「Missing the Revolution」 第9章 進化,エージェンシー,社会学 その3


Missing The Revolution: Darwinism For Social Scientists

Missing The Revolution: Darwinism For Social Scientists


ベルンド・バルダスによる社会学と進化理論に関する第9章.


バルダスはダーウィンの議論を振り返った後,19世紀にダーウィン理論が社会科学や生物学からねじ曲げられた経緯を説明している.ダーウィンがねじ曲げられた背景についてバルダスは3つ要因を挙げている.

  1. 創造の頂点としてのヒトという宗教的な考え方.ウォーレスはヒトを進化の例外と考えるようになった.マルクスも進化はヒトの歴史の前に終わったと考えた.
  2. ヒトの自由意思が無制限であることをよしとしない風潮.これは政治的な文脈にかかるもので,その時代のイデオロギー的な要請は自由と平等の無制限な主張を抑えてブルジョワの社会秩序と相容れるものにすることだったというのがバルダスの理解だ.
  3. 法則として原因と結果を精密に記述できる自然科学的な方法論への魅惑.これで複雑な社会もすべて記述できるという考え方.コンテはこのような考え方に基づいて,物理学を自然科学の女王と呼んだ.20世紀に入ってメンデルの法則が再発見されたことは生物学もこのような科学になるという希望を燃え上がらせた.


2番目の観点は普段あまり聞かない種類の説明だ.これはバルダスが,ダーウィンの性淘汰理論の要点がメスの自由な好みによって進化が生じる点だと理解しているからこその指摘ということになるだろう.(前回も書いたが,この理解には違和感がある.生物学的な観点からはメスの好みにも理由が求められるべきなのだ.ダーウィンはそれを説明できなかったと理解すべきだろう.ヒトの自由な意思については,また別の議論になると考えるべきだろう)
ともあれ,社会学的には,19世紀のブルジョア的な視点からは,世の中に正邪の絶対的な基準があるべきであって,何でもありでは困るということのようだ.彼等はヒトの選択の自由を賛美しながらヒトの行動をユニバーサルな社会規範に従わせようとしていたのだということになる.
バルダスはこうも言っている.

そしてヒトの社会は予定された進歩の道をたどるものでなければならない.マルクスでさえヒトの行動の絶対的な自由を信用することはなかった.物質的な法則を当てにしたのだ.どんなことでも可能になるヒトの文化進化は19世紀的には「政治的に正しくない」のだった.


3番目の観点は進化生物学がどのような学問であり得るかという科学哲学的な問題だろう.それは社会生物学論争のルウォンティンとウィルソンの立場の違いの1つだし,三中先生が指摘するように,観察される事実にもっともフィットする仮説を選ぶというアブダクションという手法を認めるかどうかという問題でもあるだろう.


さてバルダスは,この結果20世紀に入る頃にはダーウィンの「自由なエージェントが進化を主導できる」という考え方は社会科学からも生物学からも追放されてしまったとまとめている.

社会科学者はヒトの心の優秀性を保証してくれる曖昧な精神・身体二元論に傾き,そして心は厳密な外的環境の制限の元に発現すると考えた.デュルケームは社会的事実の原因は社会的事実からのみ見いだされねばならないと考えた.心理学では行動主義が一世を風靡した.自由やエージェンシーなどという概念は我々の理解が進めば無くなると考えられたのだ.

内部的に測定できないことは無視された.行動は刺激と反応によって説明できる.あるいは合理的な選択として説明できると考えられた.意図や目的,非合理的な行動は無視された.社会的実証主義,行動主義,新古典経済学はすべてヒトを外部刺激に単純に反応するものと見なしていた.社会の刺激と反応は線形で,反転可能で,繰り返し観察でき,予測できると考えられた.

ヒトの行動の複雑さと予測不可能性は文化の見かけの特徴にすぎないと思われた.非合理的,非適応的な性質はアノマリーとして見下されたり,隠れた機能を探されたりした.例えばデュルケームは「犯罪は普通の市民の正義の感覚を強める機能があり,社会の団結を強める」と主張したが,これは社会科学的機能主義の「ジャストソーストリー」と評価できるだろう.冗長性や非機能性はよく調べれば無くなる,あるいは無意味になると考えられたのだ.


ダーウィンの否定だったかどうかはさておき,20世紀前半の社会学,生物学のメインストリームとはこういうものだったということだろう.マルクスやスキナーの学問はこういう観点からみるとわかりやすいのかもしれない.(もっともフロイトはどうなのかというのはちょっとよくわからないが)


バルダスは,しかしこういう考え方は社会学にパラドクスを生んだという.実証主義により社会科学はデータを扱う実証的な学問になった.しかし,これらのデータは文化が決定論的だというより確率論的であることを示していたというわけだ.社会科学はこのようなデータを説明できなかったのだ.

構造は因果というより系統的で歴史的だ.ヒトの選択は合理的でないこともあり,最適には遠く,結果は予測できない.歴史の道は進歩の一本道というよりランダムウォークだ.簡単に言うと社会科学のデータは社会が進化的な過程にあることを示していたのだ.


バルダスは生物学も同じ道をたどったとまとめている.

ネオダーウィニズムダーウィンの生物個体の生きている間の適応的な行動に関する視点を切り捨てた.その代わりそれは外部的な変異と遺伝に焦点を絞った.遺伝子の発見は生物学の焦点を遺伝子に集中させた.
「人類の進化」は妙な本だとされ,認知の役割に関するダーウィンの関心はラマルク説を完全に破棄できなかったためとされた.動物が選択できるはずがないと性淘汰理論は否定された.クジャクの尾は適応性質そのものだと強弁された.生物学は意識,意図のような概念について擬人的だと否定した.
生物は遺伝子と外部環境に操られるだけのものになったのだ.単純な必要性にのみ左右される肉でできた機械と考えられたのだ.それは非最適,冗長的なものを切り捨てた.


確かに20世紀前半の生物学においてダーウィンの理解の水準に達していたのはごく少数の学者だけだったと思われる.しかし行動の理論を切り捨てていたわけではないと思われるし,性淘汰理論が受け入れられなかったのは,ダーウィンが何故メスの好みが進化しうるのかを説明できなかったからだ.(結局それが説明できたのは1990年までかかったことになる)意識,意図を否定したのは生物学の中でもごく一部にすぎないだろう.このあたりもバルダスの説明には違和感があるところだ.