「心を生みだす遺伝子」


心を生みだす遺伝子

心を生みだす遺伝子



本書はスティーブン・ピンカーの弟子に当たる言語獲得とコンピュータモデリングを研究する認知科学者ゲアリー・マーカスによる心と遺伝子に関する本である.原書の出版は2004年,本書は2005年に出されている.(というわけでちょっと前の本だ.)


本書も大きなカテゴリーとしては「氏か育ちか」論争に関わる本であり,その切り口としてはマット・リドレーの「やわらかな遺伝子」と同じであり,遺伝子が具体的にどう発現していくかを詳しく語ることにより,世の中の「遺伝子か環境か」という二者択一的な問題のとらえ方にかかる誤解を解こうとするものである.興味深い論点としては,脳の発達にかかる柔軟性をどう考えるか,遺伝子が3万より少ないことの意味は何か,という問題を本書全体のテーマと設定している.


マーカスはまず赤ちゃんの認知や動物の行動パターンを取り上げ,固定的な行動,学習による行動,分析・認知を前提にした行動などのいろいろなパターンを取り上げ,学習パターンに多様性があること,これには生得性が重要であることを特に強調する.


そしていよいよ遺伝子の発現の詳細にかかる.脳は生得的な構造パターンを発現させるが,発達途中では外部からの情報によって調整できる.これは「遺伝子か環境か」論争において,それぞれがそれぞれの論者から都合よく取り上げられるものだが,実際には外部入力によって自己を再構成できる能力が生得的にあるということだと解説する.そしてその仕組みは「組み立て手順」であり,神経系の場合ニューロンの軸索が相手を探して伸びていき,その目的領域は目的を示すシグナルを送るのだ.
そして遺伝子と形質について,それは1対1で対応しているものではないし,単に酵素に対応しているということでも説明できない.酵素も含めて他の遺伝子の発現をコントロールする制御遺伝子がネットワーク状に働いているのだと解説している.このあたりはマット・リドレーの本の中心テーマと同一である.


ここから脳と心についての詳しい解説にはいる.脳の形成とニューロン細胞の分裂,分化,その制御,遺伝子が心や行動に影響を与えていると考えられる多くの証拠を吟味しながら,他の身体における形質と同じく,心の形成について複雑に多くの遺伝子が影響を与えあっていることを解説している.
ここで遺伝子が複雑に関連しているのだから心がモジュールの集合体であるはずがないというモジュール説に対するよくある批判(なぜそれで批判になりうるのか理解しにくいが実際に多いのだろう)に,それはモジュールが単一の遺伝子で形成されるという誤解によるもので,複雑な多くの遺伝子ネットワークにより形成されるモジュールがあっておかしくないのだと答えている.

脳の特殊性は,ニューロンの配線によるもので,配線にかかるニューロンが目的地に伸びていくメカニズムの詳細を述べ,それが可塑性を持つメカニズムは,成長が何らかの信号によって制御されていて,それが外部入力でもよいという形で進化することによって得られることを解説する.また記憶の問題も取り上げ,それに分子的な基礎があることを,長期記憶と短期記憶のメカニズムなどを紹介して説明している.


そして進化の文脈ではDNAの冗長性が重要な役割を果たすことを述べ,機能が重複し分化していく様をクラゲから哺乳類に渡って説明している.


