Bad Acts and Guilty Minds 第3章 罪深き心 その1

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)




第3章からは日本法でいう責任要素「故意・過失」を取り扱う.


ここでちょっと予習しておこう.


日本法ではこのような責任要素は故意と過失に大別され,基本的に法典化によって統一された理解がされている.
ところが英米法では判例法から成立したままであるために,それぞれの犯罪要件で様々に定義されているようだ.例えばintent, knowledge, willful, malice などと規定され,それぞれ異なる解釈があるようだ.故意は大きく「意図」と「認識」に分けて議論するのが通例であり,また故意と過失の中間のような「無謀」recklessnessと呼ばれる責任形態もある.なかなか法体系が異なると面白い.



とりあえずカッツが始めるケースは謀殺にかかるものなので謀殺も予習しておこう.


殺人に関する刑法は,英米と日本で異なる犯罪類型になっていることで有名だ.(もっとも殺人をたった1種の犯罪で処理するという日本の方が少数派のようだ.)
謀殺は予謀的な悪意が要求されている(もっとも英国ではこの意味は薄れたようだ).そして熟慮されあらかじめ計画されているものは多くの州で第1級謀殺と呼ばれさらに区別される.(なお強盗,放火などの重罪中の殺人も謀殺に含まれる:日本では強盗致死などになる)
故殺はかなり広い概念で,一過性の激情に駆られたもの,無謀になされたもの,重大な過失によるものなどが含まれる.(日本では最初の類型と2番目の類型の一部のみ殺人,それ以外は過失致死や傷害致死などとなるだろう)


さてカッツが本章の最初で問題にするのは,故意と錯誤に関する問題だ.


サルだと思って相手を殺したらそれは殺人ではない.では幽霊だと思って槍を突き出した場合はどうなのか.これは1947年にスーダンで生じた実例だ.この事例で裁判所は,被告はまず相手が「人」だと思ったが,その後迷信により「幽霊」と考えたに過ぎないとして有罪を言い渡した.3年後,邪悪な精霊だと思って相手を殺すという同じような事例が生じ,今度は裁判所は「人を殺す」という故意を否定し無罪だとした.
カッツによると後者の判例が通常引用され,「幽霊」だと思って相手を殺した場合には殺人に問われないという理解が一般的だという.


では「魔女」だと思って殺したならどうなのか.やはりこれも事例があり,裁判所は有罪としている.


では殺そうと思っているのと別の人を殺してしまったらどうか.妻を殺そうとして毒リンゴを用意したところ娘が食べて死亡した事件で裁判所は「人」を殺そうとして「人」を殺したのだから問題はないと述べ有罪とした.この「人違いは殺人を阻却しない」という判例アメリカでは確立している.


結局これらは錯誤がポイントになる.カッツは事例を整理している.

  1. 人ではないものを殺したと思ったら人だった.
  2. ある人を殺そうとしたところ(弾がそれるなどの事情により)別の人が死んでしまった
  3. ある人を殺そうとして殺したら,別人だった.


そしてこの3のケースについては殺人であるという理解にあまり異論はないということのようだ.では1と2はどうなるのか.


<「人」でないかもしれないもの>
まず1はどう考えればいいのか
例えば「黒人は人ではない」と信じて殺したらどうか.
これは「事実の錯誤」か「法律の錯誤」かという形で議論される問題でもある.(アイルランド人が人と扱われるかどうかは法律の錯誤,ブタが人かどうかは事実の錯誤)しかしこの区別は実はわかりにくいしあいまいだ.


カッツはグランヴィル・ウィリアムズのテストを紹介している.それは立法者が考えた「人」と一致しているかどうかで判断するというものだ.ウィリアムズに従えば,立法者が魔女を「人」と考えたかどうかが問題になる.これが幽霊と魔女を分ける境界ということだ.
しかしそうすると,「魔力を持つ女」だと思えば殺人になり「女の形をした魔物」だと思えば殺人ではないことになる.


さらにウィリアムズのテストには批判がある.
結局ウィリアムズが言っているのは,もし被告の想像が正しいとして,それが「人」なのかどうかを判断しろといっていることになる.つまり仮想の世界の物事を判断しろというわけだ.しかし非論理的なものがいる世界は非論理的であり得るのだ.ある人が,「隣人は人の形をしているが,実はロバなのだ」と信じて殺したのだと主張した場合にそれはどう判断されるのだろうか.
あるいは,魔法がある世界で,「妻に死の呪いの魔法をかけられた.妻を助けるにはこの方法しかない」と信じて魔法使いを殺した場合には,その世界の立法者はこれに正当防衛を認めるだろうか.


<結果の相違>
2のケースにも問題はある.

アメリカの法廷はこのような場合おおむね有罪とする.要するに「人」を殺そうとして「人」が死んだのだというわけだ.
ドイツは異なる.殺そうと思った人に弾は当たっていない.だから殺人未遂に過ぎない.殺そうと思っていなかった人に弾が当たったとしても殺そうという意思はなかった.だからせいぜい過失致死だというわけだ.日本では学説に争いはあるようだが,判例はおおむねアメリカと同じようであり,「人」を殺そうとして「人」が死んだのであれば殺人罪が適用できるとしているようである.


いずれにせよこのあたりは錯誤を巡って議論の多いところのようだ.特に類型1はなかなか難しい.結局何を持って「人殺し」として処罰するのかは,その社会が罰するに相当だと考えるものかどうかということしかないのだろう.もっとも実務的には内心でどのような錯誤していたかはどのみち証明のしようがないのだから,客観的に見て故意を阻却できるような錯誤をしたとしてもおかしくないかどうかが争われるにすぎないだろう.(だから「女の形をした魔物」だと思ったという抗弁はよほどのことがない限り採用されないということになると思われる)

(この議論はさらに続く)