現代思想 総特集「ダーウィン:『種の起源』の系統樹」 2009年4月臨時増刊号

shorebird2009-05-05


ダーウィン生誕200年,『種の起源』刊行150周年とあって『現代思想』もダーウィン特集を出してくれた.『遺伝』『科学』『日経サイエンス』などの科学雑誌とひと味も二味も違う特集になっている.様々な視点からの寄稿が並び,なかには思い切り微妙な記事もあって,いかにも『現代思想』だ.


巻頭を飾るのは,1858年に自然淘汰説をリンネ協会で発表したとき読み上げられたダーウィンの論文,及びエーサ・グレイ教授宛の手紙の和訳だ.残念ながら同じ時に読まれたウォーレスの論文は載せられていない.ダーウィン特集だからやむを得ないと言うべきだろう.読まれた部分は大変短いものだが,「種の起源」の前半部分の概要であることがよくわかる.
その後『解題』と称して訳者の新妻昭夫による背景の解説がある.ダーウィンに論文を送った結果共同発表になったという扱いに対するウォーレスの態度は,自然淘汰学説はあくまでダーウィンのものであるとし,この論文をダーウィンに送ったことがきっかけでロンドンの科学界に受け入れられるチャンスを与えられたことを喜んでいるという風であり,ダーウィンはそのようなウォーレスの態度にほっと安心し感謝している様子がいくつかの手紙の訳文とともに説明されている.


次は渡辺政隆と茂木健一郎による対談「ダーウィン的仕事」
渡辺がダーウィンの業績や人となりを話し,茂木が突っ込むという体裁.茂木の最初のフォーカスは科学者としてのキャリア形成のところだが,無理矢理現代に引き直そうとしていてあまり面白くない.
続いて進化論の人間への適応が話題になる.茂木の突っ込みは独善的な部分が多いし,独自の主張の根拠がまったくしめされていないので,何を言いたいのかよくわからない.渡辺は進化心理学に対して,グールドよりで批判的だ.そこは副産物仮説をより検証すべきだという立場としてわかるのだが,ダーウィンが人間の精神や自意識について何とか説明したいとして性淘汰まで出してあがいたとコメントしているが,これは誤解だろう.ダーウィンの性淘汰説はあくまで人種の説明にかかるところで,精神については自然淘汰で説明しようとしているというのが正統的な理解だろう.
全般的にあまりかみ合っていない対談という感じだ.


次は松永俊男による「日本におけるダーウィン理解の誤り」
いろいろな流布している誤りが指摘されていて面白い.ダーウィンはケンブリッジ大学のクライストカレッジにはいっているのだが,これを「神学部」と誤訳したり,取得した学位「Bachelor of Arts」を文学士と誤訳したりして,それが流布しているという.なかなか初歩的なミスで面白い.
次に松永が指摘するのはNatural Selectionは自然淘汰ではなく自然選択と訳すべきだという問題.英単語の意味からは選択が良いという主張だ.ここまで定着しているのだからどちらでも良いと思われるし,私はMate Choice 配偶者選択と区分する意味で,自然淘汰の方が良いと思う.
松永は「進化」もあまりよい造語ではないと主張している.確かに松永が指摘するように,中国のように進化を「演化」自然淘汰を「天拓」とした方が良かったのかもしれない.しかしこれはもうどうすることもできないだろう.


このあたりからいかにも「現代思想」というべきダーウィン否定的な言説の寄稿が始まる.


まず長野敬による「ダーウィン・マシンとベルナール・マシン」
難しく書いてあってなかなか読みにくいが,要するに生理学的な詳細も重要だというような主張らしい.


続いて池田清彦による「ダーウィンが言ったこと,言わなかったこと」
これもなかなかわかりにくい寄稿.いわゆる「構造生物学」の主張と言うことなのだろう.「自然選択説の適応概念は,環境があって生物が強いられて徐々に形を変えていくというものですが,僕らは,形が先に変わってしまえば,生物は自分に適した環境を探すはずだと考えるのです」などのコメントがある.「ダーウィンは間違っている」というよくある言説の典型のようで,ダーウィンや自然淘汰説の主張を,極端に狭く歪んで解釈し,間違っているとあげつらっているように感じられる.


河野和男による「ネオダーウィニズムの職人が見る非ネオダーウィニズム的世界」
いろいろ書かれているが,要するに,種の違いと科や目の違いはまったく異なるもののように「肌」で感じられるし,育種しようとしても,突然変異が枯渇してそのような大きな変更はできないのだから,「ダーウィンは間違っている」という主張のようだ.これもよくあるタイプのダーウィン否定論だろう.


