「人類はどのように進化したか」


人類はどのように進化したか (シリーズ認知と文化)

人類はどのように進化したか (シリーズ認知と文化)

  • 作者:内田 亮子
  • 出版社/メーカー: 勁草書房
  • 発売日: 2007/01/30
  • メディア: 単行本




本書は生物人類学者内田亮子による,“文系”の学部学生向けに書かれた人類学の入門書である.今後人文科学や社会科学においていろいろなことを学んでいく人たちに,自然科学から見た人類を知ってもらいたい,そしてヒトというのは決して二項対立でわかるようなものではないということを伝えたいという趣旨である.
まず第1章で進化とは何か,適応とは何かというところからはじまり,第2章では性とは何か,性淘汰と利他行動の考え方についてが説明されている.ここまでは現代進化学,行動生態学の概観である.第3章は生理学的なヒトの概観となり,神経系,脳の仕組み,様々な脳内物質とホルモンの話になる.第4章はちょっと独特で,現在ホットな分野,コミュニケーションと言語,さらにヒトの生活史戦略が取り上げられている.第5章では伝統的な人類学として類人猿からヒトまでの進化をたどり,最後の第6章では,進化から見た文化が論じられている.


いずれも簡潔な記述ながら,まったく無駄がなく引き締まった文体で,文章の背後にある情報量の多さと,情報の整理にかけた付加価値が行間ににじみ出ている.凛とした美しい散文の鏡のような文章である.それでいてまったく無味乾燥ではなく,ところどころに著者の本音がのぞくところに味がある.


面白かったところにちょっと触れてみよう.


ダーウィンの革新的なところとして本質主義からの決別と仮説演繹法だという指摘がある.これは変異の研究を行ってきた著者のダーウィン観であろうと思うが,なかなか鋭い見方だ.今でも日本によく見られる生物観は”本質主義”的なことが多い.そこを突き抜けていない叙述はとても陳腐でつまらない.本書のスタンスもまさにこの突き抜けたところに位置している.
ヒトの行動の解釈についてはその戦略の複雑さについて常に注意を払わなければならないというメッセージが顕著である.たとえば女性にとってすべての妊娠を成功させることは必ずしも最適ではないとか,父親は常に継子より実子により投資するとは限らないとかの記述が見られる.利己的遺伝子説を誤解したナイーブな言説に結構悩まされている背景を感じさせる.
心の性差についてはやや詳しい記述がある.性の自認,性志向,空間把握能力などの性差はそれぞれ独立して発現しているというのは興味深いところだ.また各地の文化人類学的な記述にまで踏み込んでいる.


ホットトピックとしての言語についてはディーコン説に傾いた記述であり,シンボル思考をヒトの”本質主義”と結びつけて論じている.またグランディンの動物感覚についても注目している.このあたりは定説のない分野で自由に書いている雰囲気が良くでていて他の章とはちょっと異質だ.
生活史戦力の分野では,配偶システムの進化について,男性のテストステロンを高濃度にすることのコストから考えて,ペアを作るようになったのは,女性による子育てに男性を参加させるための戦略というより,男性のコスト削減戦略ではないかと示唆している.これも面白い見方だと思う.


文化について触れた章では,初学者向けに人種問題について簡潔にまとめている.また歴史的な生物学的な人間理解を阻んできた要因として,スペンサーや,優生学と並んで,ボアズの役割が取り上げられていてちょっと独特だ.そしてこの阻害状況はアメリカではさらに悪化していると紹介されている.残念なことだ.
文化の研究についてはボイドとリチャーソンに親和的な立場で記述されている.


現代に生きる女性の立場からは,高年齢出産の現状と凍結卵子のリスクおよび生殖幹細胞を用いた研究の紹介,閉経後のホルモン療法の功罪,そして少子化が取り上げられている.少子化については,様々な要因を並べた後,女性だけでなく男性にとっても「『困難なことがわかっていることは避けたい』というのは基本的な適応的心理である」とさらっと書かれてあって,含蓄たっぷりだ.「現代の女性だけが,生物の原則に反して子供を産まない選択を身勝手にしているという認識は間違っている.」と結論づけて,言いたいこともたっぷりあろうが押さえている風情が良くでている.


本書は本文226ページと小振りだが,情報にあふれている,初学者はこのすべてを吸収できるはずもなく,読み飛ばしていくと思われるが,是非何度か読み返して欲しいできばえだ.日進月歩の分野であるだけにこの教科書の賞味期限はそれほど長くはないと思われるが,それがまことに惜しいと感じさせる.