択過剰負担,情報過剰負担,平均への回帰が理解できにくいこと,メンタルアカウンティング),ヒューリスティックス(代表性,アンカリング.極端回避など),ナッジなどがコンパクトに解説されている.
そして最後に医療への応用(医療行動経済学と呼ぶようだ)についての概説がある.応用についての研究には2つのタイプがあり,1つ目はバイアスがどのように医療に影響を与えているかを調べるもの,2つ目はナッジの研究になる.バイアスの研究では以下のような知見が紹介されている.

  • リスク回避的であるほど積極的な医療健康行動(肥満を避ける,血圧を管理する,歯磨きをするなど)をとる傾向がある.ただし乳がん検診を受診しにくい傾向も報告されている(がんが見つかるリスクを避けようとするのではないかと推測されている).
  • 将来への時間割引率が高いほど医療健康行動をとらない傾向がある.ただし前立腺がん検査についてはせっかちな人ほど受診する傾向があるという報告がある.

ナッジの研究においては.医療健康行動に現在の利益を追加する,他人がどうしているかの情報を提供する.将来時点の損失を強調して大きく見せる*2,コミットメント手段を提供する(ワクチン接種に際して時間帯まで書き込ませるなど),デフォルト設定の変更などが調べられている.

第2部 患者と家族の意思決定

第2部は患者側の具体的な意思決定問題を扱う.がん治療,がん検診,HPVワクチン,終末期治療についての家族の選択,高齢患者の意思決定,臓器提供意思の表示などが扱われている.主な内容は以下のようなものだ.

  • がん告知はなお難しい.コミュニケーション支援ツールも開発されているが,医師にも家族にも患者への悪い知らせを先延ばしにしたいという傾向がある.バイアスがあること,そのバイアスは合理的意思決定の妨げになることを自覚することが大切だ.
  • 緩和ケアを拒否して代替治療に走ってしまう例は多い.緩和ケアの決断は損失確定と受け止めることによる損失回避バイアス,怪しげな広告や体験談の利用可能性バイアスが効いているのだろう.
  • 近年治療にかかる同意書の種類が増えており,治療について狭いフレーミングを患者に与えている.これにより例えば「抗がん剤だけは絶対嫌だ」などの反応が生じる.
  • 医師側にも,サンクコスト・バイアス(ここまでこの方法で治療してきたのだから),利用可能性バイアス(この前同様な患者で奇跡的な回復が生じたから)などのバイアスが働く可能性がある.
  • 終末期の延命措置の選択を家族に迫るのは,家族の持つ道徳感情から考えて残酷である.そこから自由になれるようなナッジが好ましいのではないか.(なおここではこのナッジの持つ倫理的な問題についてもいろいろ書かれている)
  • がん検診を受けることで死亡率が下がることについては確固としたエビデンスがある.であれば検診率向上に向けたリバタリアン・パターナリズムは是認されるだろう.具体的な事例としては,無料配布と損失フレームを用いた大腸がん検診向上の取り組み(申し込みなしで検査キットを送付し,受診がないと来年は送付できないというメッセージを添える),プロスペクト理論に則った乳がん検診向上の取り組み(受診をためらう人をステージごとにセグメントし,それぞれに対して効果的なナッジを設計:めんどくさいと考える人には受診の容易さを強調,がんが見つかるのが怖い人には受診のメリットを強調,私は大丈夫だという人には損失フレームの強調)などがある.
  • 日本ではHPVのワクチン接種の意思決定は主に母親が行っている.母親たちには顕著な負の同調傾向があり(皆が接種しないのなら娘には接種させたくない),副反応の疑いに過大評価し(特に確率がゼロでないことを非常に重要視する),ワクチンの有効性について過小評価する傾向が強い.これらにはプロスペクト理論の確率加重関数や利用可能性バイアスや現在バイアスなどで説明可能だろう.さらに自分の決断で娘に副反応が出ることによる後悔を極度に恐れる心理も働いているのだろう.(ここでは母親のバイアスだけが論じられているが,この不安につけ込んで儲けようとする悪質な人々,イデオロギーにとらわれてしまっている人々,きちんとリスク評価を報道しようとしないメディアの影響も大きいというべきだろう.)
  • 日本ではがんの終末期の治療選択を本人だけですることは少なく,家族が意思決定の中核になっていることが多い.そしてこの決定は現在バイアスにより最善の選択が難しく,家族は決定の内容,決定の時期について後悔を抱きがちになる.後悔はメンタル・アカウンティングと参照点(現実には採らなかった反事実仮想的選択を参照点としてしまう)により大きな影響を受ける.特にやらなかったことについては様々な仮想的参照点が設定可能なため後悔が生じやすい.また現在バイアスが強いと将来になってみたときに後悔が生じやすいということもある.後悔を減らすためには,自らの現在バイアスを知り,参照点を意識的に状況に即したものに変えていくことが有効だろうと思われる.
  • 高齢者には治療方針を自分で決めるには難しい場合が多い.多くの情報を素速く処理できずに,思い込みに沿ったヒューリスティックスをもちいた情報収集・意思決定に偏りがちになる.これには情報負荷の軽減,バイアスの補正などの適切な意思決定支援が望まれる.
  • 男性の高齢者に多い前立腺がんについては経過観察が望ましい場合にも治療を選択しがちであり,特に配偶者が同席しているとそうなりやすいという報告がある.
  • 終末期の処置方針については意識障害の可能性を考えて事前指示が望ましいが,病気が進行すると本人が決断を避ける傾向があることが報告されている.
  • 臓器提供意思の表示割合の国際的な差異については,社会文化的な問題よりもデフォルト設定が大きく効いていることがわかっている.しかしデフォルト変更は(あまりにも効果が大きいために)倫理的な争点となってしまう.それ以外のナッジとしては「互恵性の強調」などが提案されている.
  • 日本での臓器移植の実務としては本人の意思が明らかでない場合(意思表示カードにチェックがない場合を含む)に家族の同意が条件とされている.このドナー家族に対する意思決定支援も望まれる.

