日本進化学会2009 SAPPORO 参加日誌 その2


二日目も札幌は快晴.北の都はどこまでもさわやかだ.昨日は札幌駅からキャンパスに入ったところ,一番離れた場所が会場だったので,遅れるかとやきもきしながら20分歩く羽目になった.今日は調べて地下鉄で会場入り.キャンパスの南北は何と地下鉄二駅分もあった.さすがに北海道だ.


大会第2日 9月3日(木)


今日も最初は国際シンポジウム.テーマは進化発生だ.


The Interenational Darwin Bicentennial Symposium「Integrating genes, development and morphological evolution」


田村宏治 「Limbs and fins in vertebrates: evo-devo approaches to understanding the diversity of organismic morphology」


脊椎動物ヒレや脚は生えてくる場所が特定していて,頭の後ろからまっすぐ瀬側を通って尾にいたりさらに少し前面に入る正中線添いの部分(背びれ,尾びれなど)と,身体の側面にそれぞれ顎から腹までの線に沿った部分(胸びれ,腹びれ,手足など)だ.この線上にどのような形でヒレが発達するかのメカニズム,それぞれの相対成長にかかるメカニズムが話の前半.
後半は指の消失に伴って相同性がシフトするというフレームシフト現象が生じるメカニズムについてだった.講演では触れられなかったが,これは鳥類の祖先と恐竜にかかる部分でもありなかなか面白かった.


長谷部光泰 「Evolution of Complex Characters in Early Land Plant Evolution: Long Lasting Pluripotent Stem Cells and Branching」


8月22日のダーウィン講演会での話にかかる専門的な講演だった.植物の進化において,コケからシダにかかるところで,n世代が大きく成長する世代交代から,2n世代が大きく成長する世代交代にシフトし,枝分かれが生じる.この部分にかかる遺伝学的詳細が講演のトピックとなる.
世代間で発現する遺伝子は同じだが,それを片方の世代で抑制する遺伝子がある.またコケ植物においてこの遺伝子の発現を変えてやると2n世代でもstem cellが形成され,枝分かれも生じることがわかった.しかしコケ植物はそもそも枝分かれしないので,この枝分かれ現象は適応形質ではなく,自己組織化により生じているのではないかと思われる.ここから枝分かれ時に様々な遺伝子の発現部位が移り変わる様子をスライドで見せていた.なかなか面白い仕組みが背後にあるようだが,しかしまだ自己組織化だと示せているということでもないのではないかという印象だった.


倉谷滋 「Developmental and evolutionary origins of the turtle body plan」


カメの背甲は肋骨の相同器官だが,いったいどうやって反転したのかという話題.肋骨が背甲になるには肩甲骨,筋肉,内臓など大幅な配置変更が必要になるが,それがどのように生じたのかが問題になる.考えてみるとこれは創造説からは格好の攻め口になりそうなものだが,あまりそのような文脈では聞かれない気がする.
発生においてどう反転するかが見事なスライドで示されていた.基本的には肋骨の伸びる方向が回転し最終的には表裏逆の形になる.筋肉は付着部分をさがしながら伸びていきうまく付着する.そしてその付着がさらに新しいボディプランを作っていくように発達していくということらしい.
また化石からカメの祖先動物と言われているオドントケリスは,この胚における途上過程によく似ているという指摘もあった.
後半ではこれにかかる遺伝的な仕組みが示されていて,CR遺伝子がカメで特有の機能を持ち,肋骨の限界成長を調節しているということだった.


隅山健太 「Cis-element evolution of the Dlx genes as an underlying mechanism in toolkit gene co-option in vertebrate appendages」


Hox遺伝子の一部分であるDlxの進化と,哺乳類の特徴についての講演.Hoxはよく知られているように脊椎動物では重複して4連あるが,ショウジョウバエなどのDixが脊椎動物ではDlxとなり,もともとヒレの発達を司っていたものが,さらに乳腺,胎盤,毛,耳骨などにかかわっているという内容だった.
また特に哺乳類で良く保全されている部分は指の発達にかかわっているが,それはナメクジウオでもあり,神経板の境界を決めているということらしい.


