「日常の疑問を経済学で考える」

日常の疑問を経済学で考える

日常の疑問を経済学で考える



感情の進化適応的な機能についてコミットメントから考察した名著「オデッセウスの鎖」の著者,経済学者のロバート・フランクの新刊である.フランクは進化心理学的な思考方法を取り入れた本をほかにも何冊か出していて,本書もとりあえず著者だけ見て購入した次第である.


結論から言うと本書は一般人向け,学生向けの経済学の紹介書になっていて,進化心理学的な切り口はところどころに現れているだけだ.経済学書としては,大変わかりやすい日常の疑問から,その裏にある限界コストと限界効用などの経済学的なトピックを考えていこうという取り組みで,ヒトは物語形式の知識がもっとも習得しやすいという認知科学的,進化心理学的知見に基づいて構成されている.その狙いは,少なくとも習得しやすさという点では成功していて,大変読みやすく面白い本である.


内容的にはまず限界コストと限界費用の考え方が取り上げられる.

ドライブスルーのATMにも点字テンキーがついているのは,その限界コストがきわめて小さいからだとか,DVDとCDのパッケージサイズが異なるのは,それまでのレコード(CDケースはLPジャケットの半分),ビデオテープ(DVDのケースはVHSを縦に並べた棚に収まりが良い)の展示スペースを生かすため(つまり小売店サイドの限界コストが小さい)だとか,硬貨の肖像が横向きになっているのは正面の肖像画の浮き彫り細工コストが高いからだとかの話題だ.
洋服の前あわせが男女で違うのは,そもそもお手伝いさんがあわせることが多かった婦人物が右あわせになったという歴史的な経緯から,今日変更するにはコストが高すぎるというのはQWERTYキーボードのよくある説明と同じで楽しい.

消費者等の行動特性から生じる謎としては,バーでミネラルウォーターが高いのにピーナッツがただなのは(アメリカではそうらしい)ピーナッツの消費は酒の消費を押し上げるが,水は逆だからだとか,最近アメリカで定年退職した夫婦が(フロリダでなく近所に)大きな家を買うのは(離婚の増加と少子化で孫一人あたりの祖父母が増加しているため)孫にきてもらう競争が激しいからだとかが語られる.アメリカのトップランクの大学が非営利である理由(寄付金をする卒業生が税控除を受けられる)なども面白い.

労働市場に関しては,最近のCEOの高給化はCEOの決断にかかる損益の影響額が大きくなったからだとか,高給レストランではより能力が要求される料理長助手の方がウエイターより薄給なのは昇進のための機会という効用があるためだとか,タクシーが雨の日に捕まえにくいのは皆が乗りたがる要因もあるが,タクシー運転手の多くが(不合理にも)一日の目標額を達成すると帰ってしまうという戦略をとっているためにそれが悪化しているとかの話題だ.

価格決定については,売る側はいかに需要を分断化して,より高価格を払ってもいい人を囲い込むかというのがビジネスの要諦になっているかがいろいろな例で語られる.訳あり傷物セールのためにわざと一部家電商品に傷をつけている可能性があるとか,スターバックスやアップルの価格戦略が解説されている.


次に進化生物学の視点も含まれるトピックが取り上げられている.個人個人では合理的な行動が全体で非合理性を産む「競争とコモンズの悲劇」が紹介されている.女性のハイヒール,小さな街でのスーパーの24時間営業など,面白いのは官僚が意味不明の文章を作成する動機についても取り上げられているところだ.
情報を扱う章も,進化生物学的な信号の進化がちょっと関連する.テレビコマーシャルで宣伝中ということを宣伝するのは,それだけコストをかけているということを宣伝しているからだとか,経済学の論文で難しい数式が多用されたり,社会科学の論文が難解なのも自分の能力を誇示しているシグナルである可能性があるとかの話題は面白い.


