「分子進化のほぼ中立説」

分子進化のほぼ中立説―偶然と淘汰の進化モデル (ブルーバックス)

分子進化のほぼ中立説―偶然と淘汰の進化モデル (ブルーバックス)


集団遺伝学者太田朋子による「ほぼ中立説」の解説書.著者は分子進化の中立説を提唱した木村資生のもとで研究を行い,ほぼ中立で弱有害遺伝子の浮動・淘汰過程について様々な業績を挙げた学者である.


本書はわずか140ページ弱の著作だが,内容は濃い.中立説の勃興から分子進化学,エヴォデヴォによる様々な発見まで研究の第一線に居続けた著者による,臨場感豊かな歴史と,非常に簡潔で本質を突いた解説がミックスされた魅力あふれる書物になっている.


まず最初に集団遺伝学の基礎が解説され,その本質が集団における対立遺伝子頻度の変化を捉えるものであることが示される.そして中立説が示した遺伝的な浮動が解説される.この2つは結局淘汰係数と集団の大きさをパラメーターとして確率的に統合できるのだ.
ここから木村が中立説を提唱した時代の議論を振り返る歴史が語られる.ここはなかなか面白い.当初は「そんなはずはない」という感情的な反発が主流であったものがだんだん議論が深まっていく様子などが描かれている.


当時の議論の中で,淘汰を受ける突然変異と中立突然変異のあいだはどうなっているのか,分子時計がなぜ世代の長さに影響されないのか,集団内多型が中立説の予想より狭い範囲に収まっているのはなぜかという疑問が生じる.著者はこれらはすべて,自然淘汰と中立的な浮動の影響を同時に受けるような弱有害な遺伝子の淘汰・浮動過程を考えれば説明できるのではないかと思いつく.弱有害遺伝子は浮動と淘汰の両方に影響されるので,集団規模が大きいと淘汰の影響が強くなり,小さいと浮動の影響が強くなる.世代の長い生物は集団規模が小さいので分子時計が世代の影響をあまり受けないことを説明できるし,大きな集団では弱有害遺伝子は淘汰されてしまうために頻度が増えないで多型の度合いが小さな範囲に収まると説明できるというわけだ.
本書で取り上げられている「ほぼ中立説」は要するに,浮動過程と淘汰過程が共存するような部分の理論的な解析である.淘汰係数は不連続ではあり得ないのだから,両方の過程が効いている領域があるというのはある意味当たり前といえば当たり前だが,中立説自体受け入れに時間がかかった時代背景からいうとやはり最初の提唱は革新的な業績であったのであり,このような分析フレームになぜ「ほぼ中立説」などと名前がついているかということもあわせ感慨深いものがある.


続いてこのほぼ中立説の検証が紹介されている.それは同義置換と非同義置換(より弱有害が多いだろう)の比率を種内,種間(より淘汰過程が効いているだろう)で比較するというエレガントなものだ.
この延長上でなぜ高等生物で「動く因子」やイントロンが多いのかも説明できることが解説されている.


ここから本書は後半部分にはいる.その後の分子遺伝学の発達で次々と明らかになった様々な仕組みが弱有害遺伝子の浮動・淘汰過程を考えることによっていかにうまく理解できるかということが解説のポイントだ.
まず遺伝子重複による進化過程.遺伝子が重複したり,その一部の機能が変化したりする過程は弱有害なことが多いだろう.不等交叉や遺伝子変換などの現象が説明されている.
さらに最近明らかになりつつある遺伝子発現調節機能の分子的な進化過程が扱われている.シス領域による直接的調節,マイクロRNA,転写ネットワークなどだ.これらの変異も弱有害であることが多いことが予想される.
また先ほどの同義非同義置換の比率の種内種間比較が自然淘汰検出に応用された場合の細かな議論がここでなされている.やはり弱有害遺伝子の挙動が問題になるところであり,著者的には重要な議論なのだろう.


続いてヒトゲノムに見られる特徴のうち弱有害遺伝子にかかわるところが若干紹介されている.
まずGC比率が染色体の領域によってばらつきがあることが議論されている.これはまだ決着がついていない議論のようだが,著者としては何らかの淘汰と浮動のバランスの問題が重要であり,弱有害遺伝子頻度の問題だという認識なのだろう.またここでは反復配列や「動く因子」も議論されている.


本書は最後に遺伝子発現機構のロバストネスとエピジェネティックス,そしてそれが形態の進化に与える影響を取り上げている.21世紀になってわかってきた遺伝子の発現機構を細かく見ていくとそこには様々な複雑な仕組みがあり,遺伝子の淘汰係数には遺伝子の相互作用つまり他の遺伝子への依存性が大きく影響していることがわかる.この中では適応地形の谷があるとしてもうまい条件の組み合わせではちょうどワームホールのように通り抜けが生じる可能性があることが議論されている.そうするとそれは弱有害遺伝子の頻度変化過程になり,集団規模が効いてくることになるのだ.


著者はあとがきで現在様々な遺伝学の分野でこれまでわからなかった過程の分子的な詳細が次々と明らかになっているとてもエキサイティングな時期であると強調している.そして今まで生き延びてこの時期に本書をとりまとめることができてとても幸運だと書いている.それは自分が研究してきたことの意味が大きく開花しているという状況に巡り会えた著者の本音だろう.そしてそれは本書に巡り会えた私の感想でもある.



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分子進化の中立説であればこの2冊は押さえておきたい.
私も最初に読んでから随分時間がたってしまったのでもう一度精読したいものだ.


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