「The God Delusion」

The God Delusion

The God Delusion



ドーキンスの本書は,宗教について書かれた教養ある読者対象の本としては,異常に宗教に対して攻撃的だ.進化生物学者であるドーキンスは,キリスト教原理主義的な創造論者との間で,進化という現象について長年対立してきたわけだが,その中で宗教という現象についても深く考えるところが多かったのだろう.特に宗教にいわれのない敬意が払われすぎていることについて,その弊害について考えていたのだろう.そして9.11やロンドンの地下鉄自爆テロ事件を受け,その思いを本書で表したということのように思える.


ドーキンスはまず,現在宗教には本来いわれのない尊敬が払われすぎていることを主張している.アメリカでは無神論者というのは尊敬に値しないと考えられていることが紹介され,結構衝撃的だ.またこのように宗教に敬意を払う人たちは一体人種差別を容認する宗教が主張されたらどうするつもりなのだろうと鋭い指摘をしている.関連して特に鋭く主張されるのは,「確かに科学は事実の問題を取り扱い,価値の問題は取り扱わないし,科学で価値の問題を決めるべきではない.しかし,だからといって何故宗教に価値を決める特権が認められなければならないのか」ということだ.本書刊行後になされたいろいろな反響を見ても,これについて宗教側からきちんとした反論はなされていないようだし,あるいはできないのだろう.誰が価値を決めるべきなのかは非常に本質的な問題提起だと思う.日本でもいろいろな問題に倫理委員会がもうけられているが,そこに出席して意見を言うべき人はどのような人が望ましいのだろうか.少なくとも私は宗教家だという理由で教条的な宗教関係者に入って欲しくないという点でドーキンスに同感だ.


つづいて本書の中心ポイント,「神が存在するかどうか」について議論していく.これまで創造論者とは,創造論者側が用意した論題,つまり「生物が進化したかどうか」という事実の問題を論争することが多かったわけだが,本書ではドーキンスの選んだ論題,「神は実在するのか」を議論していく.ここが生物学者の手になる本としてはとてもユニークなところだ.
ドーキンスにとっては何かが実在するかどうかは事実の問題であり,十分科学的な議論となりうるという前提で議論が進む.そしてラッセルが提出した宇宙のティーポットの議論を引きつつ,非存在を証明できないからといってそれが実在することにはならないし,不可知論も適当ではない,それは確率論として議論すべきだ.対立仮説のうちどちらがよりありそうもないかで考えるべきだと進む.また何かが実在するかどうかの議論はデータをもとに行うべきだと,言葉遊びによる哲学的な議論を切って捨て,生物の存在,そして宇宙の存在をデータとして議論する.
ドーキンスの主張の根幹は,生物については,自然淘汰の議論の強力さと,神が創造したとするなら神自体の存在のありそうもなさを比べることにより圧倒的に神の非存在の議論の方が確率的に強力だというものであり,宇宙の存在についても人間原理を考えに入れることにより神の非存在の方が強力な議論であるというものである.
こういう議論で宗教擁護派(そして一部の哲学者)が納得するわけでないことはドーキンス自身が一番よくわかっているだろう.しかし本書の目的のひとつは,内心懐疑的になっている人にとって自信を持って自分が無神論者であることをカミングアウトできるようにしたいということであり,その目的から見ると十分強力な議論だと思う.
この神の実在議論の中で面白いのはドーキンスは進化した結果として説明されるなら神の実在を認めてもよいということをほのめかしている点だ.特に興味深いのは,我々が,とあるSFにあるようにある異星生命体(これ自体進化の結果生じたもの)の製作したコンピューターシミュレーション上の存在である可能性の議論だ.でも,だとすると,どんなデータが現れても,このSF世界であれば神の実在の証拠にならないことになるだろう.要するにそこまで考えたらやはり不可知論が合理的になってしまうのではないかという気もする.


次にでは宗教がこれほど盛んなことはどう説明するのかという問題が取り上げられる.これはデネットが議論した問題と重なっており,結論もよく似ている.ドーキンスの結論は「宗教は,進化した人間心理の副産物であり,かつミーム複合体としてよく説明できる」というものであり,だから宗教が盛んだからといってその主張が正しいということには結びつかないことが強調される.


