「The Stuff of Thought」

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature



ちょうど昨年の今頃に出版されたスティーブン・ピンカー待望の新刊は「The Stuff of Thought」と題されている.「思考の素」とでもいうところだろうか.ピンカーによるとこれは彼の「言語トリオロジー」(The Language Instinct, Words and Rules が1,2作)の最終作であり,かつ「ヒトの心トリオロジー」(How the Mind Works, The Blank Slate が1,2作)の最終作でもあるという.言語はそこからヒトの心がのぞける「窓」であり,じっくり見ると何が見えてくるかを扱った書物だ.


そういうわけで本書はイントロダクションの第1章のあとは,考えてみるととても不思議な言語の諸現象が次々と取り上げられる.なぜ「満たす」という動詞は「ワインをグラスに満たす」と「ワインでグラスを満たす」の両方の言い方ができるのに,「注ぐ」という動詞になると「ワインをグラスに注ぐ」とは言えても*「ワインでグラスを注ぐ」と言えないのだろう.それは動詞がどのような格を必要とするか(動詞のマイクロクラス)という問題は,ヒトの心が動作をカテゴライズするときに動作の目的をどう捉えているかに依存するからなのだ.
これに続く様々な動詞についての様々な文法現象(与格構文,使役交替,能動格,所有者与格,中間態,被使役変形など)の議論をするうちに,ヒトの心が,動詞というもので世界の何を切り取って理解しようとしているのかがだんだん見えてくる.本書では(当然ながら)ほとんどの議論は英語を例にとってなされているが,日本語が母語である読者は日本語の場合どうなるかを自分で考えながら読むことでいっそう深く理解できるし,ピンカーが取り上げる現象が実は驚くほど日本語にも当てはまり,恐らくそれはヒューマンユニバーサルであることがわかる.


ピンカーは次から次へと興味ある例を取り上げる.

ヒトは事件,もの,材質,場所,時間,因果などをどう把握するのか.「目的物」はそれがヒトか,生きているか,1個1個分かれているものか集合物か,どのように3次元に存在するかなどによってカテゴリー化される.そしてそれはズームアップしたり,遠くに引いたりできる.数についての原始的な感覚,場所と時間をアナロジーで解釈する傾向,ものを空間の中で捉えたり,フレームとして考える傾向なども明らかにされる.英語の単複のこだわりも(こだわらない日本語や中国語の方が少数派らしいが)丁寧にその底にある心のフレームから議論されていて面白い.時間の把握についてはヒトの心の把握フレームと時制・アスペクトの関連が細かく議論されている.因果については哲学的な議論から始め,それとは矛盾するヒトの因果の直感(主人公と敵対者にかかる力の動学),そしてそれが言語に現れている例などを示しながらヒトの心のあり方が議論される.そしてこのような物事にかかる把握が,物理学の理解を困難にしたり,何が犯罪で何がそうでないか,そして道徳律を考えるヒトの心の傾向に大きな影響を与えていることが示される.このあたりも読んでいて大変迫力を感じる部分だ.


また一方でピンカーは言語習得,メタファーとは何か,単語とは何かという言語学において大論争となっている議論を題材に取り上げていろいろな現象を解説している.婉曲語法や多義語の議論のなかなか楽しい議論を通じて,ヒトの言語の学習とは何か,そしてそれを可能にしている言語特性が浮かび上がる.
メタファーの議論においては「考えることがメタファーだ」という「メタファーのメタファー」説を取り上げ,それがうまくフレーミングなどの現象を説明できることを示しつつ,しかし思考はメタファーの操作だけではないと否定する.ヒトはその底にある真実を考えることができること,そしてメタファーは世界の理解を進める上で有用だというのがピンカーの考えだ.メタファーの有用性を援護するピンカーの主張は結構熱がこもっていて力を感じる.
単語の謎については「スティーブ」という名前についての前振りがまず楽しい.固有名詞から初めて「ことば」の「定義」を巡る議論がなされている.その裏には名前とは何かという哲学的な論争があるようだ.ポール・マッカートニーや惑星を巡る楽しい議論,名前の流行現象,新語とその定着などの議論を楽しみながら,読者は名前の流行や新語の裏にあるヒトの社会のダイナミズムさらのその基底にある個人の選択の相互作用を感じることができる.


社会との関連ではさらにタブー語という現象と婉曲話法の謎が解説される.両方とも考えてみると大変面白い現象だ.タブー語の背景にはヒトの心,特に感情が映し出されているし,さらにタブー語が心理に与える影響も興味深い.日本語母語読者としては宗教的なタブー現象が身の周りにあまりないので,これについては非常に興味深い.そしてその背景を知って初めてDAMNとかFUCK YOUなどの表現が理解できるのだ .(FUCK YOUを巡る蘊蓄はなかなか力が入っていて面白い)
婉曲語法についても詳しく取り上げられている.これを理解するには話し手と聞き手の間の利害を巡るゲーム的な解析が重要になるのだ.レストランのフロアマネージャーに現金をつかませる大作戦の顛末など傑作な話を交えて解説するピンカーの手際はひときわ鮮やかだ.最後のオフレコの重要性を巡る共有知識の問題もその視点の鋭さが印象に残る.


本書は全体的に大変オタク的な議論を積み重ねてヒトの心の特異性を浮かび上がらせる仕掛けになっている.まずは言語がいかに精巧で面白い構造を持つかが読者の心を捉え,そしてその背後にあるヒトの心の問題が鮮やかに見えてくる.じっくり読めばヒトの心の「窓」としての言語の興味深さが,読者の心に高い説得力をもって染み入ってくるだろう.私達が普段使っている言語とはきらきら輝く宝石が不思議なパターンを作っているようなものなのだ.そしてそのパターンの中にヒトの心,ヒトの社会が浮かび上がってくるさまを鮮やかに体験できる.非常に密度の高い書物であると同時に,いつものピンカーのユーモア満開振りもあいかわらずで読んでいて大変楽しい書物に仕上がっている.言語や進化心理に興味がある人には自信を持って推薦できる名著であると思う.




関連書籍

これらはイギリスで出版されたバージョンのカバー.よくわからない英国風テイストということか.

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought

The Stuff of Thought


言語3部作


The Language Instinct

The Language Instinct

Words and Rules: The Ingredients of Language

Words and Rules: The Ingredients of Language

Words and Rules は未邦訳



ヒトの心3部作


How the Mind Works

How the Mind Works


The Blank Slate: The Modern Denial of Human Nature

The Blank Slate: The Modern Denial of Human Nature



これまでの著作の邦訳はいずれもNHKブックスから.本書は訳されるだろうか.特に前半はかなりオタク的な英文法の話になるし,Words and Rulesが訳されていないところから考えると微妙かもしれない.

言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)

言語を生みだす本能(上) (NHKブックス)

心の仕組み~人間関係にどう関わるか〈上〉 (NHKブックス)

心の仕組み~人間関係にどう関わるか〈上〉 (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)

人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)