行動経済学関連のトピックも取り上げられている.
消費者の決断を一押しするテクニック(不動産では最後にちょっと条件の悪い物件を見せる,ヴィクトリアズ・シークレットでは650万ドルの宝石入りのブラジャーをカタログに載せる)長期的評判のためにあえて取れる料金を取らない戦略,ボーナスをBMWで現物支給する謎(現金でもらえば,様々な心理的プレッシャーから高級車を買えないが,会社からもらったなら大きな顔をして乗れる)婦人服のサイズ表示は絶対基準でなく,おなじ数字でどんどん大きくなっている理由(女性は同じ8号がまだ着られるということがうれしい)野球の監督だけユニフォームを着る理由(グラウンドに入る可能性と,バスケやフットボールほど不格好ではない)田舎の方が初婚年齢が早い理由,年々初婚年齢が上がっている理由,(これをコストと効用から解説する.アメリカの事情が面白い)などが取り上げられている.


進化生物学的洞察は期待したほど多くはないが,肩の凝らない読み物として洗練された本だということができる.なにより本書は様々な物語が語られて読者を飽きさせない.中にはそれはちょっと違うのではという説明もあるのだが,これも著者が,様々な謎に自分で考えて欲しいとあえて挿入してある仕掛けなのかもしれない.物事の本質や背後の構造に関心がある人がちょっとした時間に読むには大変楽しい本だ.


最後に翻訳について一言苦言を呈しておこう.訳者はまったく生物学には通じて無く,それに関する訳はあまりにもでたらめである.Peacockを「ニワトリ」と訳してあるのにもあきれるが,オスの派手なシグナルが無限に派手になるわけではないという文章では,勝手に「種の保存のために」という誤った語句を加えている.自分が理解できないからといって的外れな文言を加えるなど訳者としてはあるまじき暴挙だ.フランクがそんなことをいうはずがないと思って原典に当たってみて発見したが,これから読む方は注意をされた方がよい.当然ながら原文では正確な進化生物学的な理解で解説されていることを付け加えておく.



関連書籍


ロバート・H・フランクの本


The Economic Naturalist: In Search of Explanations for Everyday Enigmas

The Economic Naturalist: In Search of Explanations for Everyday Enigmas

本書の原書



オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情

オデッセウスの鎖―適応プログラムとしての感情

進化心理学関連でいうと,まずはこの本.感情の適応的機能について,コミットメントの観点から鮮やかに解説した本だ.進化心理学の本でも感情の適応的機能について触れるときには必ずと言っていいほど引用される.入手困難だが,アマゾンのマーケットプレイスには何冊かあるようだ.


Passions Within Reason

Passions Within Reason

その原書



Luxury Fever: Money and Happiness in an Era of Excess

Luxury Fever: Money and Happiness in an Era of Excess


進化心理学的知見をふまえて,派手な消費性向がヒトの心理からくる公共財問題であることを論じ,直接税としての累進型消費税を提唱している.



What Price the Moral High Ground?: Ethical Dilemmas in Competitive Environments

What Price the Moral High Ground?: Ethical Dilemmas in Competitive Environments


これもなかなか面白い本だった.ヒトにおいて有効な感情コミットメントは心理的な満足だけでなく,繁殖的なそして物質的な利益が生じうるものであり,経済行為を行う企業においても妥当する.つまり経済モデルにおいては狭い合理的選好モデルだけではなく,進化心理をふまえて適応的合理性を取り入れるべきであるという主張が中心.賃金がモラルによっても決まることを実証的に示したりしていて大変面白かった.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060325


このほかに邦訳されている本としては,次の本があるようだ.未読

ウィナー・テイク・オール―「ひとり勝ち」社会の到来

ウィナー・テイク・オール―「ひとり勝ち」社会の到来


原書

The Winner-Take-All Society: Why the Few at the Top Get So Much More Than the Rest of Us

The Winner-Take-All Society: Why the Few at the Top Get So Much More Than the Rest of Us




このほかにもあるようだ.現FRB議長 ベン・バーナンキと共著で経済学の本もある.いずれも未読.
タイトルをみると,人のミクロの動機が経済に与えるマクロの影響に興味があるのがわかる.

Principles of Microeconomics + DiscoverEcon code card

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Principles of Economics + DiscoverEcon code card

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Falling Behind: How Rising Inequality Harms the Middle Class (The Aaron Wildavsky Forum For Public Policy)

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Choosing the Right Pond: Human Behavior and the Quest for Status

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Microeconomics and Behavior (Cram101 Textbook Outlines)

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