「Missing the Revolution」 第9章 進化,エージェンシー,社会学 その2


Missing The Revolution: Darwinism For Social Scientists

Missing The Revolution: Darwinism For Social Scientists


ベルンド・バルダスによる社会学と進化理論に関する第9章.


バルダスは,本章で取り上げる2つの問題(説明しにくい特徴,エージェンシー)をダーウィン自身はどう考えていたのだろうかについて触れる.

ダーウィンは,様々な変異が環境と相互作用し,役に立ったものが子孫に伝えられると考えた.遺伝的な変異のうちには試行錯誤の中で有用さがわかるものもあるということだ.「種の起源」に見られるほとんどの議論は身体的な特徴に関するものだ.しかし最初からダーウィンはこれは動物の知覚,認知からヒトの文化まで関係するとわかっていた.初期のノートブックには動物の感情や行動に関するものも多く含まれている.心,エージェンシー,道徳の進化的な説明は征服すべき要塞としてダーウィンの心にあったのだ.

ヒトの心や道徳性についてはダーウィンが早くから問題意識を持っていたとして有名なものだ.エージェンシーについてはどうなのだろうか.これまであまり論じられてはいないように思う.



これを説明しようとして最初に突き当たったのが,説明しにくい特徴であっただろうというのがバルダスの見立てだ.

ダーウィンは見事な適応を数多く観察してるが,同時に不完全さ,使えない特徴が多く存在することも観察していた.未発達器官,痕跡器官は自然に数多く見いだされる.尾のない動物の尾骨,鳥の翼の指などなど.ほとんどのものは環境の変化によって不要になったものだ.


確かにダーウィンを読むと,痕跡器官について丹念に記している.もっともこれは自説の難点として記しているというよりも,神による創造という議論に比べて自説をを補強するものとして扱っていると読めるところではないだろうか.ともあれ,バルダスは痕跡器官は不用になったとして解決できるのだが,それ以外のものについては難点として残ったとダーウィンが考え,それに対する回答の1つが「人間の進化と性淘汰」という書物だと述べている.
これはクジャクの尾などの一見役に立たない無駄に見える形質の進化を説明したものだ.


バルダスは,しかしさらに説明できないものが残るとして,複雑な器官の部分的に完成された部品の問題を取り上げている.そしてこれがよく批判として使われたために,種の起源第6版では自然淘汰の説明が後退しているのだという.
このあたりもちょっと納得感のないところだ.ダーウィンが,自然淘汰が進化の原因として唯一ではないかもしれないと認めていったのは,遺伝のメカニズムが知られていなかったために,それ以外の原因論を棄却できなかったためではないだろうか.「複雑な器官の部分的に完成された部品」の議論へ反論がダーウィンにできなかったとは思えない.


もっともバルダスにとってはここまでは導入部のようだ.
ここでバルダスが議論したいのは,ヒトの行動についてダーウィンがどう考えていたかということだ.

ダーウィンは「ビーグル号」において,フエゴ島原住民の英国での生活の現地での行動などを観察し,既にヒトの文化の多様性が環境に対するものとしては説明できないことを理解していた.
「人類の進化と性淘汰」ではヒトの身体の毛のなさ,人種差,音楽の才能は自然淘汰では説明できないとしている.逆に協力,利他主義,道徳は自然淘汰で説明できるとしている.


バルダスは続けてダーウィンの考えをまとめている.

ヒトの知性と道徳の萌芽は動物にも見られ,進化で説明できるとしている.「人及び動物の表情について」ではヒトの怒り,幸福,驚きなどの感情が,動物と連関していることを論じている.「人類の進化と性淘汰」では動物とヒトにおける文化進化の連続性を論じているが,特に美的,道徳的なものに絞って議論している.
これらの特徴を説明するためにダーウィンは「性淘汰」の理論を提唱した.ダーウィンはこれらをメスにおける美的感覚によるものだと説明した.ダーウィンの理論ではメスは生存のためでなく,美的感覚に従ってオスを選んでいることになる.性淘汰の理論的な重要性は,生物個体の能動的な選択が進化の上で重要であることを示した点だ.


