読書中 「The Stuff of Thought」 第3章 その12

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


さてここまでピンカーの考え概念意味論(conceptual semantics)への極端な対立仮説,言語決定主義をみてきた.ピンカーはここまでの議論を,これは反論するためではなく,言語は人の心をのぞく窓だと言うことを示すためだったとしている.


それを強調する議論を最後にいくつか提示して本章を終えている.

ヒトの言語が思考の中心であり得ないのは,まずそもそもヒトはそれを学習しなければならないからだ.子供はまず物事や空間や数について何らかの認知をしないと,それを音声と結びつけることによって言語を学習できない.

これはいわれてみればその通りだ.個別の言語でない認知,そして思考が先にあるべきだ.

私たちはヒトの記憶は言語による文章より抽象的な形でなされていることを知っている.記憶に関するリサーチの大きな発見の1つは,ヒトは知識の元になる正確な文章についてはあまりはっきりと記憶していないということだ.

これについては面白い実験が紹介されている.いろいろな文章を見せてその後内容は合っている別の文章を見せると人はそれを見たことがあると言い張るらしい.つまり言語ではなくその内容を理解していると言うことになる.また何かを言おうとしてうまい言語表現が見つからなかったときには,あきらめるのではなく,何か別の表現を探して自分の伝えたいことを伝えようとすることもあげている.つまり言語表現とは別に自分の伝えたいことがあるのだ.これは日常的に誰しも経験するところだろう.

おそらくもっとも深い理由は,言語は思考の媒体としては限定的であることだ.言語は,膨大な精神的な計算能力の助けを得ないと使えないのだ.言語は聞き手に理解できるように時間の順序の制約を受けて内容をバラバラに刻んでいるだけでなく,明確な推論に必要な情報を含むことに失敗しているのだ.そのもっとも明瞭な例はは多義性だ.確かに誰も新聞紙と新聞社を,壁の穴とガラスの面を間違わない.しかしそれは話者にその識別を強いているのだ.

これはピンカーの言語への考えをよく表しているように思われる.
言語は純粋の思考ではなく,現実世界の表現をするために膨大な計算能力(生得的な言語能力)を用いて可能にしたコミュニケーション手段なのだ.だからいろいろな面白い現象が生じていると言うことだろう.


最後にピンカーは本章で見た3つの対立仮説と自分の考え概念意味論の関係を示している.ここで初めて読者はピンカーが長々と3つの極端主義に反論してきた意図を知ることになる.

それぞれの極端主義はじゃんけんのような関係にある.言語の違いは言語決定主義者には良いが,生得主義者には頭痛の種だ.単語の意味の正確性は生得主義者には良いが,プラグマティシストには都合が悪い.多義性はプラグマティシストにはよいが,言語決定主義者にはまずいのだ.
そして概念意味論(conceptual semantics )はこの真ん中にあり,すべての複雑性をうまく説明できる.言語の意味は,より豊かで抽象的な思考言語の1つの表現なのだ.単語の意味は言語によって異なる.それは子供はより原始的な概念から,単語の意味を集め,洗練するからだ.単語の意味は正確だ.それは概念は現実の中の事実に照準を合わせ,残りを振り捨てるからだ.そして言語は私たちの思考を助ける.それは言語が単にコミュニケーションの道具ではなく,空間,時間,因果,物体,意図,論理などの世界の法則性を含む現実を表現しているからだ.
そして概念意味論は思考が言語そのものではないという直感にも良くフィットしている.

本章のオタク的な議論を積み重ねた効果がなかなかうまく出ていて,ここまで漕ぎつけると読んでいて爽快感がある.最後にピンカーは詩人ジーグフリード・サスーンの詩を引用している.詩の解釈は私の能力を超えているが,思考をカワセミにメタファーしていてなかなか面白い雰囲気だ.


第3章 50,000の生得的概念(そしてその他の言語と思考に関するラディカルな理論)


(3)言語決定主義