第3部 医療者の意思決定

第3部は医療側の意思決定問題を扱う.生命維持治療の中止,急変期の意思決定.医師による判断の違い,看護婦のバーンアウトの問題が扱われている.かなり具体的で迫力のある問題が多い.

  • 日本の医療実務では,最初に生命維持治療を始めるかどうかについては選択の自由が認められているが,一旦始めた生命維持治療を中止することはできないとされることが多い.(英米では一貫して差し控えと中止を同一視しているが日本の実務はこれと異なっている)これは論理的には矛盾しているが,フレーミング,損失回避バイアス,現状維持バイアス,不作為バイアスなどによりそう考えられてしまうのだろう*3
  • なお法的には過去生命維持の中止により警察の介入の受けたケースが2004年と2007年に1件ずつあるが,いずれも不起訴に終わっており,その後10年以上の間警察の介入はない.しかしこのケースが報道されたことが医療サイドに大きく影響を与えていると思われる.これも確率ゼロを極端に重視する確率加重関数の影響と考えることができる.
  • 2018年には厚生労働省から終末医療の決定プロセスについてのガイドラインが公表されているが,具体的な要件が示されていない.専門家団体や各医療機関がそれぞれの専門領域について具体的要件を示したガイドラインを出しているケースもある.(ここでこれらのガイドラインについて行動経済学的に視点からはどう考えられるのかがかなり詳しく議論されている.重い意思決定にかかる複雑な問題であることがよくわかる)
  • 循環器領域においては,急変期に蘇生措置を行うかどうかの意思決定は一刻を争うもので,いろいろな問題が絡む.(どのような問題があるかが詳しく説明されている)実務的には蘇生措置を行うことがデフォルトになっている.
  • またこの急変期の意思決定は実際には医師による誘導が容易であり,気づかぬまま誘導してしまうケースも少なくなく,医師側は自覚しておくべきことだと思われる.
  • 2003年にアメリカで患者が病院で受診した場合ガイドラインで推奨されている適切な医療を受ける割合はわずか55%であるという衝撃的な論文が発表された.日本での同種のリサーチでも同じような結果が報告されている.
  • またアメリカの病院に関する別のリサーチでは内科の担当医が女性である方が死亡率が低いということが報告されている.女性の方がよりリスク回避的でありガイドラインを遵守しようとするためかも知れない.
  • アメリカでは最近,医師の診療行為の適正化のためのナッジが議論されるようになっている(風邪に対して抗生物質を処方するときには正当性を文章で説明させ,同僚がそれを読めるようにするなど)
  • 利他的な(特に純粋の利他性を持つ)看護師の方がバーンアウトしやすいことが(日本でなされた)リサーチにより明らかになった.患者の死や症状の悪化に直面すると看護師自身のメンタリティまで悪化するためではないかと思われる.これはこれまで漠然と信じられてきた看護師の適性とは整合的ではない.研修などの支援プラグラムが望ましいだろう.

以上が本書のあらましになる.経済学においては合理的経済人の仮定が当てはまらないとしても,多くのミクロ経済学的,マクロ経済学的な現象の説明力はかなり頑健で,ところどころ適宜修正を考えていけばいいという状況だと思われるが,医療現場では日々様々な問題が生じており,人の意思決定のバイアスや限定合理性が(金では済まない)より難しい問題を生じさせていることがわかる.本書ではそれを何とか補正しようとする様々な取り組みや提言があり,それぞれ傾聴に値するだろう.それとともに,それだけでは簡単に解決はできない人間の性のような難しい状況が医療の現場に濃縮して現れることがひしひしと感じられる.また取り上げられる題材もいずれもいつ自分自身に降りかかってもおかしくないもので,読んでいていろいろ考えさせてくれる.多くの人に読まれるとよいと思う.

*1:この家族の決断後回し傾向について現在バイアスによるものだとしているが,狭義の現在バイアス(双曲割引問題)とは少し異なる傾向だろう

*2:損失フレームの利用はあまり効果が高くないそうだ

*3:と書かれているが,不作為バイアス以外はあまり大きく当てはまるようには思われない.実際には次に示されている警察の介入が報道された影響が大きいと考えるべきだろう.