Bad Acts and Guilty Minds 第1章 必要性 発明の母 その2

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


ペルシアン星の落盤事故のケーススタディは続く.

この仮想ケースでは,遭難したチームは救出まで1週間かかるという連絡を受けて殺人という決断を行っている.
ではこの1週間かかると信じた判断が軽率であったらどうなるのかというのが2番目の論点だ.

カッツは,アメリカ法ではそう信じていれば「必要の原則」による抗弁が認められるだろう,しかしそれに過失があればその責任を問われるということになると述べている.これは日本法でも同じで誤想避難は違法性阻却事由ではなく責任阻却事由となり免責される.ただし誤想したことに過失があれば過失犯で処罰されることになる.


次に自招行為の議論がなされている.このチームは危険を承知で洞窟に入ったのではないのかという議論だ.アメリカ法ではこれはクリーンハンズの原則の適用という問題になる.


クリーンハンズとは問題の危険について自分の手がきれいでなければこのような抗弁は主張できないという原則だ.法廷での駆け引きをフェアなゲームにしようとするアメリカ法の考え方が良く出ている.運転手が過失により危険な運転をしており,5人をひき殺しそうになったので,ハンドルを切って1人をひき殺したというケースを想定すると,アメリカの判例法では,この運転手は「クリーンハンズ」ではないので「必要性の抗弁」を主張できず,殺人罪(故殺)に問われることになる.
ということは,この場合運転手はそのまま5人を轢いたならば過失罪でありその方が罪が軽いことになってしまう.カッツは判例法を批判し,抗弁を認めた上で過失犯で処罰すべきだと主張している.このあたりはフェアなゲームというヒトの感覚にひきずられ過ぎたコモンローの乱暴なところなのだろう.ちなみに日本法では原因行為に過失があっても緊急避難が認められ,しかしそもそもの原因を作った行為に関し過失犯として処罰されることになるだろう.


さてこのクリーンハンズの原則に絡んで,自ら招いた危険な行為の結果としての行為に「必要性の原則」の抗弁が可能かという問題が生じることになる.
カッツはこれはそれほど単純な話ではないと議論している.リスクを避けるには通常コストがかかる.そのコストとの兼ね合いが重要だというのだ.
日本法でも,自ら危険を招いたことに過失があるかないかは,このコストが通常負担できないほど大きなものかどうかもからんで判断されることになるのではないかと思われる.おそらくヒトは直感的にそのようなコストを認識しているのだろう.飲酒運転致死傷が厳しく非難されるのは,それを避けるのに合理的なコストがあるとは認められないからだろう.


カッツは次に問題を少し広げて「必要の原則」と法の秩序という問題を提起している.
この落盤事故の際に「じんわり飢え死ぬぐらいならさっさと殺して欲しい」と言われて殺していれば安楽死として無罪になるのかという問題から始まり,原発建設反対で不法侵入で捕まったケースなどを取り上げて議論している.
カッツが言いたいのは,「安易に安楽死を認めたり「必要の原則」を政治的に広げたりするのは法秩序を崩壊させかねないのでそうすべきではない.しかし最終的に立法者が想定していないような状況で何らかの安全弁があった方がよい」ということだ.
そのような安全弁の1つとして陪審による無罪評決をあげている.アメリカの陪審は最終的に何の理由もなく「無罪」を宣告できる.これは制度の究極の安全弁であり,「必要の原則」もそれに似たところがあるのだという議論だ.
日本にはこのような安全弁はない.刑事事件においては軽い案件については起訴するかどうかのところに割と広い裁量の領域がある,しかし一旦起訴されれば逃げ道はない仕掛けになっている.超法規的違法阻却という議論はあるが,主に刑罰に値しないような軽微な事例が議論されており,殺人のような重い案件では安全弁はないようだ.実際には緊急避難要件が緩いのであまり必要ないのかもしれないが,法制度の是非としては興味深いところなのかもしれない.


カッツの次の問題提起は「落盤事故で閉じ込められたチームが生き延びるための殺人は必要の原則が認められるとして,被害者を選ぶ方法は何が望ましいのか」だ.ここからは法律論より道徳・倫理問題の雰囲気が濃厚だ.
カッツは「くじ引き」「委員会方式」「市場メカニズム」という3案を示して議論している.
くじは平等な感じを与えるが,運命をコントロールできない無力感を与える.委員会方式は,外れた人に辱めを与え,価値観を明らかにすることにより無益な争いを生みだしかねない(シアトルの臓器移植順序選別委員会の事例を紹介している).市場メカニズムは金持ち優遇になるし,本来価格をつけない方がよいと思われるもの(命,自由など)にも価格をつけてしまうという問題があると議論している.
この議論の中では,価値観を明らかにすることの問題分析が面白い.ある人が重要かどうかという問題と,それを明らかにしてしまう問題とは異なるのだ.全員が知っているという状況は裸の王様と同じようにまったく別の社会的状況を生み,偽善が不可能になる.そしてそれは危険かもしれないということだ.


カッツはどれが良いかを一義的に主張することはなく,なぜある種の欠乏問題の解決が困難なのかを解説している.
カッツの議論は,結局事故を防いだり,ある病気を治すための施設に金がかかり,すべてを行う資金がないのだとすれば,私達は人の命の価値を金銭で判断せざるを得ないのだが,それと真正面から向き合ううまい方法はなく,私達はそれに向き合うのを嫌がるのだというところにある.
結局人はいつかは死ぬのだが,私達はそれを正面から認めたくないのだ.だから目の前にある悲惨な人を救うことだけに集中し,その他の問題からは目を背けている.


カッツはそういう議論をしていないが,これは進化的な過去に生じなかった新しい問題にヒトの心がうまく適応していない問題だと考えることができるように思う.進化的な過去には,前もって予算をつぎ込んで救える命はなく,進化は目の前で苦しんでいる仲間を救うことに集中する心を作ったのだろう.
また目の前の誰かを犠牲にすれば,複数の人間が助かるという状況はやはりそう多くはなかったのだろう.だから私達はスペルンシアン星のこのような状況を目の前にすると動揺するのだ.道徳・倫理の問題としては依然難問だが,これらを普通の殺人と同じように裁くのはやはりあまりうまい解決方法ではないだろう.そして法の英知は,最後の安全弁として「必要の原則」を広く認めたり,陪審に超法規的に無罪を宣告する権限を与えたり(アメリカ法),あるいは法原則を明文化するときに緊急避難の要件を広く認めたりする(日本法)ところに現れているのだと評価できるのではないだろうか.