グンター・ワグナー 「The Genetic and Genomic Mechanisms for Morphological Innovations: transcription factor protein evolution and transposable elements」


進化における様々な形態の変化には,ツールキット遺伝子の機能や調節の進化によって生じるものがあるという内容.
本日はそのうちのトランスクリプションファクターとトランスポーザブルエレメントについて解説があった.
トランスポーザブルエレメントについてはプロラクチンにかかる遺伝子が胎盤の発達にどうかかわるかについてが説明されていた.またトランスクリプションファクターの化学機構の進化によっては「AND」ゲートのような論理ゲートが生じうることも示されていてなかなか興味深かった.



ここまでで午前の部が終了.午後の部まで1時間30分あったので,北大博物館を見学.なかなか充実した博物館で面白かった.特別展示として「生物多様な部屋:北大の分類学の系譜」があった.暗い部屋に貴重な標本や図譜が飾られていて,見学者には懐中電灯が貸し出されて標本を照らし出して見るという趣向.とてもアカデミックで幻想的だった.




午後の最初のワークショップは「北海道・オホーツク周辺域における進化の多様性」とか「分類学者の抱えているおもしろネタを進化学者に提供する」あたりも魅力的だったが,今年は随分ダーウィンも読んでいるので「ダーウィン進化論と科学史の現在」に参加


ワークショップ 「ダーウィン進化論と科学史の現在」


三中信宏 「進化し続ける「樹」ー ダーウィン以前,ダーウィン以後」


十八番のネタで,ダーウィン以前から系統樹に似た概念は家系図などで見られるし,歴史記述的な諸科学(聖書文献学,古典文献学,比較言語学,進化生物学)でそれぞれ独立に,子孫の情報から系統推定するという営みが生じており,その内容に収斂が見られるという内容.
いつものことながら,様々な系統樹のスライドが美しい.


横山輝雄 「ダーウィン革命の三段階」


まずダーウィン革命は真にグローバルなものだということを示すためにコペルニクス革命と比べるという話題.コペルニクスはヨーロッパローカルなもの(太陽と地球でどちらが動いているかというより,どちらが世界の中心かという議論でこれはヨーロッパ的な議論だという)であり,またコペルニクス革命は既に過去のものであるが,ダーウィン革命はグローバルで現在進行形であるという指摘.

続いて科学史的にダーウィン革命を見ると3段階で記述できるという本題に.
第一段階は,ダーウィン自身が生きているときのものだが,実際に流布したのはスペンサー流の進化論であり,進化は進歩概念と深く結びついていたし,社会への適用が意識されていた.そしてダーウィン自身の議論は凋落する.古生物学では定向進化的な考えが根強く,ネオラマルク主義も主張されていた.
第二段階は現代的総合の時代.これにより生物学の中でダーウィニズムは確立したが,逆に社会科学からは撤退した.一流の科学者ダーウィンと二流の思想家スペンサーというとらえ方になった.科学と宗教のあいだは基本的に分離と不干渉の時代.
なおこの時代に版本では総合説以外にルイセンコの影響を受けた反ダーウィニズムが影響を持ち続け,ダーウィンとラマルクという2大パラダイムがあるという受け止め方が多かったと指摘があった.
第三段階は生命科学的展開.科学界全体で,物理学から生物学に中心が移った.また宗教とも論争を行うようになり,社会科学への適用が主張されるようになった.
しかし日本では専門的な棲み分けが強く,ドーキンスのような主張についても韓国で生じたような論争にならない.これは応用を強く意識していて,文化としての科学が根付いていないのではないかと指摘していた.

社会科学や宗教とのエリアを見ながら科学史として捉えるとこう見えるということで,私の感覚と微妙にずれている.第二段階では遺伝学と進化学の統合こそ重要だし,優生学が盛んだったのはむしろこの時代ではないだろうか.第三段階でまず取り上げられるべきはハミルトンだがこれには言及がない.ここでいう生命科学というのは分子生物学的な領域で,ダーウィニズムとはかなり流れが異なる部分だろう.社会科学に関連するのはまさにハミルトン革命ではないだろうか.また宗教との論争は進化学の問題というよりも,9/11以降の世界の政治状況とドーキンスの個人的なムーブメントではないだろうか.