次の議論は宗教はよいものかどうかだ.特に集中して議論されるのは道徳の基礎として宗教が必要かどうかだ.このあたりは理解しにくいが,英米では道徳の基礎として宗教が必要だという擁護論が強力なのだろう.これもデネットの問題意識と重なっている.デネットはあっさりと宗教がいくつもある中でどれを選ぶのかとして片付けているところをドーキンスはかなり粘着的に議論している.利己的遺伝子から見た利他行為の説明も簡にして要を得て見事だし,ハウザーによる道徳感覚のヒューマンユニバーサル論を紹介した後で実際に道徳は時代により変わっていること,そして聖書から道徳が引き出せないことについてこれでもかこれでもかと議論される.このあたりの粘着ぶりにドーキンスの憤りの激しさがかいま見える.


次に宗教の暗黒面が取り上げられる.まずは宗教的な絶対論による価値観と,一般的な道徳観が食い違うことによる悲劇を取り上げる.同性愛,中絶,安楽死などについて議論される.そして魂の不滅や殉教者の栄光の概念が狂信的な犯罪に結びついていることが強調される.最大の暗黒面として強調されるのは子供への洗脳だ.これはデネットも取り上げているが,結局子供への取り扱いに親の意向をどれだけ反映させるべきかという人権についての価値観の問題のような気がする.
この面でのドーキンスの議論は通常の価値観を巡る議論とそれほどは異なっていないように思う.特に進化生物学者であることからくる独自の主張もなく,一般的なリベラルな主張がなされている.ただ狂信を育てている背景として一般的に宗教に尊敬を払うという状況,そして中庸的な宗教や,それへの擁護派を非難しているのがドーキンスの議論の特徴だ.人権に対立するような宗教的な価値観がある場合に,宗教への一般的な尊敬があるばかりに,人権侵害がまかり通っているようにドーキンスには思えるのだろう.やはりドーキンスの憤りは激しい.


最後に宗教の利点についても考察されている.説明と道徳についてはすでに否定しており,心の安らぎ,慰めについてが論点となる.そしてドーキンスによると心の慰めで意味があるのは突き詰めると魂の不滅を信じさせるかどうかだけであり,実際にほとんどの人はそれを字義通りには信じていないだろうとしている.宗教擁護派から見るとこれ以外にも宗教の利点はあると主張したいだろうし,ここには不満があるだろう.そしてドーキンスはこの心の慰め面での科学のすばらしさを最後に歌い上げて本書を締めくくっている.


歴史的にも宗教の問題は取り扱いが非常に難しい.だから一般に宗教や信仰を尊重するという慣行が認められているのだろう.だからドーキンスも宗教についていくらか学者が意見を言ったところで大勢は変わらないだろうし,政治的にこの問題は非常に難しいこともよくわかっているに違いない.しかし彼は言わずにはいられなかったのだろう.そして本書を通じてのドーキンスのメッセージは,「無神論者は恥じることはないのだ.宗教の主張はこのように根拠のないものなのだから」ということだ.実際に子供の頃から宗教を教え込まれても,いろいろなことから懐疑的になっている人は多いのだろう.しかし社会的な損得を考えるとカミングアウトしていない人が多いのだろう.私がそれについて実感したのは本書でも紹介されているジュリア・スウィーニーの"Letting Go of God"を聞いてからだ.彼女のような人生に真摯な懐疑論者のために本書は書かれているのだ.

日本の読者にとって,特にドーキンスファンにとっては本書はその火を吹くような明晰な議論を追っていくのが第一の快感であろう.そして読み進めるにつれて欧米における一神教の現実が少しづつわかってくる.これまでのドーキンス本とはかなり異なっているが,十分読み応えのある本に仕上がっていると思う.



関連サイト


ジュリア・スウィーニーの"Letting Go of God"
すでに一度紹介しているが再掲しておこう.アマゾンジャパンにはおいていないが
iTunes Music Store Japan でオーディオブックが入手可能だ.

http://www.juliasweeney.com/welcome.asp


またamazon.comではCDが入手可能だ.

http://www.amazon.com/Letting-Go-God-Julia-Sweeney/dp/B000MM107I/



追記

2007/5 邦訳「神は妄想である」が出版されている.

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別