読書中 「The Stuff of Thought」 第3章 その3

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


極端生得主義に対する反論は続く.


まず単語が生得的で,複合語がそうでないと考えるとすると,その区別は言語により異なり,人為的だということが極端生得主義には合わない事実となると指摘している.

ピンカーが挙げる例は,英語ではseeとshowは別の単語だがヘブライ語ではshowはcause to seeと表すというものだ.日本語でも「見せる」だからヘブライ語と同じだろう.誰も「見せる」という概念がアメリカ人にとっては生得的でイスラエル人や日本人にとって学習的だとは思わないだろう.


また時代によってこれが変化することもピンカーは指摘している.
madeはmakedがなまったものだ.


さらに新造語や省略形から複合語が単純形態素単語になることは良くある.
refrigerate → fridge
horseless carriage → car
wireless → radio
facsimile transmission → fax
electronic mail → e-mail
personal computer → PC
ピンカーはこう問いかける「人々が新語を使い始めると急に生得的概念が現れるのだろうか?」結構強烈なパンチだ.


ピンカーは続ける.要するにこのような現象が生じているというのは言語デザインの基本的な特徴なのだと.
remove caffein fromという複雑な概念を言語はdecaffeinatedとあらわし,そしてdecafと溶解させる.フォダーは単純形態素のところで線を引きたいのだが,言語はそんな限界にはとらわれないのだ.日本語でもどんどん略語が新語として認知されている(「あけおめメール」など)のはそういう現象だろう.


ピンカーはお得意の言語発達についても,また複雑な概念はより心理的に扱いが難しいわけでもないと釘を刺す.あるスロットに入ってしまえば単純なものと同じだ.逆にスロットに入りにくい複雑な概念は学習が難しくなる.give, pay, buyははこの順番に複雑になる.(ものを渡す,お金を渡す,お金を渡してものを得る)子供は最初に覚えるときに複雑な概念ほど要素を抜かしたりしやすい.



ピンカーの攻撃はフォダーの理論的基礎にも突き進む.要するにフォダーの主張の根幹は単語の定義をしてもそこからこぼれるものがあると言うところだ.ピンカーは辞書的な定義(これは完全ではない)と意味論的な表示は同じではないと主張する.ここはフォダーを説き伏せるには必須のところだ.面白いので詳しく紹介しよう.

辞書的定義はそれを読む人がその他のすべての背景を前提にして読むことを前提に書かれている.意味論的表示はある人がその単語の意味として,概念と感覚を結びつける脳システムである概念的構造の中で持つ知識だ.
辞書的定義は話者の想像にかかる部分を描かない.意味論的表示は話者の想像そのものであってもっと明晰だ.

フォダーは例えばpaintという語は「絵の具,ペンキで表面を塗る」と定義されているが,工場で爆発が起こって見物人がペンキをかぶった場合には定義に合致していても使えないという例を挙げる.
確かにpaintは人のように意図を持った者しか主語をとれない.しかし辞書を読む人はpaintがcausative verbであることから主語は意図を持ったエージェントしかとれないことを理解できる.そしてそれこそがポイントだ,

さらにフォダーは続ける.ミケランジェロがシスティナ礼拝堂にフレスコ画を書くときに彼の行為を paint the ceiling と表現できない.paint a picture on the ceiling としか表現できない.

まず実際には多くの人が Michelangelo painted the ceiling という表現を使う.それは置いておくとして,フォダーはpaint は何かを絵の具でカバーすることが目的である場合に使用が限られ,別の目的がある場合には当てはまらないと主張している.しかしこれは paint だけの問題ではない.第2章で見たようにすべてのcontainer所格をとる動詞に当てはまる.対象となる容器の全体に効果がある場合のみに使えるのだ.フォダーのすべての動詞が個別に難しいという主張とは異なり,基礎的な概念により多くの動詞が同じ特徴を持っていることになる.

さらにフォダーは続ける.ミケランジェロが絵筆を絵の具おけにつっこむと絵筆の表面は絵の具に覆われる.しかしこれは paint the paintbrush とは表現できない.

しかしこれも他の何千という動詞と共通に paint が目的と手段を峻別するからだ.フォダーはこの意図を持つエージェント,意図された結果,目的と手段の区別をいう独特の特徴を持つからこれが分解できないアトムだという議論をする.しかしこれらはある種類の動詞に共通なのだ.


フォダーのミケランジェロとpaintの議論はそれにしても穴だらけで見るも無惨だ.これでは手強い論客というのもいかがだろうかとまで思ってしまう.如何に手強い論客でも筋が悪い議論に乗ってしまうとこんなものだろうか.




第3章 50,000の生得的概念(そしてその他の言語と思考に関するラディカルな理論)


(1)極端生得主義