Bad Acts and Guilty Minds 第5章 あなたの仲間 その1

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


第5章は共犯を扱う.


まず予備的にお勉強しておくと,英米では共犯を日本と比べて圧倒的に広く罰する.
これは衝撃的なほど広い.日本では主犯以外の共犯は従犯であり,主犯が実行行為を行って初めて処罰される.しかし英米ではソリシテーション(独立教唆)(solicitation),コンスピラシー(conspiracy)という共犯類型(あるいは共犯とは言えないのかもしれない,少なくとも模範刑法典では独立した犯罪という形式を取るようだ)があり,これらは従犯ではなく独立に処罰される.(つまり主犯が実行行為を行っていなくとも処罰されるということになる)


ソリシテーションでは,他人に対し,何らかの重罪(あるいは司法妨害,治安の紊乱に関連する軽罪)に該当する行為に,誘い,依頼し,命令し,雇い,励ましただけで犯罪が成立する.
コンスピラシーは2人以上により犯罪行為を遂行することの合意をすること自体が犯罪とされている.つまり合意だけで(実行行為がなくとも)処罰される.コモンロー上は企画された行為は犯罪でなくとも,民事的不法でもよく,不正,不誠実,不道徳であればいいとされている(この部分は制定法で犯罪行為に限定されている州が多いようだ).しかも訴訟法実務として合意については明示的な立証が必ずしも要求されていない.(ここは特にものすごいところだ.役割分担があれば十分認められるし,状況証拠でも有罪を認める場合があるそうだ)
いずれにしてもかなり荒っぽい法律だ.悪いやつは絶対に処罰するのだというアメリカ法の考え方がよくわかる.片方で司法取引があることとも関連しているのかもしれない.


そして日本法と同じように,共同正犯,教唆,幇助という従犯としての共犯類型がある.


カッツの問いかけはまず,そもそも共犯という概念が必要か.共同正犯についてはそれぞれ個人の行為の結果を正犯として問い,教唆,幇助については教唆や幇助した結果を正犯として処罰すれば十分ではないかというものだ.


カッツの最初の議論は,共同正犯についてだ.犯罪の結果に収穫逓減的な現象があれば共同で全体の結果について処罰する方が適正な場合があるというテクニカルなものだ.例えば5人の行為による損害が1111ドルあったとして,1人だけなら1000ドル,2人なら1100ドル,3人なら1110ドル,4人でも5人でも1111ドルの損害があったとすれば,個別に帰責を問えば誰も処罰できないことになる.だから共同の行為について全体の責任を問う方が合理的な場面があるのだという議論だ.


カッツは,だから共犯には厳密なコミットが不要であるとされているのであり,その結果あいまいさがあるのだと述べている.アメリカ法では「参加」すればよく,何らかのつながりがあれば共同正犯とされる.
日本法では実行行為の分担と意思の連絡があればいいということになっているので,アメリカ法よりは明確だが,実際に強盗団に参加して家の中にはいっていれば脅迫行為や窃取行為をおこなっていなくても十分実行行為の分担は認められるということなので境界はやはり微妙だろう.

いずれにせよ実行行為が不要とされる幇助犯でどこまでが共犯となるかは特に問題になる.殺人犯に銃を売った男やヤクの売人に友達を紹介した者はどうなるのだろうか.
アメリカでの判例は一貫性を欠いているそうだ.カッツは様々な例を挙げている.残虐行為などの処罰感情が高いものは広くなるようだ.

日本法の議論では,そもそも幇助犯は政策的な処罰拡張だということである程度広いのだと認めている.とりあえず範囲の限定としては故意と因果関係ということになるが,因果関係では条件説ではなく,それが犯罪を容易にしたかどうかという緩いもので良いのだということのようだ.(これは正犯の因果関係にかかるアメリカの確率理論に似ていて面白い)


カッツは正犯と従犯の区別には懐疑的で,区別が判然としないケースもあるし,しばしば教唆犯の方が実行犯より悪質だと指摘している.もっとも後者は有責性の問題だと考えれば特に問題はないように思える.アメリカでも日本でも有責性は別途判断されて正犯の方が軽く処罰されることに問題はないようだ.前者も概念的にはいろいろ問題はあるのだろうが,実務的にはエイヤっと決めてそれほど問題があるようにも思えない.アメリカでは正犯従犯を決めずに起訴する例もあるようだ.