このバルダスのまとめはかなり強引で,最後のところはちょっと違和感がある.まず,「人及び動物の表情について」でヒトと動物の感情が連続しているものであることを示している点はいい.ここではダーウィンはあまり究極因の議論をしていない.(このあたりについてはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061216を参照)
「人類の進化と性淘汰」で強調しているのは,人種間の差は性淘汰により進化した形質ではないかということだ.これは当時の政治情勢の中で「奴隷制」に対する議論が背景にあるようだ.(その最後の結論に至るために,この本の最初の2/3は性淘汰の議論が行われていると見ることもできる)
ダーウィンは性淘汰について正しく理解していたが,しかし何故メスが美しいオスを選ぶという形質が進化できるのかについては説明できなかった.これが真に理解されるのは1980年代になってからであり,非常に難問であったことがわかる.逆に言えば,ダーウィンは同時代の学者から100年は進んでいたと考えることもできる.
いずれにせよ性淘汰の理論の重要性は,これで初めて理解できる形質が非常に多いところにあるのであって,「生物個体の能動的な選択が進化の上で重要であることを示した点」ではないだろう.例えば,母親の能動的な子育てにおける様々な戦略の中の選択は通常の自然淘汰上で大変有利になるだろう.それは何も性淘汰に限られる話ではないように思う.


いずれにせよバルダスは,この能動的選択が,何ら必然でなくとも良いと理解しているようだ.しかし性淘汰理論のその後の発展が示すのは,メスの好みには進化的な理由があるのであり,気まぐれな美的好みは(フィッシャー的に一時的に走ることはあっても)進化的に安定ではないということだ.バルダスの理解はちょうどダーウィンの時代に性淘汰の理論が「女性の好みのような気まぐれなもので進化が生じるはずはない」と一般に受け入れられなかったことの裏返しのようで,正統的な理解ではないように思う.


とりあえず,バルダスはこの議論に沿って話を進めている.

このアイデアは進化の3つの重要な様相を与えた.
1.それは進化している生物個体のホンの小さな行為を要求するだけだった.
2.その小さな行為はさらに変異の元を作った.好みによる内部的選択は変異の幅を広げただろう
3.その内部的選択は難しい進化デザインの問題を解決した.

バルダスがいいたいのは,要するに,「メスの好み」だけでなく「意図」のような直接的に繁殖価にしっかり結びついていないような原因で,進化の方向性が生じうるということのようだ.この考え自体は,複雑な現実において実際に生じうるだろう.


バルダスはこの議論の補強する例として,チョウゲンボウのようにホバー飛行をするヒタキ,カワセミのように流れに飛び込むハト,泳ぎながら口を開けてクジラのように昆虫を捕ろうとするクマなどをあげている.(最後の例はダーウィンを深く読み込んでいるようで*1楽しいが)意図に基づく行動パターンにも自然淘汰が働きうるのだということをいいたいようだが,あまり適切な議論だとは思えない.ヒトに絞って議論したほうがよかったのではないだろうか.


関連書籍


ダーウィン著作集〈1〉人間の進化と性淘汰(1)

ダーウィン著作集〈1〉人間の進化と性淘汰(1)

ダーウィン著作集〈2〉人間の進化と性淘汰(2)

ダーウィン著作集〈2〉人間の進化と性淘汰(2)

ダーウィンによる性淘汰とヒトの進化を扱った本だ.第一部が性淘汰の説明で全体の2/3を占めている.「人間の由来」と呼ばれることが多いようだ.


人及び動物の表情について (岩波文庫)

人及び動物の表情について (岩波文庫)

ヒトの感情表現についての本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061216

*1:ダーウィンはクジラの起源の議論としてこのような仮想的なクマを持ち出している