Bad Acts and Guilty Minds 第4章 すべての悪の源 その2

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


因果関係に関する第4章.カッツはまずなぜ因果関係が要求されるのかを処罰感情に求めた.ここからは実際に「何が因果関係か」という問題に入っていく.
なおここで議論されるのはあくまで刑法理論における「因果関係」であり,自然科学で使われる「因果関係」とは異なったものである.
自然科学でも因果関係はなかなかやっかいな概念だ.相関関係が必要条件になり,これに時間的前後関係,関連の普遍性,合理性などが議論される.あるいは分子的な仕組みがきちんと理解されていてメカニズムとして原因と結果が区別できるかという視点もある.刑法的には一定以上異常な経路を経て実現した結果を罰すべきかという議論になるところが異なる.なお両者が関係する領域として,公害や薬害訴訟などでは疫学的(つまり統計的)な分析が「因果関係」として認められるかという争点がある.


最初に提示されるのは日本法では「条件説」といわれるものだ.つまり「AがなければBが生じなかった」という関係があれば,AはBの原因だと言え,AとBに因果関係があるとするものだ.
これで解決できるように思えるところだが実際には難しい.


日本法の教科書では条件説がうまくいかない例としてまず異常な経路を経由して結果が生じた場合を挙げるところだが,カッツが最初にあげる例は全然異なる視点のものだ.このあたりも法文化なのだろうが,面白い.

  • 2台のオートバイが無灯火運転をしていて片方が人をはねて死亡させたという場合,人をはねなかったライダーの無灯火行為も事故の原因と言えるだろうか.はねていないラーダーが灯火をつけていれば,はねたライダーも事故を避けられただろうということであれば因果関係があると言えるのか.アメリカでは実際にこれが故殺で訴追され,控訴審で認められ有罪になった.
  • 無免許運転自体を過失と見なすという制定法がある州において無免許運転自体が事故の原因と言えるか.一部の判例は,無免許運転がなければ事故そのものが生じなかったのだから因果関係はあると認めた.


通常思ってもいない犯罪を犯してしまうことは「故意」要件が必要なのでまず生じない.しかし結果が生じてしまった結果的加重犯,あるいは過失犯では,因果関係が犯罪を阻却できる要件として重要な位置を占めるので,このような難しい問題が正現れるということだろう.


ともあれ,条件説が問題含みであるという議論を見てみよう.


カッツの最初の問題提起は,条件説は,結局仮定の世界における判断を要求していて,どのような仮定の世界を構築するかに大きな曖昧性があるというものだ.
「Aなかりせば」という仮想世界は無数にある.通常それはほかの条件は同じでという形で制限していくが,それでも曖昧性をなくすことはできない.これはカッツが前章で「錯誤」を問題にしたときと同じ問題意識だろう.結局何か現実と異なる仮定をすればそれが影響を与えざるを得ないほかの条件というのも無数にあるのだ.
カッツは前章よりもさらに粘着的に議論していて,途中ではアメリカの歴史家ロバート・ソベルの小説「For Want of a Nail」のプロットを延々と紹介している.これはアメリカの独立戦争におけるサラトガの戦いで英国軍が勝利していたら世界はどうなっただろうと言うことを1971年まで延々と書いているものだ.
またロバート・フォーゲルの「鉄道とアメリカ経済の成長」というリサーチも紹介し,その結論(鉄道がなくてもアメリカの経済成長はそれほど落ちなかっただろう)と批判者の議論(「鉄道がなくても別の技術が可能になっただろう」という仮定は「屋根に登ってからはしごは必要でなかった」というのと同じだ)も紹介している.


そして無灯火バイクの例に戻っている.人をはねていないライダーが無灯火運転していない世界とはどのようなものか,彼は灯火をつけて走っていたのか,彼は家にいたのか,これを吟味しないと因果関係は判断できないはずだというのがカッツの主張だ.