最後の総合討論時には,長谷川眞理子会長から,「日本において,進化学の論争は,決してなかったわけではない.ルイセンコ的な左派の動きも確かにあったのだろうが,重要な問題は,今西学派の存在だ.彼等は今西先生を深く尊敬し,ダーウィニズムに否定的であり,霊長類研究者はウィルソンやドーキンスの主張を非常に強烈に批判していた.今西先生の死後すーっと消えていったわけだが,日本の科学史として詳細を明らかにし,是非総括すべきではないか」という意見が出された.また当時の京都大学の雰囲気を知る参加者から,「当時京都大学には今西の信奉者が多く,サル学者と人文系の学者が共同で研究をやる雰囲気があった.そこではダーウィンパラダイムとしては採用されていなかったということではないか」などの意見もでてなかなか興味深いやりとりになった.


瀬戸口明久 「モース神話を問い直す」


これまで日本の進化論受容については,最初に紹介したのもモースであり,宗教的反発がなかったため受容が極めて速やかだったとされてきた.しかし調べてみるとそうではないのではないかという内容.
「初めて」という点ではヒルゲンドルフや,伊澤修二,神津専三郎の方が早い.しかし彼等は東大において生物学の中心をしめるようになる弟子を持たなかった.後に明治期を総括する際にモースの弟子の東大系の学者(特に石川千代松)による記述が中心になって総括が行われたため,モースばかり取り上げられるようになった.
また宗教的抵抗については,明治の後期以降は国家神道から「天皇の祖先がサルというのは国家に対し不忠だ」という意見があったようだという.
前者は東大閥による歴史記述でさもありなんという面白い話.しかし後者はあまり大きな流れではなかったのではないだろうか.結局南方熊楠の一通の書簡にあるだけで,キリスト教国と比べると圧倒的に宗教的抵抗はなかったという理解で間違っているとは思えない.


田中泉吏 「歴史と哲学を通じて見たダーウィン進化論 」


ダーウィニズムとは何かという記述をする場合に,後の生物学者が,後の知見をもとにいわば後出しじゃんけんのような記述をしてしまうことについての話だった.例えばグールドはダーウィン進歩主義を否定しているというが,否定していないような記述もある.古くはウォレスやハクスレー,さらにマイアやドーキンスまでこのような「やはりダーウィンは正しかった」的な記述は多いのだという.
田中によるとこのような記述は科学理論を「本質主義」で捉えているから生じるのだといい,リチャーズはこのような現在の評価に基づいて過去を記述することを戒めていると紹介する.
リチャーズは歴史的な記述をすべきだと主張しており,その良い実践例はハルに見られるという.

田中はここをひとひねりして,実はマイア自身進化的な考察において類型学的な思考(プラトンイデア本質主義)と集団的な思考(生物集団を統計的に理解する)を対比させており,これはそのままダーウィン記述にも使えるのではないかと提案する.
ここからグールドやアマンドソンの議論などを紹介しながら議論していたが,私にはポイントがよくわからなかった.このアナロジーにあまり意味があるような気はしない.進化を集団の統計的変化として理解することと,ダーウィニズムを歴史記述することは何がどう似ているのだろうか.


それはそれとしてダーウィンを敬愛するものがダーウィンを読めば「ああここでもダーウィンは正しかったのだ」といいながら読んでしまうのはとてもよくわかるし,自然だ.それはそれで良いのではないだろうか.



ポスター発表
ここから1時間半のインターバルはポスター発表の時間となる.いくつか面白かったものを記しておこう.

  • 別所和博ほか「海藻の生活環と季節的適応」

海藻にはn世代と2n世代が同じ大きさのものと異型的なものがある.これについて季節適応と環境変動の影響を数理的に解析したもの.結論は常識的だが,きれいな結果のように思われた.

  • 高橋佑磨ほか「雄の頻度依存的なハラスメントと雌の2型に対する負の頻度依存的選択」

ある種のイトトンボにはメスに2型あるが,オスはそれに対してどう配偶者防衛を行うかを頻度依存的に決めている.これによりメスの2型が保たれているというもの.きちんとデータがとれているし目の付け所が面白い.