ここでちょっとダーウィンの周辺を見ていく寄稿がいくつか載せられている.


倉谷滋の「進化する「手」と形態学の終焉」
いかにも倉谷らしい重厚な寄稿で,オーウェン,キュビエ,ジョフロア,ヘッケル達の考えを振り返るもの.「相同」が普遍のプラトン的イデアから,進化における保守性に変わっていく流れの中での形態学者達のたどった道を解説している.



次は川上紳一の「チャールズ・ダーウィンと地質学」
フンボルト,ハットン,ライエルがダーウィンに与えた影響と,ビーグル号の航海でダーウィンが何を見て,何を考えたかが解説されている.


次は遠藤彰による「ダーウィン的生物体の変奏と変換」
これはいかにも「現代思想」という文体で,極めて難解に書かれている.しかし書かれていることはそれほどおかしなことではなく,ニッチ構築や延長された表現型などの概念を認め,それをどのようにうまく生かして生態系の進化を議論できるかを考えたいというもの.
そのなかで,ドーキンスは「鳥はある巣がもうひとつの巣を作るための方法である」というジョークを真剣に受け止めて「延長された表現型」のアイデアにいたったのではないかとコメントしていて面白かった.


ここで哲学者染谷昌義による「行動を生け捕りする」
ダーウィンの晩年の著作「ミミズと土」におけるミミズの行動特性研究を丁寧に紹介し,このような行動研究は現代におけるミクロのとらえ方とマクロのとらえ方のちょうど中間にあってうまく「機能特定」できていて,見直されるべきだと解説している.
染谷の言う「機能特定性」が何故リサーチプログラムとして優れているのかはよくわからなかったが,ダーウィンのミミズ行動研究の詳細はなかなか楽しい.


次は加藤陽子ほかによる「鳥のさえずり行動と4つの質問」
岡ノ谷チームによる鳥のさえずり研究は,ティンバーゲンの4つの何故をすべて含んでいるとして紹介されていたりするが,本稿はチームメンバーによるそのあたりの解説.まったく「現代思想」的ではなく,科学雑誌にあるようなまっとうな研究紹介だ.


ここからはダーウィンを題材に自由に様々なことを論じるというまさに「現代思想」そのものの寄稿が続く.オートポイエーシスだとか,アフォーダンスだとか,ドゥルーズの「浮遊する力動空間」だとか,「アメリカ超越主義」だとか,私的にはいったい何を言いたいのかよくわからない寄稿(ただし戸田山の寄稿は例外)が続いている.おおむねダーウィンはそれを論じる1つのきっかけに過ぎないようである.とりあえずこのような論考が並んでいる.


池上高志「オートポイエーシス再考」
北垣徹「社会ダーウィニズムという思想」
斎藤光「ダーウィンにおける性選択」
竹沢泰子「アメリカ人類学に見る進化論と人間の「差異」」
田中純「Art History と Natural History」
戸田山和久「「エボデボ革命」はどの程度革命的なのか」
檜垣立哉「浮遊する個体」
斎藤直子「プラグマティズムと超越主義の自然観」


北垣はダーウィニズムの人間への適用について非常にナイーブな立場.人間への適用はよくない結果を引き起こすという前提からしかものが見えていない印象だ.かなりがっかりさせられる.
斎藤光による「性選択」の論考も,「性選択」が今目の前にある現象を説明しようとしている科学的な仮説であるという理解ではなく,何らかの「性」を巡る「思想」であるという理解から始まっていて,これにもがっかりだ.


戸田山の「エボデボ」の整理は参考になる.エボデボは発生の部分に焦点を当てたリサーチプログラムなのだが,その中で一部の哲学者,心理学者,生物学者が「発生システム論」DSTと呼ばれる主張を展開している.これはリサーチプログラムの外側からの現代の進化学のコンセンサスに反対する哲学説と見なすことができる.そしてその主張は些細なことを針小棒大に取り上げたりする極端な立場だと理解すればいいというような概略だ.


さて本誌の最後を飾るのは佐倉統,三中信宏ほかによる読書ガイドだ.三中信宏,粕谷英一によるガイドはかなりとんがっていて,いかにも「現代思想」的で良い感じだ.


本誌全体としては良くも悪くも「現代思想」という印象だ.わけのわからないダーウィン否定論も収録し玉石混淆を絵に描いたようなできばえだ.ある程度はっきり自分の視座を持っていないとダーウィンを誤解しかねない毒も併せ持つと言うことだろう.