Bad Acts and Guilty Minds 第3章 罪深き心 その5

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


カッツは本章で責任要素を概説した最後に,責任要素はそれ単独であるのではなく,犯罪行為と適切な関係になければならないと解説し,ケースを提示している.題して「An American Tragedy Retried」
これはセオドア・ドライサーの小説「アメリカの悲劇」から題材を採ったものだ.


ケースは3ページにわたって丁寧に説明されているが,要約すると以下のようなケースだ.

主人公クライドは出世の邪魔になることから恋人のロベルタを殺す計画を立てる.湖にボートでこぎ出して,ロベルタを殴って失神させ,ボートを転覆させる計画だ.
しかし実際に湖にこぎ出した後,彼は実行するかどうかの迷い始め,意思が麻痺したようになって実行の直前で固まってしまう.ロベルタはクライドのただならぬ様子に気づき.「いったいどうしたの」と声をかけ,彼に近寄る.彼は押しのけようとし,彼女は彼の手を取ろうとする.クライドは彼女のさしのべる手を拒否しようとふりほどく.その結果彼女はバランスを崩し水中に落ちそうになる.クライドはとっさに助けようとするがかえってボートが傾く.ロベルタは水中に落ち,ボートの縁に頭を強打し,そのまま水中に沈み,水死する.


さてクライドの行為は実体法上どう考えられるべきだろうか.(小説では有罪で死刑になる)

解釈1:殺人計画はあったが,結局ロベルタの手を払いのけたときに殺意はなく,払いのけたことに過失があれば過失致死になるに過ぎない.(運転中に殺害計画を立てていて,たまたま過失で事故を起こし,その人が死んだのと同じだ)

解釈2:まさにここで殺そうと計画していて,実際に彼女を押した.その後の転落・死亡には十分因果関係があると言える.だから第1級謀殺である.

解釈3:彼女を押し返したのは反射的な行動で,結果は思いもよらぬものだ.これは犯罪行為ではない(過失犯ですらない).


カッツは様々な論点を提示している.

  • 哲学者ジョン・サールによる2つの意図の区別.事前にある意図とそうでないもの.人はしばしばその瞬間無意識で,事前の意図通りの行動を行う.
  • 事前の意図という法律要件は英米刑法ではしばしば要求される.しかしそこからどこまでずれたときに事前の意図ではなくなるかというのは程度の問題になる.本件で手を払いのけたときに殺意があったとしても,事前の計画通りなら第1級謀殺.その場の殺意であれば第2級謀殺になるのでアメリカ刑法の解釈としては重要.
  • 最後の瞬間助けようとしたことはどう評価されるべきか.一旦犯行に着手した後止めようとしても故意は阻却されないというのが確立した判例.しかし本件の場合最初の押した行為は殺人にとって十分とは言えず,その後助けようとした行為が最後の一押しになっている.結局意図した結果が意図とは別の形で実現している.それは当初の意図から結果がどれだけ離れたかという程度の問題に帰結する.


カッツはこのような問題は意図だけでは行動を説明できないことから来るのだとまとめている.
意図が満たされることと,偶然同じ結果になったことはどう見分けるのか,それは結局程度の問題だという問題だというのがカッツの指摘だ.


日本法の下ではこのケースはどういうことになるのだろうか.
まず事前の計画や意図は問題にされないので,殺害の実行行為があったときにロベルタが死ぬかもしれないという認識があったかどうかだけが問題にされる.
本件の場合,殺人の既遂の実行行為については,最初に押した行為,手を振り払った行為,助けようとしてボートを傾けた行為が問題になるだろう.最後の行為には明らかに殺意はないので(過失犯の問題はあるにしても)これのみが実行行為であると認定するならば殺人は成立しない.結局,押す,振り払うという行為が殺人の実行行為と言い得るか(言い得るだろう),さらに押した時点,手を振り払った時点でロベルタが死ぬかもしれないという認識があったか(ケースの記述ではないようだ)その後の転落との関係で相当な因果関係があると言えるか(これはあると言いうるだろう)が問題になり,少なくとも故意が阻却されることで殺人は成立しないだろう.
これとは別に殺人を計画し,ボートを手配した時点で,最低でも殺人予備罪は成立するだろう.またボートを漕ぎ出した時点で未遂罪が成立するかどうかが問題になる.判例の傾向から見ると漕ぎ出した時点で一定程度の危険性が生じているとして実行の着手を認める(つまり未遂罪成立)のではないかと思われる.ボートを漕ぎ出した行為と死亡のあいだには相当因果関係を否定するように思われる.
(ただし実際に訴訟法の世界では,ボートの上で生じたことに証拠はないと思われ,被告の殺意はなかったという言い訳は信用されずに有罪となる可能性が高いだろう.これはアメリカ法の下でも同じであると思われ,その意味では小説のプロットに問題はないと思う)
結局アメリカのように「事前の計画」「意図」を要求しないので問題はかなりすっきりしているような印象になるのではないだろうか.


これは日本刑法がアメリカ刑法に比べて,より結果無価値的*1であるからだろう.私達の直感には,「いったいそのとき被告は何を考えていたのか」をしつこく問題にする行為無価値的主観的な刑法はフィットするのだが,実際に遂行するのには難しい問題が多いということになるのだろうか.



カッツは最後に本章の議論をまとめている.
アメリカ刑法で要求される「意図」「認識」というメンズ・レアは,良心とか悪い心とは別の「ある信念を持っていること」であるという.そしてこれは「ヒトにある内的な信念がないと,あるスタイルの叙述が使えない」というヒトの認知傾向と関連しているという.そして多くの場合,錯誤があったかどうか,さらにそのような信念があったのかどうかは程度の問題だ.
また「過失」と「無謀」にはリスク評価の問題がある.これも結局は程度の問題で,かつヒトが認知的に苦手にしていることだ.
さらに意図と行為がどこまでフィットしているかという問題もある.これも結局は程度の問題だ.

しかし法廷ではこのような責任要素について「あったかなかったか」「1か0か」の判断を迫られる.そこが責任要素の難しいところだという主張だ.


確かに責任は程度の問題だが,私達はどこかで区切らざるを得ない.一旦区切った後は量刑の問題として割り切ることになる.このような点からは,結果無価値的で量刑の幅が広い日本の刑法の方が優れた点があると評価できるのかもしれない.

*1:刑法理論では,犯罪の要素についてできるだけ客観的に考え,結果を重視する立場を結果無価値と呼び,主観性(犯人が何を考えていたのか)を重視し,より行為の性質を問題にする立場を行為無価値と呼ぶ