このあたりは実際に実務的に日本で問題になることはあまりないだろう.無灯火ライダーの件で言えば,はねたライダーが起訴されるだけだと思われ,併走していたライダーが事故についての責任を問われて起訴されることはほとんど考えられないだろう.(それが実際に起訴されることがあるというアメリカの検察のすごさも感じられるところだが)
無免許運転で言えば,法令違反があって事故があればそれは当然処罰され,因果関係がないかもしれないということがまず問題にならない(被告側弁護士も因果関係で争っても勝ち目はないと感じている)のではないかと思われる.それは適法にしていればそうそう事故は起きないはずだと感じているからだろうか.それであればアメリカの法廷の判断と似たような感覚だと言うことになるだろう.あるいはいやしくも法令違反をしていたのであれば,事故については処罰して当然と感じるからだろうか.であればむき出しの処罰感覚で因果関係が把握されているということになるのかもしれない.


次に砂漠の水筒事件はどう考えるべきだろうか.
カッツは「同じ結果」を十分詳しく考えることによってこの問題はかなり軽減できるとしている.「アンリは砂漠にトレックに行くことにした.アルフォンソはアンリを殺そうと水筒に毒を入れ,ガストンはやはりアンリを殺そうとアルフォンソが毒を入れたことを知らずに水筒に穴を空けた.アンリは砂漠で死んだ.」という場合,アンリは毒で死ぬわけではなく渇き死ぬだろう.だからこの場合にはガストンの行為は「渇き死んだこと」と因果関係があるが,アルフォンソの行為は因果関係がないことになる.もちろん仮想的にはそれでも競合してどちらの行為にも因果関係がないような例は作れるが,結果を精密に考える(何時何分何秒にどこでどういう形で死ぬか)ことにより実務的にはほとんど問題がなくなるだろうという.


これは,たとえば「アルフォンソは水筒のある部分に穴を開け,ガストンはそれと気づかずに別の部分に穴を開ける」という例でも「水筒の重さの積分が微妙に異なれば,アンリのトレックの軌跡,死の瞬間の時刻は微妙に変わっていただろう」と考えることにより,ガストンが既遂でアルフォンソは未遂だと決めることができるということだろうか.
しかし何となくすっきりしない感じが残る.上記の場合アルフォンソが未遂で納得できるだろうか?私達は精密に結果が同じであるかどうかで処罰すべきかどうかが異なってくるという結果には納得できないだろう.


日本の議論では,択一的な競合の場合には,「どれか一つが抜けても同じ結果が生じるが,すべてをのぞけば結果が生じなくなる場合にはすべてに因果関係を認めてよいのではないか」という条件関係修正説が提唱されているようだ.厳密に全員が未遂罪にしかならないという結果を回避したいのであれば,これは理論的な解決というべきだろう.ご都合主義的に定義を変えているような気もするが,そもそも結局何故因果関係を要求するのか,ということに立ち戻れば,罰すべきだと感じられる事象に定義をあわせるといことになるのだろう.前田本では結論が不当かどうかで積極的に定義を修正すべきだと説いている.


前田本ではさらに「死刑執行人Aが死刑執行ボタンを押そうとしているところ,被害者の父親が飛び出てきて自分でボタンを押した」ような場合には「そうしなくともAがボタンを押しただろう」という仮定的条件は認めずにBの行為に因果関係を認めてよいとしている.これはまさにカッツのいう仮想的な条件とは何かという問題だが,詰めは甘いようだ.



ここからカッツは少し哲学的な議論をしている.
まず条件説を採るにしても「その行為がなければ」というときに何を仮定しているかというところにあいまいさは残ることはわかった.しかしこれ以外にも条件説には問題があるとカッツは主張する.


カッツは因果は推移的だが,条件は推移的ではないと指摘する.
つまり因果の場合A→B,B→CならA→Cと言えるが,条件ではそうならない.(ケネディは大統領になったため暗殺された,暗殺されたので再選されなかった.ケネディが大統領になったのは再選されなかったことの原因であると(ちょっと苦しいが)言える)(ケネディは大統領にならなければ暗殺されなかった.暗殺されなければ,再選されないということはなかっただろう.しかし大統領にならなければ再選されたわけではない)
カッツはまた条件関係は因果関係の必要条件だが十分条件ではないと指摘している.


はっきり書かれていないが,ヒトの認知的な因果は条件関係と微妙にずれている.だから条件関係で処罰を決めると,時にしっくり来ない結果を招くことになると指摘したいのだろう.