  • 立木祐弥ほか「種子捕食者が樹木の繁殖動態の進化に与える影響について」

数年に一度というマスティングの進化を説明するための数理モデル.捕食だけでなくギャップ発生とそれへの競争モデルも組み込んで分析している.休眠する種子捕食者にはそれより周期の長いマスティングが有効という結果が出ていて納得.

  • 土畑重人ほか「低い血縁度が社会性昆虫のコロニー適応度の及ぼす影響」

アミメアリでコロニー内血縁度とコロニーの増殖率の関係を調べたもの.全体の相関は優位ではなかったが,個別マーカーでは高血縁度に相関するもの,低血縁度に相関するものの両方が得られたというもの.詳細の調査はこれからだが非常に興味深い結果だ.協力行動なら高血縁度,耐病性については低血縁度が有利ということなのだろうか.今後の進展が楽しみだ.

  • 西原秀典ほか「レトロポゾン法により明らかにされた哺乳類の系統進化」

レトロポゾンの挿入パターンを使って分岐年代を推定する手法を使って,アフリカ獣類,貧歯類(南アメリカ大陸起源),北方獣類を分析したところ,この3グループがごく短期間に分岐したことが示されたというもの.この結果は最近の南アメリカとアフリカ大陸の分裂年代の地学的分析とも一致しているというもの


このほかプレゼンとして力が入っていたのは,松村洋子ほか「極端に長い交尾期の挿入・引き抜きメカニズム」林亮太「ウミガメ類・鯨類に特有に付着するフジツボ類の系統進化」あたりだった.またヴィクトリア湖シクリッドにかかる分子的な研究が多数発表されていたのも印象的だった.



次のワークショップは「ヒト集団のゲノム多様性」も興味深かったが,「生物学の哲学の現在:哲学と進化学の接点を探る」に参加


ワークショップ 「生物学の哲学の現在:哲学と進化学の接点を探る」


三中信宏「グローバルな科学哲学からローカルな生物学哲学へ」


これも十八番のネタ.若い頃の系統学の勉強をしていたときにポパーの理解なしに論文が読めなかったこと.もともと分類学者の実践的な論文誌「Systematic Zoology」が科学哲学にかかる論文ばかりになったことなどのエピソードを交えながら,哲学のあるものは生物学者にとって武器・道具になること,また生物学哲学者にとっては生物学は仕事のデータを提供できることを説明.
ポパーは特に生物学を念頭に置いていなかったが,分岐学にとっては当時も(今も)圧倒的に役に立つのはポパーだったし,ファイヤーベントなど何の役にも立たなかったとか,マイアは生物学,科学史,生物学哲学を全部1人でやってしまった巨人で,かつ人脈作りの天才だったあたりの話も出ていつも通り楽しいトークだった.


中尾央「生物多様性に関する哲学的考察」


進化学会のたびに新しい話題を提供してくれるのでいつも楽しみにしている中尾の今年の話題は「生物多様性
最初の生物学哲学の対象は何かという導入.1.「適応」「適応度」「遺伝子」などの概念を明確化する,2. ある理論についてその構造を明確化する.3.「適応主義」「系統推定法」などの方法論について論じる,という3つがある.

導入のあとは「保全生物学」「生物多様性」にかかるSarkarの議論を紹介する.
Sarkarによると「保全生物学」は営みとしては「医学」のようなものであり,個々の場所に対し個々の対応案を立てることがその本質であるとする.そして生態学保全生物学は,ちょうど生理学と医学の関係にあるということだ.
次に保全生物学は単なる応用ではなく,政治的社会的な要因の介入があるという.明言されなかったが単に「事実」の問題だけでなく「価値」の問題が含まれるということだろう.
さらに「生物多様性」という概念の歴史を見ると1980年代の当初から「保全」という目的が明瞭にあるという.
結論としては「生物多様性」は科学的には定義できない概念だということになる.

