読書中 「The Stuff of Thought」 第4章 その12

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


人の心がどのように物事を認知しているのか.「因果」 編.因果についてはいろいろな問題があるのだが,まず定義としては「近接した可能世界でAが生じなければ,Bも生じない」というものがもっとも使えそうだという.引き続き哲学的な議論が行われる.


そしてこれに対して様々な問題があるとピンカーは列挙する.


1.様々な必要条件の中で何を「原因」として選ぶのか.
マッチをすることは火をおこすのに必要だが,それが乾いていること,酸素があること,風がないことも必要だ.しかし私達はマッチを擦ることが原因だと考える.同じように私達は結婚することが,未亡人になることの原因だとは考えない.


人は様々な必要条件のうちから,どのようにしてか「原因」を選び出す.
ピンカーによると必要条件と原因の違いは物理的な出来事の性格にあるのではない.私達の心の中で,現状と比べてなにが合理的な代替と考えるかによるのだ.日常のほとんどの時間でマッチを擦ることがあまりなければマッチを擦るかどうかは私達の考えによるので,それを原因と考えるのだ.
比較セットを変えると「原因」も違って認識される.例えば,いつも無酸素状態に保たれた部屋で溶接していたのに,ある時酸素が混入して溶接現場から火災が発生したときには,私達は酸素が原因だと考えるだろう.
つまり,ある必要条件に「原因」というラベルを貼るのは,それが容易にそうでない状態にあった,あるいは誰かがそれをコントロールしていた,あるいは将来コントロールするという判断に基づくということになる.


2.因果は推移的だが必要条件は推移的ではない.
AがBを生じさせ,BはCを生じさせる.であればAがCを生じさせたことになる.喫煙習慣がガンを生じさせ,ガンで死ぬなら,喫煙習慣は人が死ぬことの原因になる.
しかし必要条件は推移的ではない.ケネディは大統領になり,暗殺された,そして暗殺されたので再選されなかった.しかし「ケネディは大統領にならなければ,再選された」とは言えない.


たしかにこの違いは先ほどの定義では解決できない.ピンカーは解説してくれていないが,ここには何か本質的な違いがあるのだろうか,それとも私達は必要条件の何かを原因として感じるとそれに対する推移状況の認識も変わるということなのだろうか.言い方を変えると,なぜケネディが大統領になったことは再選されなかったことの原因でないのだろうか.特殊条件セットなら原因と考えてもよいのだろうか,そのときは推移的になるのだろうか.またケネディが大統領になったことは再選されなかったことの必要条件にはならないのだろうか.トレーニングされてない私の論理能力ではよくわからない.


3. preemption (先取り 横取り)の問題
これは定義では因果がないことになるが,私達は因果があると感じる例だ.


暗殺者が二人いて最初のショットが失敗したら別の暗殺者が撃つことにしていた.最初のショットがあたった場合に,彼が失敗していても暗殺は行われるとすると因果がないことになる.
あるいはレオ・カッツが示す別の例.(砂漠にトレックに行くAの水筒にBが毒を入れ,Cがその水筒に穴を開ける.)誰がAを殺したことになるのだろう.多くの人はCだとするが,反事実的定義によるとどちらにも因果はないことになってしまう.このカッツの例はデネットの本でも議論されていた.


日本刑法の現行の解釈では「因果関係」は判例上は「AがなければBも生じなかった」という条件に近く,学説上は「相当因果関係」(社会生活上の経験に照らして、通常その行為からその結果が発生することが相当だとみられる関係)の考え方が通説的見解ということのはずだ.刑法の議論でよく問題になるのは,「AがなければBも生じなかった」という条件だけでは因果関係をひろく認めすぎるのではないかということで,このような因果関係がありそうなのにもかかわらずにないことになってしまうという問題はあまり議論されていないように思う.もっとも日本の法的な議論はあまり論理的な定義にこだわらないようにも思える.

教科書通りならカッツの例は両者とも殺人未遂になってしまうだろう.これは不合理で不正義だろうか.二人が別々に致死量の毒を盛った場合にはどうか.定義的にはやはり両者とも殺人未遂だが,日本の法廷では(事実認定を工夫して)殺人罪を認めるような気もする.また最初の二人の暗殺者の場合には日本の法廷では前者の行為にほとんど議論無く因果関係を認めるだろう.(何しろ銃を撃って当たって人が死んだのだから.少なくともある特定の時間に死亡したことを結果とするならこれは因果関係の定義に合致していると言えるだろう)このあたりを考えるとなかなか「因果」が一筋縄でいかないことがよくわかる.


4. overdetermination (過剰決定 重層的決定)
preemption とちょっと似た例だ.
4人同時に銃撃して人を撃ち殺したとしよう.誰かの弾が外れていてもどのみち被害者が死んだのなら,誰の行為も因果を持たないことになる.


日本の法廷では全員に因果関係を認めるように思う.アメリカではどうなのだろうか.残念ながらピンカーはそこを書いてくれてはいない.カッツの本を読んでみるしかないようだ.


ピンカーによると,このような問題は世界が単純なドミノゲームのように1つの事件が順番に次の出来事を引き起こしていくようにはなっていないということから生じている.世界は原因と結果の層からなっていて,相互に複雑に絡んでいる.


そしてこのような因果のネットワークに合理的に対処する方法として因果ベイズネットワーク(Causal Bayes Network)を紹介している.これは一種のAIで,ダイヤグラムを決め,変数値を入れるとコンピュータが効果に対する原因や,原因に対する効果をはじいてくれるのだ.ただしこれを使うには最初に前提を置いて矢印を決めなければならない.


ピンカーはしかしこれも「因果」は説明できないと言う.これは物事の相互関係を把握する合理的な良い方法だが,しかし私達の因果の直感とは一致していない.私達の直感は,世界は因果の力(何かが原因から結果に影響を伝える)によるメカニズムでできていて,相関はそれの結果現れてくるに過ぎないと感じているのだ.



では実際にヒトはどのように「因果」を感じているのかが次の話題だ.ようやく認知と言語の話に入れるようだ.


第4章 大気を切り裂く


(4)魅力:因果についての思考