読書中 「The Stuff of Thought」 第1章 その2

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature




第3節は言葉と社会の関係について

まずスティーヴン・レヴィットの「ヤバい経済学」でとりあげられていた名前の流行ネタが取り上げられる.ピンカーが本書で取り上げたのはユダヤ系の名前.今,普通のアメリカ人が Murray という名前を聞けばそれが60過ぎの中産階級ユダヤ系の男性だと思うのだそうだ.
もともとユダヤっぽい名前というのがあって,Moishe, Mendel, Ruven みたいな名前だそうだが,1920年代まではユダヤ人は男の子にこういう名前を付けていた.しかし1930年代にアングロサクソン的な名前がよいということになり,Murrayとともに Irving, Sidney, Maxwell, Sheldon, Herbert などが良くつけられたのだそうだ.そう言われればちょっと気取ったアングロサクソン的な名前のような気もする.
そして流行は移り変わる.次の世代はより穏やかな David, Brian, Michael を付け(この辺はまったく普通のアメリカ人の名前という感じか),さらに次は聖書に関連して,Adams, Joshuas, Jacobs がはやり,その流れは Max, Ruben, Saul に戻って環は閉じられようとしているということだ.なかなかこのあたりは日本人にはわからないバックグラウンドだ.
要するにピンカーが言いたいのは名前はそれを付けた大人の偏見に由来するということだ.ピンカーは自分の世代の女性の名前 Barbara, Susan, Deborah, Linda について女子学生に「中年の女性の名前のようだ」とコメントされてがっくりする話を交ぜて楽しませてくれる.日本だとこの辺は「子」の付く名前(淳子,恵子,良子)の雰囲気かもしれない.


さらにピンカーがここで提示しているのは,すべての言葉は誰かが最初に使い始め,そしてそれが広まっていく.この過程はまだよくわかっていないミステリーだと言うことだ.
これは単なる語源の話ではなく,そのダイナミズムも問題にしている.ピンカーは興味深いSpamの語源とそれが広まった経緯にふれ,(これはモンティパイソンのギャグとハムサンドの登録商標に由来するという)その過程のカオス的なこと,その微妙さを示している.


第4節は言葉と感情について

まずconnotation, denotation(暗示的意味,明示的意味)についてバートランド・ラッセルのインタビューを例に取り上げている.これは同じ意味の言葉を魅力的,中立的,侮蔑的に言い換えているもので,言葉に感情的な色調がつきまとうことを指摘している.
また「冒涜」という現象,不愉快なことが起こったときになぜ性的あるいは汚物的な言葉が出てくるのかという謎も指摘している.日本語でも「くそ」とか「畜生」というののしり言葉があるが,性的なものはアメリカに比べて少ないような気がする.これはよりタブー性が強いからだろうか?いずれにせよ改めて考えてみるとなかなか興味深い現象だ.


ピンカーの解説ではこのような感情の生起と言葉の結びつきは脳の非常に古い部分に由来しているようだということだ.しかし発声されるのはきちんとした単語であり,新しい言語システムとパッチしているようだ.そしてそのようなとき以外にはこのような言葉は避けられると指摘して,さらにタブーとされている単語がある現象について触れている.
排泄やセックスに関する礼儀正しい言葉はないことや,タブー言葉のことをタブー言葉なしに言及できないというパラドックスについても面白い紹介がされている.確かに排泄やセックスに関して,日本語においても無味乾燥な表現はあっても礼儀正しい言葉はないようだ.

ここでのピンカーの要点はこのようにある言葉に不思議な力があり,これに皆従うことは言語の背景に感情的なものがあることを示しているということだ.


第5節は言葉と社会関係について

インターネットは近年言語の使用を巡る最大の実験室になっているようだ.言語が社会関係に関わっている例として,ネット上のジョークを挙げて説明している.
空港での逆ギレした客と航空会社カウンターの会話
「私が誰かわかっているのか」
「並んでいるお客様にお聞きします.お客様の中で誰かこの方のことをご存じの人がいますか」
ジョークを理解するには言葉通りの意味,それをどういう意図で言っているかという解釈,さらにそれを知っていてあえて言葉どおりに解釈して見せてやり返している意図などいろいろなレベルで解釈できなければならない.

また婉曲表現をなぜ行うかと言うことも考察している.なぜ直裁的に言わずに婉曲表現をするのだろう.これにはいろいろな場合がある.ピンカーは発話者と相手が何度もやりとりしてその前提を共有していれば会話に埋め込まれた心理状態はめまいがするほどのものになりうるし,そしてすべて共有していてもなお会話は生じるのだといっている.

ここではいろいろなジョークや婉曲表現の面白い例が挙げられていてとても面白い節になっている.




第1章 言語と世界


(3)言葉とコミュニティ


(4)言葉と感情


(5)言葉と社会関係