このSarkarの議論には異論もあって,遺伝的,種的,生態的多様性として量的に把握すればいいのではないかという議論もあるそうだ.これはとりあえず,えいやっと決めてしまえという議論を指しているのだろうか.中尾はマクローリンやステレルニーの議論を紹介していて,大体「ある程度遺伝子流動が阻害されている個体群を保護し,かつそれ以外の遺伝的多様性や生態的多様性にも目を配る」というあたりの主張になるそうだ.
Sarkarは厳密な定義はできないし,この3つの関係が不明瞭だし,それ以外の側面もあるはずだと反論しているそうだ.このあたりは厳密性にこだわる哲学者的な意見のように思える.中尾自身としては,いったい具体的にどうするのか,「種」問題を回避できているかあたりが気になるという感想を述べていた.
中尾は最後にサーカルとステレルニーをうまくつきあわせていく方向ではないかと述べて講演を終了させていた.

聞いていての感想は,事実の問題と価値の問題をもっと真正面から議論した方がよいのではないかというものだ.結局事実の問題はいかようにも定義できる.個別の何を守るかだけでなく,それを判断するための基準についても当然「価値」の問題はついて回るのだから,そこは政治的に決めるしかないように思う.事実と価値を峻別し,価値については政治的に決めるための材料データをどう提出するのかに絞って議論した方が生産的ではないだろうか.


Braillard Pierre-Alain「 The Promises of Integrating Evolutionary and Systems Biology」


演題はシステム生物学について.ここでいう「システム生物学」とは,分子生物学,バイオインフォマティックス,数理モデル,エンジニアリングアプローチなどにより複雑なネットワークの分析を行う分野を指している.
これらは,進化生物学と,1.デザイン,2.ネットワークの特性としての適応,という部分でかかわってくるという主張だ.

具体的には,このようなネットワーク分析は,スケールフリー,モデュラリティ,ネットワークモチーフ,ロバストネスなどの特性があると分析されるが,それは通常の適応と同じように考えて良いのかという問題があるという.そして適応主義とスパンドレルの問題があるだろうと指摘されていた.

私にはポイントがよくわからなかった.あるシステムにある特徴があって,それが進化の産物であるなら,適応であるという仮説(あるいは副産物であるという仮説)を立てて検証すれば良いだけではないだろうか.それが首の長さや飾り羽根だろうが,ネットワークのロバストネスだろうが何の違いがあるのだろう.


石田知子「生物学的相同と「情報の連続性」―遺伝子,発生プログラム,情報の正体は何か?」


相同とは何かという問題を扱っていた.遺伝子発現の仕組みの詳細がわかるにつれて,ある器官の成り立ちが複数の段階で複数の遺伝子に対応していて単純な1:1対応ではないことが明らかになってきた.以前の「歴史的な相同」概念では,異なる発生レベルでフレームシフトが生じたような場合何が相同かわからなくなる.だから1980年代より,相同の概念は情報により決められるべきだという主張がなされるようになった.

ここまではこの講演は大変面白いところをついていて良かったのだが,ここから迷走を始める.この情報による定義の主張者達は,「しかしこのような情報による相同の定義だけでは,個別ケースであるものが相同かどうかを決める基準に十分ではない」と言い添えている.
これは至極まっとうな話だと思うのだが,石田は何故かここから,「だから生物学者は情報を扱えない」という議論を導き出す.ここから先は,私にはまったく理解不能な議論がなされただけだった.聞いている印象では何か単純な誤解があるように思われた.ひいき目にいっても石田の用語は通常の生物学者の用語と何かまったく異なっているのだろう.
後の質疑でもいろいろ質問やら意見が出ていたが,石田の解答はこのギャップを埋めることはできなかった.

ここは座長から議論の整理に入った方が良かったのではないだろうか.「生物学者は情報を扱えない」といわれては生物学者は困惑するだけだ.私は,ここで収拾できなかったことにより,生物学者に対し「やっぱり哲学者の話はちんぷんかんぷんだ」という深い不信感を,(ワークショップ全体の印象として)与えてしまったのではないだろうかという危惧を持たずにはいられなかった.


というところで第二日目も終了である.
北大構内はすっかり秋の気配だ.