ここで専門の言語について少し詳しくふれていて興味深い部分になっている.
まず言語と思考が異なることについて触れたのち,しかし言語は思考の枠組みを決め,復唱を可能にすることで記憶の増強に役立ち,カテゴリー化にも有用で,複雑な情報のエンコードも可能にしていて,思考に大きな影響を与えているだろうとコメントしている.
何故ヒトのみに言語が進化したのかについては多くの説があるがまだよくわかっていないとさらりと流している.
言語と脳のモジュール性については,近年のMRIのリサーチから従来の「ブローカ域=統語法,ウェルニッケ域=語彙」というのが間違いであることを指摘し,言語はそれまでに進化したいろいろなモジュールをその場限りの工夫で利用する形で進化してきた間に合わせのシステムとして理解すべきである(だからいろいろなモジュールを複雑に利用している,つまり言語のMRIデータがモジュール説に矛盾するわけではないと)と解説している.このあたりは近刊の「クルージ:Kluge」においてより深く議論されているようだ.言語についてなかなか面白い考え方で説得力があるように思う.
言語が進化できた理由については恐らく複数のファクターがあるのだろうと説明している.社会的な心や他人の意図への関心も重要だっただろうが,恐らく必須ではないだろう,最も重要な何かを1つあげるならそれは再帰性だろうとコメントしている.
ジャッケンドフの言語進化12の段階説については,よくできた話だが,表現型が必ずしも連続的とは限らないのでまだわからないとコメントしている.
また言語を作る遺伝子については恐らく非常に多くの遺伝子が関わっており,その多くがチンパンジーと共通の遺伝子だろうと述べている.FOXP2遺伝子については,これが制御タンパク質のコード領域であること,文法のほかに顔の筋肉の制御に関わっていること,チンパンジーに相同遺伝子があることがわかっていることであり,言語の基礎の説明に重要かもしれないし,重要でないかもしれないとコメントしている.


ここまで述べてからマーカスは脳の発達の柔軟性と遺伝子数の少なさという謎に答える.
まず自己組織化と再組織化(可塑性)はコインの裏表であり,遺伝子が完璧に仕事をするからこそ,外部入力によって調整,再生が可能になるのだ.そしてそのような仕組みは有利であり,進化し得たのだろうとコメントしている.
遺伝子数の少なさについては(これはグールドが遺伝子数の少なさから進化心理学に批判的だったのを受けているのだと思われる.恐らくそれを真に受けて批判する人たちが後を絶たないのだろう)ゲノムの情報はコンピュータファイルでいう圧縮された情報だという比喩を使っている.これはDNA情報が冗長だとよく強調されるのの逆をついていて面白い.生物の身体の隅々を細かく記述しているのではなく,生物を作る一般的な手順を記述しているのだ.制御情報をあわせた組み合わせ数は巨大であり,さらに拡張性のある書式を使っているからだと説明している.なかなか面白い説明だ.


マーカスはもう一度よくある批判の誤解について丁寧に説明したあとで,心が遺伝子によって影響を受けることの倫理的な帰結についても少し触れている.身体の形成と同じ仕組みで脳は形成されているのだから,治療も同じようにできる.そして遺伝子治療の先には遺伝子操作によるゲノムの向上の問題がある.現時点ではそれはリスクが高すぎてとても実用的ではないが,いずれ技術の進歩とともに真剣に考えざるを得なくなるだろうと(ある意味では踏み込まずにさらっとかわす形で)結んでいる.


全体として本書は,乾いた明るい調子でうまく遺伝子と環境の相互作用について解説した本に仕上がっている.分量も多くなく,またピンカー譲りのユーモアある部分も随所に見られ,楽しく読める.前半はマット・リドレーの本と同じ趣旨だが,後半はより心と言語について詳しくふれていていろいろと参考になる.個人的には冗長性のある間に合わせシステムとしての言語機能という説明と圧縮ファイルとしての遺伝子情報という説明が興味深かった.



関連書籍



The Birth of the Mind: How a Tiny Number of Genes Creates The Complexities of Human Thought

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原書



Kluge: The Haphazard Construction of the Human Mind

Kluge: The Haphazard Construction of the Human Mind

マーカスの近刊.本書で主張している「心は冗長性のある間に合わせシステムという部分がある」というところに絞って書かれているようだ.実はこの本を読みたいと思って予習として本書を読んだところである.


やわらかな遺伝子

やわらかな遺伝子

マット・リドレーによる遺伝子と環境の相互作用を描いた本.

Nature Via Nurture: Genes, Experience, and What Makes Us Human

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同原書