日経サイエンス ダーウィン記念特集 その2

shorebird2009-02-28

日経サイエンスのダーウィン特集.本家サイエンティフィックアメリカンの表紙をあげてみたが,こちらでは2009/01となっていて,今年の冒頭を飾るものだったことがわかる.



さて5番目の記事はN. H. シュービンによる「この古き身体」
その場の適応の累積で形作られた人体は,改造を重ねてきて構造や配管がめちゃくちゃになった構造物に似ているのだというのが趣旨.まさにゲアリー・マーカスが主張するクリュージ性だ.その例が具体的に2つ丁寧に解説されている.
最初は有名なもので男性の精巣と尿道をつなぐ精索が最短経路ではなく大きく回り込んでいるというもの.よく聞く話ではあるが,さすがにサイエンティフィックアメリカンの記事で見事なイラストで示されている.これにより鼠蹊部のヘルニアという重荷をヒトの男性は抱え込んでいるというわけだ.
2番目に取り上げられているのはシュービンの著書でも取り上げられていた「しゃっくり」の進化的起源だ.両生類のオタマジャクシの鰓呼吸に起源があるという説明だが,これも丁寧なイラストで解説されている.



6番目の記事は高畑尚之による「人間の由来と病気」
ゲノムの中にある病気関連の遺伝子を取り上げ,生命の歴史のどの時点でそれがヒトに組み込まれたのかを順に解説していく.まず多細胞化に伴い,生殖系列の分離が生じ,老化,癌という現象が起こる.また共生オルガネラの問題として筋ジストロフィーに似たミトコンドリア病を指摘している.続いて脊椎動物まで話は飛び,内骨格の出現とカルシウム代謝関連遺伝子を取り上げ,病気としてはその遺伝子の変異によるエナメル形成不全症,また別の問題として獲得免疫の仕組みと自己免疫疾患を紹介.次に陸上進出に進み,ナトリウムイオン調節遺伝子と高血圧を取り上げる.
霊長類以降においてはその生態から不要になった遺伝子が失われる現象を取り上げ,4色型色覚遺伝子の喪失と3色型の色覚再獲得,再獲得が染色体の不安定さを利用した形であったため喪失されやすいという特徴を持つこと,ビタミンC合成遺伝子の喪失と壊血病などが解説される.
ここでY染色体の縮小を哺乳類の歴史とともに再構成していてちょっと面白い.病気としては精子形成不全が紹介されている.
最後にヒトの文化との関連で乳糖不耐性,インスリン抵抗性,などが紹介されている.


ゲノムの観点から病気関連遺伝子を取り出して歴史の順番に並べているが,その病気と自然淘汰・進化適応の関係についてはあまり関心がないようで,記述があったりなかったりだ.(例えば単純な突然変異,トレードオフ,副産物,クリュージ性など)またダーウィニアン医学の紹介としても感染症の記述(病原体との共進化などの話題)がすっぽり抜け落ちていて,ダーウィン特集としてはなんだかずれているような気もする.この記事はサイエンティフィックアメリカンにはなく,日経サイエンスのオリジナル記事のようだ.せっかく高畑先生に寄稿をお願いするのであれば,中立説についての解説をお願いした方が良かったのではないかと思われる.この日経サイエンス編集部の安直な姿勢は残念だ.



7番目の記事はP. ウォードによる「未来のホモサピエンスは?」
ウォードは古生物学者としていろいろな著書があるが,この記事の最後の著者紹介では専門の中に宇宙生物学(!)という記述もある.初めて聞く学問分野名称だ.
さて本記事は進化生物学の記事としてはあまり中身のないものだが,一般読者向けには興味深い話題ということなのだろう.ヒトの未来の進化についていろいろな考え方が紹介されている.過去1万年に関して農業革命という環境変化により進化が加速していること,科学技術,医学が自然淘汰に歯止めをかけ始めていること,これまでと方向が逆になるという見解(しかし少なくとも知能が低下している証拠はないと補足している)遺伝子エンジニアリング,ヒトと機械との関係などが解説されて,将来はいろいろなシナリオがあると結んでいる.
(一番面白かったのは著者紹介の中で,「最近11歳の息子と大型鉄道模型を使って白亜紀後期の世界を復元し,同スケールの恐竜をたくさん並べ,機関車を暴走させて恐竜を絶滅に追いやった」とある部分だ.子供との遊びとしてはとても面白そうだが,ここでなぜ紹介されているのだろう)



