The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature
- 作者: Steven Pinker
- 出版社/メーカー: Viking Adult
- 発売日: 2007/09/11
- メディア: ハードカバー
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ピンカーによる言語習得の考え方概念統語論(conceptual semantics)に対立する仮説その2は極端プラグマティズムだ.
この人たちは単語の意味のもとになる概念構造が生得的だとかアトミックだとかなどということを問題にするのではなく,それ自体の存在を否定する.
つまり,ヒトは単語にどんな意味を持たせて使っても良いし,ニュアンスと文脈により同じ単語にいろいろな意味があるという主張であり,ヒトが実際に言語を使うときの単語の意味は辞書のようにはなっていないという議論を行う人たちだ.
ピンカーによると,極端プラグマティズムというのは,単語の意味を文脈と話者の期待にできるだけ沿って考えようという主張の極端なバージョンという意味であり,ジオフリー・ナンベルグがこの言葉の創始者で,ダン・スペルベル,デイドル・ウィルソン,エリザベス・ベイツ,さらにコネクショニズムやダイナミックシステムの信奉者などがこの主張をしているということらしい.これもまたなかなかありそうもない議論だが,結構な信奉者がいるようだ.(それともピンカーの紹介が極端なのか)
ピンカーは議論の試金石として単語の多義性(polysemy)をあげている.
ここで<用語の整理>
多義語(polysemy)
はっきり区別できる関連のある複数の意味を持つ語
同形同音異義語(homonymy)
同形同音異義語は古来の単語が別の意味を持つようになったときに多く生じる.
例:odd 突き出たもの→比喩として突き出たもの→ペアからはずれたもの
異綴同音異義語(homophony)
まったく別の単語が音韻の変化などで同じ発音になったもの
例:fore と four
この2つは最初は発音が異なっていた.(だから綴りが異なっている)
ここでピンカーが問題にしているのは多義語(polysemy)だ.このいくつかある意味は互いに関連している.
例:
chicken ニワトリのことも,その肉のこともさす.
newspaper 新聞社のことも新聞紙のこともさす
book 著作のことも物理的な本のこともさす.
window 窓ガラスの面のことも,開口部としての窓もさす
monkey ある生物種のこともその種の個体のこともさす
France 政治的実体のことも,その指導者のことも,国土のこともさす
construction 事件として,継続的過程として,建築様式としての意味がある
こうやってピンカーがあげる例を見ると,ほとんどそのまま日本語でも多義語であるのはなかなか驚きだ.
ピンカーによれば私達は文脈や周りの環境により正しい意味を理解しており,ほとんどスイッチにすら気づかない.
なかにはほとんど意識されずに混ざっているような例もある.
新聞なんか気にするなよ,明日には魚の包み紙になっているんだから
サリーの本は,とても良いドアストップになるほど重いが,誤りだらけだ.
これまたそのまま日本語に訳せてしまって興味深い.この部分はほかにもたくさん多義語の例が紹介されていて面白い.(中には単に省略形なだけではと思えるものや,なんだかよくわからないものもあったりもするが)
この現象は極端プラグマティストからみると自分たちの主張にまさに合うように見える.つまり解釈はゆるゆるのプロセスで,ヒトが持っているすべての知識から何でも引っ張ってくる.言葉の意味は辞書的定義ではなく連想パターンだと言うことになる.
しかしそんなはずがない.
ピンカーは,まず極端プラグマティストの主張に真っ向から反論する.言葉に真の意味はないというのは間違いだと.
言葉が真の意味を持っていないというのはこれまで見た動詞の変形と適合しない.
1.人は使っても良さそうな使用法を決して使わない.*She yelled him her order. とは言わないのだ.これは何でも連想すればよいというモデルには適合しない.
2.動詞の用法は明確に区分できる.決して連想の海に浮いているわけではない.コップから水を飲んでいる人をイメージしても,pourを使うときは水が自然にどこかへ流れていくイメージを持ち,fillを使うときはコップが水で一杯になっているイメージを持つ.単純な動作動詞でもアスペクトにより明確に区分できるのだ.
3.クラス間の切れ目は統語論と算術的な構造によっている.
cut は動きと接触とその効果だけを示すのではない.フライパンの端で卵を割っても切るとは言わない.cut には切る道具で卵の表面に接触し,その後表面にかけての動きがあり,そして結果を伴う必要がある.
また動詞は特定の数の項をを必要とする.これは定義の定義となる
これは心の中の言葉の意味が洗練されていることを意味している,だから言葉に真の意味はないという主張は真実から相当はずれていると言うことになるだろう.
ここまでの反論はまさに当然だ.しかしではなぜ多義語という現象があるのか.
ここで話は多義語に戻る.
第3章 50,000の生得的概念(そしてその他の言語と思考に関するラディカルな理論)
(2)極端プラグマティズム