「Missing the Revolution」 第4章 進化的説明:科学と価値 その1


Missing The Revolution: Darwinism For Social Scientists

Missing The Revolution: Darwinism For Social Scientists


第4章はウリカ・セーゲルストローレによる社会生物学論争の総括だ.ここは事実上彼女の大作「Defenders of the Truth」(邦題「社会生物学論争史 1,2」)の要約のような章になっている.この本は気合いの入った本で,じっくり読むことで社会生物学論争の表と裏がわかってくる仕掛けになっている.


本章も順番に見ていこう.


1.生物学と行動に関する疑惑.


最初は導入だ.進化心理学者から見てなぜ自分たちが「悪」だと批判されるのか当惑せざるを得ない現状がまず説明される.

社会生物学者や進化生物学者は「悪」だと批判される.社会生物学論争のわなを踏まないようにしている進化心理学者にとってこれは当惑だ.というのは彼等は心を扱う普通の科学をしていると思っているからだ.
そしてこれを「悪」だと批判するのは「左派リベラル」に属する社会科学者であり,通常の社会科学者は懐疑的であることが多い.

何故このようなことになっているのか.セーゲルストローレはこの背景を社会生物学論争から見てみようと提案している.


この論争はよく保守的遺伝決定論者VSリベラル環境決定論者の争いとして描かれる.しかし実は科学と道徳に絡んだ争いなのだというのが彼女の解釈だ.

ヒトの行動の進化的な説明,ある時代に何が受容可能性のある知識だったのか,科学と価値についての意見の相違,そしてそれらをいっしょに追究することについての意見の相違が問題だったのだ.これらはニューレフトVS伝統的科学者の争いだったのだ.


2.社会生物学と敵


ここで発端となった1975年の論争が取り上げられる.

批判者は「ナチ」,「人種差別」を理由として取り上げた.
行動の背後に生物学的なベースがあるという主張に対して,批判者はそのような主張には証拠が無く,生物学的決定論で,不平等の元が遺伝子にあるとの主張だと批判した.
ウィルソンはすべての社会的行動へのシステマチックなリサーチだと反論.行動は進化の産物だと主張した.これは進化の現代的統合の正当な主張であり,集団遺伝学をふまえ,利他的行動の進化の説明などに成功している理論だ.
批判者は,しかし,それこそが悪だと主張した.


なぜなのだろう.セーゲルストローレの解釈では当時ヒトの生物学的説明はタブーだという政治的な空気があったということだ.ユネスコの宣言などにそれを見ることができる.いわば「時代の精神」ということだろう.彼女は,第二次大戦後,文化相対主義が主張され,ミードやスキナーが登場し,またIQの人種差を巡るジェンセンらの議論が批判されていたことを説明している.


ではウィルソンはそのしっぽを踏んでいるのだろうか.「社会生物学」を読むとわかるようにウィルソンは当初,人種,IQについては慎重に言及を避けている.しかし批判者にとっては行動の生物学的説明自体が「悪」だったというのがセーゲルストローレの解釈だ.1975年当時,大勢は批判者を信じたという.


3.社会生物学の政治的特性


セーゲルストローレはこの論争は政治的な側面があると解説している.

批判者はウィルソンの本には政治的な意図があると確信していた.ウィルソンは政治的な意図を否定.社会科学者に生物学を真剣に考えて欲しかっただけだと主張した.そして批判者こそ政治的だとやり返した.


セーゲルストローレは批判者はテキスト分析の手法でウィルソンの政治性を断定したという.しかしそれは当然ながら解釈の可能性の一部でしかなかっただろう.
ここで面白い,あるいは皮肉なことは実際の社会生物学者たちの政治的な心情がむしろ左派的だったことだ.これは彼等をより当惑させるものだったに違いない.


また歴史的には左派こそ生物学を悪用してきたし,左派こそ体制を変えて社会をよくするためにはヒトを理解する必要があるとセーゲルストローレは批判している.また実際の議論のスタイルを見ると個人的な観点から分析する社会生物学スタイルは保守的とはいえないだろうと彼女はいっている.

そしてすべての左派の科学者がこの論争に批判者側に与して参加したわけではない.議論すべきことは別だという意見があり,例えば(左派論客として大変有名な)チョムスキーなどはこの議論に参加していない.