8番目の記事はD. J. ブラーによる進化心理学批判記事「進化心理学4つの落とし穴」
ブラーは哲学者で「Adapting Mind」という著書で進化心理学批判を行っていることで有名だ.サイエンティフィックアメリカンでは進化心理学者による記事は載せずに批判者の哲学者の記事だけ載せるという扱いで,かなり片手落ちという感じだ.もっともアメリカでは日本と比較にならないぐらい安直なエセ進化心理学的な言説がまかり通っているということかもしれない.

しかしブラーが批判しているのはエセ進化心理学のたぐいではない.バスやピンカーというそうそうたるメンバーまで「ポップ進化心理学」として批判しているのだ.
批判の要点は4点

  1. 進化心理学は更新世の適応問題を分析しようとするが,それがどのような適応問題だったか正確にはわからないはずだ.
  2. ヒトの近縁種はチンパンジーとボノボであり,心理学的特徴が遠く離れすぎていて,現在進化心理学が問題にしているような特性を比較研究できない.(だから確かなことはいえないはずだ)
  3. 進化心理学はヒトの心的特徴は更新世に形作られたというが,それ以前に形作られたもの,農業革命以降に獲得されたものもあるはずだ.
  4. 心理学的な(主に学生を対象とする)アンケート調査では正確なことはわからないはずだ.


私にはこれは,ありもしないかかしを仕立ててぶん殴っている議論と,哲学者特有の1か0かの厳密性を求めすぎた議論の混合物であるように感じられ,とても批判としてまともなものであるとは思えない.

  1. 正確にわからなくともいろいろな議論はできる.これを言い出したら古生物の適応については何も研究できなくなる.また実際の議論は確かにある程度の前提を含んでいるが,そこをはっきりさせておけば特に問題はないし,ほとんどはもっともな前提だと思われる.そうでなければ個別に前提の適否を議論すればいいだけだ.
  2. 比較研究だけが正しい検証方法だという理解はおかしいのではないか.いろいろな検証方法があり得るし,ある議論が検証不十分だということなら個別に議論すればいいだけだ.
  3. 誰もヒトの心が「すべて」更新世に形作られたなどとは主張していない.典型的なかかしの議論だ.
  4. アンケート調査がまったくおかしいというなら,それは進化心理学だけでなく,心理学全体の大きな部分の否定ということになる.いずれにせよ進化心理学はアンケート調査だけで検証しているわけではないし,検証不十分だというなら,個別に議論すればいいだけだ.
  5. あえていうなら,進化心理学の内部サークルでは検証について外から見たときに甘いと感じられる議論が通りやすいということかもしれない.私はそれは事実ではなく,「ヒトの心理に関することだ(最終的にはモラルに関わることだ)という理由で外部から必要以上に厳密な基準を求められている」という現象の結果のように思うが,ここは進化心理学サイドも謙虚に振り返る姿勢を保つ方がいいのだろう.


記事中のコラムでは進化心理学者の平石界先生が,非常に抑えた記述で反論しているが,もっと激しく反論してもよかったのではないだろうか.このコラムの掲載については日経サイエンス編集部の見識をほめたいところだ.(もっとページ数をさいて欲しいところだが,コラムではそうも行かないのだろう)



ここで茂木健一郎と三中信宏の対談記事.
三中先生の系統樹オタク振りが満開で非常に楽しい対談記事になっている.宗教の系統樹(この前サイエンスカフェで実物を見せてもらったものだ)最古の家系図,ヘッケルの図,現代の「生命の樹」プロジェクトの図など挿入された図版も楽しい.「種」問題,進化の受け入れに対する西洋と東洋の違い,ダーウィンの生涯なども熱く語られている.ダーウィンに関しては「ビッグブック」についての話題が興味深かった.



