The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature
- 作者: Steven Pinker
- 出版社/メーカー: Viking Adult
- 発売日: 2007/09/11
- メディア: ハードカバー
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第3節の続き.ここまでにピンカーは直接目的語について全体効果があることを説明した.
ここで因果を引き起こしたものが言及されないときには,直接目的語が主語になり,動詞が自動詞になれる構文がある.
The butter melted.
The ball rolles.
その場合にも全体効果があるという説明がなされる.
Bees are swarming in the garden.
The garden is swarming with bees.
ネイティブでない私にはよくわからないが,後者は庭中ハチが飛び回っているときのみに使われる表現になると言うことだろう.ピンカーはこの理由について英語では変化する主体(ワゴン)と動く主体(干し草)を同じように扱うからだと説明している.
ある状態はある場所と同じに扱われる.変化は動きと同じだ.だから,一部だけ動くということはないのと同じで,一部だけ変化するということがなくなるという趣旨だろう.ピンカーはもっと深く説明をする.
まず,これはウサギの穴の別の驚くべき特徴「あふれるばかりのメタファー」の1つだとして例文をあげる.空間的なコンセプトが状態のコンセプトに浸食し,同じように扱われている.
Pedro went from first base to second base.
Pedro went from sick to well.
ピンカーの解説は続く.
そして位置や動きとして捉ええるときには,私たちはそれを次元の無い点として捉える.そして何かのレファレンスとの関係で位置を表す.レファレンスとなるものは次元を持つ.
だから位置を持つ何かと,それが言及している場所(レファレンス)は言語上異なる扱いを受ける.だから英語でon your hand, under your hand, in your hand というときににそれぞれレファレンスとなる手の異なる場所(手の上,手の下,手の平の窪んでいる中)に言及しているのだ.おはじきは in your hand には位置できても,in your forearm とか in your trunk とかに位置することはできない.(それは1元しか持たないものとして認識されている)
そして位置を持つ何か(おはじき)についてはそれはどのような形態のものでもどのような向きでもかまわない.
これは全体効果に深い説明を与える.locative construction で直接目的語になるものは,状態を表すものと認識される.そしてそれは0次元に還元されるのだ.そして全体効果が現れる.全体効果というより状態変化効果と呼ぶ方が良いだろう.厳密には一部であっても状態が変わってしまうと認識されればよいからだ.彫刻に落書きされたという場合 A graffiti artist has sprayed a statue with paint. にはペンキで汚されたのは一部であってもこの文章が成り立つ.
さて日本語ではどうなっているだろうか.
まず変化する容器を「ガ格」にとる場合と「ヲ格」にとる場合(自動詞の場合と他動詞の場合)で動詞の形が同じだという場合は限られるようだ.通常は「ガ格」と「ヲ格」の時には動詞の形態が異なっている.受動詞と能動詞で別の動詞であったり,助動詞で使役型,受動態などが作られているように思う.もっともここでのピンカーのポイントは主格になったときの全体効果だ.いずれも「ガ格」をとるときにも全体効果があるように思われる.
コップを水で満たした.
コップが水で満たされた.
壁を赤いペンキで塗った.
壁が赤いペンキで塗られた.
バターを溶かした.
バターが溶けた.
容器と中身からはそれるが,日本語では自動詞と他動詞で同じ形をとる動詞は少ないようだが無いわけではない.たとえば「開く」「閉じる」はそうだ.
扉を開いた.
扉が開いた.
ピンカーは最後にまとめている.
なぜ動詞により異なるlocative construction構造を持つのか.理解の鍵は構造の意味と動詞の意味だ.なぜ throw a cat into the room といえても *throw the room with a cat といえないのか.それは部屋がネコが一匹投げ込まれたぐらいでは状態が変わると認識できないからだ.
そして最初には同じような意味だといっていたpour fill loadの違いについては,よく調べると実は動きのどの点に注目しているかという意味論的な違いがあると言う.
pour は何か流体が連続的に下方に流れ込むようにするというような意味がある.これは無理矢理強制するのではなく,自然にまかせるというニュアンスがあるのだ.そして動きにかかる構造にのみ使えるのだ.だからpour water といえても *pour the glass とはいえない.そしてここがその他の流体にかかる動詞 spray, splash, spew と異なるところだと説明している.
またfill は何かを満杯にしてその状態を変えるという意味だ.それは入れ物について関心があるが,その原因や方法,詰めこまれるものには無関心だ.だから *fill water とはいえないという.
loadについては,積まれるものはコンテナに対して適正な大きさ,形,中身,方法でなければならない.カメラに弾丸をloadすることはできないのだ.あるいはママのスーツケースを忘れてパパのスーツケースのみ車にloadすることさえもできない.つまりloadは積まれるものとコンテナについて同時に言及しているのだ.だからどちらの構造もとれると言う.
日本語ではどうだろうか.
ここはちょっと異なるようだ.
「注ぐ」は確かに自然にまかせるというイメージがあるが,「投げ入れる」「ぶちまける」など作為的な動詞でもとれる形は同じだ.むしろ「満たす」とか「塗る」という動詞は容れ物に関心がある印象だが,容器,液体どちらも「ヲ格」をとれる.
日本語では,動くものに関心のある動詞は中身のみ「ヲ格」をとれる.容器に関心のある動詞が,両方とも「ヲ格」をとれるという感じではないだろうか.
入るものが容器に対して適正な大きさ,形,中身,方法であるからといって両方に「ヲ格」をとれる動詞になるとは言えないように思う.「*ワゴンを積荷で積む」とは言えないし,「*カメラをフィルムで取り付ける」とも言えないだろう.「?銃を弾丸で装填する」というのは言えるかもしれない.
ともあれピンカーの本節の結論は子供の言語習得を理解するにはカットとペーストの操作だけ考えるのではなく,フレーム構造のシフトを研究しなければならないし,これが私たちの思考の基本を教えてくれるのだということだ.
第2章 ウサギの穴に
(3)フレームのフリップ