要するに左派の一部が,社会生物学の実際の分析手法,主張の中身,研究者の政治的な心情等にお構いなく,自らの政治的アジェンダにしたがってテキスト分析し論争をふっかけてきたという説明ということになるだろう.


4.悪の科学の危険


批判者は社会生物学は「悪い科学」」だと信じた.これは悪い科学,イデオロギーの影響,悪い結果というセットが認知されたものだ.
では何が「悪い」のか.セーゲルストローレの分析では「結局気に入らないものは悪い」ということにしかならないと痛烈だ.

彼女は具体例も示している.例えばルウォンティンによると,還元的でないモデルと統計に基づくものは悪で,ルウォンティンが行っている分子科学はよい科学だという.これはハードな科学のみがよいものだという主張だ.


セーゲルストローレは,科学論争としてみて異常だったのは「道徳」を持ち出したことだと指摘している.
社会生物学の信念は誤りだからというのだが,これは口を開けるなといっているに等しいと,ここも痛烈だ.

彼女によるとグールドとルウォンティンは後にもう少し科学的な批判に転じるが,論点が政治と道徳から離れることはなかったということになる.
本章のここの部分は非常に痛烈だ.



5.警官の仕事は楽じゃない.


ではなぜ,批判者達はそのような異常な行動に出たのか.セーゲルストローレの解釈では,批判者は「同僚たちが植える雑草を抜くことが自分たちの使命だ」と考えたということになる.彼女はこれは科学的でも民主的でもないと批判している.


ここからがちょっと面白い引いた見方だ.

アメリカの1960年代のニューレフトはパワーエリートが大衆を操作しているという考えを持っていたという.つまりグールド達は,社会生物学はパワーエリートの手先であり,それは大衆を操作する道具だと考えたということになる.セーゲルストローレによると,(左派の本場たる)欧州の左派は「学者」はマルキシストではあり得ないと考えていたということだ.つまり,欧州の左派から見るとハーバード大学教授のグールドこそ大衆の敵ということになる.
ウィルソンは批判者の政治的な意図を感じるようになると,批判者を「マルキシスト」と呼ぶようになったそうだ.これも欧州のマルキシストから見ると,とてもおかしい風景なのだろう.


セーゲルストローレの見方によると,グールド達は大衆のために闘う正義の味方であり,悪と闘う警官だと自分たちのことを考えていたことになる.しかし警官の仕事は楽ではない.議論の火の手はいろいろなところに突然現れるのだ.このあたりのセーゲルストローレの描き方は,グールド達をドン=キホーテ的に描いていてなかなか辛辣だ.


大きく引いて見ると,グールド達は「エキスパート」を信用するなといい,ウィルソンは「エキスパート」を信用しようといっているという構図になる.
この対立図からは,ウィルソンにとってナチズムの教訓は,「科学はイデオロギーから離れて客観的になろう」ということだし,グールド達にとっては「悪い科学は客観性を装って悪をなす」ということになるという.


つまり双方とも真実を守ろうとしているのだ.そして自分たちこそ正しい科学を行っていると考えているのだ.というわけでセーゲルストローレの本の題名は「真実の守護者達」「Defenders of the Truth」となっている.論争が白熱したのは双方ともに真実の守護者であるという使命感に燃えていたからということになる.そして引いて見ると(特に批判者側は)とても滑稽だということだ.



関連書籍


Defenders of the Truth: The Battle for Science in the Sociobiology Debate and Beyond

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社会生物学論争に興味があるならこの本は必読文献だ.本章はかなり批判者に対して批判的だが,この大作では双方に目配りの聞いた調査を行い,事実を積み重ね,じっくり語られている.

社会生物学論争史〈1〉―誰もが真理を擁護していた

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社会生物学論争史〈2〉―誰もが真理を擁護していた

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邦訳.秋の夜長にじっくり読むには良い本だ.また読みたくなってしまった.





Sociobiology: The New Synthesis, Twenty-Fifth Anniversary Edition

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そして論争の発端になったウィルソンの大著.これは刊行25周年の新装版.人間を扱った最終章が問題にされたのだが,今読むとそれほどショッキングなことが書かれているわけではない.

社会生物学

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当初5冊本で出されていた邦訳が1冊にまとめられたもの.さすがにその中身の大部分は古いが,総合しようというウィルソンの気迫を感じることができる.