読書中 「The Stuff of Thought」 第8章 その5

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


ヒトはなぜ間接的に話すのか?その一つの説明「礼儀正しさ」
ピンカーはこの礼儀正しさは言語学的なセンスでいえば,ヒューマンユニバーサルだという.権威と親密さによって呼びかけが異なる現象は言語学者が探した25の言語すべてに見つかったそうだ.ここではマヤインディアンのツェルタル語,南インドスリランカタミル語についてちょっと詳しく解説されている.


もちろん文化によって礼儀正しさがどうなっているかには多様性がある.その基本はピンカーによるとどの程度の礼儀正しさをどのような状況で使うかの感受性が異なっているところにある.
その面白い例として「デイヴ・バリーの日本を笑う」で紹介された話が引用されている.

日本のビジネスミーティング
「おはようございます」「おはようございます」「申し訳ありません」「私こそ申し訳ありません」「私は恐縮で,立っていられないほどです」「私は沼の泡のようなつまらないものです」「私は爪のアカのようなものです」「私は死ぬほかありません」

アメリカのビジネスミーティング
「ボブ!」「エド!」「最近どうだい」「いまいちってとこかな」「ハー」「聞いて,このR-243-Jについてだけど,値段は3.8ドルがせいいっぱいだな.」「俺のケツでも喰らえ,ボブ」「ハー」


「デイヴ・バリーの日本を笑う」を最初読んだときは笑ったものだ.いま引っ張り出してみると訳文はすこし違うが,雰囲気はこんな感じだ.さすがに「私は死ぬほかありません」とか「いえいえ,死んでお詫び申し上げます」(訳本の表現)というのは実際にビジネスミーティングではあり得ないだろう.


またあまり礼儀正しさがないと主張される文化の例としてニューヨーカーについてのこんな小話も紹介されている.

レポーターがやってきて4人にインタビューする.
「すみません,食肉不足についてご意見をいただけますか?」
サウジアラビアの人「不足?不足って何ですか」
ロシアの人「肉?肉って何?」
北朝鮮の人「意見?意見って何?」
ニューヨーカー「すみません?すみませんって何?」


それぞれの文化の礼儀正しさの多様性の背後には何があるのか.ピンカーは,階層的な社会は,エリートの地位は社会の慣習に依存しているのでより高い礼儀正しさを期待するだろう,それ以外に歴史,階級,イデオロギー,環境がこれに絡むだろうと説明している.
社会心理学者リチャード・ニスベットは,名誉の文化を持つ社会は,暴力的であると同時に極端に礼儀正しいと指摘している.それは意図的でない挑発がすぐに決闘や宿根にエスカレートするからだ.ニスベットはアメリカ南部の文化を念頭に置いているようだが,日本の武士の文化でも同様だろう.


ピンカーはここまで礼儀正しさの心理学を解説して,間接的スピーチの話題に戻る.
礼儀正しさの底には何らかの要求があり,それは繊細にwhimperative(間接的表現,疑問形で表される要求,要請)の形で現れるのだ.


「塩を回すことができますか?」


文字通りにとれば,この例は簡潔性の格言違反だ.質問の答えはわかっているのだから.
聞き手は,話し手が,自分を使用人のように扱うことを避けていることに気づきながらこれを要求だと理解する.(自分の近くに塩があって,話し手からは遠ければ非常に合理的な解釈だ)


日本語だと「回していただけますか」という言い方が普通で形式的な主語が自分になるから,むしろ相手の意図を尋ねている雰囲気でそこはちょっと異なるかもしれない.ある意味,意図を尋ねているのはより直接的で脅威的かもしれないが,敬語を使うという手法によりこれをクリアーしてるのかもしれない.


そして論理的には,その婉曲表現は,微妙な要求をするときのその前提の1つが内容になっている.このような前提が提示されたりそれが疑問形で尋ねられたりしているのだ.言語学者はこれを「適切性条件」と呼ぶということだ.
この背後の理屈は,「聞き手は命令したり要求しているのではなく,頼んでいたり,あるいは聞き手が塩を回すための必要条件の1つについて助言している」というものだ.聞き手がそうしたくなければ,彼女は体面を傷つける恐れのある「拒否」というリスクを冒さずに,その特権を行使できる.
たとえばその間接的な要求が,状態に関するコメントであれば,単に無視すればいい.前提条件に関する質問の形であれば,否定の答えをすればいい.


ピンカーは「塩を回してくれ」という要求についてのいろいろな前提条件とその婉曲表現について多様な例を挙げている.日本語では英語ほど多様な言い回しは難しいみたいだ.1つは仮定法がないことだが,もうひとつは体面を傷つけないための敬語という仕組みが発達しているからなのかもしれない.




第8章 人が行うゲーム


(2)敏感に,敏感に:礼儀正しさの論理



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