「Kluge」第3章 信念 その2

Kluge: The Haphazard Construction of the Human Mind

Kluge: The Haphazard Construction of the Human Mind


ヒトの信念がどのように形成されるかを見ると,要するに,「すでにあるもの,信じたいことを信じる」ということになっていることがわかったところで,マーカスは,ではどうしてそうなっているのだろうかと問いかける.


マーカスの答えは,「進化は論理を生みだすときにそれをうまく使うことが重要になることを予見できなかった.制限する装置がないから自己欺瞞のままに信じてしまうのだ」というものだ.


マーカスは3段論法の誤用という例を挙げている.

3段論法の誤用.トレーニングした人でないと容易にだまされる.これはある意味バグだ.
よくデザインされたシステムなら信念とそれを導くプロセスを分けているはずで,直接証拠があるものと推論したものを区別するはず.
進化は類推による粗雑な推論エンジンを生みだしただけだ.これはこの2つを区別する必要がなかったためなのだろう.
3段論法を操る能力はごく最近できたもので,既に信念と推論は固く結びついたあとだったのだ.結果はクリュージだ.完全な推論システムが偏見と先立つ信念により汚染されている.


要するに,EEAでは論理をうまく使うことがあまり適応的ではなかったというわけではなく,それは適応的だったかもしれないが,適応地形の極大点に閉じこめられて論理をうまく使う制御システムは進化できなかったということなのだろう.


マーカスはさらに一歩進めて,推論自体が何らかの適応の副産物ではないかとまで踏み込んでいる.確かに3段論法のように洗練された論理は,文字が発明されたあとの数学のようなもので注意深い学習にのみよって身に付くという性質がある.マーカスは,その補強証拠として,生まれて初めて推論の問題を聞いた人はその質問のポイントがつかめないことを挙げて,狩猟採集民への質問とその解答の例を示している.


マーカスは本章をこうまとめている.

システムはまず知覚のために進化した.だからそれをそのまま信じることにつながる.本当は評価してから信じるべきだがそうなっていないのだ.

信念は感情,記憶のトリック,知覚システムの奇妙な性質による汚染されるのだ.ヒトは真実だと知っていることと真実だと信じたいことを区別できないのだ.


確かに3段論法の習得は,確率統計の理解と似たような話で,一般知能を使ってトレーニングしないと身に付かない.だからこれに関する適応としてのモジュールはないのだろう.
しかしこれはEEAにおいても本来そのようなデザインである方が有利なのだが(淘汰圧はあるのだが),脳のデザインの制約で(適応地形の極大点に閉じこめられて)進化できなくて間に合わせのクリュージになっているのか,それともEEAにおいては,コストをかけてそのような計算をしても有利にならなかったのか(淘汰圧がなかったのか),そして現在ある推論方式はコスト込みでEEAでは適応的だったのか,はここではきちんと検討されていないように思う.
信じたいことを信じやすい方が,社会関係のなかで有利だったのだとすれば,それが,根拠を吟味して信じるメリット(そのようなメリットがあるとして)を上回っていれば,そのような根拠を吟味して信じる信念形成モジュールは適応として進化しえないだろう.


正確な証拠があるときのみ信念を持つ方がよいのは進化的に非常に新しい環境なのかもしれない.実際現代においてさえ,身の回りで星占いや血液型性格判定術を信じているからといって,そのような人がそれほど困難な状況に陥っているようにも何か損をしているようにも見えない.(逆にセルフコンフィデンスが高い人は成功しやすいようにも思える)大きな金額を動かすような場合にはだまされて損をすることがあるだろうが,それは非常に進化的に新しい環境なのだろうと考えることができる.本章におけるマーカスの議論は,(序章で宣言したことと比べて)信念形成システムはクリュージだという考え方もあり得るというに止まっているようだ.