10番目の記事はD. P. ミンデルによる「実社会に生きる進化生物学」
現在の社会にいかにダーウィニズムが深く入り込んでいるかを扱っている.まず最初に取り扱われるのが犯罪捜査,法廷での応用だ.このあたりはいかにもアメリカの一般市民向けだ.DNAによる犯人特定はおなじみだが,ここではミンデルが実際に科学鑑定人として分析に当たった事例を取り上げている.看護師で愛人であった女性にHIVを注射した医師の事件で,医師はビタミン注射しただけだと言い張ったが,女性のHIVと医師の家の冷蔵庫にあった血液サンプルのHIV,さらに女性が接触しうる患者のHIVのDNA配列を系統解析して医師の有罪を立証したというものだ.アメリカでは陪審制なので,陪審員にこの系統解析の理屈が通用したというのがちょっとしたトピックということになるのだろう.
記事では続いて,このような病原菌の系統解析が,感染症対策としても重要になりつつあるとして鳥インフルエンザの対策事例が取り上げられている.さらにオーダーメイド医療,タンパク質合成における工学的応用(進化分子工学)によるヒト乳頭腫ウィルスワクチン(ウィルス複製を25万倍遅くしてワクチンとしての安全性を高めたもの),進化的アルゴリズムによるコンピューターソフトなどが紹介される.
最後に生態系の理解としてメタゲノミクス(生態系にあるすべての生物のゲノムを丸ごとデータ化して分析しようというもの)の試みが紹介されている.これはなかなか面白そうだ.



11番目の記事はちょっと軽めのもので,サイエンスライターであるE. レジスによる「進化ゲームの進化度は?」
原題は「The Science of Spore」
日本語の題を見たときは進化ゲームの理論にかかる記事だと思ったがさにあらず.これはSporeというコンピューターゲームについてのもので,自分の選んだ生物がDNAポイントを得て進化していくというゲームの特徴をざっと説明した後に実際の生物進化とどう違うかを説明している.進化を否定する人が多いアメリカではこのような進化を題材にしたゲームに人気が出るということ自体が歓迎すべきことなのだろう.
私はよく知らなかったのだが,SporeとはシムシティやシムズでおなじみのEAから出されているシミュレーション系のゲームで,プラットフォームはWindowsのみのようだ.http://www.japan.ea.com/spore/spore/index.html



特集最後の記事はG. ブランチとE. C. スコットによる「創造説のナンセンスな変異」
原題は「The Latest Face of the Creationism」直訳すれば「最近の創造説の様相」ということだ.
これはもちろんID(インテリジェントデザイン説)についての記事だ.この記事が面白いのは,アメリカにおける教育の場における法廷闘争の歴史が,結構テクニカルに説明されているところだ.テネシー,アーカンソー,ルイジアナなどの極めつけのレッドステートでの創造説を教育の場に導入しようという法律(これが次々に可決されるのがアメリカのプロテスタントと結びついた保守のすごいところだ)とそれに対する法廷闘争の歴史はただすさまじい限りだ.
IDは法廷闘争を有利にするために作り出された創造説の変異だという証拠なども掲載されていて興味深い.この記事では背後にある「モラル」も巡る葛藤についてはふれられていないが,やはりいろいろと考えさせてくれる.



以上日経サイエンスのダーウィン特集だ.アメリカの一般向けの科学啓蒙雑誌の特集という特徴がいろいろ現れていてなかなか興味深いといえるだろう.その背後にアメリカにおける「進化学」の現在が透けて見えるようだ.




関連書籍


シュービンの本

シュービンのしゃっくり学説が載せられている.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20080923


ウォードの本

生きた化石と大量絶滅―メトセラの軌跡

生きた化石と大量絶滅―メトセラの軌跡

絶滅も進化も酸素濃度が決めた 恐竜はなぜ鳥に進化したのか

絶滅も進化も酸素濃度が決めた 恐竜はなぜ鳥に進化したのか

私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20080324



三中信宏の本

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

  • 作者:三中 信宏
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/07/19
  • メディア: 新書
生物系統学 (Natural History)

生物系統学 (Natural History)

  • 作者:三中 信宏
  • 出版社/メーカー: 東京大学出版会
  • 発売日: 1997/12/01
  • メディア: 単行本
私の書評はそれぞれhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060730/http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060822


ブラーによる進化心理学批判の書.私は未読.

Adapting Minds: Evolutionary Psychology And The Persistent Quest For Human Nature

Adapting Minds: Evolutionary Psychology And The Persistent Quest For Human Nature

  • 作者:David J. Buller
  • 出版社/メーカー: Mit Pr
  • 発売日: 2005/03/01
  • メディア: ハードカバー